闇の章 中編⑤ 神を冒涜する魔性の獣、王子ドミニコ。あれ? あんなクソ野郎に尺取って、またも私の出番なしですか?
ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!
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「……まあ、フィリップス様ったら。どうして、そんな怖いお顔をされているの?」
正体がばれたにもかかわらず、ドミニコは悪びれもせず、乙女の演技を再開した。鉄面皮どころの騒ぎではなかった。まくりあげたウェディングドレスの裾を、ファサリとおろす。鈴振る澄んだ声に戻り、いやいやをするように首を振り後ずさりする。
「キス泥棒を怒ってらっしゃるの? でも、せめて、信じてください。私、誰にでもあんなことをする女じゃない。父母より与えられた躾で、令嬢としての分別はわきまえています。だから、顔から火が出るほど恥ずかしかった……。……。だけど、せめて、あなたの心の片隅にでも、私のことを留めていてほしかった……。私の初キスを捧げることで……」
せつなそうにぎゅっと胸をおさえる。
低い声をやめれば、どう見てもはかなく可憐な少女。だが、両手で覆った口端は、みるみるうちに三日月の悪魔の笑みの形につりあがり、そして、悪意にみちたドスのきいた低い嘲笑となってあふれでた。
「ははは!! 嘘だよ。キスなんぞ飽きるほどしている。生者にも死者にも!! だが、あのキスしたとき!! おまえの自己陶酔の口ぶりといったら!! じつに傑作だった。『あんたなら、もっといい相手が見つかる』だと? 俺が男か女かも気づかないあきめくらが、たいした人生の先輩風だ。まったく、盲目のマリー姫さまとお似合いのカップルだな。悲劇の主人公気取りの道化ほどみじめで滑稽なものはない。ヒペリカムを救う? 笑わせる。割れ鍋に綴じ蓋。闇のなか、こそこそ乳繰り合うのが関の山のドブネズミ夫婦だろうが」
「……ふざけやがって!! 外道のてめぇがマリーの名と想いを口にするな!! あいつが穢れる!! 許さねえ!! ぶっ殺すッ!!」
フィリップスは咆哮し、わき腹に刺さった小刀を引きぬこうとした。途中で引っかかって止まる。釣り針のように刃に凶悪な返しがついていたのだ。鍛えぬいた筋肉がかえって仇になった。
「押しても引いてもどうにもならぬだろう。ひとつ学習したな。バカほど窮地におちいってから醜くもがく。陸に釣り上げられてから、針を外そうと暴れる魚と同じだ。詰んでからのムダな努力ご苦労様だ。ふむ、前言撤回しよう。おまえたちにドブネズミはもったいない。魚なみの脳みそめ」
「……舐めるなッ!!」
かまわず周囲の肉ごと、ぶちぶちと引きちぎる。流血も麻痺しつつある体もかまわず襲いかかる。剛拳が殺人的な唸りをあげる。まさに手負いの獅子だ。だが、その遅れはドミニコにとっては、かわすに十分すぎる時間を与えた。いや、それだけではない。
「まあ、怖い狼さんが迫ってきましたわ。……まるで赤ずきんの狼のような大間抜けが」
フィリップスの拳がごうっとかすめ、ドミニコの金髪数本を引きちぎった。上半身をそらし、顔面への攻撃を鼻先でかわしたドミニコは、そのまま顎をあげてさらにのけぞり、たんっと両掌を床につけた。金髪がきらきら舞う中、ドミニコの片足がはねあがった。カウンター気味にはなたれた蹴りの弧の軌跡を、フィリップスが見切る。その瞬間、ドミニコの靴先からかしゅんっと音をたて仕込み刃が飛び出した。フィリップスの頬に赤く線が刻まれる。途端にがくんっと片膝をついてしまう。
