第十三話
相田から連絡を受けた涼子は、街の外周部から内部に向かって少しずつ結界を狭めていった。他の草薙の分家や、時には教会の者と協力し、内に向かう論理結界を編み上げる。
戦闘は、もっぱら琢馬の役目だった。ハンスもまた、涼子達と合流し、怪異を潰して廻っている。
「しっかしあんた、どういう気まぐれだ? 俺たちに襲いかかるかと思ったら、協力してくれるだなんて」
「五月蠅い。こちらにはこちらの事情というものがあるのだ。貴様らに力を貸すのは本意ではないが、世界がこの有様では仕方があるまい」
言いながらも、ハンスは喜びを感じていた。涼子のために戦える自分に。
それだけに琢馬のことが気に食わなかった。
ここ津島の街は、それほど大きな街ではない。異界と化した闇の勢力圏の外周を一週するのに、涼子達は二時間もかからなかった。
もちろんこれは吸血鬼とハンスの身体能力のなせる技であった。風のように速く、それでいて立ちふさがる怪異を打ち砕き、結界にて浄化する。
作業開始から五時間が経過し、いよいよ大詰めとなったところで、ひょっこりと人影が三人の前に姿を現した。
「ご苦労であった諸君。もうすぐすべての怪異は取り除かれるじゃろう。まさかここまで迅速に事をなすとは、やるものじゃのう。呵々」
「エーテリンデ!」
「この異界化、貴様の仕業か?」
「さて、そうであると言えばあるし、違うと言えば違う。この地はもともと異界化しやすい気質であったところ、我はただすこし背中を押してやったに過ぎん。原因は、草薙の血そのものじゃよ。それは誰よりもおぬしが知っておるじゃろう、のう、我がもう一人の愛し子よ」
「愛し子というのをやめなさい! 虫酸が走るわ」
「呵々、我も嫌われたものじゃのう」
「何をしに来たのだ吸血鬼。返答次第ではこの瞬間ぶち殺すぞ」
「おう、教会の者までおるのか。それならば話が早い。なに、今の我はただのメッセンジャーであるからして、そう殺気立つでないぞ」
からかうように言い、エーテリンデは指を草薙の屋敷の方角に指し示す。
「ほれ、我が愛しき娘よ。そなたの妹があそこで待っているぞ。姉妹仲良きことは美しきかな、じゃて」
口調の中に、メッセージが込められていた。娘、姉妹。それは単純な、そのままの意味であり、同時に別の意味を孕んでいた。
「なんですって、まさかあなた――」
「そうじゃ。血を吸うた。健気なことよの。そなたの妹は、そなたのために、人であることをやめおったわ。元々の気質が魔に傾倒していたのじゃろうが、なかなか大した奴じゃったぞ」
「なんということを……!」
「そなたの時と違い、これは本人の自由意志によるものじゃったんじゃがなあ。それに、そもそも、そなたの時は正当防衛じゃったとおもっとるがの。呵々」
「あなたがどんな甘言を弄して楓を誑かせたかは知りませんが、わたくしはあなたを絶対に赦しませんわ。その首、地の果てまででも追いかけて落とします」
闘気が膨れあがる。いまやこの場は一触即発であった。
「それもいいがの、今は一刻も早く異界を何とかするのが先決じゃろうて。ほれ、早く行くがよい。我もすぐに向かう。この巨大な異界を一箇所に集めて形を成したら、さて、一体どれほどの化け物ができることじゃろうな。今から楽しみじゃわい。呵々、呵々呵々呵々」
「あなたは、一体何が目的なの。どうして、私たちを愛し子と呼び、異界を鎮めるの」
「まあ、我にもいろいろと事情があるんじゃよ。語るべき時が来たら教えようぞ。恥ずかしい昔語りになるんじゃがの」
それは、草薙とエーテリンデの過去そのもの、白き吸血女王エーテリンデと、それを封じた退魔師草薙の因縁であった。
◇
すべての準備は整っていた。結界は闇が世界を侵すぎりぎり手前まで凝縮され、ひとけのないところに集められていた。つまり、草薙の屋敷周辺である。
草薙家の庭に、涼子、楓、琢馬、ハンス、そしてエーテリンデが揃っていた。
