偽りの聖女の奇跡を監査したら、傷ついた英雄様に「あなたこそ私の聖女です」と言われました
王宮監査局の小部屋は、いつも静かだ。
廊下を行き交う侍女たちの笑い声も、中庭からかすかに届く楽団の音も、石壁の向こうに消えていく。
ここにあるのは、羽ペンが紙を滑る音と、積み上がった帳簿の乾いた匂いだけ。
私は、そんなこの部屋が好きだった。
セシリア・ロウベル。
私は、王宮監査局に籍を置く、ロウベル伯爵家の三女だ。婚約者はいない。滅多に来ない見合いの話も、すべて断っている。社交界で付いた二つ名が「帳簿と結婚した令嬢」。
当然、そんな陰口は本人の耳にも届いている。
気にしていない、と言ったら嘘になる。
「ロウベル嬢ったら、また小部屋に籠もっているの?」
背後から掛けられた声に、私は羽ペンを動かす手を止めずに応じた。
「ええ。第三騎士団の馬具修繕費に、どうも不可解な数字がありまして」
私の言葉になど興味がないかのように、令嬢たちはその場を後にした。
「あの方、舞踏会のドレスよりも監査報告書の方がお好きなのよ」
「信じられませんわ。せっかくの若さをこんな所で無駄にするなんて」
クスクスという小さな笑い声が、廊下の奥へと遠ざかっていく。
慣れているはずなのに、あの笑い声だけはいつまでも耳に残る。
私は、インクが乾きかけた帳面に目を戻した。
帳簿は人を慰めない。けれど、嘘もつかない。
数字が合わない時、必ずどこかに理由がある。
誰かが見落とした不正も、誰かが隠そうとした真実も、記録の中には痕跡が残る。
それを拾い上げるのが、私の仕事だ。
誇りなら、ある。
王都で、今、いちばんの話題といえば、聖女ミヅキ様のことだろう。
異世界から召喚されたという見目麗しい若い娘。魔獣の掃討戦で瀕死の重傷を負った英雄カイル殿を奇跡の力で癒やしたとされている。神殿は「救国の聖女」と高らかに謳い、王宮もそれを認めている。茶会でも舞踏会でも酒場でも、誰もがその名前を口にした。
私には縁のない話だと思っていた。
あの日の朝までは。
「ロウベル。例の神殿からの治療記録が回ってきたぞ」
上司である監査局長が、分厚い書類の束を私の机に置いた。
「聖女ミヅキ様による、カイル殿の治癒記録ですね。確認します」
私はファイルを開き、目を通し始めた。
神官医師の署名、使用された魔石の申請書、備品の請求書。どれも型通りの書類に見えた。
しかし、ページを捲る私の手は、三枚目の請求書でピタリと止まった。
そこには、奇跡と呼ぶには、不自然な点が多すぎた。
◇
最初は見間違いだと思った。
もう一度、最初から読んだ。羽ペンを置いて、数字だけを追った。
更に、一時間かけて他の記録とも照合した。そして、確信した。
おかしい。
最初に目についたのは、魔石の量だった。
カイル殿の治療一件に対して請求されている高純度の治癒魔石が、通常の治療の十倍近い。
桁を一つ読み間違えたのかと思い、私は補助記録を確認した。
だが、数字は変わらなかった。
聖女の奇跡とは、聖魔法によって傷を塞ぐものではなかったか。これではまるで、膨大な魔石の力で無理やり生命力を底上げしているだけに見える。
完治報告の日付は、ちょうど一ヶ月前だ。カイル殿が魔獣の爪による深い損傷から全快し、任務への復帰が認められた。神殿医師の署名入りで「聖女の奇跡による治癒完了」と書かれている。
だが同じ時期の薬剤支給記録を見ると、鎮痛薬の支給が完治報告の翌日から続いている。
それも先週まで。
なぜ、治った人間に鎮痛薬が必要なのか。
神官医師の再診記録も残っていた。しかも、完治後に三度。包帯と縫合糸の支給記録まである。
そして聖女本人の術式記録は、空欄だ。奇跡の内容も、使用した術式の構造も、何も書かれていない。
