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闇の章、中編④ 廃教会の花嫁 ~ドミニコ王子と黒山羊たち~

ブクマ、評価、感想、レビュー、お読みいただいている皆様、ありがとうございます!!

英訳版コミックス Vol. 1~Vol. 4が【The Villainess Who Has Been Killed 108 Times: She Remembers Everything!】のタイトルで発売中です!! オリジナルとの擬音の違いがおもしろいです!! 英語の擬音をイラストとかで表現したい方の参考になるかもです。


【コミカライズ「108回殺された悪役令嬢」】全4巻発売中!!どうぞよろしくお願いします!!


KADOKAWAさまのFLОSコミックさまです!!  作画の鳥生さまへの激励も是非!! 合言葉はトリノスカルテ!! http://torinos12.web.fc2.com/


原作小説の【108回殺された悪役令嬢 BABY編、上下巻】はKADOKAWAエンターブレイン様より発売中!! 小説の内容はともかく装丁と挿絵が素晴らしい(笑)


漫画のほうは、電撃大王さま、カドコミ(コミックウォーカー)様、ニコニコ静画様、ピクシブ様やピッコマ様、LINEマンガ様等で読める無料回もあったりします。他にもあったら教えてください。まだ残ってるよね? 残っててほしいものです。ありがたや、ありがたや。どうぞ、お試し読みのほどを。他に公開してくださってるサイトがあればぜひぜひお教えください。ニコ静のほうでは、鳥生さまの前作「こいとうたたね」も少し読めます。もろもろ応援よろしくです!!

〝ロマリアの(ほむら)〟の爆発から数刻が過ぎた。


森を染めた猛き炎も、嘘のようにおさまり、爆心地にも夜の静寂が戻ってきた。炭化してねじれた樹々が燻るその中心部の地面は、大きくえぐれ、まるでクレーターのようになっていた。〝賭博師〟も馬も肉片ひとつ残さず蒸発してしまった。


穴の底の地面は、ところどころうねの皺が寄り、ゆるやかに蠢いている。その皺の下からは熾火のような輝きが漏れ出て、雨がはじけるような破裂音をたてていた。超高熱で溶けた地面が、いまも黒い皮一枚はりつけたその下で、まっかに煮えたぎっているのだ。


もし足を踏み入れようものなら、足首まで沈み込み、身体が水蒸気をぼんっとあげたあと、たちまち火を噴いて燃えあがるだろう。


生き物の生存を許さぬ灼熱地獄の釜の底で、しかし、人の世の常識を嘲笑うように、優雅に動く白い人影があった。


「うふふ、残念ねえ。おめでたい勘違いをさせたかしら。私は〝ロマリアの焔〟で倒されるとは一言も言ってないわ。人間だって、手にもったコップの水をうっかり零しかけたら慌てるでしょう。べつに身体が傷つくわけでもないのに。私にとって〝ロマリアの焔〟とはその程度のものよ」


うそぶく聖女は無傷。身体はもとより服にさえ焦げ一つない。〝ロマリアの焔〟の爆発をすべて防ぎきった。


その方法はあきれるほど単純だった。熱や衝撃を殴って退けたのだ。正確には拳圧や空気の壁、気流の渦などを巧みに利用したが、聖女の感覚的には、連続して殴りつけただけだ。その数、わずか4発。


〝賭博師〟の人生をこめた大逆転劇を、しかし、さらに力でひっくり返す大理不尽。あまりに反則すぎる規格外だった。


爆発で発生した上昇気流に巻きあげられていたハンカチーフが、ゆっくり舞い降りてくる。マリー姫からの心づくしは奇跡的にほとんど無傷だった。


まるで〝賭博師〟の魂がそれだけは守ろうとしたかのように。夜目にも悲しいほど鮮やかな落下を、聖女は宙で掴みとり、その匂いを嗅ぎ、にんまり嗤った。


「ふふ、懐かしいにおい。そう……マリー姫ちゃんからの贈り物なのね。犬死の証拠として、あの子の鼻先に突きつけてあげようかしら。どんな顔をするかとっても楽しみ」


嗜虐の期待に聖女は口元を歪ませる。マリー姫を妹のように可愛がった面影はすでにそこにはない。


「マリー姫ちゃんも今頃、未来が何故急変したかわからず、涙目で仔犬のように震えてるでしょう。ふふっ、予知や占いは、運命の流れで未来を読む。でも、私の力は、例えるなら大渦のようなもの。割って入るだけで、ささやかな人の運命の流れなど簡単に狂ってしまうの。教えてあげてもいいけど、きっと絶望して心が折れてしまうわね。つまらないから、やっぱりやめておきましょう」


これがマリ―姫の予知が覆された原因だった。まさに動く災害だ。


歩き出しかけた聖女は、ふと足を止め、はてと遠くに何かを嗅ぎ取ったかのように小首を傾げた。やがて、おかしくてたまらないというふうに笑い声をたてた。


「あはははっ、なるほどねえ。お手紙配達人はもう一人いたのね。そして、〝ロマリアの焔〟は自爆技だけではなく狼煙(のろし)でもあった。自分が追手を引きつけておく、と知らせるための……。少しだけ見直したわ。もう一枚奥の手を隠し持っていたなんて」


聖女の恐るべきは度外れの身体能力だけではない。魔法じみた超感覚もだ。人が百の事象のパーツから物事全体を推測するところを、一や二のパーツだけであっさり見抜いてしまうのだ。


〝ロマリアの焔〟の輝きは、夜間なら遠くからでも観測できる。オランジュ商会随一の目を誇る〝バンダナ〟なら、きっとそれを見逃さないだろうと、〝賭博師〟は事前に後事を託してあった。


「でも、奇術はネタがばれたらおしまい。残ったもうひとりもすぐに狩ってあげる。あの世で再会し、自分達の無力さを、みじめに慰め合いなさいな」


超感覚で〝バンダナ〟の居場所を探り当て、聖女は残虐な笑みを浮べた。聖女の足なら、馬の速度にも余裕で追いつく。ひとの懸命な足掻きを嘲笑い、ことごとく踏み潰す怪物。


だが、追撃の態勢に移ろうとした聖女は、不意に顔をしかめ、走りだすのをやめた。服の裾の一部がかすかに焦げていることに気づいたからだ。かわしきれずかすめた〝ロマリアの焔〟の高熱があったのだ。


