聖女様と呼ばれた私には、奇跡の起こし方なんて分かりませんでした
本作は、前作『偽りの聖女の奇跡を監査したら、傷ついた英雄様に「あなたこそ私の聖女です」と言われました』の別視点短編です。
まだ前作を読んでいない方は、先にこちらを読んでいただけると嬉しいです。
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同じ出来事を、今度は「聖女様」と呼ばれた少女の側から描いています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
大学からの帰り道。
信号が変わるのを待ちながら、私は何となく空を見上げた。
夕方の空が妙に黄色がかっていた。雨の前の色だと、子供の頃に誰かに教わった気がする。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。駅前の人混みはいつも通りで、誰もが家路を急いでいるかのようだった。
鞄からスマホを取り出して画面を開くと、ゼミの連絡が届いていた。提出期限がどうとか、資料を共有したとか、そんな内容だったと思う。
私は小さくため息をついた。
明日は一限から講義だ。帰ったらレポートもやらなければならない。面倒だな、と考えながら歩き出した、その瞬間だった。
足元で何かが光った気がした。
最初は、車のヘッドライトだと思った。
けれど、その光は次第に輝きを増し始めた。
白い線がアスファルトの上を走り、私の靴の周囲を取り囲むように広がっていく。思わず立ち止まる。周囲の人たちは誰も気づいていない。
「え?」
声が漏れた。
光はさらに強くなる。
地面に複雑な文様が浮かび上がり、幾重もの輪が重なる。
心臓が嫌な音を立てた。
逃げなきゃ。
そう思ったのに、足が動かなかった。
体が落ちるような感覚がした次の瞬間、耳の奥で知らない鐘の音が鳴った。
◇
目を開けたとき、私は石造りの広間の真ん中に立っていた。
床には大きな円形の文様が描かれている。複雑な文字のようなものが幾重にも重なり、その隙間を青白い光が走っている。
周りには、白い法衣を着た人たちが何人もいた。
誰かが何かを叫んでいた。
別の誰かは、顔を覆って泣いていた。
白い髭の老人が、その場に膝をついて、震える手で胸の前に印を切っていた。
「成功……したのか」
「異界より、本当に……」
「聖女様だ」
「王国は、まだ見捨てられていなかった……!」
ばらばらの声が、渦を巻いていた。
私は何を言われているのか分からなかった。
ただ、その声の全部が、どうやら私に向けられているらしいと気づくまでに、少し時間がかかった。
「あの」
自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。
「ここ、どこですか」
誰もすぐには答えなかった。
いや、何か返していた人はいたのかもしれない。けれど、飛び交う言葉はどれも私には意味が分からなくて、結局何も聞き取れなかった。
「聖女様。ようこそ、フィオレンザル王国へ」
知らない国の名前だった。
「あの……ここは、どこですか」
自分でも情けないくらい弱い声だった。
「それに、あなたたちは……」
その言葉に、周囲の人たちは顔を見合わせた。
困ったような顔。
けれど、申し訳なさそうな顔ではなかった。
「聖女様」
老人が涙を拭いながら、私を見上げた。
「どうか、この王国をお救いください」
その瞬間、胸の奥がすうっと冷たくなった。
私は、呼ばれたのだ。
頼んでもいないのに、勝手に。
私の知らない場所へ。
帰り方も分からないまま。
◇
それから、私はこの国の人たちから、本当に聖女様として扱われるようになった。
朝比奈美月という名前は、この国の人には少し言いにくいらしく、神殿の人たちは私に「ミヅキ」という聖名を与えた。
「聖女ミヅキ様」
初めてそう呼ばれたとき、返事をしなかった。
自分のことだと思えなかったからだ。
けれど何度も呼ばれるうちに、私の方が慣れてしまった。
慣れって怖いと思う。
用意された部屋は、とても綺麗で清潔で、広かった。
白い天蓋のある大きなベッド。金の縁取りがされた大きな姿見。足元には、恐らくこの国では高価であろう柔らかな敷物。
窓の外には手入れされた中庭が見え、毎朝、侍女たちが花を替えにやって来た。
食事も温かかった。でも、最初の数日は味が分からなかった。