「あいにく狼のおなかに詰めこむ石は、本日の茶会にご用意がございませんの。かわりに、麻痺毒のおかわりでおもてなしですわ。だいぶ体が重たくなったのではなくって? ほほほほほ」
ドミニコは少女の声で高笑いしながら滑るように後退した。
「さようなら、いいようになぶり殺されるいきがった狼さん。井戸での溺死はないから、だいぶ苦しみが長引きそう。可哀そうだから、これはせめてもの冥土への土産。愛しい年増のマリー姫との思い出なんか忘れ、あの世でのおかずにしてくださいな」
くるくる回り、ドレスのフリルの裾を大きく翻し、白い内腿とレースに彩られた下着をちら見せし、挑発を重ねることも忘れない。
「殺すッ!!」
だんっと壊れるほど床を踏み鳴らし、フィリップスは再び襲いかかる。今度は拳ではない。掌を開いている。天才アルフレド王子直伝の投げ技だ。これならフィリップスと互角以上の相手にも通用する。打撃が無効とみると即切り替えたのだ。頭に血が上っても、冷静に勝ち筋を手繰り寄せよせるフィリップスの真骨頂だ。
「また『殺す』ですかぁ? バカの一つ覚えのしつこい口説き文句だこと」
だが、信じられないことに、ぐるんっと空中で回転させられたのはフィリップスのほうだった。百戦錬磨の〝執事〟でさえ何が起きたかわからなかった。打ち合わせ済の殺陣で、自分から回ったようにしか見えない。
「ふった女に掴みかかるなんて、未練がましいですわ。そんな殿方に女性にキスする資格はなし。床へのキスがお似合いですわ」
ドミニコは投げキッスをした。そのまま、フィリップスはしこたま床に叩きつけられる。すぐに跳ね起きるが、そのときはもうドミニコは安全な距離を置いていた。
「……興がさめた。おまえたち、もう遊びはやめて始末していいぞ」
男の声に戻り、ぱちんっと指を鳴らすと背を向ける。黒山羊騎士団が、怒髪天をついてドミニコの後を追おうとするフィリップスの前にざあっと立ち塞がった。
「……くそったれ!! 大将!! 今、行きます!! ちっ、なんだ!? こいつら、急に強く……」
包囲網を突破しようとしていた〝バンダナ〟が、フィリップスの加勢に駆けつけようと奮戦するが、突然一匹の黒山羊さえも抜けなくなった。
「メメメッ!! メーッ!!」
勝ち誇るかのように雄叫びをあげ、どんどん圧力を強めてくる。
「くそっ!! 気持ち悪いキャラづくり貫きやがって!! うわ、こっちからも!?」
「メーッ!!」「メメーッ!!」
さらに片手斧を両手に振りかざし、もう二匹が攻撃に加わる。息もつかせぬ連携による猛攻。つなぎの遅滞がまったくない。まるで三身一体、いや、三面の貌、六本腕の怪物が暴れまわっているようだ。動体視力にすぐれた〝バンダナ〟でも防戦一方に追いこまれた。
「は、速っ……!? と、と、とと……」
受け止める〝バンダナ〟の剣の刃が、火花を散らし激しくしなる。今にも折れそうだ。不安と焦りで冷や汗が額に浮かびあがる。さらに死角をつき、投げ斧が頭めがけて飛んできた。
「……危なッ……ッのッ!!」
寸前でかろうじて撃ち落としたが、ねじった無理な動きだったので腕が痺れた。姿勢も大きく崩された。
「メーッン!!」
その機を黒山羊は見逃してくれなかった。続く大上段からの振り下ろし攻撃で柄を握っていられなくなり、剣がはじきとばされる。追撃の斧は必死にかわしたが、今度はそちらに注意がいきすぎ、足もとがおろそかになった。足払いをされ、尻餅をついてしまう。戦場では致命的だ。
「……メェェッッ」
視界に大きくなる黒山羊が仮面の奥で、嗜虐と侮蔑の笑みを浮べたのがはっきり見えた。