広大な庭を持つ草薙家なら、どのような闇の怪異が顕れようと、一般人に被害は出ないはずだった。
「準備はすべて出来ているわ。皆さんがよろしければ、始めます」
吸血鬼となった楓が言う。魔法少女として戦った五年分だけ、その身体は魔に慣れていた。そのため、吸血鬼と退魔の血によるアレルギーもなく動けるようになっていた。
「いつでもいいわよ。始めなさい、楓」
「それでは――チェンジ、マジカルメイプル」
吸血鬼となった楓を中心に、異界が異界化されていく――夢と現実が交わり、現実が夢を浸食する。敷地内すべてを覆い、そして、涼子の結界によって一点に絞り込まれる。純然たる怪異の結晶が、皆の前に顕現した。
「黒い――エーテリンデ?」
それは、黒髪に黒いドレスを纏い、黒のルージュをつけたエーテリンデそのものだった。
「やはり我のシャドウか。この地すべての始まり、怪異の王」
「どういうことだ! 説明しろ、エーテリンデ!」
ハンスが叫ぶ。
「あやつはかつての我、その残滓よ。この地はそもそも、過去の我の出現によって異界化しやすくなっていたのじゃ。そうじゃな、ざっと三百年くらい前の話じゃ。呵々、あの頃は我も若かったのう。悪戯がすぎて、当時の草薙家に封じられてしもうた。その封印が解けたのが、だいたい百年ほど前じゃ。さて、我ほどの吸血鬼が、ひとところに二百年も留まったらどうなると思う? 世界は不安定になり、魑魅魍魎があふれかえる呪われた地の完成じゃ。じゃから、この津島の地に怪異が多いのは、だいたい我のせいでもある」
「つまり、あなたがすべて悪いと」
「それは言い過ぎじゃ。草薙の者が我を二百年も留めておったことこそが原因なのじゃから、まあ、共同作業と言ったところかの」
それこそが、津島の地を覆う『闇』の正体であった。
「みなさん、構えてください――来ます」
怪異の塊――黒いエーテリンデが爪を振るう。それだけで魔力の竜巻が発生し、物理的、霊的に草花をズタズタに引き裂きながら涼子達に向かった。
楓が五芒星を創り、引き留める。しかし一瞬しか持たない。
守りの力が弱すぎたせいだ。
その刹那の間に、涼子が百の五芒星を重ねていた。
五百の線と、それを縁取る百の円。
その守りを半ばまで壊して、竜巻は勢いを止めた。
ハンスが地を蹴る。聖別された銀のナイフを投げ、這うように姿勢を低くして突進。黒き姫を攻撃する。
投げたナイフは刺さったが、いささかも痛痒を感じていないようだった。それはハンスのフェイントだった。本命は直にたたき込む斬撃。
だが、祝詞が込められたその一撃は、黒いエーテリンデには届かない。
完成した魔力の渦が、ナイフごとハンスを打ち砕こうとする。
ハンスはとっさに手を離し、後退した。そうしなければ、リジェネレイトの効果も発揮できぬほど完全に破壊されていたに違いなかった。
「我は途中手出しできぬぞ。自分自身を傷つけることは出来ぬ故な。その代わり、止めは任せてもらおう」
「期待しておらんわ、化け物め」
「その通りです」
「呵々、愉快痛快じゃ」
「黙ってろよ」
次に前に出たのは、楓と琢馬だ。斬撃と殴打が左右から向かう。見えない障壁にはじかれる。それは、まさしく結界であった。
「我もまた、結界のまねごとくらいは可能ぞ。それを砕かぬ限り、傷一つ付けることは出来ぬじゃろうな」
「結界なら、草薙の血に一日の長があります」
涼子の念力と共に、浮かび上がる逆五芒星。
「俺の力も持っていけ」
紙片が舞い、飛翔する紙それぞれが十字を形作る。
黒いエーテリンデの動きが鈍る。結界の呪縛の効果だった。
だが、結界がなくなったことにより、黒いエーテリンデは凶暴性を増して攻撃を繰り出す。
一筋の黒が流れたかとおもうと、その上を強烈な衝撃波が襲った。線上に捉えられた楓と琢馬の身体から血が吹き出す。
「我が愛し子たちよ。我が影を倒せずして、我を倒そうなど無理なことよ。その旨、わかっておるであろうな」
