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聖女様と呼ばれた私には、奇跡の起こし方なんて分かりませんでした

掲載日:2026/06/04

本作は、前作『偽りの聖女の奇跡を監査したら、傷ついた英雄様に「あなたこそ私の聖女です」と言われました』の別視点短編です。


まだ前作を読んでいない方は、先にこちらを読んでいただけると嬉しいです。


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同じ出来事を、今度は「聖女様」と呼ばれた少女の側から描いています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

大学からの帰り道。

信号が変わるのを待ちながら、私は何となく空を見上げた。


夕方の空が妙に黄色がかっていた。雨の前の色だと、子供の頃に誰かに教わった気がする。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。駅前の人混みはいつも通りで、誰もが家路を急いでいるかのようだった。


鞄からスマホを取り出して画面を開くと、ゼミの連絡が届いていた。提出期限がどうとか、資料を共有したとか、そんな内容だったと思う。


私は小さくため息をついた。


明日は一限から講義だ。帰ったらレポートもやらなければならない。面倒だな、と考えながら歩き出した、その瞬間だった。


足元で何かが光った気がした。


最初は、車のヘッドライトだと思った。

けれど、その光は次第に輝きを増し始めた。


白い線がアスファルトの上を走り、私の靴の周囲を取り囲むように広がっていく。思わず立ち止まる。周囲の人たちは誰も気づいていない。


「え?」


声が漏れた。


光はさらに強くなる。

地面に複雑な文様が浮かび上がり、幾重もの輪が重なる。


心臓が嫌な音を立てた。


逃げなきゃ。

そう思ったのに、足が動かなかった。


体が落ちるような感覚がした次の瞬間、耳の奥で知らない鐘の音が鳴った。



目を開けたとき、私は石造りの広間の真ん中に立っていた。


床には大きな円形の文様が描かれている。複雑な文字のようなものが幾重にも重なり、その隙間を青白い光が走っている。


周りには、白い法衣を着た人たちが何人もいた。


誰かが何かを叫んでいた。

別の誰かは、顔を覆って泣いていた。


白い髭の老人が、その場に膝をついて、震える手で胸の前に印を切っていた。


「成功……したのか」


「異界より、本当に……」


「聖女様だ」


「王国は、まだ見捨てられていなかった……!」


ばらばらの声が、渦を巻いていた。


私は何を言われているのか分からなかった。

ただ、その声の全部が、どうやら私に向けられているらしいと気づくまでに、少し時間がかかった。


「あの」


自分の声が、ひどく頼りなく聞こえた。


「ここ、どこですか」


誰もすぐには答えなかった。


いや、何か返していた人はいたのかもしれない。けれど、飛び交う言葉はどれも私には意味が分からなくて、結局何も聞き取れなかった。


「聖女様。ようこそ、フィオレンザル王国へ」


知らない国の名前だった。


「あの……ここは、どこですか」


自分でも情けないくらい弱い声だった。


「それに、あなたたちは……」


その言葉に、周囲の人たちは顔を見合わせた。


困ったような顔。

けれど、申し訳なさそうな顔ではなかった。


「聖女様」


老人が涙を拭いながら、私を見上げた。


「どうか、この王国をお救いください」


その瞬間、胸の奥がすうっと冷たくなった。


私は、呼ばれたのだ。

頼んでもいないのに、勝手に。


私の知らない場所へ。

帰り方も分からないまま。



それから、私はこの国の人たちから、本当に聖女様として扱われるようになった。


朝比奈(あさひな)美月(みづき)という名前は、この国の人には少し言いにくいらしく、神殿の人たちは私に「ミヅキ」という聖名を与えた。


「聖女ミヅキ様」


初めてそう呼ばれたとき、返事をしなかった。