「局長」
私は立ち上がり、書類を局長のデスクに持っていった。
「この記録、いくつか不審な点があります。術式の記載漏れだけではなく、治癒完了の日付と継続的な医療処置の日付が重なっているのは見過ごせません」
ベルナール局長は書類を一瞥して、すぐに眉根を寄せた。
「ロウベル、それは……聖女様が王国の希望であることを忘れていないか。神殿と王宮が公式に認めた奇跡だ。そこに疑いを向けるのは、あまり……な」
「例え希望であったとしても、記録に不審な点が残っている以上、監査対象です。」
少し間があった。
「聖女への疑義となれば、王国そのものが揺れるぞ。それを分かって言っているのか?」
「分かっています」
局長はしばらく私を見た。それから静かに息を吐いた。
「……英雄カイル、本人への聴取を認める。くれぐれも慎重に」
その言葉を聞いた瞬間、気づけば立ち上がっていた。椅子を勢いよく引いた音が局長室に響いた。
◇
英雄カイル殿は、想像していたより大きな男だった。
背丈だけの話ではない。そこにいるだけで、息が集まるような圧を感じる。
傷を負って戦場から戻った人間にしかない、なんとも言えない重みがあった。
部屋に入ると、彼は立ち上がって頭を下げた。
平民出身の英雄の立ち居振る舞いは、確かに王都で生まれ育った貴族たちほど洗練されているわけではない。しかし、その無骨で飾り気のない態度は、かえって彼という人間の誠実さを表しているようにも見え、不思議と嫌みがなかった。
「王宮監査局のセシリア・ロウベルと申します。本日はご足労いただき、感謝いたします」
「こちらこそ。こういった手続きには慣れてないもので、ご迷惑をおかけしているかもしれません」
カイル殿は礼儀正しく頭を下げ、勧めたソファに腰を下ろした。
その瞬間。
彼が一瞬だけ、ほんのわずかに眉を寄せたのを、私は見逃さなかった。
痛みを堪えている。右脇腹か、腰のあたりか。体の重心がわずかにずれている。完治した人間の座り方ではない。
「聖女ミヅキ様の治療について、いくつか確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「現在の体調は、いかがですか」
一瞬の間があった。
「おかげさまで、問題ありません」
「そうですか」
私は帳簿を読むように、彼の顔を見た。笑顔は自然だ。声も落ち着いている。だが手だけが、膝の上でかすかに力んでいる。
「聖女様には本当に感謝しています。彼女のおかげで、命を拾いました」
その言葉に嘘はないのだろう。だが、私が聞きたいのはそこではない。
「命を取り留められたことは存じております。しかし、記録上は完治となっています。それにもかかわらず、鎮痛薬が……」
「奇跡を!……奇蹟を疑うようなことは、私の口からは言えません」
私の言葉を遮るように、彼は言った。
「王都の皆が、聖女様に救いを見ているのです。最前線で血を流した兵士たちも、彼女の存在に希望を抱いている。私が今ここに生きているという事実こそが、その証ですから」
彼は、聖女を庇っている。
自分の痛みを隠してでも、ミヅキという少女の「奇跡」を守ろうとしている。
私は彼をただの監査対象としてしか見ていなかった。帳簿の数字を裏付けるための証人。
それ以上でも、それ以下でもない。
そのはずだった。
けれど、痛みを隠して真っ直ぐにこちらを見る彼を前にして、私は羽ペンを握り直していた。
英雄と呼ばれる人にも、誰にも言えない痛みがある。
それを誰にも悟られまいと、孤独に耐えているのだ。
感情を持ち込む場面ではない。分かっていた。分かっていたのに。
「……承知いたしました。本日は、これで終了いたします」