死を覚悟したが、横から〝執事〟の三段蹴りが閃き、迫る黒山羊どもを軽々と吹っ飛ばした。どんっ、どどどんっという鈍く重い蹴りの連続音は、戦場の砲撃の頼もしさだった。鎧を着ていようとただでは済むまい。〝バンダナ〟は称賛の口笛を吹いた。
「……さっすが。ありがとうございます」
「油断大敵……とあなただけを注意できませんね。まさか本気の黒山羊騎士団がこれほどまでとは。私も甘く見ていました。まちがいなく大国の一流騎士団レベルの強さ。……品性はそれ以上に最低ですが」
「「「メメーッ!?」」」
包囲する黒山羊たちが抗議の鳴き声をあげ、紳士らしい格好いいポーズをとる。
見つめる〝執事〟の横顔に余裕はなく、視線が厳しさを増す。壁まで吹き飛ばされた黒山羊三匹が、何事もなかったかのように、むくむくと平然と身を起こした。
「今の蹴り、まともに入ったはずですが……。私の靴には鉄芯が仕込んであり、その威力は戦槌並み。鎧ごと骨を砕きます。なのに奴らは鎧をつけていなかったのにあの耐久力。……薬物かなにかで強化されていると見るべきでしょう。そして、それより驚くべきは……」
〝執事〟はそのあとの言葉をのみこんだ。こちらは認めたくなかったからだ。
「あの大将がああも翻弄されるなんて……。悪い夢でも見てるみてぇだ……」
期せずしての〝バンダナ〟のつぶやきに、苦虫を噛み潰した表情で頷く。
ドミニコの運動能力と反射神経が異常すぎる。麻痺毒のハンデありとはいえ、あのフィリップスが十歳ほどの少年にいいようにされるなど、この目で見なければ冗談ごとと一笑に付したろう。間違いなく、黒山羊ども以上のバフがかかっている。それに。
〝どうにも得体が知れない。これは身体能力の上乗せだけでは説明できない〟
フィリップスの技は、人間をはるかに超えた速度と怪力のあのゴルゴナにも通用した。それをさらに返し技ではね返すなど、本家のアルフレド王子級でもないと出来ないはずだ。だが、あんな凄まじい人間が、世にそうそう存在するはずがない。
必ずからくりがある。フィリップスの「豪運」が空回りしているところからも、間違いなくドミニコには不気味な未知の何かがある。
天が味方しているとしか思えないフィリップスが、ここにきて失点続きだ。この知らぬ間に泥沼に引きこまれているような嫌な感じ……。あのしつこいまでのドミニコの煽りにもなにか意味があるとしたら。ぞわりと悪寒が〝執事〟の背筋を這い上る。
〝執事〟は若い頃、辺境の奥地の部落を渡り歩き、さまざまな不思議を体験した。呪術師が至近距離で対峙することが条件の呪いも見たことがある。奇妙な手順を踏んではじめて発動する呪いもだ。もし、ドミニコの隠し持つ謎の能力がその類だとしたら、自分達のこの急襲は、じつは一番の悪手で、むしろ誘導された可能性が高い。
「フィリップス様!! 撤退しましょう!! ドミニコと直接戦うのは即刻中止すべきです!! 罠、いえ、もっと危険な手札を隠している可能性があります!!」
その警告の叫びに、ドミニコがはじめて嫌そうな表情をちらりとのぞかせ、〝執事〟は自分の推測が的外れではないと悟った。
ならば、どんなに恨まれてもフィリップスの首に縄をかけ、ここから即時離脱する。冤罪で指名手配され大陸中のお尋ね者になってもかまわない。いわくつきのドミニコのゲームに律儀につきあう必要はないのだ。自分達にはブランシュ号という世界最速の帆船がある。それをフィリップスという傑物が率いれば、海の彼方の新天地でも生きていける。世界は広い。盤面で王手をかけられても、オランジュ商会ならば盤面の外に飛び出し、そこでやり直せるのだ。
