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それから数時間後。
エメラインはカルナートの言いつけ通り、ギデオンの動向をハラハラしながら見守っていた。
心配していた通り、ギデオンの足取りは危なっかしく、頻繁に足を滑らせあっという間に傷だらけになっていた。やはりあんな息絶え絶えの様子で登山なんて無理がありすぎたのだ。
(せめてこちらの状況をお父さまに伝えられたら……)
エメラインはちらりと傍らのカルナートを盗み見た。彼は只今アーネストを相手にチェスの真っ最中である。
「チェック」
「お見事です……」
「お前、チェス弱すぎ。つまんないなあ。何か芸でも披露してよ」
「ではこれなどは如何でしょう? これは知恵の輪というもので――」
「知ってる。そんなのやり飽きたってば。ていうか遊び相手がいるのに、一人遊びを進めるのはどういうつもりなんだろうね? 僕の相手は面倒くさいってこと?」
「め、滅相もないことでございます! では剣技を披露させていただきます」
「野蛮なのは嫌いなんだよね。お芝居がいいなー。貴族って遊びでそういうこともやるんでしょ?」
「はあ……」
「演目は恋愛ものにしよっか。お前は犬の役ね。台詞が棒読みだったら鞭がビシバシ飛ぶから」
「くっ、御意に……」
文句を言いつつも、カルナートは結構楽しく遊んでいるようだ。
これならひっそり伯爵たちに向かって声を掛けても、気が付かないかもしれない。今ならカルナートはこちらを見ていないから、手を貸してもきっと大丈夫……。
そんな考えがふと思い浮かぶ。
(……ううん、駄目ね。ギデオンさまは一度やると決めたら曲げない人だもの。きっと受け入れてはくださらない。それにあの方に対する侮辱にもなってしまうわ……)
だがすぐに思い直して、エメラインは唇を噛みしめた。
心配で心配で堪らなかったが、今はとにかくギデオンを信じなければならない。彼ならばきっとやり遂げられると。
(でもせめて無理はなさらないで……)
しかしエメラインの願いとは裏腹に、ギデオンは傷つきながらも決して体を休めることなく歩み続けた。その結果、彼が三人の元に辿り着いたのは、西に傾いた太陽が赤みを増した頃だった。
「ギデオンさま!」
待ち人の到着にいち早く気づいたエメラインが、悲鳴のような声を上げて走り寄る。アーネストで遊んでいたカルナートも、この時ばかりは手を止めて来訪者に目を向けた。
現れたギデオンは全身見事にボロボロで、顔色なんて死人のように真っ青だった。軽く小突いただけで、今にも倒れそうな風情である。
それを証明するかの如く、エメラインが腕に触れただけで、ギデオンの身体がフラリと傾いた。何とか支えようとするも、エメラインの力では上背のある彼を受け止めるのは難しく、そのまま二人して倒れ込みそうになる。しかし傍にいた伯爵が助けてくれたので、二人は事なきを得た。
ギデオンをその場に寝かせると、エメラインは隣に来ていたカルナートに訴えた。
「カルナートさま、約束です! 治して差し上げて下さい!」
「分かってるってば」
面倒くさそうな様子で、カルナートがギデオンの額に手を当てる。それから彼の虚ろな目を覗き込んで微笑んだ。
「よく頑張ったね、ご苦労様。でも不思議だなあ。この状態でここまで来る根性はあるのに、何であれぐらい我慢できないの?」
「あれ、ぐらい……とは……?」
「君が倒れる前に彼女にしたことだよ」
「もうそのことはいいでしょう? ギデオンさまを休ませてあげて下さい……」
「いや、いいんだ、エメライン……」
ゼイゼイと息を吐きながら、ギデオンは自嘲の笑みを浮かべた。
「ふ、二人きりで、愛しい女性が、この上なく可憐に微笑んでいたら……理性なんて、吹き飛んでしまいます……。男なら、きっとわかるはずだ……!」
てらいもない告白に、エメラインの胸が熱くなる。こんな目に遭っても、愛しいなんて思ってくれるとは。自分の為にここまで来てくれたのも本当に嬉しかった。そして思った。
