第50話 泥水で洗った魂
卓上に置かれた黒硝子の小瓶は、ランプの微かな油火を吸い込み、まるで底なしの毒だまりのように暗く鈍い光を放っていた。
――『紅の劇薬』。
三時間だけの奇跡的な声帯の収縮。その代償として待つ、急速な細胞の壊死と完全なる沈黙。
マルゴ・デルーが言い渡したその非情な条件は、部屋の空気を完全に凍りつかせていた。ジュディットは口元を両手で押さえたまま身動きが取れず、マルゴ自身も重い沈黙の中で、苦渋に満ちた灰色の瞳を伏せている。
その凍てついた静寂のただ中で、レア・ヴァーミリオンの右手が、吸い寄せられるように小瓶へと伸びた。
「……よせ、レア」
低く、乾いた声が制止に入った。
だが、レアはその声を聞き入れなかった。指先が震え、爪が小瓶の冷たいガラスをカチリと鳴らす。
「どうして……? これがあるじゃない。これを飲めば、三時間は声が出るんでしょう? 三時間あれば、帝立大歌劇場のステージなんて十分に歌い切れるわ。……建国祭の夜、あの氷の合唱団を私の炎で焼き払って、皇太后の鼻を明かしてやれば、それで私の勝ちよ」
「その後に待っているのは、一生涯の沈黙だと言われただろうが!」
窓辺に立っていたノア・カレヴィが、珍しく語気を強めて歩み寄ってきた。
だが、レアは小瓶を胸元へと引き寄せ、狂気じみた光を黒い瞳に宿して立ち上がった。
「声が出なくなった後の人生なんて、私には必要ないわ!」
掠れ、引き裂かれた声。
その声の痛々しさが、彼女自身の絶望の深さを残酷に証明していた。
「忘れたの、ノア!? 私は煙突街のドブ川のほとりで、煤にまみれて野垂れ死にかけた女よ! 大聖堂を追い出され、泥水の中に放り出された私が、ここまで這い上がってこられたのは、この喉があったからよ! ……声が出なくなった私に、一体何の価値があるっていうの!? 誰の愛人にもならず、誰の施しも受けず、自分の力だけで生きていくと誓ったのに……声のない私なんて、ただの生ゴミじゃないの!」
自暴自棄の叫び。
喉が裂けるような痛みが走っているはずなのに、彼女は小瓶のコルセットを無理やり引き抜こうと爪を立てた。
止めようとするジュディットの手を振り払い、マルゴの呼びかけを無視して、レアは部屋の扉の閂を力任せに跳ね上げた。
「証明してやるわ……! 薬なんてなくたって、私の喉はまだ鳴る! 私の歌は、こんなちっぽけな傷なんかに負けたりしない!」
「おい、待て! レア!」
ノアの静止を振り切り、レアは暗い廊下へと飛び出した。
階段を駆け下りる足音が、劇場の静寂を狂ったように叩き壊していく。
◇
深夜のメインステージ。
客席の照明は落とされたまま、頭上の裸電球だけが、冷たい松板の上に孤立した光の円環を落としていた。
舞台袖から飛び出してきたレアは、ふらつく足取りでステージの中央へと突進した。
奥に据え付けられたコンサートグランドピアノ。
彼女はその大屋根にすがりつくように両手をつき、荒い息を吐きながら、鍵盤の蓋を力任せに跳ね上げた。
バァァンッッ!!
不快な金属音が、空っぽの客席へと木霊する。
レアは立ったまま、左手で低音部の白鍵を乱暴に叩きつけた。
ドォォォォン……ッ!
濁った音が鳴り響く。
彼女は胸元を掻きむしり、肋骨が軋むほどに肺胞を開いた。
痛い。喉の奥に熱した鉛を流し込まれたような激痛。声帯の結節が擦れ合い、生肉を引きちぎられるような感覚。
だが、彼女は痛みを力づくでねじ伏せるようにして、顎を天へと突き上げた。
「――LISTEN, YOU DEAD WORLD――っ、ごほっ……!!」
声は出ない。
吐き出されたのは、血の混ざった激しい咳き込みと、引き裂かれた空気の摩擦音だけ。
それでもレアは止まらなかった。
血走った目で鍵盤を睨みつけ、再び拳を鍵盤へと叩きつけようとする。
出ろ。鳴れ。私の声。私から歌を奪うな。歌えなくなったら、私は死んだも同然なのだから――。
その右腕が振り下ろされる、まさにその刹那。
「――やめろと言っているのが聞こえねえのかッッ!!!!」
ドガァァァァンッッ!!