自分のことだと思えなかったからだ。


けれど何度も呼ばれるうちに、私の方が慣れてしまった。

慣れって怖いと思う。


用意された部屋は、とても綺麗で清潔で、広かった。


白い天蓋のある大きなベッド。金の縁取りがされた大きな姿見。足元には、恐らくこの国では高価であろう柔らかな敷物。


窓の外には手入れされた中庭が見え、毎朝、侍女たちが花を替えにやって来た。

食事も温かかった。でも、最初の数日は味が分からなかった。


誰かに乱暴にされるようなことはなかった。


むしろ、その逆だった。

みんな驚くほど丁寧だった。


「聖女様、お召し物を」


「聖女様、お食事でございます」


「聖女様、お疲れではありませんか」


そうやって大切にされるたび、私は少しずつ逃げ場を失っていった。


「元の世界に帰る方法はありますか?」


何度も聞いた。


最初のうちは、神官たちは困ったように微笑んだ。


「聖女様は、女神の御心によりこの地へ導かれたのです」


「でも、私はそんなこと頼んでません」


「今は混乱なさっているのでしょう。どうか、心を落ち着けてくださいまし」


「家族に連絡だけでも……」


「聖女様」


そこで、いつも会話は終わった。


聖女様。


その言葉は優しかった。

柔らかくて、丁寧で、少しも乱暴ではなかった。


けれど、その言葉を向けられるたびに、私の言葉は行き場を失っていった。


誰も私を朝比奈美月とは呼ばなかった。

私が日本の大学二年生だったことを、知ろうとする人もいなかった。


みんな、聖女様を見ていた。

私ではなく。



三日目だったと思う。


私は、神官の一人に尋ねた。


「私は、何をすればいいんですか」


神官は嬉しそうに頷いた。


「おお、聖女様。ついに御心をお決めになられたのですね」


違う。そうじゃない。


けれど否定するのも疲れていた。


「癒しの術を使うんですよね。どうやって、治すんですか」


「祈ればよいのです」


「……祈る?」


「はい。救いたいと願えば、奇跡は応えてくださいます」


それだけだった。


私は手をかざした。

神官が持ってきた小さな傷のある小鳥に向かって、言われた通りに目を閉じた。


助けてあげたい。

治ってほしい。

治って。お願い。


何度も心の中で繰り返した。


だけど、何も起きなかった。


小鳥はわずかに震えていた。

私は、手をかざしたまま固まっていた。


「まだ、この世界の空気に慣れておられないのでしょう」


神官はそう言った。


「大丈夫です。聖女様なら、必ず目覚めの時が来ます」


大丈夫、と言われるたびに、大丈夫ではなくなっていく気がした。


その日の夜、廊下で神官たちの声を聞いた。


「召喚に使った魔石の量を考えれば、失敗だったなどとは口が裂けても言えぬ」


「三十年だぞ。王国が三十年かけて備蓄してきた魔石だ」


「聖女様には、何としても成果を出していただかねば」


足が止まった。


王国が三十年かけて蓄えた魔石。

その重さだけは、異世界に来た私にも分かった。


三十年。


私が生まれる前から、積み上げられてきたもの。

それを使って、私はここに呼ばれた。


帰りたいと言うことさえ、ひどくわがままなことのように思えた。



カイルさんの名前を初めて聞いたのは、それから間もなくだった。


平民出身の若い戦士。

魔獣戦線で何度も功を立て、近く男爵位を授かるのではないかと噂されている英雄。


その人が、魔獣討伐の作戦で重傷を負った。


その知らせが届いたとき、神殿の空気が変わった。


それまで私に向けられていた丁寧な微笑みの裏側に、焦りの色が混じるようになった。神官たちは何度も会議を開き、幹部たちは私の顔を見るたびに深く頭を下げた。


「聖女様」


老神官が言った。


「王国の英雄をお救いください」


私の喉は、うまく動かなかった。


「でも、私はまだ何も……」


「祈ればよいのです」


また、それだった。


「あなた様は聖女なのですから」


私は辺境の町へ連れていかれた。


馬車の窓から見える景色は、私の知らないものばかりだった。