誰かに乱暴にされるようなことはなかった。
むしろ、その逆だった。
みんな驚くほど丁寧だった。
「聖女様、お召し物を」
「聖女様、お食事でございます」
「聖女様、お疲れではありませんか」
そうやって大切にされるたび、私は少しずつ逃げ場を失っていった。
「元の世界に帰る方法はありますか?」
何度も聞いた。
最初のうちは、神官たちは困ったように微笑んだ。
「聖女様は、女神の御心によりこの地へ導かれたのです」
「でも、私はそんなこと頼んでません」
「今は混乱なさっているのでしょう。どうか、心を落ち着けてくださいまし」
「家族に連絡だけでも……」
「聖女様」
そこで、いつも会話は終わった。
聖女様。
その言葉は優しかった。
柔らかくて、丁寧で、少しも乱暴ではなかった。
けれど、その言葉を向けられるたびに、私の言葉は行き場を失っていった。
誰も私を朝比奈美月とは呼ばなかった。
私が日本の大学二年生だったことを、知ろうとする人もいなかった。
みんな、聖女様を見ていた。
私ではなく。
◇
三日目だったと思う。
私は、神官の一人に尋ねた。
「私は、何をすればいいんですか」
神官は嬉しそうに頷いた。
「おお、聖女様。ついに御心をお決めになられたのですね」
違う。そうじゃない。
けれど否定するのも疲れていた。
「癒しの術を使うんですよね。どうやって、治すんですか」
「祈ればよいのです」
「……祈る?」
「はい。救いたいと願えば、奇跡は応えてくださいます」
それだけだった。
私は手をかざした。
神官が持ってきた小さな傷のある小鳥に向かって、言われた通りに目を閉じた。
助けてあげたい。
治ってほしい。
治って。お願い。
何度も心の中で繰り返した。
だけど、何も起きなかった。
小鳥はわずかに震えていた。
私は、手をかざしたまま固まっていた。
「まだ、この世界の空気に慣れておられないのでしょう」
神官はそう言った。
「大丈夫です。聖女様なら、必ず目覚めの時が来ます」
大丈夫、と言われるたびに、大丈夫ではなくなっていく気がした。
その日の夜、廊下で神官たちの声を聞いた。
「召喚に使った魔石の量を考えれば、失敗だったなどとは口が裂けても言えぬ」
「三十年だぞ。王国が三十年かけて備蓄してきた魔石だ」
「聖女様には、何としても成果を出していただかねば」
足が止まった。
王国が三十年かけて蓄えた魔石。
その重さだけは、異世界に来た私にも分かった。
三十年。
私が生まれる前から、積み上げられてきたもの。
それを使って、私はここに呼ばれた。
帰りたいと言うことさえ、ひどくわがままなことのように思えた。
◇
カイルさんの名前を初めて聞いたのは、それから間もなくだった。
平民出身の若い戦士。
魔獣戦線で何度も功を立て、近く男爵位を授かるのではないかと噂されている英雄。
その人が、魔獣討伐の作戦で重傷を負った。
その知らせが届いたとき、神殿の空気が変わった。
それまで私に向けられていた丁寧な微笑みの裏側に、焦りの色が混じるようになった。神官たちは何度も会議を開き、幹部たちは私の顔を見るたびに深く頭を下げた。
「聖女様」
老神官が言った。
「王国の英雄をお救いください」
私の喉は、うまく動かなかった。
「でも、私はまだ何も……」
「祈ればよいのです」
また、それだった。
「あなた様は聖女なのですから」
私は辺境の町へ連れていかれた。
馬車の窓から見える景色は、私の知らないものばかりだった。
舗装されていない道。遠くに見える鬱蒼とした森。すれ違う、馬に乗った冒険者風の者。宿場町の人々は、馬車の紋章を見ると道端に避けて膝をついた。
私は膝の上で指を握りしめていた。
◇
カイルさんを見た瞬間、逃げ出したくなった。
包帯が赤く染まっていた。
呼吸が浅く、額には汗が浮かび、顔からは血の気が失せていた。
こんなの、私に治せるはずがない。
そう思ったのに、神官は私の肩に手を置いた。
「聖女様。祭壇の前へ」
部屋の中央に、小さな祭壇が用意されていた。
その周囲には、高純度の魔石がいくつも並べられている。青く光る石。赤みを帯びた石。白く濁った石。
神官たちが詠唱を始めた。
私は祭壇の前に立たされた。
「祈ってください」
「何を……」
「救いたいと願ってください」
それしか、言われなかった。
私は目を閉じた。
痛みを取ってあげたいと思った。
助けてあげてと願った。