地響きのような怒号とともに、背後から伸びてきた屈強な腕が、レアの両手首を鷲掴みにした。
猛烈な力で引き戻される身体。
ピアノの鍵盤から力づくで引き剥がされ、レアの身体はステージの中央へと投げ出されるようにして引き倒された。
「放しなさいッ! 邪魔をしないで、ノア!」
床に手をついたレアが、乱れた黒髪を振り乱して噛みつくように叫んだ。
だが――振り返った彼女の視界に飛び込んできたのは、生まれて初めて目にする「相棒」の姿だった。
「…………っ!?」
ノア・カレヴィが、立っていた。
普段の気怠げな猫背はどこにもない。
煙草も咥えていない。
肩を激しく上下させ、瞳の奥に狂気じみた炎を燃え盛らせた男が、拳を白くなるまで握りしめ、仁王立ちになってレアを見下ろしていたのだ。
その顔は、怒りと、そして痛烈な悲痛によって醜悪なまでに歪んでいた。
「……何が、生ゴミだ」
ノアの口から零れ落ちたのは、地底の底から絞り出したような、低く震える声音だった。
「何が、声のないお前には何の価値もない、だ……! ふざけるな。ふざけるなよ、レア・ヴァーミリオン!」
ノアは一歩踏み込み、床に座り込むレアの胸倉を掴まんばかりに身を屈めた。
その怒号は、大聖堂のパイプオルガンすら吹き飛ばすほどの音圧となって、少女の鼓膜を直接打ち抜いた。
「お前の歌はな……! そんな綺麗な、傷ひとつつかない完璧な声帯の技術なんかで鳴ってたんじゃないだろうがッッ!!」
雷鳴のような一撃。
レアの思考が、一瞬にして真っ白に吹き飛んだ。
「泥水をすすって! 理不尽に踏みにじられて! それでも明日を生きてやろうと歯を食いしばった、お前の執念の響きだったはずだ!」
ノアの瞳から、大粒の涙が、ポロリと床の松板へと零れ落ちた。
あの冷笑的で、何事にも無関心を装っていた男が、泣いていた。
レアの胸ぐらを掴むその両手が、怒りではなく、痛切な祈りのように小刻みに震えている。
「あの日……煙突街の地下酒場〈黒猫座〉の薄汚れたピアノの前で、お前が俺にぶつけてきた第一声を覚えているか? 譜面通りの賛美歌なんかじゃなかった。掠れて、唸って、腹の底を抉り取るような、泥の匂いのする叫びだった」
ノアは自嘲するように唇を噛み、自らの両手を掲げてみせた。
十年以上ものあいだ、汚れた包帯に包まれていた十本の指。
ノアはその包帯の端を、歯で噛んで力任せに引きちぎった。
ハラリ……と。
長年隠され続けてきた皮膚が、白日の下に晒される。
そこに現れたのは、ピアニストのものとは思えない、無惨極まりない「傷跡」だった。
関節は異様に太く曲がり、指の甲には幾重もの手術痕と、骨折が不完全に癒合した痕跡が生々しく盛り上がっている。
「……俺はな」
ノアの声が、静かに、しかし血を吐くような重みをもって落ちた。
「昔、大聖堂の『神童』だった。……寸分の狂いもない正確無比な指使いで、神の調和を完璧に再現するパイプオルガン奏者として、教会中の大人たちから持て囃されていたよ」
ノアの瞳の奥に、遠い過去の冷たい記憶が蘇る。
「だがな……弾けば弾くほど、吐き気がした。感情を殺し、人間であることを捨てて、定規で測ったような音を並べるだけの機械。……ある夜、俺は耐えられなくなって、ミサの最中に独自の不協和音を叩きつけた。教会が最も忌み嫌う、半音の揺らぎをな」
男の唇が、歪んだ笑みを刻む。
「報いはすぐだったよ。マクシミリアンと審問官どもは、俺を地下室へ引きずり込み、この指の骨を一本ずつ木槌で叩き折った。『神の調和を汚す指など、二度と動かぬようにしてやる』とな。……指を壊され、放り出された夜の絶望を、お前に想像できるか?」
レアは息を呑み、ノアの歪んだ指先を見つめた。
知らなかった。
この男が、なぜ下町の安酒場で酔い潰れ、なぜ汚れた包帯を巻き続けていたのか。その理由のすべてが、目の前の傷痕に刻まれていた。
「俺はピアノを捨てた。音楽を捨てた。……指が動かない俺には、生きている価値なんてないと思い込んで、煙突街のドブの中で死ぬのを待っていた」
ノアはレアの肩を両手で強く抱きしめた。
その掌の熱さが、ウールのワンピース越しに、レアの冷え切った皮膚へと直接流れ込んでくる。
「だが――そこへ、お前が現れたんだ」
ノアの黒い瞳が、レアの瞳の奥の魂を、逃れようもなく射抜いた。
「傷だらけの指で叩く俺の不協和音に、お前は平気な顔をして、さらに汚い、さらに凶暴な泥水の歌を重ねてきた。……完璧な指なんていらなかったんだ。神の調和なんてクソ食らえだった。傷を抱えたまま、生きている証拠を音にしてぶつけ合うことこそが、俺たちの本物の音楽だったはずだ!」
ノアはレアの額に、自らの額をごつんと強く押し当てた。
男の熱い涙が、レアの頬を伝い落ちていく。
「声帯が傷ついた? 結節ができた? それがどうしたってんだよ」
ノアの声は、もはや怒りではなかった。
魂の底から絞り出された、唯一無二の相棒への絶対の誓い。