「当然!」
痛みに耐え、再度琢馬が飛び掛かる。楓はそれを援護する形で、突きを放つ。
琢馬の右拳がシャドウの左拳とぶつかる。力が拮抗する。楓の刀がシャドウの右手の爪とぶつかる。こちらも拮抗する。
須臾の間に、吸血鬼の力を使った涼子が走り抜け、斬撃を加えた。結界込みの一撃。
振り向いて、もう一撃放とうとしたとき、見えない何かに押し戻された。黒いエーテリンデの念力。斥力が働き、三人は一旦引き離される。
「魔力は膨大ですが、接近戦なら三人以上でかかればいけそうですね」
「ああ、俺と楓が同時に攻撃して互角ってところか。確かに強いが、なんとかなりそうだ」
「……よかった。一人じゃなくて。今わたしは、一人じゃない」
孤独に五年間を戦い抜いてきた楓にとって、この戦いは大きな意味を持っていた。
自分が隙を晒しても、補ってくれる仲間がいる。それだけで、楓の動きは見違えるほど輝かしいものとなった。
戦闘力で大きく劣る琢馬だが、攻撃力では他の誰と比べても遜色ないものがあった。吸血鬼の力とは、それほどまでに強い。その一撃を当てるべく、楓はサポートに徹することにした。相手の攻撃を防ぎ、空間を塞ぎ、刀を振るって牽制した。そしてその間に、琢馬の殴打は確実にダメージを積み重ねていた。
前線で戦っているのは、なにも楓だけではない。
涼子とハンスも、さすがの攻撃だった。払い、突き、かと思うと下がり、サポートとして結界を飛ばす。相手の結界を中和する。
「呵々、そなたら四人は強いのう。我のシャドウを相手に、そこまで善戦するか」
シャドウは、痛みを感じていないかのように傷を再生させ、攻撃を繰り出す。しかしその動きは単調であった。百戦錬磨の三人に当たるはずがなかった。琢馬に当たりそうな攻撃は、涼子と楓がカバーした。
「完成したわ!」
唐突に、涼子が叫んだ。大結界――相手を縦横無尽に切り裂きながら、涼子は悪魔退治の文様を地面に描いていた。十二芒星。一つの頂点から六つの直線が向かい合う頂点に伸びた、複雑な幾何学模様。
「全員、退いて!」
涼子の号令で、皆その場から大きく跳び退る。次の瞬間、十二芒星の頂点に降り注ぐ銃撃。
二丁の拳銃から放たれる十二の弾丸。
狙い過たず、結界の基点に楔を撃ち込み、結界は炸裂した。
白い柱が立ち上る。これに触れて無事でいる魔は、いないはずだった。
「ほう。これはなかなか、見事なもんじゃな。これが我が愛しき娘の奥の手か。今の我ですら打倒しかねん。いや、まったく素晴らしいわい。やったかのう。呵々」
光が止み、中にいた存在が姿をあらわす。黒きエーテリンデは、その肉体を維持できぬほどぼろぼろになり、浮遊魂のごとく漂っていた。だが、まだ滅びてはいなかった。
不意に、楓が刀を閃かせ、白いエーテリンデに――実体のあるエーテリンデに斬りかかる。
ハンスも同様だ。十字を模した銀のナイフを振りかざし、エーテリンデに攻撃を加える。
爪先ひとつでいなしながら、エーテリンデは言う。
「やはりおぬしら、狙っていたな。この瞬間を」
「狙っていたのはあなたでしょう。そうはさせないわ。絶対に」
「化け物め。貴様の好きにさせるものかよ」
「鋭いことじゃ。教会の男はともかくとして、楓もか。伊達に我のシャドウの先兵と戦い続けていたわけではないということかのう」
「姉さん! 黒いエーテリンデを早く完全に滅して!」
「――わかったわ、楓!」
「させぬよ!」
同時に四つの影が動いた。
一つは涼子。まっすぐ黒いエーテリンデに向かう矢のような突進。
一つは楓。とにかく白いエーテリンデを攻撃し、動きを止めさせるように
一つは白いエーテリンデ。己がシャドウを身に取り込み、完全なる自分を創りあげるために。
一つは琢馬。エーテリンデの命に従い、草薙姉妹の邪魔をする。
黒いエーテリンデは、その動きに呼応して、白いエーテリンデに融け込むかのように、合体を迎えた。