舗装されていない道。遠くに見える鬱蒼とした森。すれ違う、馬に乗った冒険者風の者。宿場町の人々は、馬車の紋章を見ると道端に避けて膝をついた。


私は膝の上で指を握りしめていた。



カイルさんを見た瞬間、逃げ出したくなった。


包帯が赤く染まっていた。

呼吸が浅く、額には汗が浮かび、顔からは血の気が失せていた。


こんなの、私に治せるはずがない。


そう思ったのに、神官は私の肩に手を置いた。


「聖女様。祭壇の前へ」


部屋の中央に、小さな祭壇が用意されていた。

その周囲には、高純度の魔石がいくつも並べられている。青く光る石。赤みを帯びた石。白く濁った石。


神官たちが詠唱を始めた。


私は祭壇の前に立たされた。


「祈ってください」


「何を……」


「救いたいと願ってください」


それしか、言われなかった。


私は目を閉じた。


痛みを取ってあげたいと思った。

助けてあげてと願った。

死なないでと祈った。


でも、何も感じなかった。何も起こらなかった。


ただ、周りの魔石が次々に砕けていく音だけが聞こえた。


乾いた音。どこか寂しげな音。


神官たちの声が大きくなる。

誰かが「もう少しだ」と叫んだ。別の誰かが追加の魔石を運び込んだ。


私はそれでも祈っていた。

祈ることしか、できなかった。


やがて、カイルさんの傷口が塞がった。


完全ではない。

少なくとも、私にはそう見えた。肌は青白く、呼吸も荒いままだった。


それでも神官たちは叫んだ。


「奇跡だ」


「聖女様の奇跡だ!」


「英雄カイル殿は救われた!」


その声の中で、私は立っていた。


何もしていない手を、胸の前で握りしめながら。



カイルさんが目を覚ましたのは、翌日の昼だった。


私は部屋の外で待っていた。

中に入るべきではないと思った。でも、神官に促されると、逆らえなかった。


カイルさんはベッドに横たわっていた。

傷は布で覆われている。顔色はまだ悪い。


それでも、彼は私を見ると笑った。


「あなたが、聖女ミヅキ様ですか」


私は頷くことしかできなかった。


「ありがとうございます」


その声は、少しかすれていた。


「あなたのおかげです、ミヅキ様」


胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた気がした。


私は何もしていない。それは自分が一番よく分かっている。

でも、カイルさんがそう言ってくれるなら、今日だけは眠れるかもしれないと思った。


「本当に、痛くないんですか」


思わず聞いていた。


カイルさんはほんの少し目を細めた。


「ええ。あなたのおかげで」


その言葉に、私はまた頷いた。


それから私は、カイルさんの歩く姿をよく見るようになった。


廊下の向こうを歩く姿を見かけると、右の足が遅れていないか、脇腹をかばっていないか、顔色は悪くないか、つい目で追ってしまう。


彼が笑っていると、ほっとした。

普通に歩いていると、大丈夫なのだと思おうとした。


でも、彼がほんの少しでも眉を寄せると、心臓が冷たくなった。


ある日、侍女が小さく笑った。


「聖女様は、本当にカイル様を気にかけておいでなのですね」


私は返事に困った。


気にかけている。

それは、そうだと思う。


でも、侍女が思っているような意味ではない気がした。


「ミヅキ様」


カイルさんが私をそう呼ぶたび、聖女様ではなく、私自身を呼ばれたような気がしてしまう。


それが間違いだったのかもしれない。


でも、そのときの私は、まだそれを間違いだとは思えていなかった。



カイルは、傷が完治していないことは分かっていた。


座るたびに痛むし、深く息を吸うと脇腹が引きつる。それに、剣を振れば、すぐに体が悲鳴を上げた。


聖女の奇跡など起こってはいない。

だが、治ったことにしなければならなかった。


ここで傷が残っていると知れれば、戦線復帰は遠のく。恐らく叙爵の話も消えるだろう。平民出身の英雄など、使い物にならなくなった途端、ただの傷物の兵士に戻されるだけだ。