死なないでと祈った。
でも、何も感じなかった。何も起こらなかった。
ただ、周りの魔石が次々に砕けていく音だけが聞こえた。
乾いた音。どこか寂しげな音。
神官たちの声が大きくなる。
誰かが「もう少しだ」と叫んだ。別の誰かが追加の魔石を運び込んだ。
私はそれでも祈っていた。
祈ることしか、できなかった。
やがて、カイルさんの傷口が塞がった。
完全ではない。
少なくとも、私にはそう見えた。肌は青白く、呼吸も荒いままだった。
それでも神官たちは叫んだ。
「奇跡だ」
「聖女様の奇跡だ!」
「英雄カイル殿は救われた!」
その声の中で、私は立っていた。
何もしていない手を、胸の前で握りしめながら。
◇
カイルさんが目を覚ましたのは、翌日の昼だった。
私は部屋の外で待っていた。
中に入るべきではないと思った。でも、神官に促されると、逆らえなかった。
カイルさんはベッドに横たわっていた。
傷は布で覆われている。顔色はまだ悪い。
それでも、彼は私を見ると笑った。
「あなたが、聖女ミヅキ様ですか」
私は頷くことしかできなかった。
「ありがとうございます」
その声は、少しかすれていた。
「あなたのおかげです、ミヅキ様」
胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
私は何もしていない。それは自分が一番よく分かっている。
でも、カイルさんがそう言ってくれるなら、今日だけは眠れるかもしれないと思った。
「本当に、痛くないんですか」
思わず聞いていた。
カイルさんはほんの少し目を細めた。
「ええ。あなたのおかげで」
その言葉に、私はまた頷いた。
それから私は、カイルさんの歩く姿をよく見るようになった。
廊下の向こうを歩く姿を見かけると、右の足が遅れていないか、脇腹をかばっていないか、顔色は悪くないか、つい目で追ってしまう。
彼が笑っていると、ほっとした。
普通に歩いていると、大丈夫なのだと思おうとした。
でも、彼がほんの少しでも眉を寄せると、心臓が冷たくなった。
ある日、侍女が小さく笑った。
「聖女様は、本当にカイル様を気にかけておいでなのですね」
私は返事に困った。
気にかけている。
それは、そうだと思う。
でも、侍女が思っているような意味ではない気がした。
「ミヅキ様」
カイルさんが私をそう呼ぶたび、聖女様ではなく、私自身を呼ばれたような気がしてしまう。
それが間違いだったのかもしれない。
でも、そのときの私は、まだそれを間違いだとは思えていなかった。
◇
カイルは、傷が完治していないことは分かっていた。
座るたびに痛むし、深く息を吸うと脇腹が引きつる。それに、剣を振れば、すぐに体が悲鳴を上げた。
聖女の奇跡など起こってはいない。
だが、治ったことにしなければならなかった。
ここで傷が残っていると知れれば、戦線復帰は遠のく。恐らく叙爵の話も消えるだろう。平民出身の英雄など、使い物にならなくなった途端、ただの傷物の兵士に戻されるだけだ。
ミヅキは、美しかった。
ただ美しいだけなら、他にもいる。
だが、彼女は異界から召喚された聖女だ。王国が三十年かけて備蓄した魔石を費やし、神殿が奇跡そのものとして迎えた少女。
その聖女が、カイルの傷を心配している。
礼を言えば、目に見えてほっとする。
痛みはないと言えば、信じたい顔をする。
異界から来た聖女というから、もっと手の届かない存在かと思っていた。
けれど彼女は、案外分かりやすかった。
聖女に救われた英雄。
聖女に慕われる男。
そう呼ばれる自分を想像すると、痛みをこらえる価値くらいはある気がした。
「あなたのおかげです、ミヅキ様」
彼女は、その言葉でまた息をつく。
それで十分だった。
◇
王宮監査局の人が来ると聞いたとき、私は落ち着かなかった。
治療の記録を確認するらしい。
神官たちは「大丈夫です」と言った。けれど、その声がいつもより少し硬かった。
廊下の向こうで、カイルさんと一人の女性が話しているのを見た。
地味な色の服を着た、背筋の伸びた人だった。
でも、目だけが怖いくらいにまっすぐだった。
セシリア・ロウベル。
王宮監査局の監査官だと、神官が教えてくれた。
私は近づけなかった。
詳しい話を聞いてはいけない気がした。
でも、聞かないのも怖かった。
それから数日、カイルさんの状態が少し悪くなっているように見えた。
私が声をかけると、それでも彼はいつも通り優しく笑った。
