夢とはじまり
ここは小国『ウィルドニア』にある、とある農園。
いつもより暖かい一日となった今日、一人の九歳の少年が、丘の上にある小さな木陰で気持ち良く眠っていた。その気持ち良さからか、顔はゆるみ、だらしない格好をしている。だが、そんな心地よい夢の中にいる月白髪の少年の顔に、どこからか飛んできた果実が落ちてくる。
「いてっ、なんだよ············リンゴ?」
地味な痛みに叩き起こされた彼が顔を押さえながら辺りを見ると、そこには、ちょうど食べ頃の真っ赤な林檎が落ちていた。ちなみに、彼が寝ているのは葉が少し黄みを覚えたナラの下。
「ミーナ······おまえだろ」
「ばれた?」
すると、彼の寝ていた木の影から、ひょこっと、白いワンピースを着た赤い髪の少女が顔を出す。そして、矮躯な身体を見せる彼女は、腰の辺りまで伸びたサラリとした髪を楽しげに揺らしながら後ろ手。その、白の上に浮かぶ燃えるような赤の髪は、彼女の存在をより際立たせているよう。
「りんご、たべよっ。ジャック」
そう言って、天真爛漫な彼女は後ろに組む手を前に持ってきては、そのまま彼のほうへ歩いて行く。――が、
「ま、まてまてっ! あぶねぇからっ! 刃こっち向けるなって!」
彼女の手には小さなナイフが。刃先を向けたまま近付く彼女。咄嗟に上体を起こす少年は身の危険を感じると共に、近付くな、というように手を伸ばしては若干の後ずさり。
すると、
「······いいじゃん」
ぷすっと、それを悪気なくやっていた彼女は顔を膨らませてナイフを下に向ける。そして、その顔のまま彼の隣へ。一応は、自分から遠いほうへとナイフを持ち変えてくれた――側へ座る少女に彼は言う。
「ぜんぜん良くねぇよ。ったく、どうせなら剥いてもらってからこいよ」
「だって、ママいま街にいってて家いないんだもん」
「じゃあ帰ってくるまでガマンすりゃいいだろ?」
「そしたら暗くなるじゃん」
先の表情のまま、彼女は、ぷいっと顔を逸らす。しかし、彼のほうはそこまで何とも思っていなかった。これはほんの序の口だと、日常茶飯事の一部だとでも言うように。リンゴにロープが結ばれ、それを枝に掛けて真上から落とされなかっただけマシだと思っていた。
と、隣にいる彼女の普段はそんななため、
「······ったく、まぁいいや、かせって」
その少年――ジャックは彼女からナイフを受け取ると、九歳という歳に似合わず、器用に果実の皮をスルスルと剥いていく。これも彼女による影響。しかし、やはりまだ九歳。流石に宙で果実を切り分けるまでは難しかった。
「ミーナ。おまえ、板かなんかもってきて――」
「ない」
食い気味に、即答で当然のように返ってくる彼女の言葉に、尋ねた顔のまま彼女を見て停止する少年。虚しさを含んだそよ風が彼の側を通り過ぎる。
「······おい、さき剥いちまったじゃねぇか」
やっと動き出した彼の顔は、毎度毎度なにか忘れやがって、そう言わんばかりのジト目だった。
「じゃあ分けれねぇじゃん」
「いいよ。わたしひとりで食べるから」
「いや、おれも食べてぇから。それにおまえさっき、俺に“たべよっ“っていったじゃねぇか」
「いってない」
「うそつけ。いったろ」
「いってない」
「いった」
「いってない」
「いーや――」
しばらくいがむ少年と、顔を彼の逆に逸らしたまま同じこと繰り返す少女。これも日常の一部。そして、大体は彼のほうが折れる。
「はぁ、もういい······」
溜め息を吐いた彼は仕方なく、林檎を手に乗せて切ることに決める。家まで行くのも面倒だ、これまで何回か上手くいってるし、という心で。
そんな心だからだろう。彼はゆっくりとナイフの峰を親指で押しながら刃を入れていく――が、
「いてっ」
林檎は二つに割れたものの、最後の最後で自分の人差し指をかすめる。
「だ、だいじょうぶ? ジャック?」
彼の声を聞いて慌てて振り返った少女は、先までのツンとした顔から一転、あたふたしていた。だが、
「うーん、ちょっと切れただけかな」
それに比べ、左手の指で膨らむように出た血をゆっくりと眺めては冷静にそう言うジャック。彼は、やがてその赤い滴が流れ始めると「おっと」と言って、慌ててその指を口へ運ぶ。そして血を吸っては口を離すと、