ミヅキは、美しかった。


ただ美しいだけなら、他にもいる。

だが、彼女は異界から召喚された聖女だ。王国が三十年かけて備蓄した魔石を費やし、神殿が奇跡そのものとして迎えた少女。


その聖女が、カイルの傷を心配している。


礼を言えば、目に見えてほっとする。

痛みはないと言えば、信じたい顔をする。


異界から来た聖女というから、もっと手の届かない存在かと思っていた。

けれど彼女は、案外分かりやすかった。


聖女に救われた英雄。

聖女に慕われる男。


そう呼ばれる自分を想像すると、痛みをこらえる価値くらいはある気がした。


「あなたのおかげです、ミヅキ様」


彼女は、その言葉でまた息をつく。

それで十分だった。



王宮監査局の人が来ると聞いたとき、私は落ち着かなかった。


治療の記録を確認するらしい。

神官たちは「大丈夫です」と言った。けれど、その声がいつもより少し硬かった。


廊下の向こうで、カイルさんと一人の女性が話しているのを見た。


地味な色の服を着た、背筋の伸びた人だった。

でも、目だけが怖いくらいにまっすぐだった。


セシリア・ロウベル。

王宮監査局の監査官だと、神官が教えてくれた。


私は近づけなかった。


詳しい話を聞いてはいけない気がした。

でも、聞かないのも怖かった。


それから数日、カイルさんの状態が少し悪くなっているように見えた。


私が声をかけると、それでも彼はいつも通り優しく笑った。


「本当に、痛みはないんですか」


「ええ。あなたのおかげです、ミヅキ様」


「でも、昨日、歩き方が少し……それに、顔色も……」


「気のせいです。疲れが溜まっているだけでしょう」


そのとき、神官が私の言葉を遮った。


「聖女様」


低い声だった。


「奇跡を疑わせるようなお言葉はお控えください。皆が見ています」


私は口を閉じた。


違う。

疑っているんじゃない。


ただ、心配だった。

痛いなら、痛いと言ってほしかった。治っていないなら、治っていないと言ってほしかった。


でも、どう言えばよかったのか分からなかった。


カイルさんは一礼して去っていく。


その背中を見送りながら、私は指先を握りしめた。


どうか、本当に痛くありませんように。

どうか、私のせいで無理をしていませんように。


祈り方なんて分からないのに、そのときも私は祈っていた。



カイルは、二度目にセシリアと会ったとき、ほとんど決めていた。


最初の面談で、彼女は自分の状態を見抜いていた。

目が違った。人の顔色や言葉の端を、見落とさない女だった。


隠しきれない。そう直感した。


ならば、隠す側にいる必要はない。


セシリアは伯爵令嬢だ。王宮監査局の人間でもある。

派手さはない。ミヅキのように、そこにいるだけで人の目を奪う華もない。


だが、今、この流れを変えられる女だった。


「傷は、治っていませんね」


沈黙のあと、カイルは意を決して言った。


「あなたには、隠せないのですね」


カイルは、聖女ミヅキの治療のことを話した。

なぜ完治していないのにそれを隠していたのか。

なぜ治ったように振る舞っていたのか。


セシリアの瞳が揺れた。


カイルは、わざと少しだけ体勢を崩した。

痛む場所に手を伸ばす。無理に笑う。


机の端に置いてあった書類が床へ滑り落ちた。

拾おうとして身を屈めたカイルの腕を、セシリアが支える。


「動かないでください」


セシリアの声が、少しだけ強くなった。


カイルはセシリアの手元を見て、静かに言った。


「ありがとうございます、セシリア様」


セシリアは慌てて手を離し、落ちた書類を拾い上げた。


それを見て、カイルは言葉を選びながら話を続けた。


「……あの方は、王国中の期待を背負わされていましたから」


セシリアは、真っ直ぐカイルの傷を見た。カイルは言葉を続ける。


「聖女様を責めたいわけではありません」


「ただ、治ったことになっている傷が痛むたびに、自分が何に感謝しているのか分からなくなるのです」


そこまでは、本当だった。


傷は痛む。

このままでは終わるという焦りもある。

聖女を責めたくない、と言えば、嘘ではないように聞こえる。


カイルは、セシリアの目がわずかに揺れるのを見た。


なら、もう少し押せる。


ミヅキの顔が、ふと浮かんだ。


祭壇の前で、泣きそうな顔で祈っていた異界の聖女。

自分の言葉に、少しずつ縋るようになった少女。


惜しいとは思った。


けれど、惜しいだけで沈む船に残るほど、カイルは愚かではなかった。



式典の日、私は薄い色のドレスを着せられた。


鏡の前で侍女たちが髪を整えてくれる。

白い花を差し、胸元に神殿の紋章を飾る。


「聖女様、お美しいです」


そう言われても、嬉しくはなかった。


広間にはたくさんの人がいた。

王宮の人。貴族たち。騎士。


幾人かの神官以外は、知らない顔ばかりだった。


私は正面に立たされていた。


神官長の声が広間に響く。