これ以上の追及はこの場では無意味だと判断し、私は帳面を閉じた。
私が立ち上がり、一礼して退出しようとした時、背後から彼の声が私を引き留めた。
「あなたのような方が、最初から記録を見てくださっていたらよかった」
返す言葉が、出なかった。
仕事を認められただけだ。
それだけのことだ。
そう言い聞かせながら廊下を歩いたが、なぜか足が少しだけ速くなっていた。
◇
三日後、聖女の控室近くを通りかかったとき、廊下の角で声が聞こえた。
「あの……本当に、痛みはないんですか」
耳に届いたのは、高く、不安に揺れる少女の声だった。
私は足を止め、柱の影に身を潜めた。
そこにいたのは、英雄カイル殿と、豪華な純白の法衣を身にまとった少女——聖女ミヅキだった。
ミヅキはカイル殿の袖を掴むようにして、縋るような視線を向けていた。
カイル殿は優しく笑い、彼女の手をそっと外した。
「ええ。あなたのおかげです、ミヅキ様。私はもうすっかり良くなりました」
「でも……昨日、歩き方が少し……それに、顔色も……」
「気のせいです。疲れが溜まっていただけでしょう」
ミヅキは一瞬ほっとしたような表情をしたが、なおも何かを言いたげに口を尖らせた。
「聖女様」
神官が割って入った。
「奇跡を疑わせるようなお言葉はお控えください。誰が見ているか分かりません」
ミヅキはビクッと肩を震わせ、俯いて口を閉じた。
「……では、私はこれで」
カイル殿が一礼し、ミヅキと神官から離れていく。
私は息を潜めたまま、彼の後ろ姿を目で追った。
角を曲がり、ミヅキたちの視界から外れた瞬間。
カイル殿は壁に手をつき、苦しげに息を詰めた。右脇腹を押さえる彼の手の甲には、青筋が浮かんでいた。
やはり、治っていない。
それなのに彼は、自分の奇跡を認めさせたい聖女のために、治ったふりをしているのだ。
神官たちは聖女の評判を守るために都合の悪い事実を隠蔽し、カイル殿はその偽りの奇跡に縛られている。
記録の不整合。カイル殿の痛みを隠す姿。そして、先ほどのミヅキの執着するような態度。
もう、偶然とは思えなかった。
彼女は、カイルの傷が治っていないことに気づいている。
不安だから尋ねているのか。
それとも、彼の口から「治った」と言わせたいのか。
私は、後者だと思った。
いや、そう決めた。
正さなければならない。
その時の私は、そう信じた。
◇
それから数日後、私は再びカイル殿と個人的に会う機会を得た。
王宮の庭園、人目に付きにくい東屋。監査の枠を超えた接触は控えるべきだと頭では分かっていた。
しかし、私はどうしても確かめなければならないことがあった。
「傷は、治っていませんね」
沈黙。
彼はしばらくテーブルの一点を見つめていた。だが、やがて諦めたように少しだけ笑った。
「あなたには、隠せないのですね」
その声に、胸の奥が少しだけ締め付けられた。
彼は東屋の柱に背を預け、遠くの空を見上げた。
「私は、平民の出です。ご存じでしょうが……」
「はい」
「戦線に出るまで、名前以外に何もなかった。功績を積んで、ようやく叙爵の話が見えてきた。今年中に男爵位が——そういうところまで来ていた」
彼は静かに話した。それが逆に、重かった。
「なのに傷が残っている。完治していないと分かれば、叙爵の話は消える。任務への復帰も認められない。だから……」
「だから治ったことにしている」
「そうです」
「……無理をなさっているのでは」
そう言ったのは、監査官としてではなかったと思う。
カイルは答えようとして、わずかに息を詰めた。右手が脇腹のあたりへ伸びる。
次の瞬間、机の端に置いてあった書類が床へ滑り落ちた。
私の方が先に動いていた。
拾おうとして身を屈めた彼の腕を、思わず支える。布越しに触れた腕は、思っていたよりも熱かった。