〝賭博師〟が執念でむくいた一矢。それは聖女本体にはダメージ皆無の、悲しいほどわずかな一矢だった。だが、奇跡は起きた。美意識の強い聖女は、たとえすぐに殺してしまう相手にでも、汚れた服をさらすなど到底我慢できなかった。


「……興が削がれたわ。あとはドミニコの坊やが勝手にやればいい」


冷たく言い捨てると、ぷいと踵を返す。気まぐれな聖女は、次の瞬間には、追跡のことなどすっかり忘れていた。


「さあ、次は何をして遊ぼうかしら。まずは新しい服をつくらなきゃ。どんな色とデザインがいいかしら」


残酷な童女のように無邪気に笑い、夜の底を軽やかに歩く。その白い後ろ姿は瞬く間に闇にのまれて消えた。


◇◇◇◇◇


そして、聖女の追撃を免れた〝バンダナ〟は、〝賭博師〟の望み通り、彼の命をかけた知らせを受取った。その死を無駄にしまいとあふれる涙をのみこみ、マリー姫からの手紙を懐に、ついにブランシュ号が到着する予定の港街にたどりついた。だが、いつものどかなはずの街は深夜にもかかわらず、異様に緊迫した雰囲気が張りつめていた。胸騒ぎを憶えつつ、オランジュ商会が間借りしている建物に急ぎ向かおうとしたとき、


「いけません。あの建物はすでに取り囲まれています」


強く腕をひかれ、街角の空き家の暗がりに引きずりこまれた。叫びそうになったが、見慣れた整えた白い口髭と、びしっと固めた白髪、燕尾服を寸分の隙もなく着こなした痩身に、ほっと胸を撫でおろす。肩にのせた灰色の小さなミミズクが、羽角を耳のように揺らし、オレンジの丸い目を見開き、よっ久しぶりというふうに首をくるくる回して挨拶してきた。


そこにいたのは〝執事〟とあだ名されるオランジュ商会のナンバースリーだ。


どうかお静かに、と唇に指をあて、声を殺して警告してきた。オランジュ商会への途中参加メンバーということもあり、航海長の下の立場に甘んじているが、戦闘力でいえば大将のフィリップスに次ぐ頼れる男だ。老練な執事そのものといった口調や態度からは想像つかないほど、その人生は血と暗黒に染まっており、裏社会の顔役として、かつてオランジュ商会の初期メンバーたちと死闘を繰り広げた経歴の持ち主だ。いつも人あたりが良くにこやかだが、過去を知る人間たちは、あの笑顔に騙されるなと、若干引いた表情でよく頷き合っている。


「ところで、どうして、あなたがここに。奥様のいる屋敷を守っていたのでは」


「その奥様から、大将にあてた緊急の手紙を預かりまして」


「手紙を見せてもらえますか。無断で開封したことは、フィリップス様にあとでこちらから詫びます」


強くうながされた〝バンダナ〟は少し躊躇ったのち、〝執事〟に手紙を差し出した。自分が不在で緊急事態が起きたときは、〝執事〟に従え、とのフィリップスの言葉を思い出したのだ。


手紙を開いて読んだ〝執事〟の顔がみるみる険しくなる。


「これは……容易ならぬことです。よくぞ無事にここまでたどりつけましたね」


「俺だけでは無理でした。でも、あいつが命をかけて……」


声をしぼりだす〝バンダナ〟に〝執事〟は訝し気に何があったか尋ねた。


「……そうですか。〝賭博師〟が……。惜しい漢を亡くしました」


〝バンダナ〟が手短に事情を説明すると、〝執事〟は深いため息をついた。


「彼が〝ロマリアの焔〟を使ったとするなら、相手はおそらくあの元聖女。戦慄すべき相手です。相討ち覚悟の足止めしか術がなかったはず。元聖女があなたを追ってこなかったということは、彼は立派に役割を果たしたということ。ならば、泣いていないで友を誇りなさい」


友を思い出して嗚咽がこみあげてくる〝バンダナ〟。


その背中を叩いて執事は慰めた。


だが、〝バンダナ〟からは見えないようにしているその眼差しは厳しい。


あの聖女は人外すぎる。たとえ〝ロマリアの焔〟が直撃したとしても、殺すどころか手傷さえもほぼ負うまい。そう見抜いたが、友の死に嘆く〝バンダナ〟の前で口にするのはさすがに憚られた。


だが、追ってこないということは、少なくとも聖女に警戒心を植えつけることには成功したということ。もし聖女がそのまま追いかけてきていたら、オランジュ商会は間違いなく壊滅に追いこまれていた。〝執事〟は亡き〝賭博師〟の魂に黙祷を捧げた。


〝あなたは愛に殉じた、そのことだけがわずかな慰めか……〟


〝執事〟も〝賭博師〟のマリー姫への秘めた想いに気づいていた数少ないひとりだった。


〝よくやってのけました。不運な貴方が、必死に手繰り寄せたこの貴重な時間。貴方の兄貴分として、必ず生かしてみせます。だから、義弟よ。ここはまかせて安心して眠りなさい〟


兄貴、兄貴としつこくつきまとい閉口させてきた弟分の在りし日を、まぶたの裏に浮かべ、〝執事〟はおのれの魂に固く誓った。


肩にとまったミミズクが頬ずりをしてくる。


〝慰めてくれるのですか。ありがとう〟


だが、いまは涙は流さない。泣くのは事態が解決したあとだ。そしていつか復讐を果たす。たとえどんな敵だろうと、仲間の死には死をもって報いてもらう。彼は執事の皮をかぶっているが、根にはいまだ裏社会の血の掟が息づいていた。


「〝賭博師〟をもっと悼んでいたいところですが、いまは動かねば。こちらも大変な事態になっています。彼のつくってくれた時間を無駄にするわけにはいきません。聖女が出てこないなら勝ち目が出てきました」