「異界より召喚された聖女ミヅキ様の奇跡によって、英雄カイル殿は命を救われました。王国はここに、この聖なる業績を正式に——」


「お待ちください」


その声に、広間が揺れた。


セシリア・ロウベル。


彼女が前へ出てきた。


彼女の立場から見れば、真実を暴く人だったのかもしれない。

でもそのときの私には、逃げ道を塞ぐ人に見えた。


彼女は書類を広げる。


魔石の使用量や鎮痛薬の搬入記録、再診の報告書。包帯や縫合糸がどれだけ使われたかという細かな帳簿まで、次々と読み上げられていく。


そして最後に示されたのは、本来なら治癒術式の内容が記されているはずの記録だった。そこだけが、不自然なほど綺麗に空白のままだった。


どれも、私には自分の罪状のように聞こえた。


「ミヅキ様」


セシリア様の声は静かだった。

静かなぶんだけ、逃げ場がなかった。


「異界より召喚された聖女として、王国の庇護を受けてきました。治癒術式の基本構造を、今ここで説明していただけますか」


治癒術式。基本構造……。


そんな言葉を、私は一度も教わっていない。


「私は……そんなの……違う、私はただ、祈ればいいって、そう言われて……」


自分の声が、広間の中であまりにも小さく聞こえた。


本当に、それしか教えられていなかった。

手をかざせばよいと言われた。

祈れば奇跡は応えると教わった。

聖女様なら、きっとできるはずだと。


けれど私は、何をどう祈ればいいのかさえ、最後まで分からなかった。


「つまり、術式の意味も理解せず、ただ与えられた言葉に従って聖女を名乗っていたのですね」


違う。

そう言いたかった。


けれど、セシリア様の言葉は間違ってはいなかった。

私は術式の意味を知らなかった。聖女と呼ばれて、言われた通りに祈っていただけだ。


ただ、どうしてそうなったのかを、誰も聞いてはくれなかった。


その時だった。


カイルさんが、苦しげに膝をついた。


「カイル殿!」


周囲が騒ぐ。


彼は右脇腹を押さえていた。額には脂汗が浮かんでいる。


やっぱり治っていなかった。


本当に……。


私の足元から、音が消えていく。


カイルさんは、知っていたのだ。

あの傷を治したのが、私の祈りではなかったことを。

私は、何もできていなかったことを。

それでも彼は、治ったことにしていた。


それなのに、ずっと言っていた。


「あなたのおかげです」と。



神官たちは、私から離れた。


本当に、一歩、二歩と下がっていった。


「我らも欺かれていたのです」


突然、神官長の声が響く。


「まさか、召喚された聖女様が、これほどまでに無知であったとは。神殿としても、痛恨の極みでございます」


無知……。


その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。


無知だった。

それは、本当だ。


でも、誰が私に教えてくれたのだろう。

何を知ればよかったのだろう。


「偽りの聖女……?」


誰かが呟いた。


それを聞いた誰かが、すぐに同じ言葉を繰り返した。


「偽りの聖女だ」


近くにいた貴族が、はっと顔を上げた。

別の場所でも、同じ言葉が囁かれる。


「偽りの聖女」

「王国を欺いたのか!」

「英雄様まで利用して……」


ざわめきは、もう止まらなかった。


口を開いた。

けれど、声になる前に、別の罵声がかぶさった。


誰も、私の言葉を待ってはいなかった。


カイルさんが立ち上がる。


私は彼を見た。見てしまった。


彼は私ではなく、セシリア様を見ていた。


「あなたは、私を偽りの奇跡から救ってくださいました」


その声は、私に「あなたのおかげです」と言ったときと、よく似ていた。


優しくて、少しかすれていて、人を安心させる声。


胸の奥が痛んだ。


裏切られたからなのか。

恥ずかしかったからなのか。

それとも、失恋だったのか。


分からないまま、カイルさんはセシリア様の前で膝をついた。


「あなたこそ、私の聖女です」


その言葉を聞いた瞬間、ようやく分かった気がした。

私は、あの人に救われたかったのだ。


カイルさんのことを好きだったのかは、分からない。

もう確かめようもない。


けれど、彼を心配していたのは本当だった。

彼が笑うと、少しだけ息がしやすくなったのも本当だった。


誰かに、ここから連れ出してほしかった。

一人きりではないと、言ってほしかった。


それがカイルさんなのだと、思いたかった。


でも、その人は今、別の人へ同じ声を向けている。


私は、立っているのもやっとだった。


衛兵が、私の両脇を固めた。


抵抗する力は、もう残っていなかった。

私は促されるまま、広間の出口へ向かって歩き出す。


その途中で、一度だけ振り返った。


何故そんなことをしたのか、自分でも分からない。

未練だったのか、恨みだったのか。

それとも、まだ誰かが止めてくれると思っていたのか。


その時、セシリア様と目が合った。