戦場で剣を握ってきた人の腕だ。節が硬く、指先に古い傷がいくつも残っている。
「失礼しました」
彼はすぐに身を引こうとした。
けれど、その動きがまた傷に障ったのだろう。ほんの一瞬、彼の顔から笑みが消えた。
「動かないでください」
自分でも驚くほど強い声が出た。
カイルは目を瞬かせ、それから困ったように笑った。
「監査官殿に、こんな姿をお見せするつもりはなかったのですが」
「見せたくないものほど、表面に出るものです」
いつもの調子で返したつもりだった。けれど、声が少しだけ硬い。
彼の腕を離すべきだと分かっていた。分かっていたのに、すぐには離せなかった。
手のひらに残る熱が、やけにはっきりしていた。
カイル殿は私の手元を見て、それから静かに言った。
「ありがとうございます、セシリア様」
名前を呼ばれた。ただそれだけで、頬が熱くなった。
ロウベル監査官でも、伯爵令嬢でもない。ただ、セシリアと。
こんなことで動揺するほど、私は誰かに名前を呼ばれることに慣れていなかったのだと思う。
私は慌てて手を離し、落ちた書類を拾い上げた。
「……聴取を続けます」
「はい」
カイル殿はうなずいた。
その顔は穏やかだったが、額には薄く汗が浮いていた。
「聖女の奇跡が完全でないとは、分かっていた?」
長い間があった。
「……分かっていました。ただ、私の口からそれを言えば、聖女様を責めることになります。あの方は、王国中の期待を背負わされていましたから」
その言葉は、耳には入っていた。
けれど、私が見ていたのは、彼の傷と、書類だけだった。
「聖女様を責めたいわけではありません」と彼は続けた。
「ただ、治ったことになっている傷が痛むたびに、自分が何に感謝しているのか分からなくなるのです」
これは職務だ。そう自分に言い聞かせた。
「セシリア様」
また、彼が私の名を呼ぶ。少しだけ息が詰まる。
「もし真実を明らかにできる方がいるなら、それはあなたです」
カイル殿の目が、真っ直ぐ私を射貫く。
こんなふうに見つめられたことが、私にはほとんどなかった。
否定しなければならなかった。私はただの監査官だ。奇跡など持っていない。
だがその言葉は、喉に引っ掛かって止まった。
監査には慣れていても。誰かに必要とされることに、慣れていなかった。
手続きとしては、聖女ミヅキ本人にも聴取すべきだ。
それは十分、分かっている。
これが帳簿なら、片側の記録だけで終わることはない。証言なら、尚更相手方にも確認を取る。
監査官として、そんなことは当然のことだった。
それでも私は、そうしなかった。
私の中ではもう、記録とカイル殿の証言は一本の線になっていた。
私には、それが真実に見えていた。
◇
そして、その日はやってきた。
王宮の広間。豪奢なシャンデリアが輝き、王族や高位貴族、神官たちが一堂に会する式典。
聖女ミヅキの功績を称え、カイル殿への叙爵の準備段階として設けられた場であった。
正面に神官たちが並び、その中央に聖女ミヅキが立っている。淡い色のドレスに包まれた小柄な姿は、遠目には確かに「聖女」に見えた。彼女はどこか落ち着きがなく、しきりに周囲を気にしていた。
神官長の声が広間に響いた。
「異界より召喚されし聖女ミヅキ様の奇跡によって、英雄カイル殿は、その命を救われました。王国はここに、この聖なる業績を正式に——」
「お待ちください」
自分の声が広間に通ったとき、自分でも少し驚いた。
私は列を離れ、広間の中央へと進み出た。
ざわめきが広がる。監査局の制服を着た地味な令嬢の乱入に、貴族たちが不快げに眉をひそめる。
私は手にした書類を掲げ、告げた。
