第1話「四人の少女たち」
「疲れたな……」
あなたは会社の窓から夕方の空を見上げて、今日何度目かのため息をついた。
特別つらい出来事があったわけではない。
朝になれば会社へ向かい、目の前の仕事を一つずつ片づける。
誰かに頼まれれば笑顔で応じ、理不尽なことがあっても、適当に折り合いをつける。
そんな、ごく普通の一日だった。
けれど、同じような日々が積み重なるたび、心の奥に少しずつ重たいものが沈んでいく。
そしてそれと引き換えに、少しずつ何かを失っていくような気がしていた。
* * *
会社を出たころには、夜もすっかり更けていた。
駅からの帰り道。
コンビニに立ち寄り、夕食を選ぶ。
何を食べたいのかも、よくわからない。
適当に目についた弁当と飲み物を手に取り、会計を済ませる。
部屋に帰っても、もちろん明かりはついていない。
「——ただいま」
そう言ってみたところで、返事をする者はいない。
靴を脱ぎ、コンビニの袋をテーブルへ置く。
温めた弁当を食べながら、スマートフォンを眺める。
楽しそうな家族の写真。
仕事の愚痴。
株価の話。
誰かの成功と、誰かの失敗。
指先で画面を滑らせるたび、見知らぬ人たちの呟きが流れていく。
特に心に残るものはないけれど。
食事を終えると、あなたはベッドへ横になった。
まだ眠るには早いので、ちょっと休んでからシャワーでも浴びようと思っていた。
薄暗い部屋の中、スマートフォンの光だけが浮かび上がっている。
何を見るという目的もなく、SNSのつぶやきを流し見ているうちに……
いつの間にか、あなたの意識はまどろみの中へと沈んでいった。
* * *
——つんつん。
頬に、何かが触れた。
——つんつん。
もう一度。
スマートフォンの振動ではない。
どうやら、誰かが頬を指先でつついているようだ。
あなたは重たいまぶたを、ゆっくりと開いた。
「あっ、目を開けたよ!」
「大丈夫かな……?」
誰かが会話をしているようだ。
ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
最初に見えたのは、星空だった。
その空を覆い隠すように、四人の小さな女の子が、興味深そうにあなたの顔を覗き込んでいた。
「もしもーし、大丈夫ですかー?」
声をかけてきたのは、もふもふの尻尾を持った女の子だった。
顔にはレッサーパンダのような模様があり、あなたと目が合うと、嬉しそうに身を乗り出してきた。
「ねえ、起きられる? 痛いところない?」
どうやら先ほどから頬をつついていたのは、この子らしい。
「ねむぱんちゃん、急に近づいたら驚かせちゃうよ」
薄茶色のローブを着た少女が、ねむぱんと呼ばれたレッサーパンダのような女の子を優しくたしなめた。
心配そうにこちらを見つめているが、その声色は穏やかだった。
しっかり者なのだろう。
ソワソワしているねむぱんとは対照的に、落ち着いてあなたの様子を確かめている。
「身体を起こせそう? ゆっくりで大丈夫だよ」
差し出された手を借りて、あなたは上半身を起こした。
「ありがとう。えっと……」
「私は、みっちゃんだよ」
みっちゃんは、あなたを安心させるように微笑んだ。
その後ろから、別の女の子がじっとあなたを観察している。
トイプードルの着ぐるみに身を包んだ女の子が、腕を組み、何かを見定めるように目を細めている。
「ふっ……ついに覚醒の時を迎えたか」
「え?」
「境界を越え、この世界へ導かれし者よ。我が名は——」
「にむしちゃんだよ!」
トイプードルの着ぐるみの女の子の代わりに、ねむぱんが元気よく答えた。
「なっ……! 我が真名を告げる儀式を妨げるとは!」
にむしと呼ばれた女の子は、不服そうに頬をふくらませた。
「もう、にむしちゃんったら……」
その様子を見て、みっちゃんが困ったように笑っている。
そして、その後ろにもう一人。
三人に隠れるようにして、ひときわ小さな女の子がいた。
頭には、小さな王冠が載っている。
「そして、私は女王ですわ!」
彼女は堂々と名乗って、えっへんと胸を張った。
「……えっと、君の名前は?」
「女王ですわ」
どうやら本人は、それで名乗ったつもりらしい。
「——それで、ここはどこ?」
あなたが尋ねると、女王は待っていましたとばかりにブワッとマントを翻した。
「よくぞ聞いてくださいましたわ!」
小さな王冠をきらりと輝かせ、女王は高らかに宣言する。
「ここは——『株クラRPG』の世界ですわ!」
「か、かぶくら……?」
聞き覚えのない名前だった。
改めて辺りを見回してみる。
夜風が吹き渡る草原。
遠くには、山々が黒い影となってそびえている。
つい先ほどまで、あなたは自分の部屋にいたはずだった。
ベッドで横になり、スマートフォンを眺めていて——。
そこから先の記憶は、ない。
「夢……なのかな」
自分の頬に触れてみる。
そこにはねむぱんにつつかれた感触が、まだ残っている気がした。
風が草を揺らす音も、土や花の匂いも、夢にしてはあまりにはっきりしている。
「難しいことは、あとで考えようよ!」
ねむぱんが立ち上がり、あなたへ手を差し出した。
「せっかくここに来たんだもん。私たちと一緒に遊ぼう!」
「遊ぶ?」
「うん! タイピングバトル!」
聞き慣れた単語と、聞き慣れない単語が組み合わさっていた。
「タイピングで……戦うの?」
「そうだよ。私たち四人と勝負して、全員に勝てたら——」
ねむぱんは、そこで言葉を切った。
そして瞳を輝かせながら、にっこりと笑う。
「とってもいいものをあげる!」
「ほう……貴様、我らに挑もうというのか」
にむしが不敵な笑みを浮かべる。
「えっ、まだ何も言ってないけど……」
「大丈夫。最初は私たちが教えてあげるから」
みっちゃんも、すでにあなたが参加するものと思っているようだ。
そして女王は、腰に手を当てて胸を張った。
「あなた! この私に勝てるかしら?」
なぜか、彼女はとても自信満々だった。
突然のことで状況がよく飲み込めない。
けれど——。
ワクワクしてたまらないという様子の四人を見ていると、バトルを断る理由も見つからなかった。
何より、彼女たちの楽しそうな笑顔を見ていると、先ほどまで身体に染み付いていた疲れが、いつの間にか軽くなっているような気がした。
「わかった。やってみるよ」
あなたは、差し出されたねむぱんの手を取った。
「やったー!」
ねむぱんが、あなたの手を引いて駆け出す。
「こっち、こっち! 早く行こう!」
「わっ、ちょっと待って……!」
こうして、あなたと四人の少女たちとのタイピングバトルが始まった。
この出会いが、忘れられない一日の始まりになるとも知らずに——。