「本当に、痛みはないんですか」
「ええ。あなたのおかげです、ミヅキ様」
「でも、昨日、歩き方が少し……それに、顔色も……」
「気のせいです。疲れが溜まっているだけでしょう」
そのとき、神官が私の言葉を遮った。
「聖女様」
低い声だった。
「奇跡を疑わせるようなお言葉はお控えください。皆が見ています」
私は口を閉じた。
違う。
疑っているんじゃない。
ただ、心配だった。
痛いなら、痛いと言ってほしかった。治っていないなら、治っていないと言ってほしかった。
でも、どう言えばよかったのか分からなかった。
カイルさんは一礼して去っていく。
その背中を見送りながら、私は指先を握りしめた。
どうか、本当に痛くありませんように。
どうか、私のせいで無理をしていませんように。
祈り方なんて分からないのに、そのときも私は祈っていた。
◇
カイルは、二度目にセシリアと会ったとき、ほとんど決めていた。
最初の面談で、彼女は自分の状態を見抜いていた。
目が違った。人の顔色や言葉の端を、見落とさない女だった。
隠しきれない。そう直感した。
ならば、隠す側にいる必要はない。
セシリアは伯爵令嬢だ。王宮監査局の人間でもある。
派手さはない。ミヅキのように、そこにいるだけで人の目を奪う華もない。
だが、今、この流れを変えられる女だった。
「傷は、治っていませんね」
沈黙のあと、カイルは意を決して言った。
「あなたには、隠せないのですね」
カイルは、聖女ミヅキの治療のことを話した。
なぜ完治していないのにそれを隠していたのか。
なぜ治ったように振る舞っていたのか。
セシリアの瞳が揺れた。
カイルは、わざと少しだけ体勢を崩した。
痛む場所に手を伸ばす。無理に笑う。
机の端に置いてあった書類が床へ滑り落ちた。
拾おうとして身を屈めたカイルの腕を、セシリアが支える。
「動かないでください」
セシリアの声が、少しだけ強くなった。
カイルはセシリアの手元を見て、静かに言った。
「ありがとうございます、セシリア様」
セシリアは慌てて手を離し、落ちた書類を拾い上げた。
それを見て、カイルは言葉を選びながら話を続けた。
「……あの方は、王国中の期待を背負わされていましたから」
セシリアは、真っ直ぐカイルの傷を見た。カイルは言葉を続ける。
「聖女様を責めたいわけではありません」
「ただ、治ったことになっている傷が痛むたびに、自分が何に感謝しているのか分からなくなるのです」
そこまでは、本当だった。
傷は痛む。
このままでは終わるという焦りもある。
聖女を責めたくない、と言えば、嘘ではないように聞こえる。
カイルは、セシリアの目がわずかに揺れるのを見た。
なら、もう少し押せる。
ミヅキの顔が、ふと浮かんだ。
祭壇の前で、泣きそうな顔で祈っていた異界の聖女。
自分の言葉に、少しずつ縋るようになった少女。
惜しいとは思った。
けれど、惜しいだけで沈む船に残るほど、カイルは愚かではなかった。
◇
式典の日、私は薄い色のドレスを着せられた。
鏡の前で侍女たちが髪を整えてくれる。
白い花を差し、胸元に神殿の紋章を飾る。
「聖女様、お美しいです」
そう言われても、嬉しくはなかった。
広間にはたくさんの人がいた。
王宮の人。貴族たち。騎士。
幾人かの神官以外は、知らない顔ばかりだった。
私は正面に立たされていた。
神官長の声が広間に響く。
「異界より召喚された聖女ミヅキ様の奇跡によって、英雄カイル殿は命を救われました。王国はここに、この聖なる業績を正式に——」
「お待ちください」
その声に、広間が揺れた。
セシリア・ロウベル。
彼女が前へ出てきた。
彼女の立場から見れば、真実を暴く人だったのかもしれない。
でもそのときの私には、逃げ道を塞ぐ人に見えた。
彼女は書類を広げる。
魔石の使用量や鎮痛薬の搬入記録、再診の報告書。包帯や縫合糸がどれだけ使われたかという細かな帳簿まで、次々と読み上げられていく。
そして最後に示されたのは、本来なら治癒術式の内容が記されているはずの記録だった。そこだけが、不自然なほど綺麗に空白のままだった。
どれも、私には自分の罪状のように聞こえた。
「ミヅキ様」
セシリア様の声は静かだった。
静かなぶんだけ、逃げ場がなかった。
「異界より召喚された聖女として、王国の庇護を受けてきました。治癒術式の基本構造を、今ここで説明していただけますか」