「王宮監査局、セシリア・ロウベルです。聖女ミヅキ様の治癒記録について、確認したい儀がございます」
神官長が顔色を変え、声を荒げた。
「無礼な! 神聖なる式典の最中であるぞ!」
「神聖であるからこそ、偽りがあってはなりません」
私は書類を広げ、証拠を一つ一つ突きつけた。
「まず、魔石の使用量について」
書類を一枚取り出す。
「カイル殿の治療に使われた魔石量は、通常の聖魔法による全身治癒の十倍近くに達しています。これは奇跡というより、魔石による物理的な補助処置に近い数字です」
私の言葉に、僅かにざわめきが起こった。
「次に、鎮痛薬の支給記録。完治報告の翌日から先週まで、継続して支給されています。全快した方に、なぜ鎮痛薬が必要なのか」
「神官医師による再診が完治後に三度。包帯と縫合糸の支給記録も残っています」
「そして——何より、術式記録が空欄です。聖女様が実際に行われた治癒術式の記録が、一行もありません」
広間が静まった。
「ミヅキ様」
私が聖女ミヅキに視線を向けると、彼女は青ざめ、震えていた。
「異界より召喚された聖女として、王国の庇護を受けてきました。治癒術式の基本構造を、今ここで説明していただけますか」
「私は……そんなの……違う、私はただ、祈ればいいって、そう言われて……」
「つまり、術式の意味も理解せず、ただ与えられた言葉に従って聖女を名乗っていたのですね」
誰かが息を呑んだ。
聖女の隣にいた若い神官が、半歩だけ後ろへ下がった。
ミヅキは何かを言おうとして口が動いた。だが声にならなかった。
その時だった。
カイル殿が、苦しげに膝をついたのだ。
「カイル殿!」
周囲が慌てて駆け寄る中、彼は右脇腹を押さえ、脂汗を浮かべていた。
その姿が、私の提示した証拠の何よりの裏付けとなった。傷は治っていなかったのだ。
英雄は、偽りの奇跡の犠牲者としてそこにいた。
神殿の神官たちは、手のひらを返すようにミヅキから距離を置いた。
「我らも欺かれていたのです」
神官長だった。
「まさか、召喚された聖女様が、これほどまでに無知であったとは。神殿としても、痛恨の極みでございます」
その言葉に、私はわずかに眉を寄せた。
早い。
あまりにも、切り離すのが早い。
けれど広間は、もう答えを欲しがっていた。
「偽りの聖女……?」
その言葉が、一度口にされた瞬間から。
「では、あの奇跡は何だったのだ」
「神殿は何をしていた?」
「しっ、今は聖女様の話だ」
「いや、もう聖女ではないだろう」
「我らが王国を欺いていたのか……?」
広間がざわめく。声が波のように重なっていく。
その中心に、ミヅキがいた。
彼女は何かを言おうとしていたが、その声が誰かの耳に届くことはなかった。
私も、聞こうとしなかった。
騒然とする広間の中、衛兵たちがミヅキを取り囲む。
私はその光景を冷ややかに見つめていた。
偽りは暴かれた。
その場にいた誰もが、そう考えていた。
私も、その一人だった。
◇
ミヅキが衛兵たちに連れられて広間を出た後、カイル殿が前へ進み出た。
まだ傷が痛むのだろう。歩き方には、僅かな不自然さがあった。
それでも彼はまっすぐ私の前まで来ると、深く片膝をついた。
ざわめきが、すっと引く。
「セシリア様」
それは、騎士が主君に忠誠を誓うような、あまりにも恭しい姿勢だった。
「あなたは、私を偽りの奇跡から救ってくださいました」
「私は……、私は、監査官として当然のことをしただけです」
私が戸惑いながら後ずさると、彼は静かに首を振った。
「いいえ。誰もが奇跡だと信じていました。私自身でさえ、信じなければならないと思っていた」
「……」
「けれど、あなただけが、私を……、私の痛みを見てくださいました」
彼の見上げる瞳が、まっすぐに私を射抜いた。