だが、〝執事〟の覚悟はいい意味で裏切られた。フィリップスはそれまでの執念が嘘のように、ドミニコを黙殺し、くるりと踵を返すと教会の出口に向かって走り出したのだ。即行動で、疑問ひとつ口にしなかった。その変わり身の早さに、黒山羊騎士団たちも毒気を抜かれ、反応が遅れた。ドミニコを守るため、フィリップスの前方にほとんどが布陣していたので、完全に虚をつかれた。
〝執事〟は笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「驚きましたか。これこそが我らのあるじです」
傍若無人に見えるため忘れがちだが、フィリップスは烈火の気性をねじ曲げられるほど、無条件に仲間を信頼してくれているのだ。この絆、仕えてよかったと心から思う。ドミニコと黒山羊騎士団にはないものだ。
「ど、どういうことです」
話についていけず目を白黒させる〝バンダナ〟。
「詳しい話はあとです!! とにかく撤退への道を開く、それだけを考えてください!! 皆さんも手伝ってください!! 黒山羊騎士団は手強いですよ!! 野生の肉食獣を相手にするつもりでいなさい!!」
少し遅れて駆けつけてきた他のオランジュ商会の皆にも、〝執事〟の指示が飛ぶ。突然出くわした急展開に一瞬戸惑いながらも、黒山羊騎士団とじかにやり合うのは避け、投網や鉤つきの縄などでの戦いに、即座に切り替えてみせた。さすが千変万化の荒海にもまれ、切り抜けてきた猛者たちだった。
だが、そんな彼らにとっても、ドミニコの悪辣さは想像を絶するものだった。
「……投げ道具を使え」
ドミニコの指示に従い、黒山羊どもが懐から奇妙な形の手裏剣を取り出す。一部は完全に趣味に走ったのだろう。性能に疑問符がつきそうな冒涜的な形も数枚あった。
だが、フィリップスは疾走を止めない。逆に速度をあげ、ウサギのようにじぐざくに方向転換を繰り返す。足を止めれば余計にいい的になると熟知しているのだ。
「ははっ、あれだけ麻痺毒を受け、よくもそれだけ動けるものだ。たいした男だ。だが、それだけに先ほど『とどめ』をし損なったのは、大失態だったな。輝かしい経歴に傷がつくといけない。尻ぬぐいをしてやろう。感謝するがいい」
悪意がしたたるようなドミニコの声が投げかけられた。
「……てめぇ……!!」
足をとめ、歯軋りをするフィリップスを見て、ドミニコは手をうって爆笑した。
「勘のいいヤツは話が早くて好きだぞ。その期待を裏切ってはいけないな。おまえたち、よく狙え。逃げ回るのがうまい獅子ではない。床に転がって失神してそいる哀れな娘をだ。その娘はな。病気に苦しむ妹を救うため、俺の身代わりを買って出た。『おねえちゃん、行かないで』と泣いてすがる妹を、嗚咽をこらえて抱きしめていたっけな。『これからずっと一緒に暮らせるから。ちょっとだけ我慢してね』と笑顔で嘘をついてな。はは、もう生きて戻れないと覚悟のうえでだ。健気すぎて涙が出る。ご褒美だ。きらきら光る手裏剣の刃で、全身おめかしさせてやれ。あの世で死者どもの立派な花嫁になれるようにな」
台詞のときはご丁寧に少女の声真似をして嘲る。姉妹の想いあう絆を、ドミニコは笑顔で踏みにじった。
「ドミニコォォッ!!」
「フィリップス様!! いけない!!」
フィリップスの怒号、〝執事〟の悲鳴、そして、ドミニコの嘲笑が重なり、そのうえをさらに、無数の飛び道具の銀閃が覆い尽くした。鈍い絶望的な音が間断なく響き、〝執事〟は床から膝に崩れ落ちた。
「なんでだ!! なんで、こんなことをした!!」
床を叩き〝執事〟が絶叫する。
「あんたは、俺達の希望なんだぞ!! それなのに!! なんで、なんで、こんなところで……!!」