治癒術式。基本構造……。
そんな言葉を、私は一度も教わっていない。
「私は……そんなの……違う、私はただ、祈ればいいって、そう言われて……」
自分の声が、広間の中であまりにも小さく聞こえた。
本当に、それしか教えられていなかった。
手をかざせばよいと言われた。
祈れば奇跡は応えると教わった。
聖女様なら、きっとできるはずだと。
けれど私は、何をどう祈ればいいのかさえ、最後まで分からなかった。
「つまり、術式の意味も理解せず、ただ与えられた言葉に従って聖女を名乗っていたのですね」
違う。
そう言いたかった。
けれど、セシリア様の言葉は間違ってはいなかった。
私は術式の意味を知らなかった。聖女と呼ばれて、言われた通りに祈っていただけだ。
ただ、どうしてそうなったのかを、誰も聞いてはくれなかった。
その時だった。
カイルさんが、苦しげに膝をついた。
「カイル殿!」
周囲が騒ぐ。
彼は右脇腹を押さえていた。額には脂汗が浮かんでいる。
やっぱり治っていなかった。
本当に……。
私の足元から、音が消えていく。
カイルさんは、知っていたのだ。
あの傷を治したのが、私の祈りではなかったことを。
私は、何もできていなかったことを。
それでも彼は、治ったことにしていた。
それなのに、ずっと言っていた。
「あなたのおかげです」と。
◇
神官たちは、私から離れた。
本当に、一歩、二歩と下がっていった。
「我らも欺かれていたのです」
突然、神官長の声が響く。
「まさか、召喚された聖女様が、これほどまでに無知であったとは。神殿としても、痛恨の極みでございます」
無知……。
その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
無知だった。
それは、本当だ。
でも、誰が私に教えてくれたのだろう。
何を知ればよかったのだろう。
「偽りの聖女……?」
誰かが呟いた。
それを聞いた誰かが、すぐに同じ言葉を繰り返した。
「偽りの聖女だ」
近くにいた貴族が、はっと顔を上げた。
別の場所でも、同じ言葉が囁かれる。
「偽りの聖女」
「王国を欺いたのか!」
「英雄様まで利用して……」
ざわめきは、もう止まらなかった。
口を開いた。
けれど、声になる前に、別の罵声がかぶさった。
誰も、私の言葉を待ってはいなかった。
カイルさんが立ち上がる。
私は彼を見た。見てしまった。
彼は私ではなく、セシリア様を見ていた。
「あなたは、私を偽りの奇跡から救ってくださいました」
その声は、私に「あなたのおかげです」と言ったときと、よく似ていた。
優しくて、少しかすれていて、人を安心させる声。
胸の奥が痛んだ。
裏切られたからなのか。
恥ずかしかったからなのか。
それとも、失恋だったのか。
分からないまま、カイルさんはセシリア様の前で膝をついた。
「あなたこそ、私の聖女です」
その言葉を聞いた瞬間、ようやく分かった気がした。
私は、あの人に救われたかったのだ。
カイルさんのことを好きだったのかは、分からない。
もう確かめようもない。
けれど、彼を心配していたのは本当だった。
彼が笑うと、少しだけ息がしやすくなったのも本当だった。
誰かに、ここから連れ出してほしかった。
一人きりではないと、言ってほしかった。
それがカイルさんなのだと、思いたかった。
でも、その人は今、別の人へ同じ声を向けている。
私は、立っているのもやっとだった。
衛兵が、私の両脇を固めた。
抵抗する力は、もう残っていなかった。
私は促されるまま、広間の出口へ向かって歩き出す。
その途中で、一度だけ振り返った。
何故そんなことをしたのか、自分でも分からない。
未練だったのか、恨みだったのか。
それとも、まだ誰かが止めてくれると思っていたのか。
その時、セシリア様と目が合った。
彼女はカイルさんに手を引かれていた。
周囲の人たちが拍手をしている。
「私は……誰に、何を聞けばよかったんですか」
思わず、そう言っていた。
その声が誰かに届いたのかどうかは、もう分からなかった。
◇
国外追放が決まったのは、その日のうちだった。
詳しい話は、誰も私にしてくれなかった。
ただ、神官たちが慌ただしく動き、衛兵が来て、私は神殿の奥の部屋へ連れていかれた。
白いドレスは脱がされた。
神殿の紋章も外された。
代わりに渡されたのは、地味な外套と、小さな袋一つだった。
「国境まで護送する」