だから、今は怒りをのみこみ冷静にならねばならない。そう自分に言い聞かせるように呟く〝執事〟。その凄愴な表情に、〝バンダナ〟もただならぬものを感じ息をのんだ。


「何が起きたんです……」


おそるおそる問いかける。


〝執事〟はその場では答えなかった。手ぶりでついてくるように告げると、見張りの死角を縫って歩きだす。ゆらゆらとした痩身はまるで陽炎のようで、うっかりすると夜の闇に見失ってしまう。気配と足音を消しているのだ。なのにおそろしく足が速い。地面を滑っているようだ。〝バンダナ〟は質問をあきらめ、足音を立てないよう注意しながら懸命にあとを追いかけた。港街の郊外に出て、やがて家の灯もまばらになり、岬からの海風が吹き寄せる草原まで来て、ようやく〝執事〟が振り向き、口を開いた。


「……ここまで来れば追手もいないでしょう。フィリップス様が、チューベロッサ王国に指名手配されました。罪状は……護衛していた船団を裏切り、強盗をしたうえ、皆殺しにしたこと」


〝執事〟は簡潔に、感情をなるたけ抑えた声で言った。


「はあ!? 強盗に皆殺し!? あの大将がそんなことするわけが……!!」


〝バンダナ〟は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。正々堂々を好むフィリップスにもっとも似つかわしくない罪状だった。


「しっ、いちおうお静かに」


と〝執事〟に鋭く注意され、あわてて口を押さえる。


「もちろん嵌められたことは誰もが百も承知です。ですが、この一件、裏にひそみ絵を描いているのは、チューベロッサのドミニコ王子です。マリー姫様のお手紙を見て、疑いは確信に変わりました。とうてい幼児とは思えぬ悪逆非道さと狡猾さをあわせもつ難敵。引きずり出して冤罪を晴らすのは容易ではありません」


岬の突端に向かって歩きながら〝執事〟は口にする。その背を追いながら〝バンダナ〟は頭を抱えるようにして呻いた。


「あ、あの悪魔王子が元凶ですか。そりゃあ厄介だ。いつかは大将とぶつかるとは思ってたけど……」


ドミニコ王子……少女と見まがうその美貌は、チューベロッサの天使の笑みと称えられている。美少年好きが多い聖教会上層部の受けもいい。だが、裏のおぞましい顔は、事情通の一部のあいだでは有名だ。ヒペリカムの民を苛政で苦しめる元凶であり、ドミニコが占領政策に関わって以降、ヒペリカムの人口の三分の一が死亡したと言われている。


天使の顔をもつ小さな大怪物。


ヒペリカムの民救済を願うマリー姫を妻にもつフィリップスにとり、不倶戴天の敵といってもいい。


それにチューベロッサ側は面子の問題で完全に情報統制して伏せているが、フィリップスは国王を気絶するほど殴打した過去がある。


「もしかしてドミニコ王子は、あのときの父の仇を討とうと……」


「あの王子にそんな人間らしい殊勝さは欠片もありません。あの化物を人と思っては大火傷しますよ」


と〝執事〟はぴしゃりとはねのけた。嫌悪感でつい口調がきつくなる。


〝執事〟はドミニコ王子こそがフィリップスの最大の仮想敵になると思い定めていた。かつての裏社会の伝手を駆使し、王子の弱点をつかもうとひそかに内偵していた。だから、誰よりもドミニコ王子の実態に詳しい。拷問をこよなく愛し、いたぶり殺した政敵は数知れず。人の心と誇りを壊す行為に至福を感じる異常者だ。為政者の怜悧さと冷酷さ、傲慢さも兼ね備えているから始末に悪い。


「ヒペリカムという地には豚がいくらでもわいて出る。年老いた豚、産まれたばかりの豚、雌豚、雄豚、よりどりみどりだ。狩って良し。食い散らかして良し。あの悲鳴はやみつきになる。最高のエンターティメントだ。よければおまえも体験してみるか?」


と王子はうそぶき楽しそうに笑ったという。


誘われた貴族令嬢は


「せっかくですが、血なまぐさいのは私はちょっと……」


と顔を引き攣らせていたという。その貴族令嬢は気づかなかったが、すんでのところで命拾いした。

王子の口にした豚とは人のことだ。そして体験というのは、「豚としての体験」のこと。もし王子の美貌につられて誘いにのっていたら……。


王子は人としての倫理観が完全に壊れている。そして同じ嗜好をもつ子飼いの黒山羊騎士団……。日夜おこなわれる悪魔の所業の詳細は、マリー姫の耳にはとても入れられない代物だった。


あんな王子がもし大陸を制覇すれば、この世は地獄に変わるだろう。台頭しつつある他の四王子も極悪人だ。だが、それでも引き起こすであろう最悪の事態は人災の範囲内。けれどドミニコ王子だけは、〝執事〟をもってしても何を望んでいるか、どれだけの災いをもたらすか、まるで読めない。単なる快楽殺人者ならどれだけよかったか。あれはもっと得体が知れない。まるで世界の破滅そのものを望んでいるような……。


「そ、そこまでドミニコ王子はクソ野郎なんですか。じゃあ、一刻も早く大将に知らせなきゃ……」


聞かされた予想以上の王子の危険度に〝バンダナ〟は血相を変え、焦った呻きをあげた。


「けど、俺は〝賭博師〟みたいに伝書鳩なんか持ってないし、どうしたら……」


意気消沈し途方に暮れる〝バンダナ〟に、足を止めた〝執事〟は微笑んだ。


「心配いりません。あなたの持ってきてくれた手紙ならもう届けました。それにフィリップス様なら、ほら、もうそこに来ています」


「え?」


呆気にとられた〝バンダナ〟は、〝執事〟の肩のミミズクがいなくなっていることに漸く気づいた。いつの間にか岬の突端にたどりついていたこともだ。話に気を取られすぎて気づいていなかったのだ。