「お前の歌は、神殿の無菌室で飾るためのガラス細工じゃねえ! 泥水をすすって、理不尽を呪って、それでも立ち上がってきた傷痕そのものが、お前の歌の正体だろうが!」
そして――ノアは言った。
その言葉は、帝国のいかなる法典よりも重く、レアの運命を永遠に縛り付ける誓約となった。
「……いいか、レア。もし、お前が高音を失うなら、俺が低音のすべてでお前を支えてやる。……もし、お前が声を失うというなら――俺のこの十本の指を全部へし折ってでも、その隙間を埋める音を鳴らし続けてやるよ!」
「…………っ!」
その瞬間。
レア・ヴァーミリオンの中で、張り詰めていた何かが、音を立てて砕け散った。
完璧でなければならない。
誰の庇護も受けず、弱みを見せず、完全無欠の女帝として君臨しなければ、自分は再び泥水の中に突き落とされる。
そう信じ込んで自らの首を絞め続けていた冷たい氷の鎧が、ノアの不器用で、剥き出しの魂の熱量によって、一瞬にして融解したのだ。
「あ……っ……うあ……っ」
レアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
止めようとしても止まらなかった。
彼女はノアの胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
掠れた喉から漏れ出る、みっともない嗚咽。
怖かった。
声を失うことが怖かった。
一人ぼっちになることが怖かった。
だが、目の前の男は、傷ついた自分を拒絶するどころか、己の骨を折ってでも共に地獄へ落ちると言ってくれたのだ。
舞台袖の暗がり。
そこには、いつの間にか駆けつけていたマルゴとジュディットの姿があった。
二人は口元を押さえ、涙を流しながら、抱き合う二人を静かに見守っていた。
マルゴの手元にあったあの黒硝子の小瓶は、音もなくポケットの奥深くへと仕舞い込まれていた。
あんな毒など、もう二度と必要ない。
この二人の魂の結びつきの前に、小細工の劇薬など何の力も持たなかった。
◇
どれほどの時間が流れただろうか。
涙を拭い、息を整えたレアは、ゆっくりと顔を上げた。
その切れ長の黒い瞳からは、先ほどまでの自暴自棄の狂気は完全に消え去っていた。
残っていたのは――澄み渡る夜空のように静謐で、研ぎ澄まされた光。
「……ノア」
まだ微かに掠れた声。だが、そこには一片の迷いもなかった。
「ピアノの前に、座りなさい」
「……ああ」
ノアは乱暴に涙を袖で拭うと、立ち上がった。
包帯を外した、傷だらけの十本の指。
男はその剥き出しの手を、迷いなく鍵盤の上へと置いた。
レアはステージの中央に立った。
無理に顎を引いて高音を作ろうとする姿勢を捨て、両足をどっしりと床に下ろす。
重心を落とし、横隔膜の力を抜く。
傷ついた声帯を無理に擦り合わせるのではない。
結節の引っ掛かりを、掠れを、息の漏れを、すべて「自らの肉体が刻んできた生きている証拠」として受け入れる、全く新しい呼吸法。
「……弾いて、ノア。私たちの、新しい音を」
「おう」
ノアの両腕が、静かに鍵盤の上へと降ろされた。
――ポロ、ロン……。
鳴り響いたのは、これまでのいかなる演奏とも異なる響きだった。
派手な速弾きでも、力任せの打鍵でもない。
深く、重く、祈るように紡ぎ出される、極上のスロー・ブルース。
傷ついた指だからこそ生み出せる、わずかに引きずるような独特のレガート。
そのピアノのタッチは、まるで冷え切った夜の海を優しく温める毛布のように、レアの足元から立ち上る空気を包み込んでいった。
その豊かな不協和音の海の中へ。
レアが、静かに息を吹き込んだ。
「――ん……んん……」
ハミング。
無理な高音ではない。
チェロの最も低い弦を擦るような、深く、温かい、ハスキーな低音のハミング。
声帯の結節が擦れ合い、生々しい歪み(オーバードライブ)を含んだその響きは――かつての金属的なハイトーンとは全く異なる、聴く者の胸骨を直接鷲掴みにするような、圧倒的な「哀愁」と「説得力」を帯びていた。
美声ではない。
だが、これこそが、オルレアン帝国のいかなる賛美歌にも存在しなかった、泥水をすすって生きてきた人間の「魂の真実」。
ノアのピアノが、そのハミングに導かれるように、コードの深みを増していく。
不協和音が解決されず、心地よいテンションとなって空間を満たす。
二人の音が、傷跡と傷跡を重ね合わせるようにして、完璧にひとつの巨大なグルーヴへと融け合っていく。
(これでいい……)
レアの唇に、静かな笑みが浮かんだ。
喉は痛まなかった。
傷を否定せず、ありのままの自分を鳴らすことの、この上ない解放感。
(完璧な声帯なんて、いらなかったのよ。……私の掠れも、私の傷も、すべてこの帝国を呑み干すための武器に変えてみせる)
夜明けの気配が、ルージュ座の天窓を白く染め始めていた。
暗闇を抜けたステージの上で、二人の音楽は、いま、真の覚醒を遂げようとしていた。