彼女はカイルさんに手を引かれていた。

周囲の人たちが拍手をしている。


「私は……誰に、何を聞けばよかったんですか」


思わず、そう言っていた。


その声が誰かに届いたのかどうかは、もう分からなかった。



国外追放が決まったのは、その日のうちだった。


詳しい話は、誰も私にしてくれなかった。

ただ、神官たちが慌ただしく動き、衛兵が来て、私は神殿の奥の部屋へ連れていかれた。


白いドレスは脱がされた。

神殿の紋章も外された。


代わりに渡されたのは、地味な外套と、小さな袋一つだった。


「国境まで護送する」


衛兵が言った。


聖女様とは、もう誰も呼ばなかった。


偽りの聖女。

誰かが廊下の向こうでそう言った。


私は怒れなかった。

怒るには、疲れすぎていた。



夜になってから、私は馬車に乗せられた。


外へ出ると、夜気は思いのほか冷たかった。

薄い外套だけでは足りないくらいだった。


馬車の前で、一人の若い神官が待っていた。

年は、私より少し上くらいだろうか。細い顔立ちで、目元に疲れがあった。


彼は私を見ると、少しだけ頭を下げた。


「国境までは、私が同行します」


その声は穏やかで、そこには、非難も、私を責める響きもなかった。


私は、思わず聞いた。


「あなたも、私を偽りの聖女だと思っていますか」


若い神官はすぐには答えず、言葉を探すように、視線を少し落とす。


「あなたは、一度も自分から聖女だと名乗っていませんでした」


彼はそれだけ言った。


慰めようとしたわけでも、許そうとしたわけでもない。


でも、その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。


「私は、ユアンと申します」


若い神官は、私の肩にもう一枚外套をかけた。


「寒いでしょう。馬車の中へ」


その人だけが、私を聖女様とも、偽りの聖女とも呼ばなかった。



馬車は夜道を進んだ。


車輪の音が、ずっと同じ調子で続いている。

窓の外は暗く、時折、月明かりに草原の輪郭だけが浮かんでいた。


私は膝の上で手を握ったまま、何度も言葉を飲み込んだ。


正面に座るユアンさんと目が合ったとき、自分でも驚く言葉がふと漏れた。


「私は……カイルさんのことが好きだったのでしょうか」


ユアンさんは、すぐには答えなかった。


「私には、分かりません」


当然の返答だった。


「でも」


彼は言葉を選ぶように続けた。


「あの方の言葉で、あなたが少し息をしやすくなっていたのは、本当だったのだと思います」


胸が痛んだ。


好きだったのか。

救われたかっただけなのか。


その違いが、今の私にはまだ分からなかった。


ただ、カイルさんが「あなたのおかげです」と笑ってくれた夜だけ、私は少し眠れた。

それだけは、本当だった。


「祈ればいいって、言われました」


私は膝の上の手を見つめたまま言った。


「でも、何をどうすればいいのか、最後まで分かりませんでした」


ユアンさんは頷いた。


「祈る前に、まず息を整える必要があります」


「え?」


思わず顔を上げる。


「魔力は、願えば勝手に動くものではありません。体の中を流れるものを感じるところから始めなければ、外へは出せません」


彼の言うことが全て理解できたわけではなかった。

けれど、初めてだった。


初めて、誰かがどうすればいいのかを話してくれた。


「……それを、最初に教えてほしかったです」


声が震えた。


ユアンさんは、何も言い訳しなかった。

ただ、深く頭を下げた。


「申し訳ありません」


ユアンさんが何に対して謝ったのか、私には分からなかった。

自分のことなのか。神殿のことなのか。それとも、この国のことなのか。


それでも私は、初めて少しだけ息を吸えた気がした。


聖女と呼ばれた私には、奇跡の起こし方なんて分からなかった。

けれど、偽りの聖女として追放された夜、私は初めて知った。


奇跡は、ただ祈るだけで起こるものではない。

そして、分からないことを分からないと言ってもよかったのだと。


馬車の中に、また静けさが戻った。


聞こえるのは、車輪が土を踏む音と、時折、馬が鼻を鳴らす音だけだった。


私は膝の上で握っていた指を、少しだけ緩めた。


分からないなら、聞けばよかった。

できないなら、できないと言えばよかった。


たぶん、それだけのことだった。

それだけのことを、私はずっと許されていなかった。


窓の外には、まだ暗い道が続いている。


この先にある隣国がどんな場所なのか、私は何も知らない。

そこに行けば、今よりましになるのかも分からない。


それでも、次に分からないことがあったら、今度は聞こうと思った。


聞いて、覚えて、それでも分からなければ、もう一度聞く。

それくらいなら、私にもできるかもしれない。


私は、まだ見えない国境の先へ目を向けた。

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