朧な存在となった黒いエーテリンデの首筋に、吸血鬼の牙が突き立てられる。
シャドウが、エーテリンデを満たしていく。存在そのものを吸い尽くして、吸血女王エーテリンデは高らかに嘲笑った。
「呵々、呵々呵々呵々! 惜しかったのう、草薙の血統よ、教会の狗よ、我が愛し子たちよ! 我を滅する最大の機会だと、気付いていなかったのは草薙涼子、そなただけかえ? 我がシャドウが滅べば、我もまた無事では済まぬゆえなあ」
「くっ……!」
「じゃが、これで我は完全なる我を取り戻した。三百年ぶりじゃ、この力……吸血女王と呼ばれた我の、復活祭じゃ。今宵は派手にパーティといくかのう? 捧げる生け贄は、何千人がいいかのう」
その場にいるだけで邪悪とわかる、それがエーテリンデの本性だった。
「呵々、この滾る力、そなたらにもわかろう。我が愛し子たちよ」
煌々と冴える上弦の月の下で、エーテリンデは自らの復活を告げる。
「気付いていたのかのう、それとも気付いていなかったのかのう。我が愛し子は、もはや完全に我の虜となっていたことを。三文芝居のような啀み合いを見せたものじゃが、さて、最後の最後で役に立ってくれたわい」
琢馬は、完全に闇の住人だった。気付いてしかるべきだった。楓とハンスは燻しかんでいたのだろう。だが、何もかも手遅れだった。
「悪いな、草薙。俺は吸血鬼として生まれ変わった瞬間から、エーテリンデの寵児なんだ。はは、マザコンだって笑ってくれてもいいんだぜ」
「藤堂、草薙の分家でありながら、なんてことを……恥を知りなさい!」
「あんただって吸血鬼だろう。恥もなにも、今更さ。ああ、まだ俺が人を襲ってないってのは本当。ただし、それも次の満月の日までだろうな。なんたってほら、母さんが誕生日なんだ」
「しかり、じゃ。我と供に生きる吸血鬼が、人から血を吸えないなどというては恥ずかしいからな。その日になったら礼儀作法から教えてやるぞ」
「はは、楽しみだな。それにエーテリンデの機嫌も最高だしね。俺も自分のことのように嬉しいよ」
「言うてくれるわい。我はこんなようできた愛し子を持てて幸せじゃ」
「……させはしないわ。絶対に」
「さて、草薙の血脈よ。そなたらも我が愛し子じゃ。愛情を注ぐのは当然じゃて、一緒に殺戮してまわらぬか? きっと楽しいぞい。呵々」
まるで家族を遊園地に誘うかのような気軽さで、エーテリンデは嘲笑った。
「ここで滅するわ。楓、ハンス、いけるわね」
「ええ、問題ないわ」
「化け物、滅ぶべし」
「呵々、呵々呵々呵々。先の戦闘で消耗した汝らなど、我と我が愛し子の敵ではないわ。いや、たとえ万全の状態であったとしても、我の敵ではなかろうがな」
はたして、その通りだった。誰の目で見ても、エーテリンデの力は絶対的なものだ。それでも、草薙姉妹は諦めはしなかった。退魔師であるが故に。
「まあ、ここで汝らを殺してもいいが、いささか風情に欠けるわい。我と契約をせぬか。我らは次の満月まで人を襲わぬ。次の満月の日、そなたらは全力を尽くして我に抗え。我を楽しませよ。呵々、楽しみは後に残しておくのが我の流儀じゃ」
「エーテリンデ、そんな約束をして大丈夫か? こらえ性のないエーテリンデのことだから、約束を破ってしまわないかな」
「おぬしは我をなんだと思っておるのじゃ。我は悪魔ぞ、闇の首魁たる吸血女王ぞ。この血にかけて、約束は必ず果たすわい」
「……いいでしょう。確かに今、勝ち目はなさそうね。その条件、飲みます」
「まあどれだけ準備を整えたところで無駄じゃろうが、楽しみにしておるぞい。ああ、気が変わったらいつでも申すがよい、我が愛し子たちよ。共に夜を楽しもうぞ」
「絶対に、絶対にあなたを滅してみせるわ。草薙を嘗めないで」
「わたしも姉さんと同じです」
「俺にとってやることは最初からなにも変わらん。ただ化け物を駆逐するだけだ」
エーテリンデと琢馬が霧となって消える。
そうして、この夜は終わりを告げた。