こんな彼を諦めることなんて、やっぱりできそうにない。私はこの方を愛してるのだから――。
「はあ、僕には色欲無いからわかんないなー……っとはい、終わり。もう楽になったんじゃない?」
カルナートがそう言ってギデオンの額から手を離す。すると彼はぱちぱちと目を瞬かせて、上半身を起こした。その動作は身軽で、今にも死にそうだった顔色にも血の気が戻っている。
「……本当だ。傷まで治っているとは……。ありがとうございます」
「ああ、良かった! カルナートさま、ありがとうございます!」
「いーえ。でもこれでめでたしとはいかないんじゃないの? 婚約パーになっちゃったんでしょ? エメラインもそれは完璧に諦めているみたいだし」
「そうなのか?」
ギデオンの悲し気な目がエメラインに向けられる。気まずさに少し狼狽えたものの、エメラインは顔を上げて彼の瞳をじっと見つめた。
「少し前まではギデオンさまが助かれば、結婚できなくてもいいって思っていたんです。でも現金なものですね。お元気になったら、やっぱり離れたくないって欲が出てしまったんです。だから、私はギデオンさまのことを諦めたくはありません……」
素直に自分の思いを告げると、ギデオンは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「私だって同じ気持ちだ! エメライン、ここまで頑張ってくれてありがとう。今度は私が頑張る番だな。結婚の件は私が絶対に何とかしてみせるさ!」
「いえ、二人のことですもの。共に頑張りましょう」
「エメライン……」
感極まったように名を呼ばれて力強い腕に抱きしめられる。それを満たされた思いで感じながら、エメラインも彼の背にそっと腕を回した。
硬く抱き合う二人を見て、カルナートが伯爵に向かってにっこりと笑いかける。
「こうして試練を乗り越えた二人の絆はより深まったわけだ。良かったね」
「良くありません。勝手なことをされては困りますな。大体貴方は――」
傍らでお説教を始めた伯爵の言葉を聞いて、アーネストも心の中で同意した。そうだ、良くない、と。
カルナートがどうこうというわけではなく、すべてが良くないのだ。
(何だこの茶番は……!)
友人が治ったのはもちろん喜ばしいことだ。が、丸く収まったら収まったでムカムカと怒りがこみ上げてくる。幸せそうな二人を見ていると腹立たしくてしょうがないのだ。
それもこれも全部ギデオンのスケベ心が引き起こした騒動なのだ。そして自分は巻き込まれた被害者。これが怒らずにいられようか。
(幸せそうな顔して笑いやがって、あのバカ! しかもよりによってあのエメラインと一緒になって……!)
「ん……?」
怨念を込めて睨み付けると、気配を察したのかギデオンがアーネストを振り返った。
「アーネスト! どうしたんだ、その傷は? 大丈夫か……?」
声を掛けられて、アーネストの怒りが更にメラメラと燃え上がる。
初めて自分の存在に気が付いたような様子も、すぐに怪訝そうな表情へと変わったのも許せなかった。
きっとこいつは「アーネストがエメラインに危害を加えようとしたから傷を負った」と思っているに違いないのだ。
何て友達甲斐の無い奴だ。殴ってもいいかな。いいだろう。許されるはずだ、と怒りのままにぎゅっと拳を握り締める。
「アーネスト様は私を助けて下さったんですよ。傷はその時にできてしまったんです」
「そうだったのか……。お前とエメラインは仲が悪いから少し疑ってしまったよ。頑張ってくれたのに心無い勘違いをして本当にすまない。そしてありがとう、アーネスト。彼女を護ってくれて」
「くっ……」
アーネストは握りしめていた拳を降ろし、俯いて歯をギリギリさせた。
こうも素直に謝られてしまうと、怒りのやり場がなくなってしまうではないか……!
「うんうん、誰かを護って傷つくとはまさに騎士の鑑。素晴らしいじゃないか」
(なんだと……!?)