「すまねぇな。期待を裏切っちまって」
フィリップスは苦笑した。その頬を、額を血が伝う。ぽたっぽたっと床に広がる。
見ず知らずの少女を凶刃からかばうため、フィリップスは広い背中すべてを使って覆いかぶさっていた。足りないと判断した箇所は、太い両腕を広げて補った。避けられる刃も、はじける刃も、とばっちりで少女を傷つけないため、あえて受けた。その鍛えられた身体は、飛び道具でハリネズミのようになったにもかかわらず、にっと会心の笑みを見せていた。少女が無傷と確信したからだ。
「けどな。マリーなら、俺が惚れた女なら、きっと同じことをした。俺は、あいつにだけは、いつも堂々と胸をはれる男でありてぇんだ」
フィリップスはそう笑い飛ばすと、失神したままの少女を、宝物のようにそっと抱きあげた。「受け取れ」と言い、ふわっと器用に投げる。はっと我に返った〝執事〟が跳躍し、空中でキャッチした。
フィリップスは力を使い果たし、倒れるように片膝をついた。だが、残った命の炎を燃やし、もう一度顔をあげてオランジュ商会の皆を見つめた。
「……じゃあな。おまえたち。今まで勝手な俺によくついてきてくれた。ありがとう。……勝手ついでだ。俺の愛する妻と、生まれてくる子供。命より大切な宝物ふたつを預ける。どうか守ってやってくれ。頼む」
そう言って、オランジュ商会の皆に頭をさげた。
「「「……大将!!!」」」
号泣しながら、オランジュ商会の全員が駆けつけようとした。
「撤退ッ!!」
〝執事〟の裂ぱくの叫びが教会中にびりびりと響き、その足をとめた。
だが、それでも何人かは従わず、救援に赴こうとした。その前に〝執事〟が立ち塞がる。
「どうしても行きたいなら、私を倒してから行きなさい。この撤退はフィリップス様本人のご意志!! その想いを踏みにじる者は、たとえ誰であろうと容赦はしない!!」
「しかし……!!」
涙ながらに抗議する彼らを黙らせたのは、〝執事〟の言葉ではなかった。他ならぬ〝執事〟の頬をこそ、とめどなく伝う、拭うことも出来ないほどの涙。そして手の皮が破れるほど握りしめた拳のあいだから落ちる鮮血だった。
「……〝執事〟さん……!!」
胸をうたれた彼らもまた拳を握りしめて俯いた。もはや反対するものはいなかった。
「おや、海賊くずれ風情が、ずいぶん聞き分けがいい良い子ちゃんじゃないか。似合わんなあ。主従ともに地獄までと、感情まるだしでいきがってこそ、蛮族のおまえらのマナーだろうが。いや、それとも本音はびびり散らしてるだけか? なあ、主の仇も取れない玉ぬけども」
ドミニコが挑発するが、オランジュ商会の誰ものらなかった。怨敵のドミニコを睨みつけ、いつか復讐することを固く心に誓い、フィリップスを置き去りにし、歯を食いしばって、ひとりまたひとりと退場していく。彼らにとっては死ぬより辛いことだった。フィリップスが誇らしげな笑みでそれを見送る。
そして、全員が安全圏に避難するまで、〝執事〟がただひとり殿を務めた。
「メエエエエッ!! メッ……!?」
真っ先に襲いかかった黒山羊の首が、ごきりと反対側を向いた。血の泡を口吻からまき散らし、どうと倒れ伏す。薄笑いして見下ろす〝執事〟の目は、仲間達には決して見せない冷酷さをたたえていた。
「……さすがに首が折れては生きていけないようですね。感謝しますよ。私の鬱憤晴らしにつきあってもらって。だが、この怒り、二人や三人殺したぐらいでは、とても晴れそうにない」