〝執事〟の指さす方向にあわてて目を凝らすと、岬のはるか向こうの海に、白い点がぽつりと見えた。うっすらとした青い月明りと海の照り返しだけが頼りだが、一度認識するとあとは目で追うのは難しくはなかった。みるみるうちに白点は大きくなり、純白の帆が姿をあらわす。まぎれもなくオランジュ商会の旗艦ブランシュ号だ。白い貴婦人は黒い波しぶきに岩礁がひそむ難所を、月光を背に滑るように近づいてくる。この海域の水深は浅く、安全に進める航路はわずか。それを夜に為す神業。船乗りなら一流であるほど驚きに目を見張るだろう。そのさまは悪意と罠に満ちた舞踏会をものともせずに、優雅に踊り抜ける貴婦人を思わせた。


フィリップスは王女の霊の警告を、しっかり心に留めていた。なにを企まれても裏をかけるよう、張り巡らされた海洋大国チューベロッサの監視網を、予想を覆す最大船速でふりきり、なお道中うてる手はすべてうってきた。


「王子はたしかに怪物です。しかし、我らのあるじもまた怪物」


誇らしげにつぶやくと〝執事〟は夜空を仰ぐ。その伸ばした腕に、灰色の羽根を音をたてず羽ばたかせ、ミミズクがゆっくり舞い降りた。ミミズクの足先には折りたたまれた手紙がくくりつけられていた。手慣れた仕草で筒から手紙を取り出し広げて一瞥し、〝執事〟は顔をほころばせた。


「ドミニコ王子の居場所はすでにつきとめ済だそうです。早い。さすがの勝負勘です。大逆転の用意は整いました。王子の首を獲ることで……」


「おーい!! ふたりとも早くこちらに乗りこめ!! もたもたしていくと殴り込みに置いてくぞ」


〝執事〟の言葉を、崖下からのフィリップスの大音声がかき消した。のぞきこむと、岸壁ぎりぎりまで接舷したブランシュ号の甲板で、ぶんぶんと手を振ってうながしている逞しい笑顔が目に入った。


「……ったくあの馬鹿が……。こんなに目立っては、監視に勘づかれるだろうが……。なんのための手紙だよ」


と〝執事〟がつい昔の口調に戻り、小声で荒々しく毒づくと、


「おまえのことだ。どうせ俺のこと、空気を読めない馬鹿とか罵ってるんだろうがな!! チューベロッサの監視艇やこのへんの監視役なら、ついでにいま潰してきたぞ!! 俺の勘を甘く見んな。安心して早く降りてこい!!」


とフィリップスが大声で笑い飛ばす。


「やれやれ、相変わらず凄まじい大音量です。耳が潰れる前に、リクエストどおり降りましょうか」


〝執事〟は苦笑いすると、先頭にたち、暗いつづら折りの獣道を下りだした。


「お、降りるたって、この道をですか……」


夜目のきく〝バンダナ〟でも、まっくらな道の先がほとんど見えない。急峻すぎ草に覆われている。おまけに脆い。歩く先から小石がぽろぽろとはるか崖下に落下していく。足下からは、どおんどおんと波が岩に叩きつけられる音が不気味に響いてくる。日中でも足が竦むだろう。ここで逆落しを夜に行うなど自殺行為だ。


「ふむ、あなたにはまだ修羅場の経験が足りないようです。空中に直接ダイブしないだけマシですよ。歩いて降りれる幸運に感謝すべきです。私が前を行きますから、目印にしてください。安心なさい。滑落しても私が助けますから」


「……お、お願いします……!!」


その背に置いていかれまいと必死に追いながら、〝バンダナ〟は〝執事〟に話しかけた。恐怖を紛らわすためと、姿を見失っても声で位置を知ることが出来るからだ。


「あのミミズクにこんな伝書の芸当を仕込んでたなんてはじめて知りました。驚きました。さすがです。こんな日がくることに備えていたんですね」


賞賛の声に、わずかにだが〝執事〟の肩がぴくりとした。


「……褒められるようなことではありません。あらゆる事態を想定して備える。それが留守役たる私の責務ですから」


謙虚な言葉に尊敬のまなざしを向ける〝バンダナ〟。


だが、後ろにいる彼からは見えないが、〝執事〟は気まずそうな表情をしている。


じつはこのミミズクの調教術、彼がまだ暗黒街の顔役だった頃、黒幕っぽくて恰好いいからという理由だけで必死に体得したものなのだ。背もたれのぶ厚い椅子に深々と背をあずけ、葉巻の煙をくゆらせながら、無言で伸ばした手にフクロウを舞い降りさせ、差しこむ光の下、にやりと不敵に笑う……。もちろん足は組み、帽子は室内なのにかぶったままでだ。いわば香ばしい厨二病の落とし子だ。入手できるフクロウは大きすぎ、翼で顔面が完全に隠れてしまうので、小型のミミズクにスケールダウンせざるをえなかったが。それでも最初の頃は爪でおろしたての服をぼろぼろにされたり、頭に糞を浴びせられたりで散々だった。


ひとは皆、恥ずかしい黒歴史を抱えて生きている。できる大人とて、それは例外ではないのだった。


◇◇◇◇◇


尊いもの、正しいものが、ふさわしく報われるとは限らない。


その廃教会は海に近い丘の上にあった。もはや訪れる者は誰一人ない。


灰色の岩場に、ねじくれた低木。悪環境に強いヒースの花さえも色褪せた寂しい景色。その廃教会の建物だけは不釣り合いに立派で、それだけに物悲しさがより際立った。吹きすさぶ風の音がいつまでも鳴り、空だけが果てしなく青い終焉の世界。


だが、ここもかつてはたくさんの信者たちで賑わい、季節には色とりどりの花が咲き乱れた。住民たちはおだやかで、豊かな農作物と海の恵みを感謝し、神に喜びの祈りを絶やすことはなかった。青い空に負けないほど大地の景色も輝いていた。神に愛された土地だった。