衛兵が言った。
聖女様とは、もう誰も呼ばなかった。
偽りの聖女。
誰かが廊下の向こうでそう言った。
私は怒れなかった。
怒るには、疲れすぎていた。
◇
夜になってから、私は馬車に乗せられた。
外へ出ると、夜気は思いのほか冷たかった。
薄い外套だけでは足りないくらいだった。
馬車の前で、一人の若い神官が待っていた。
年は、私より少し上くらいだろうか。細い顔立ちで、目元に疲れがあった。
彼は私を見ると、少しだけ頭を下げた。
「国境までは、私が同行します」
その声は穏やかで、そこには、非難も、私を責める響きもなかった。
私は、思わず聞いた。
「あなたも、私を偽りの聖女だと思っていますか」
若い神官はすぐには答えず、言葉を探すように、視線を少し落とす。
「あなたは、一度も自分から聖女だと名乗っていませんでした」
彼はそれだけ言った。
慰めようとしたわけでも、許そうとしたわけでもない。
でも、その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。
「私は、ユアンと申します」
若い神官は、私の肩にもう一枚外套をかけた。
「寒いでしょう。馬車の中へ」
その人だけが、私を聖女様とも、偽りの聖女とも呼ばなかった。
◇
馬車は夜道を進んだ。
車輪の音が、ずっと同じ調子で続いている。
窓の外は暗く、時折、月明かりに草原の輪郭だけが浮かんでいた。
私は膝の上で手を握ったまま、何度も言葉を飲み込んだ。
正面に座るユアンさんと目が合ったとき、自分でも驚く言葉がふと漏れた。
「私は……カイルさんのことが好きだったのでしょうか」
ユアンさんは、すぐには答えなかった。
「私には、分かりません」
当然の返答だった。
「でも」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「あの方の言葉で、あなたが少し息をしやすくなっていたのは、本当だったのだと思います」
胸が痛んだ。
好きだったのか。
救われたかっただけなのか。
その違いが、今の私にはまだ分からなかった。
ただ、カイルさんが「あなたのおかげです」と笑ってくれた夜だけ、私は少し眠れた。
それだけは、本当だった。
「祈ればいいって、言われました」
私は膝の上の手を見つめたまま言った。
「でも、何をどうすればいいのか、最後まで分かりませんでした」
ユアンさんは頷いた。
「祈る前に、まず息を整える必要があります」
「え?」
思わず顔を上げる。
「魔力は、願えば勝手に動くものではありません。体の中を流れるものを感じるところから始めなければ、外へは出せません」
彼の言うことが全て理解できたわけではなかった。
けれど、初めてだった。
初めて、誰かがどうすればいいのかを話してくれた。
「……それを、最初に教えてほしかったです」
声が震えた。
ユアンさんは、何も言い訳しなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
ユアンさんが何に対して謝ったのか、私には分からなかった。
自分のことなのか。神殿のことなのか。それとも、この国のことなのか。
それでも私は、初めて少しだけ息を吸えた気がした。
聖女と呼ばれた私には、奇跡の起こし方なんて分からなかった。
けれど、偽りの聖女として追放された夜、私は初めて知った。
奇跡は、ただ祈るだけで起こるものではない。
そして、分からないことを分からないと言ってもよかったのだと。
馬車の中に、また静けさが戻った。
聞こえるのは、車輪が土を踏む音と、時折、馬が鼻を鳴らす音だけだった。
私は膝の上で握っていた指を、少しだけ緩めた。
分からないなら、聞けばよかった。
できないなら、できないと言えばよかった。
たぶん、それだけのことだった。
それだけのことを、私はずっと許されていなかった。
窓の外には、まだ暗い道が続いている。
この先にある隣国がどんな場所なのか、私は何も知らない。
そこに行けば、今よりましになるのかも分からない。
それでも、次に分からないことがあったら、今度は聞こうと思った。
聞いて、覚えて、それでも分からなければ、もう一度聞く。
それくらいなら、私にもできるかもしれない。
私は、まだ見えない国境の先へ目を向けた。
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