流れるような動きで、近くの黒山羊二匹を巻きこむ。ひゅるっと手を首に巻きつけると、あっという間に頸骨を粉砕された死体が二体できあがった。フィリップスが咆哮する獅子なら、〝執事〟は静かに獲物をしとめる大蛇だった。音もない殺戮劇がしばらく続いた。黒山羊ども六匹が屠られた。だが、彼らもただものではない。散り際の相討ちで、少しづつ〝執事〟にダメージを与えた。仲間を犠牲に目が慣れ、技も見切りだす。そうなると多勢に無勢。すぐに攻守は逆転した。〝執事〟の礼服はもはやずたぼろで、いたるところに血がにじんでいた。これ以上とどまることは〝執事〟にとっても死を意味した。
フィリップスが目線で、ここから離れるようにうながす。もうとっくにオランジュ商会は退却し終わっている。仲間にはああ突き放した言い方をしながら、想い分かちがたく、最後までフィリップスのそばから立ち去れなかったのは〝執事〟本人だった。彼は血の涙と慟哭を押し殺し、フィリップスに向けて恭しく礼をした。
「……さよならは言いませんよ。あなたほどの男が、こんなところで死ぬはずがない。再会したとき、しこたま説教させていただきます」
〝執事〟は自身に言い聞かせるように口にした。だが、その可能性の低さを誰よりも知っていた。後ろ髪ひかれる気持ちを振り切り、くるりと背を向け、姿を消す。
フィリップスはもう答えることもできなかったが、笑顔で片手をあげて、〝執事〟に別れを告げた。
そして、その手さえも、いっせいに刃物をふりかざして襲いかかる黒山羊どもに、すぐ飲み込まれた。肉に刃を突き立てる音が連続し、フィリップスに蟻山のようにたかった黒山羊どもの足元に、血だまりが広がっていく。
「……ちっ、思ったより楽しめなかった。期待はずれだったな。この穴埋めはヤツの妻にしてもらうか。おまえたち、フィリップスを切り刻むのはいいが、顔は残しておけよ。切り取ってマリー姫を釣る餌にするからな。弄んで楽しむのはあっちにしておけ」
舌打ちし毒づいたドミニコだが、黒山羊どもは誰ひとり答えない。フィリップスに折り重なったまま微動だにしなかった。不審げに眉をしかめたドミニコだが、はっと歓喜の表情を浮かべる。
轟音が教会内に走り抜けた。突然、海中火山の爆発に突き上げられたかのように、黒山羊たちの群れが、ぶわっと膨らみ、宙に何人かが舞いあげられる。返り血とおのれの血で全身を紅に染めたフィリップスが、右の拳を突きあげて立っていた。その拳は、痙攣する一匹の黒山羊を海老反りに持ちあげ、深くその背中にめりこんでいた。
「……胸糞すぎる台詞、地獄の鬼どもも呆れ果て、少しだけならこの世に舞い戻っていいって許可してく
れたぜ。……さて、ひとりで地獄に帰るのは寂しいんでな。ドミニコ、てめぇも道連れだ。俺のラストダンスの相手になれ」
ごきごきっと脊椎を粉砕され、血反吐をはく黒山羊を、事もなげに放り捨てると、フィリップスはドミニコに向かって歩き出した。死からよみがえったフィリップスは、麻痺毒の影響を超越していた。その覇気は、万全のとき以上。もはやドミニコを守れる壁はどこにもない。
ドミニコは頬を上気させ、恍惚の吐息をもらした。すっとドレスを持ち上げ、優雅なカーテシーを決める。
「ときめく口説き文句だ。見直したぞ。今のおまえとなら結婚してもいい気分だ。地獄での新婚生活、悪くない。その誘い、謹んでお受けしよう」
「……ああ、受け取れ。てめぇの全身の骨でもってな……!!」
フィリップスは両腕を伸ばし、ドミニコの細い腰を腕ごと抱きすくめた。長いウェディングドレスの裾が浮きあがるほど床高く持ち上げる。フィリップスの筋肉がぐうっと隆起した。みしみしとドミニコを締めつける。今のフィリップスは生来の大力に加え、人間としてのリミッターがはずれている。たとえ熊だろうとたちまち内臓を吐いてくたばるほどの桁外れの力だった。そのうえフィリップスとドミニコでは文字通り大人と子供の体格差。頭突きもできない。こうも密着し、足まで浮かされては、どんな武術の返し技も封じられる。たとえ天才アルフレド王子でもこの状態からの脱出は不可能だ。それなのに、信じられないことが起きた。