そこに新しく赴任した若き司祭は住民たちから熱烈な歓迎を受けた。


大人たちはみな敬虔であり、子供たちの笑顔は明るかった。司祭は美しい空を仰ぎ、「ここに来てよかった」と感動に涙を浮かべた。


その司祭は優秀で勤勉であった。かつては中央で出世街道を歩んでいた。だが清廉すぎて疎まれた。派閥に参加するよう要請されたとき、聖職者は権力闘争ではなく、信仰のために生きるべしとはねのけた。その報復で堕落の汚名をかぶせられ、嘲笑され、中央大聖堂から叩きだされた。宗教者がおのれの欲で「神」を都合よく歪める現実を嫌というほど突きつけられ、信仰心が折れそうになった。


だが、左遷された司祭の思い描いた理想は、この地にこそあった。彼は神に心からの感謝を捧げた。最良の日々が続いた。


だが、神は気まぐれだ。ある年、ひどい嵐が立て続けにやってきた。示し合わせたように高潮とともに襲いかかり、家を吹き飛ばし、船を砕き、住民を呑みこんだ。無事だった建物は、頑丈なこの教会だけだった。皆の避難所の役もつとめた。人々は嵐をものともしなかった教会を希望の拠り所とした。この地の復興を信じていた。司祭も人々の心の支えになるべく、寝食を忘れて奔走した。いつかくる神の祝福と救済を信じていた。


けれど、水がひいたあとに、さらなる呪いが残った。塩害だ。まるでローマに滅ぼされたカルタゴのように、この地は不毛の地獄と化した。空は変わらず美しかったが、もはや一本の作物も稔らず、色とりどりの花が咲くこともなかった。新緑の歓びの季節を迎えても草木は芽吹くことがなかった。地は灰色に乾き、まだらに塩の塊がこびりついたまま沈黙していた。海底がえぐれたことにより、潮の流れも大きく変わり、魚もまるで獲れなくなった。


信仰心だけではひとは生きていけない。涙を流し、司祭と別れを惜しみながら、ひとりまたひとりと去っていき、そして立派な教会だけが取り残された。


教会が廃されることが決まった日、司祭は声をあげて泣いた。天国はここにもなかった。いや、たしかにあったのに無情に破壊された。どんなに祈っても、どんなに良き人々相手にでも、神はそっぽを向いたままだった。権力者たちは変わらず我が世の春を謳歌しているというのに。


「神よ!! なぜ正しき子羊たちにこんな仕打ちを!? みなの信仰は足りていたはずです。それで不足なら、私の命を捧げます!! だから、どうか人々を助けてください!!」


涙の祈りはむなしく響き、応える声はどこにもなかった。風が丘をびゅうびゅうと渡り、司祭の悲痛な叫びは天地にのまれ、消えていった。


打ちひしがれた司祭は、それでもこの教会を守り続けた。職を辞し、ただの守り人となってまで、いつかこの地に人々が戻ってくる日を信じて。旧き良き日の思い出だけを、ただひとつの心の支えにして。


だが、誰も帰ってはこなかった。歳月は無情に流れ、司祭はある凍てついた朝にひっそりと亡くなった。餓死寸前のところに寒さがとどめを刺した。たったひとりの自給自足さえ、この不毛の地はろくに満たせなかった。


倒れ伏したまま伸ばした司祭の右手は、聖なる奥の祭壇ではなく、教会の入り口、玄関に向けられていた。信者が、「司祭さま、おはようございます。朝採りした作物ですがどうぞ」と笑顔であいさつし、まず最初に姿を見せる場所。「あ!! 司祭さまだ!!」慕ってくれたたくさんの子供たちが、競うようにその横から走り寄ってきた。人々の出入りのたびに陽光が外から差しこむ。司祭にとっては荘厳なステンドグラスの輝きよりもよほど尊いものだった。


手をつないだ幼い恋人同士がもじもじしながら、「司祭さま、わたしたち、大人になったら結婚式するの。そのときは、どうかよろしくおねがいいたします」と内緒話を耳打ちしてくれたこともあった。たどたどしい口調のなんといじらしかったことか。男の子は女の子に引っ張られていた。でも、結婚式という言葉が出るとき、女の子の手を力強く握り返し、その目には強い意志の光を宿していた。


ああ、この子達はきっと夢をかなえるだろう、と確信した。それは司祭の夢でもあった。この愛すべき地でひとの愛に育まれて育った命たちが、やがて結ばれ、また新たな愛を育てていく。ずっと見守りたいと心から願った。


「……病めるときも…健やかなるときも……ともに愛し……ともに助け……」


冷たい床に頬をつけたまま、うつろな目で司祭の口は誓いの言葉をつむぐ。

意識が朦朧とするなか、司祭は訪れなかったその子達の結婚式の幻を見ていた。はなかむ花嫁。緊張してがちがちの花婿。涙ぐむ両親。参列の人々で教会の席はぎゅうぎゅうだ。地域社会のつながりが強かったこの地では、他人の子も自分の子のように愛した。そして司祭も例外ではなかった。


新郎新婦が永遠の変わらぬ愛を誓うと、万雷のような祝福の拍手がまきおこる。


「どうか…どうか…ずっと幸せに……」


参列の人々とともに司祭も涙していた。

ありふれた幸せのなんと尊い事か。

その景色が灯がゆっくり消えるように小さくなっていく。司祭は微笑んだまま息をひきとった。頬を伝った涙は氷の粒となり、やがて体全体が霜がふくように白く覆われていく。風におされて開いた扉からは、轟轟とした吹雪がなだれこんできていた。司祭はそれを拍手の音と錯覚したのだ。


この地に命ある人間は誰もいなくなった。


そして、さらに時が経過した。村のあとは風化してなくなったが、信者たちが惜しみなく力を合わせて盛り立てた教会は、まだ建物の大部分を残していた。

風だけが叫ぶ、獣の吠え声さえ滅多に聞こえぬこの廃教会に、いま久方ぶりにパイプオルガンの音が響き渡っていた。荘厳の欠片もない、気分が悪くなる調子はずれの音。かろうじて一部の機能だけ残ったオルガンを、でたらめに力まかせに演奏している者がいるのだ。