アーネストは咄嗟に自分の耳を疑った。さっきまで悪意たっぷりで絡んできた性悪神が、晴れやかな笑顔で自分を褒め称えているのだ。ギョッとせずにはいられない。
「あ、ありがとうございます……」
戸惑いつつ礼を述べると、更なる驚きがアーネストを襲った。
「ついでにこいつの傷も治しといてあげるよ。でも傷がちょっと深いから治癒に時間はかかるかも。君たちは先に山小屋に戻って待っててくれる?」
「まあ、ありがとうございます。是非ともよろしく――」
「いやいやいや! そんな恐れ多い……!」
勝手によろしくしようとするエメラインを遮り、アーネストはぶんぶんと首を振る。
有難い申し出ではあるが、何だか裏がありそうで怖い。これは拒否するべきだと本能が訴えている。
「良かったじゃないか、アーネスト! お言葉に甘えるべきだ。神様に治癒していただけるなんて、滅多にない事だぞ」
「グライス子爵、是非そうしたまえ。断る理由などあるまい。傷は早く治した方がいいからな。それに遠慮も過ぎれば慇懃無礼になるぞ」
しかし二人から畳みかけられてしまい、退路を断たれたような気分に陥った。特に伯爵の態度はあからさまである。
自分には笑顔なんて見せない人が、満面の笑みを浮かべて言葉の圧力をかけてくるのだ。
嫌な予感しかしなかった。
「じゃあ治療が終わったら僕が麓まで連れて行ってあげるよ。それなら文句ないでしょ?」
いつの間にか隣に来ていたカルナートが、自分を見上げて邪気の無い笑顔を浮かべている。
もはや観念するしかなくなったアーネストは「お願いします」というより他なかった。神さまにこんな風に言われたら、断れるわけがないのだ……。
お前ら、いつか覚えていろよ、とアーネストは恨みの念を抱きつつ皆を見送った。
その間にもカルナートは色々と喋っていたが、内容は他愛もないものである。しかしこの一癖も二癖もありそうな彼がこのままで終わるはずがないのだ。
「さあて、アーネスト君、本題に入ろうか。僕ね、思うんだ。気になるからって年下の女の子を虐めるのはどうかなあって」
案の定、皆の姿が見えなくなると、カルナートの攻撃が早速始まった。
「何の事ですか……?」
エメラインの事を言っているというのは何となくわかるが、気になるという言葉は受け入れられない。それに虐めた記憶もない。ただ単に自分は嫌いだと言っただけだ。
「シラを切っても無駄だよ。最近あったでしょ、心が動かされること。僕にはわかっちゃうんだなあ」
確かに昨晩はグラッと来た。自分に向けてもらいたくてたまらなかった、あの花が綻ぶような美しい微笑みを向けられて――
(いや、違う! 断じて違う! あんな風に感じたのは気のせいだ。絶対に気のせいだ!)
自分は素直で愛らしいミシェルが大好きなのだ。騎士たる自分が二心を抱くなんてあり得ない。
「可愛さ余って憎さ百倍ってね。昔から素直になれなくてついつい意地悪言っちゃってたんでしょ? 君みたいのが拗らせちゃうと大変だよねえ」
「うっ……」
ずっと否定し続けていた事実を突きつけられて、アーネストの心はぐっさりと抉られた。
このままでは自分の心を全て見透かされてしまう。アーネストは恐怖と羞恥で逃げ出したくなったが、どういう訳かまるで拘束でもされているみたいに身体はぴくりとも動いてくれない。
「何なら素直になる魔法かけてあげようか? 身体も心も素直になるやつをさ」
そんなことをされたら――
思わずアーネストは未来を想像する。
事が終わったら、自分はきっとすぐさまミシェルの元へ行くだろう。彼女にずっと打ち明けたかった思いを告げに。それも余計な一言を交えて。
「君を愛しているんだ。どうか俺と結婚してくれないだろうか」
「嬉しい! ずっと待ってたの。一生私だけを愛してね……!」
「それはできない。実はエメラインの事もちょっとだけ気になっているんだ」
「何ですって!? そんなこと堂々と告白するなんて信じられない! この最低男!」
激怒したミシェルによって張り倒された後は、醜聞だってあっという間に広がるに違いない。やがてそれはギデオンの耳にも伝わり、愛想をつかされ縁を切られてしまうのだ。
仕事もきっと上手くいかなくなる。王のダジャレを「聞くに堪えない」とはっきり本人にと告げてしまい、怒りを買い、そして瞬く間に落ちぶれて行く自分……。
そこまで想像して、アーネストは力なく首を振った。
「お節介は、結構です……」