胸が、痛いほど鳴った。
帳簿と結婚した令嬢。可愛げのない女。そう笑われてきたことが、遠くでほどけていく。
私を見てくれている人がいる。
そう思ってしまった。
「セシリア様」
カイル様は真っすぐ私を見た。
「あなたこそ、私の聖女です」
一瞬、誰も声を出さなかった。
次の瞬間、あちこちで囁きが起きた。
「英雄様の、聖女……? 今、そう仰ったわよね」
「だが、聖女とは神殿が認めるものでは……」
「偽りを暴いた方、という意味だろう」
「いいえ。英雄様を救ったのなら、聖女と呼ぶにふさわしいわ」
「ロウベル嬢が、本物の……」
神官の一人が感慨深げに頷いている。ミヅキを切り捨てた同じ口で、今度は私を称えている。
「私は聖女などではありません」
声に出したつもりだった。だがカイルが微笑んで言った。
「それでも、私にはあなたが聖女に見えました」
彼が手を差し出した。
「どうか、これからも私のそばで、真実を見ていただけませんか」
否定するつもりだった。私はそんな柄ではないと、そう言うべきだった。
けれど、カイル様の大きく温かい手が私の指に触れた瞬間、そんな言葉はどこかへ行った。
誰かに選ばれることなど、もうないと思っていた。
だから、その手を振り払えなかった。
「……私でよろしければ」
私が小さく頷くと、彼は安堵したように私の手を強く握り返した。
周囲の声がさらに大きくなっていく。
その中で、私の心は、不思議なほど凪いでいた。
◇
広間の出口へ向かう衛兵たちに連れられながら、ミヅキがふと振り返った。
その視線が、私と重なる。
怒りでも、恨みでもなかった。
ただ、何も分からない子供のような顔をしていた。
「私は……誰に、何を聞けばよかったんですか」
その言葉に、彼女から目が離せなかった。
誰に聞けばよかった。
何を聞けばよかった。
術式のことだろうか。
この国の常識のことだろうか。
それとも、助けを求める相手のことだろうか。
考えかけた瞬間、カイル様の手が私を引いた。
カイル様と目が合う。
「行きましょう、セシリア様」
私は、ハッとして振り返る。
けれど、扉はもう閉じかけていた。
ミヅキの顔は、細くなっていく隙間の向こうで見えなくなった。
ミヅキの言葉の意味は、よく分からなかった。
いいえ。
分からない、ということにしたかったのかもしれない。
その時、拍手が起きた。
一人、また一人。
乾いた音が重なり、やがて大きな波になって広間を満たしていく。
「本物の聖女とは、こういう方を言うのでは……?」
「あの方が見抜いたのよ」
「真実を見抜いた、か」
かつて嘲笑の中に立っていた私を。
帳簿と結婚した令嬢だと囁かれていた私を。
今、誰もが見ている。
「セシリア様」
カイル様の声が、私を呼んだ。
振り向くと、彼は少し困ったように笑っていた。
「拍手を受けるのは、苦手ですか」
「……慣れていないだけです」
「では、私と一緒に、慣れていきましょう」
そう言って、彼は私の手をもう一度強く握った。
その手は温かく、強かった。
私は正しいことをした。
偽りの奇跡を暴き、傷ついた英雄を救った。
だから、これでいい。
そう思うことにした。
その日から、私は英雄様を救った聖女と呼ばれるようになった。
ただ、偽聖女の奇跡を監査しただけだったのに。
本作をお読みいただき、ありがとうございました。
本作の別視点短編として、
『聖女様と呼ばれた私には、奇跡の起こし方なんて分かりませんでした』
(https://ncode.syosetu.com/n3586mg/)を投稿しました。
一作目では「偽りの聖女」と呼ばれた少女の側から、同じ出来事を描いた物語です。
よろしければ、あわせて読んでいただけると嬉しいです。