「んっっ、たったたーん。んっっ、たったたーん」


鼻唄が聞こえる。合っている小節を探す方がむずかしいひどい演奏だが、奏者は結婚行進曲のつもりらしい。


廃教会内では、狂った演奏にあわせ、手を振りたて、身体をねじらせて踊る無数の影があった。いや、降りたてられるのは腕だけではない。角もあった。穴だらけのステンドグラスからのぞくその姿は人ではなかった。奏者も、聴衆も、みな真っ黒な黒山羊の頭をしていた。それが結婚式と見立ててびしっと礼服を着こなしている。聖域を、盛装した異形が埋め尽くす悪魔のユーモアだった。


「んっ……! 苦しい……!! た、助け……て……」


いや、ふたり例外がいた。祭壇前に向かい合って立つ、十歳になるかならぬかの少年少女。ふたりとも金髪碧眼でたいへん美しい。だが、その姿は対照的だった。豪華なマントを羽織った少年は無表情。いっぽうウェディングドレスの少女は喉を両手でかきむしるようにして苦悶していた。酸欠の魚のように喘ぐ。よく見ると、少女の首を吊っている縄があり、黒山羊の一匹が中二階から身を乗り出すように、少女を軽く引っぱりあげていた。爪先が床に触れるか触れないかの絶妙な高さを強制された少女は、縄のねじれのせいで、バレリーナのように何度も回転した。


「おおっ!! 踊りだすほど花嫁は嬉しいと見える!! よきかな、よきかな!!」


ふたりの前に立つ司祭役の黒山羊が感慨深げに、うんうんと頷く。


「さあ!! 花嫁よ。はやく偉大なるドミニコ王子と、結婚の誓いのチュウを!! 濃厚な、やらしいのをどんと一発!! これは初夜の前哨戦ですぞ!!」


司祭役の黒山羊が、分厚い聖書をふりまわしてうながす。興奮しすぎて聖書がすっぽ抜けて、あさっての方向に飛んでいき、頭を直撃された黒山羊の一匹が昏倒した。演奏が下手くそな葬送曲に変わった。ぎゃははと参列の黒山羊どもが大騒ぎする。


司祭役は澄ました貌で、かわりに、男女のからみあういかがわしい表装の本を懐から取り出し、式を続行した。


「みな、静粛に。さあ、この性…こほん、聖典の前で、愛を誓うのです。ぶちゅうっ、と」


見本として、じゅじゅうっと唇を吸い鳴らす音を、気持ち悪く響かせる。


参列の黒山羊たちが、ひゅーひゅーっと下品に口笛を吹いて、手を叩いて大合唱で囃し立てる。


「「「「チュウ!! チュウ!! チュウ!!」」」」


足を踏み鳴らす奴もいて、床を踏み抜いて下に落ちていった。


だが、少女はキスどころではなかった。よく見ると、少年…ドミニコ王子は、台座の上に立っていた。対して少女の足元にはそれがない。床だけだ。ふたりの背は同じくらいだ。結果、かなりの段差ができていた。誓いのキスをするためには、顔の高さを合わせねばならない。だが、王子が身を屈めて協力する気配は皆無で、背を伸ばしたまま、冷たく花嫁を見下ろしたままだ。そのため花嫁役の少女が、強制的に絞首刑のように引っぱりあげられているのだ。だが、足元もおぼつかず、細い柔肌に縄が食いこむ窒息状況で、キスなど出来ようはずがない。


「……おいおい、顔が紫色になってきたぞ。だいじょうぶか。ええっと、これが三十回目の結婚式だっけ……」


不安になった司祭の黒山羊がぼそぼそと、かたわらの助祭役の黒山羊に相談する。


「三十五回目です。このまま行くと、また誓いのキスの前に、花嫁は神の身許に召されるかと……」


助祭役の言葉に、司祭役はあわてだした。


「それはまずい。身目麗しい少女をまた攫ってくるのは大変だぞ。王子の好みはうるさいから」


「だいじょうぶです。こんなこともあろうかと、力強い助っ人を連れてまいりました!!」


横から飛び出してきたもうひとりの助祭役が、抱えた黒い大きな案山子のようなものを、誇らしげに披露した。


「おおっ!! 先代を!! でかした!!」


司祭役の黒山羊が喜色満面に叫んだ。


それは、この廃教会を最後まで守り抜いた司祭のミイラだった。寒さのため腐る前にミイラ化したのだ。受け取って抱きかかえながら、その口元に耳を近づけ、黒山羊はうんうんと何度もうなずく。


「なんと、引退した先代が特別に式を挙げてくださるそうですぞ!! じつに羨ましい!! さあ、まずは先代の好意に感謝のキスを!!」


うつろな眼窩を哀しげに見開いているミイラを、ずいっと花嫁役の少女の顔に寄せる。つんと鼻をつく乾いた黴臭い死肉に臭いに、失神しかかっていた少女は意識を取り戻した。そのときには、頬肉が痩せ萎び、むき出しになったひやっとした歯列の端が、少女の唇に押し当てられていた。


「ひっ!? いやああっ!!」


必死に顔をそむけ拒否しようとする少女。


「感謝が足りませんな!!」


黒山羊がミイラと少女の頭を両手で抱えこみ、ふたつのボールをこすり合わせるように、ぐりぐりと念押しのキスを強制した。


「……ぐっ…むぐうっ……!?」


「む、これでは頬にキスか、唇にキスか、判別しがたい。新郎の前に、司祭が新婦の唇を奪うのはまずいが……。まあ、いいか。死人に口なし。さあ、先代、力不足の小職にかわり、新郎新婦の式をお願いします!!」


気を取り直して、二人羽織のように司祭のミイラをかくかく操りながら、黒山羊が叫ぶ。司祭の思い出を踏みにじるあまりに冒涜的な行為だった。


ミイラの黒ずんだ死肉に、唇がすれるほど口づけしてしまった少女は、喉元の縄を押さえるのも忘れ、えずいて口を覆った。


「……うっ!! ……うええっ……!!」


「こ、これはいかん。神聖なる式を吐瀉物で穢すなど……!! なにか汚物受けは…」


「いいものがあります!!」


聖水盆を運んで来ようとする黒山羊たち。


「まずは臭いものには蓋を!! ここは花嫁一本釣り」


あわてる司祭役に応じ、少女の吊り下げ役が、ぐんっと大きく縄をたぐり寄せた。

少女の細い喉元が、袋を閉じるようにぎゅうっと締まった。逆流は止まったが、血も空気もすべて止まった。


完全に床を離れた少女の足が、ばたばたと宙を蹴り、やがて全身の激しい痙攣に変わっていく。デスダンスにあわせ、演奏が軽快なアップテンポの舞踏曲に変わった。黒山羊どもは大はしゃぎただ。