「まぁ、すぐにとまるだろ」
と、軽い調子で言ってはナイフを草の上に置き「ほら」と右手で、血の滴で汚れずに済んだ片割れを少女に渡す。彼女はまだ不安な表情で、押し付けられたそれを受け取っていた。
ジャックはもう一度指を口に含むんでは、パッと離し「ほら、もうだいぶ止まったろ?」と、ゆっくり膨らみつつある滴がまた元へ戻らぬうちに、
「とりあえず食べようぜ。水ふくんでるうちのがうまいだろ?」
と、持っていた林檎を軽く掲げる。彼女は、まだ受け取った手のまま怪我の心配をしていた。――が、少年が本当に何も気にせず、その瑞々しい果実を美味しそうに囓っては、
「はぁー、うめぇー。やっぱお前んちのリンゴさいこうだなー」
と、満足気に、あまりに美味しそうに食べるため彼女のほうも、若干罪悪感が残るものの、いいのかな、というようにそっと、同じ果実を口へ運ぶ。そして、ムシャリと一口。
そうしつつ小さく、
「ごめん······」
「気にすんな、治るもんだから」
それから、二人は黙々と林檎を食べる。
枯草の匂いが、秋風と共に時折やってくる。
二人から少し離れた所では、農夫が街に売りに行く野菜を荷台に積む姿があった。それを見た彼女は両手で包んでいた食べかけのリンゴを見つめると「ジャックはさ」と一度名を呼ぶ。そして、彼のほうに顔を改めると、
「ジャックはさ、将来どうするの? あの人みたいになるの?」
やや元気はないものの、彼女の声は普段のものに戻りつつあった。それを、そっと横目で受け取る彼はまた前を向くと、
「んー、なんも考えてねぇなー」
気だるそうな調子で、ぼーっと空を見ながら普段のように答える。
「なりたいものとか、ないの?」
少年を見て小首を傾げる彼女。
「なりたいものなぁ······。どうせなら、城の兵士くらいかなー」
「そうなんだ。なんで?」
「んー、なんとなく?」
「ほんとに?」
「たぶん。それにどうせならだっての」
「ふーん」
林檎を食べ終えたジャックは、まるで鳥骨のように細い、身が微塵もない芯を草むらへ放ると、果実で濡れた手を自身のズボンでパッ、パッ、と拭う。そうしながら話の中心を移すように、
「おまえは、なんか決めてるのか?」
ジャックがそう言うと、彼女は手を止め、再び目の前の林檎を見つめた。
「わたしは、なりたいってより、やりたいことかな·······」
ややしんみり、だが、えへへ、と聞こえそうな嬉しそう顔で彼女は口にする。
「へぇー。なにすんだ?」
特に何も考えず、適当に相槌を打ったジャックは、仰向けに寝ては頭の後ろで手を組み、ぽけーっとした顔で彼女の言葉を待つ。じっと林檎を見つめていた彼女は気恥ずかしそうに、そっと彼のほうを見る。
「わらわない?」
「たぶん」
「たぶん? ······じゃあ言わない」
途端、二人の間に無音が流れる。――が、
「わ、わかったって······。わらわねぇから」
ぷいっと顔を逸らした彼女から漏れる不満に、なんとなくバツの悪いジャックが堪らず折れる。
「ほんとに?」
「あぁ」
それを聞いて彼女は口元を緩ませる。その雰囲気をジャックは感じるものの、チラチラと木陰の隙間から覗く空を見ており、笑みには気付かなかった。そしてその横で、少しだけ日に当たる位置の彼女はゆっくりと深呼吸。
「わたしさ、好きなものあるでしょ?」
「あぁ、たくさん」
「ちゃんときいて」
「······」
自分の知らない珍しい怒り方をする彼女に、ジャックは仕方ないというように耳を傾ける。そうすると、それを感じる彼女は、空を見たままの彼に、胸の内に秘めていた想いを打ち明け始める。
「わたしね、魔法が好きなの」
「うん、しってる」
「そうぞーをちょーえつする魔法が好きなの」
「ん? うん」
「だからね、わたし······」
「うん」
「魔法をつくりたいの」
「うん············へっ?」
ジャックは思わず身体を起こし、彼女を見る。
すると、彼女は振り向いて笑っていた。
「モンスターから魔法をつくるの」