「……おい、いきなり立ったまま、ことに及ぼうとは、初夜の花嫁への配慮に欠けるんじゃないか。まずは優しく床に組み敷いてからだろう?」
胸板に顔をうずめたドミニコが嘲りをささやく。その瞬間、フィリップスの身体がまたも空中で回転した。凄まじい勢いで床に叩きつけられる。
「なんだ、待ちきれず今度は床にダイブか。もういい年なんだ。がっつかず慎みをもったらどうだ。それとも、よほどマリーの身体に飽き飽きしていたのか?」
ドミニコが悠然と見下ろし、金髪を耳にかきあげて嘲笑する。フィリップスは立ちあがるのも忘れ、呆然と床に転がっていた。今のはなんだ。力でも、技でもない。説明できず、ただただあまりに異質。おそらくドミニコには自分のどんな攻撃も通用しないと直感した。
〝……〝執事〟の忠告どおりだったな。年寄りの声にはよく耳を傾けろってか……〟
フィリップスはそう苦笑を零した。〝執事〟がこの場に居合わせたら憤慨したろう。彼は実はそこまでの齢ではない。老成した雰囲気のせいで、年齢以上に思われがちなだけだ。〝執事〟のひそかな悩みである。あまりに常識外なものに遭遇し、打ちのめされたとき、人はずいぶんと場違いな事をつらつら考えるものだな。これは現実逃避というヤツか。出血多量の朦朧とした頭で、ぼんやりそう思ったフィリップスの視界の端に、枯れ木のようなものが映った。
「……!!」
ピントがあい、急に目の前がくっきり鮮明になる。
それは騒ぎのなか、無惨に打ち捨てられた司祭のミイラだった。長い間、この教会とともに地域の人々を守り続けていたその手。生前は教会を綺麗にたもつ水仕事で常にあかぎれ、無数の子供たちの頭を優しく撫で、祝福してきた。信徒たちを導き、慕われてきた手だ。その人差し指が、まるで最後に残された希望の灯を教えるかのように、壁の一点を示していた。
そこには亀裂があった。建物の経年劣化に今の戦いの衝撃が加わったため、ヒビが増殖し、蜘蛛の巣のように、あちこちにその模様を伸ばしていた。天井近くにまで達しているものまであった。
天啓が稲妻となってフィリップスの全身を貫き、萎えかけた勇気にまた炎をともした。手足を奮い立たせ、再び立ちあがったフィリップスをドミニコはせせら笑う。
「その不死身、まるでゾンビだな。何度ぶちのめされても、勝てないと理解できぬらしい。蛇やトカゲでももう少し理知的だぞ。脳みそが腐っているのか。それとも気合いや根性でなんとかなると、前時代的な夢想で、頭が幸せ色に染まっているのかな」
ドミニコの侮蔑に、フィリップスは静かな声で応じた。
「……ドミニコ、俺には正直、おまえを倒す手段が思いつかん。いや、もしかしたら、人間ではおまえを倒せんのかもしれん。だから、神様にすべてを託すことにした」
ドミニコはいつものように嘲りを返さなかった。眉をしかめ、不思議そうに首を傾げた。フィリップスの言わんとすることが、まったく理解できなかったからだ。
フィリップスは鋭く呼気を鳴らし、一瞬で爆発させるべく全身に力をためこむが、視線も拳も、ドミニコからあさっての方向に向けられていた。
「頼むぜ!! 司祭さん!! 不信心でろくでなしの俺だが、妻は人への愛に尽くした最高の女だ!! あいつを守るため、俺の命と引き換えで、あんたの祈りの力を貸してくれ!! この悪魔を倒すために!!」