「ゲスどもが!! 反吐が出るぜ!!」


怒りの叫びとともに、アーチの天井の脆い箇所を、力任せに蹴破り、瓦礫とともにフィリップスが飛び降りてきた。電光石火で、少女を吊りあげていた黒山羊をぶん殴る。そいつはぶっ飛び、奏者の黒山羊の背中にぶつかり、二匹は盛大に破片と鍵盤の部品を巻き散らしてオルガンにめりこんだ。


フィリップスの次の行動は、それより速かった。二匹が激突したときには、すでに中二階の欄干を蹴っていた。加速する。絞首刑から解放された少女が力なく床に倒れ伏すより早く一階に着地し、その体を優しく抱きとめていた。


人間技ではなかった。愛妻のマリー姫を守ろうとする意志と、王子達の暴虐への怒りが、フィリップスに紅の公爵級の身体能力をもたらしていた。


「神聖な結婚式を邪魔する不届きものだ!! 殺せ!!」


「なにが神聖だ!! 悪魔どもがほざきやがって。来い!! 地獄に叩き返してやる!!」


襲いかかる黒山羊どもを物ともせず、咆哮をあげながら、次々に文字通り投げ飛ばしていく。片手はぐったりした少女を抱きとめているので腕一本でだ。アルフレド王子直伝の技が冴えわたっていた。黒山羊どもも壁を床のように蹴る人間離れした立体的な動きを見せるが、フィリップスの敵ではない。


「やれやれ、獅子が水滴を振り飛ばすごとく。これでは我々の出番がありませんな」


遅れて廃教会に駆けこんできた〝執事〟が嘆息する。フィリップスが段取りを無視して飛びこんでいったので、オランジュ商会の他の皆は出遅れたのだ。到着した彼らも、度外れの無双ぶりに、唖然として立ち尽くすばかりだった。


「おせえぞ、おまえら。おっ!! あんた、目がさめたか」


羅刹と化していたフィリップスの表情に人間らしさが戻った。ん、と可愛らしくうめき、フィリップスの腕のなかで少女が身じろぎした。自分のおかれた状況に気づき、小さく悲鳴をあげて逃れようとする少女。これだけ危険な目にあえば当然だが、いまは戦闘の真っ最中だ。


「説明してる間はないが、俺は味方だ。これだけは信じてくれ」


少女に掴みかかろうとする黒山羊をぶちのめしながら、フィリップスが語りかけると、少女は蒼い上目遣いで、じっと見あげたあと、得心したのかこくこくと頷いた。


「聞き分けがいい子は好きだぜ」


フィリップスはなんの気なしに口にし、笑いかけた。少女はぽっと頬を染める。幼いが高貴な顔立ちをしている。この齢ならパニックになっても不思議はないのに、修羅場でもわりと冷静なのは、貴族教育を受けたからかもしれない、とフィリップスはちらりと思った。


そう考えると年端もいかぬとはいえ、ウェディングドレス姿の少女をいつまでも抱きかかえているのは、少々風が悪い。形式上のこととはいえ、貴族間では幼い頃から婚約を交わしていることがある。


「おまえら、この子をあずかってくれ。喉をひどく絞められてる。注意して診てやってくれ」


オランジュ商会には簡単な医学の心得があるものも多い。だが、少女は引っつき虫のようにフィリップスの腕を抱えこんで離れようとしない。


「ここはあぶねえって!!」


「そうでしょうか? あなたのそばほど安全な場所はないと思いますが。こう見えても、私は王家の血をひいています。ひとを見る目はそれなりにあるつもりです」


と少女は鈴をふるような声で笑った。最初に気づいたときの間は観察していたからか。思ったより大物だったらしい。面倒くさいことになったとフィリップスは嘆息した。それにフィリップスを手強しと判断したのか、黒山羊どもはオランジュ商会のメンバーを標的に変えた。迎撃に手一杯でこちらに近づけない。


「わかった。今は仕方ねえ。俺から離れんなよ」


「死んでも離れません。命を救われたのですから、あなたの妻になれと言われても断れない身です。死がふたりを分かつまで、ですわ」


「俺は妻帯者だ」


「正直者はますますタイプです。第二夫人でもかまいませんわ」


さっきまで死にかけていたとは思えない。その言葉が本気か冗談かはわからないが、信頼のあかしとして、全身をフィリップスにあずけてくる。妻のマリー姫も可愛らしい外見に似合わず、おそろしく肝が据わっていて、そこに惚れたのだが、王家の血をひく女性というのはどこか似た気質をもつのか。


そう戸惑ったとき、黒山羊どもにかばわれながら、ドミニコ王子が退避しようとしているのが見えた。


「てめぇだけは逃がさねえ。……ここからは子供が見るもんじゃねえ。目をつぶってろ」


フィリップスの警告に素直に従い、少女はフィリップスの腕に顔を押しつけるようにして、ぎゅっと両目を閉じた。


立ち塞がる黒山羊どもを鎧袖一触にし、フィリップスは背を向けて逃げ出そうとしたドミニコ王子の首を、後ろから片手で乱暴に掴んだ。


「悪事をすりゃ報いを受ける。誰も教えちゃくれなかったのか」


そのまま宙づりにする。フィリップスの握力なら、そのまま首をへし折れる。


「苦しいだろう。おまえがこの子にやっていたことだ。今まで何人の人間を、そうやってなぶり殺しにしてきやがった……」


この悪魔だけは殺さねばならないと、自分を必死に鼓舞する。いくら悪逆非道のドミニコ王子相手といえど、罪悪感なしに子供の命を奪えるほど、フィリップスはすれていなかった。


ドミニコ王子は、先ほどの少女のように、苦悶で手足をばたつかせ、やがて死の痙攣に全身を掴まれだした。もうわずかにだけ力をこめれば、彼岸にこいつを叩きこめる。黒幕のこいつが死ねば、黒山羊騎士団は瓦解し、ヒペリカムの占領政策も軟化され、マリー姫や自分たちの危機も去る。だが……!!