ジャックの横を風が吹き抜ける。同時、風は、彼女に掛かる木影を取り払っていた。食べかけの林檎を持つ彼女は、この季節とは真逆の、生き生きとした晴れやかな表情をしていた。
それを見た彼は、目を奪われた。
夢を見つけた、何処までも透き通る、純真な情熱を、彼女の深紅の瞳とその笑みに覗いたから。その透明さは、今までのどんなものよりも彼を惹き付けた。
「それでね、魔法をつかって、いろんな人のためになるものをつくりたいの」
嬉しさと恥ずかしさから林檎を一口、パクリと口にする――気持ちを誤魔化した彼女は林檎を見つめ、そして相手の反応を待った。味も忘れながら噛んでは、小さくゴクっと奥へ。そしてまた、林檎を見つめる。どんな反応がくるのだろうとワクワクでもするように。
――が、しかし、なかなか返事は返ってこなかった。
もう少し待ってみようと彼女は一瞬思うが、すぐに痺れを切らすと、先に、不満気に「ねぇ」と彼を振り向きながら口を開く。
「笑わないでとは言ったけど、聞いといてなにも言わないのもどうなの?」
彼女は口を尖らせていた。するとようやく、
「あ、あぁ、わるい。ちょっとビックリした」
と、我に返るジャック。慌てたように目を逸らし、見惚れていた事を誤魔化す。そして少し前のように寝転がる。
「いいんじゃね。お前、あきれるくらい魔法好きだし」
「でしょ!?」
「あぁ。いいと思う」
彼女は、ふふふっ。と、嬉しそうに林檎の続きを囓った。
ジャックはもう一度、今度は気付かれないように、静かに彼女のほうを見る。まだ、透き通るような深紅の目を輝かせた、彼女の顔が忘れられなかった。そして、横顔にそれを探そうとしては、彼女が綺麗な瞳をしていることを知る。
――と、そうしていると、
「そうだ、ジャック! せっかくだから、その手治してあげる!」
突如そう振り向いた彼女に、胸を驚かせるジャック。咄嗟に目を空へ向けては平静を装って、徐に彼女のほうを向く。
「治すって、まだそこまではできねぇだろ?」
「んなことないよ。それでもちょっとは治せるんだから」
すると、彼女は急いで芯の残りの食べるとそれを自分の傍に置き、その手のまま、ジャックの手を取り、傷口を両手で覆う。彼の手に、彼女そのものだけではない熱が伝わる。それが魔法によるものだとわかりつつも、それだけではないと彼は心の隅で思いつつ、また冷静を装ったように、
「モンスターから魔法ねぇ······」
彼女が自分に気付かないうちにそっと呟いた。彼女は楽しそうに、手のほうに目を落としたまま、
「まだカノウセイの段階だけどね、きっとできるの」
「ふーん、俺にはそうぞうつかないけどなぁ······」
と、ここで、自分が怪我した原因をふと思い出すジャック。そして溜め息を吐くと、それを彼女に伝える。
「ったく、そんだけ頭いいならまな板くらい持ってこいって」
「そ、それは······」
「むちゅうになるのもいいけど、たまには周りみろよ? 俺がいない時だってふえてくるんだろうから」
「え、そうなの······?」
さも、この日常が続くと思っていた彼女は顔を上げる。ジャックはちょっとドギマギするも、
「そりゃそうだろ。俺が兵士になろうとしたら、クンレンセイになって、ここでいつもねてるとは限らないんだぞ」
「んー、そっか······」
顔を下げる彼女は治療しながら「むぅー」と悩むと「んじゃあ、考えとこ」と独り言を口にした。ジャックはそれに首を傾げるも、まぁいいや、という意味だと思うと、この時は深く考えなかった。そのため、
「とにかく、次はなんか敷くもんくらいもってこいよ。毎回これじゃ、お前もこまるだろ?」
すると一瞬だけ閃いたような顔をした彼女は、すぐに目を泳がせた。そして、
「つぎは······覚えてたらね」
「いや、覚えてろよ。――ってか、なんかいま思いついたろ?」
「ううん、なんも」
「うそつけ」
「うそじゃない」
「ほんとかー?」
「ほんと」
「じゃあ今の顔は?」
「なんでもない」
「いや、どう見ても悪さする顔だったじゃね――」
「知らない」
「食いぎみで答えんじゃねぇよ」
「知らない」
「そういうことじゃなくて······ぬうぅ······」
そんな幼い時を、二人は共に過ごしていた。