血を吐くような絶叫とともにフィリップスは、渾身の力をこめ、壁を殴りつけた。ずしんっと建物全体が揺れた。ドミニコは驚きに目を見開いた。びしびしと不気味に吠えながら、壁に天井に亀裂が走っていく。地震でもないのに身震いするように教会全体が揺らぎだす。そのたびに漆喰や瓦礫が雨となってざあっと降りそそいだ。
「……ざまあみろ、ドミニコめ。……神様なんて……いないと……安心してたか? ちゃんと見守ってんだよ……俺達のそばで……たっぷり、味わいやがれ……」
フィリップスは力を使い果たして倒れた。だが、その頬には勝利を確信した笑みが浮かんでいた。
ばきばきと肝の冷える音が間断なく響く。骨組みが次々に折れているのだ。大きく剥がれた壁の一部が、轟音とともに倒れ伏し、噴煙をまき散らす。もはや教会が倒壊しようとしているのは明らかだった。風雪による老朽はもちろんあったろう。いつかは倒壊もしたろう。だが、今、この瞬間。フィリップスの一撃がトリガーになる確率など、天文学的なほど低かった。そしていかにフィリップスといえど、殴打で建物全体を壊すなどありえない。手直しすればすぐに利用できそうなほど教会は形を保っていた。これはまるで教会の建物そのものが正義の意志をもち、ドミニコを討とうとしているかのようだった。
すべてが崩落していくなか、ドミニコは祭壇の上に立ち、両手を広げていた。
「神か!! はははっ!! 相手にとって不足なし!! 有史以来、もっとも多くの人間の心を惑わし、弄ぶ、処女狂いの大色魔さまではないか!! 奇跡だと? 悪くない!!」
人類に大災禍をもたらす悪魔は、純潔と幸福の象徴である無垢の純白のウェディングドレスをまとい、狂ったようにひとり哄笑し、神を冒涜した。
「だが、手ぬるいぞ。しみったれめが。もう少し大盤振る舞いし、ここで俺の息の音を止めてみろ。俺はこれから何万人、何十万人もの命を踏み潰すぞ。どうした、神よ。おまえの人類への愛が試されているぞ。さあ、雷でも、洪水でも、嵐でも大歓迎だ。今ずく俺を殺してみせろ!! はははは!! できないなら、いつかおまえの喉笛を噛み千切りに行く。いつまでも呑気な傍観者でいられると思うなよ」
ドミニコの笑い声は、教会の屋根が完全に崩壊し、壁と床を押し潰すまで、終わらぬ悪夢のように鳴りやむことはなかった。
【おまけの蛇足】
黒山羊たち「メメメメメ。メメメメー? (※訳 ドミニコさま、女装はいいですが、下着まで女性ものに換える意味は?)」
ドミニコ「おい、舞台裏では普通に話せ。聞きとりづらくてかなわん。いいか、獅子はウサギを狩るにも全力を尽くす。俺は煽り芸に命をかけているんだ。どんな状態からも煽りにつなげてみせる。備えあれば憂いなし。だからこそのレースつきの純白な女性下着……!! ……装着ッ!!」
黒山羊たち「メメメメメッ (※訳 うそだあ。絶対ただの趣味だよな)」
「メメメメー(※訳 変態だ。変態王子がいる)」
………。……。フィリップスとの決闘シーン。
ドミニコ「…せめてもの冥土への土産。あの世でのおかずにしてくださいな(下着ちら見せ)」
黒山羊たち「メメメメメ!? (訳 本当に役に立っちゃったよ!? 変態だけど、すげえな、この人!!)」
お読みいただきありがとうございました!!
とにかく書かなきゃ、勘も熱も外連味も戻らないと、ちょっぴりやけくそ気味にやってます。展開的には中途半端ですが、一区切りついてから投稿と思ってると、どうもそれを理由に筆不精になっていくので……。根がナマケモノゆえに。よろしかったら、今しばしおつきあいのほどをお願いいたします。