「……ちくしょうが…!!」


ドミニコ王子の全身が弛緩し、失禁がはじまったとき、フィリップスは罵り声とともに、その手を離した。少女のように細い首の感触を握りつぶすことは、フィリップスには出来なかった。死亡寸前で見逃されたドミニコ王子は背中を床にうちつけ、身を丸くしてげほげほと咳き込んだ。


「寄るな!! 王子を踏み潰すぞ」


フィリップスの牙をむく威嚇に、黒山羊どもも遠巻きに様子をうかがっている。


「……殺さないのですか? 人質に取るより楽ですのに」


ことが終ったと判断した少女が目を開き、しがみついたままフィリップスに問いかける。


「俺に無理だ。妻のおなかに子供がいる。いま、子供は殺したくねえ」


歯を食いしばって苦悶の呻きをしぼりだすフィリップスに、少女は金髪を耳にかきあげ寂しく微笑んだ。


「奥様を愛してるんですね。奥様が羨ましい」


「俺のすべてだ」


「残念。私の割りこむ先はなさそう……。運命の恋と思ったのに……。しかたないから、これで勘弁してあげますね」


涙を浮かべた少女は華麗にウェディングドレスをひるがえすと、せいいっぱい爪先だちで背伸びをし、フィリップスの首に両手でかじりつくようにして、軽く唇を重ねた。そよ風のようなキスだった。


「私、これでもけっこうな優良物件ですよ。きっと見逃したことを後悔しますから」


金髪の巻き毛をゆらし、少女が耳元で甘く囁く。ぞくりとするほど蠱惑的なまなざしだった。


「あんたなら、もっといい相手がすぐ見つかるさ。今のキスのことは、お互いここだけのものにしよう」


その変貌ぶりにフィリップスは苦笑した。たいしたものだ。女は強い、振り回されてばかりだと思う。


「……くくっ、マリーに秘め事をつくるのか? 悪い夫だな。フィリップス」


突然、野太い声が嘲った。


ぎょっとしたフィリップスは、ドミニコ王子に視線を走らせた。床に倒れたまま、こほこほとまだ咳き込んでいる。弱弱しい泣き声が、途切れ途切れに聞こえる。


「……ちがう……私は……ドミニコ……なんかじゃない……」


まさか!? だとしたら!!

驚愕の真実が閃く。

おしつけられた少女のドレスの内側から伝わる、不浄な強張った感触。

「フィリップス様!!」という〝執事〟の悲痛な叫び。


それらが一瞬で稲妻となって交錯した。


「ちっ……!!」


対応するより一瞬だけ早く、わき腹に凄まじい痛みが走った。叩きつけられたフィリップスのバックブロウを間一髪でかわし、少女はとんぼをきって後方に飛び退いていた。素人の動きではない。フィリップスはナイフを根本まで突き立てられていた。急速に身体が麻痺しはじめた。痺れ薬が塗ってあったのだ。


「言ったろう? きっと見逃したことを後悔すると」


可憐だったはずの少女は、別人のように邪悪な声と嗤いを叩きつけてきた。てんでばらばらに戦っていた黒山羊どもが一糸乱れぬ統率で整列し、少女を守るように恭しく跪いた。床に倒れた王子は黙殺したままだ。もはや答えは明らかだった。


「てめえが……本物のドミニコ……」


「やっと気づいたか。鈍いなあ。ヒントは出してやったろう。王の血をひくとな。女に鼻の下を伸ばしているから、頭の血の巡りが悪くなる。ほら、これが証拠だ」


少女……本物のドミニコ王子は、ばっとウェディングドレスの裾をまくって、仁王立ちになった。


「見ろ!! おまえのヒーローぶった間抜けぶりに、つい昂ってしまった。無関係の女を殺しかけた気持ちはどうだ? お、ぴくぴくしているぞ。今にもイッてしまいそうだ。感想を聞かせてくれよ。ヒーロー」


見せつけるようにげらげら笑う。


「てめえ……声まで変えられるとは知らなかったぜ」


痛みと屈辱に唸るフィリップスに、ドミニコ王子はこてんと首を傾げた。


「心外ですね。私の地声は綺麗なソプラノですよ。まだ変声期前ですし。でも、心の歪みが声まで歪ませているそうです。だから、心をまず正せと。……そう罵った反対勢力の党首の愛娘の顔を、煮えた鉛をかけてあばた面にしてやった。心根が優しい娘だったが、婚約者にも捨てられ、男という男からは目を背けられ、最後は発狂して死んだ。ははっ、心か。そんなに大事なら、心で奇跡でも起こせばよかったものを」

ドミニコは前半は先ほどの愛らしい澄んだ声で、後半は悪意に満ちた低い声でそう嬉しそうに語った。


【おまけの蛇足】


・またムダにヒロイン増やして、たためもしない風呂敷広げやがったと舌打ちしたあなた、残念、ただのドミニ子ちゃんでした。


・ぴくぴくしている。今にも逝ってしまいそうだ。

 ええ、もちろん床に放置された瀕死のにせ王子のことですよ。それ以外になんの答えが?


・ドミニコ「おい、フィリップスはまだ来ないか。酸欠でだんだん目の前が暗く……」


・とある黒山羊「このかぶりもの、中が蒸れと臭いでひどい!! 気分悪くなってきた。もう……限界」


みなさま、まだまだ暑い日が続きます。熱中症にはじゅうぶん気をつけましょう。


お読みいただきありがとうございます。

感想のご返信、少し時間かかるかもしれませんが、必ずいたしますので。

どうか今しばしお待ちください。

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お初にお目にかかります。長らく108回本編と感想欄を行ったり来たりして形容しがたい笑みを浮かべる生活をしていましたが、久しぶりの更新とその内容に感極まってしまって、思わず感想を書かせて頂きました。 賭…
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