「エピソード23 中世編:動転、動点、気相転導。『選択の儀 ≪動顛(どうてん)遍≫』」
作者は夢から覚めた──と思った。
あれは、ただの幻だったのだろうか。
けれども、視界に広がったのは、彼の自室ではなく、彼女の部屋だった。
柔らかな光がカーテン越しに差し込み、埃さえも金色に輝いている。
(あいたた……)
胸の奥に雷鳴のような鈍痛が走った。
夢の余韻に体がまだ囚われている。
ナーレの家には鏡がなかった。
自分の姿を映すものはなく、私は窓辺にそっと身を寄せ、外の世界を見つめた。
世界は信じられないほど美しく、昨日の嵐がまるで夢の中の戯れのように思えた。
風は穏やかに揺れ、木々の葉先で小さな光が瞬く。
遠くで鳥が囀り、どこまでも澄んだ空が広がっていた。
ナーレはまだ、心の奥で夢と現実の境を見失い、放心のまま自分の世界を見返していた。
彼女の瞳には、昨日の嵐も、そして今日の光も、同じ色を帯びて映っている。
【おはよう、ナーレ。
今日もまた、新しい一日が始まるよ。
さあ、学校に行こう──】
言葉は柔らかく、しかし確かに、彼女の心に触れた。
切り取られた日常のひとコマが、静かに、しかし確かに繋がり、流れ始める。
目に見えぬ糸で結ばれた時間の中で、彼女の世界は少しずつ動き出した。
新たな門出──
新しい今日。
初めて息をした朝のように、すべてが新しい。
見果てぬ今、
見果てぬ未来、
見果てぬ過去。
すべては、揺れ動き、重なり、繰り返される。
日々は、風のように、光のように、そして影のように──
────常に動顛していた。
鼓動だけが、独りでに響いていた。
目を何度も瞬かせるうちに、部屋の中がゆっくりと白み始める。
(あの“影”は、いったい何だったのだろう──)
私の心に焼きついたその存在は、
何も告げず、まるで生まれた深淵へと還っていった。
「選択の儀」は、今日───。
それはわかっている。
わかっているのに、不安は胸の奥から消えない。
もう、準備することに意味があるのかも、
わからなくなる──。
その感情は、底なしの水面のように、
静かに、音もなく、心を染めていく……。
私は目をまた瞬かせた。
初めて息をした朝のように、世界はすべて新しい。
遠くで鳥が囀り、どこまでも澄んだ空が広がっている──
そう思うだけで、胸が震えた。
世界は、信じられないほど美しかった───
夢の中のすべてが、戯れのように思えた。
全てが戯れのように──
異常に、いつも通りだった。
誰にだって、そんな瞬間はある。
ただ、今日それが──
私であるだけのこと。
そう───御伽噺。
御伽噺は、いとも容易く、脆く、
しかし確かに存在していたもの。
それが、何の前触れもなく毀れるものだとは──
この時の私は、まだ知る由もなかったのである。
***********
私は、今日が昨日の続きなんだと、
ブイヨンスープを啜りながら思った。
いつものスープとは違った。
テーブルの上に置かれたそれには、
昨日の雄鶏から滲み出した、琥珀色の油がゆらりと浮かんでいる。
その違和感が、今日という日がただの一日ではなく──
「特別」なのだと、否応なく私に意識させる。
そして思いがけない出来事が起きた“昨日”の余韻が、
改めて胸の奥で静かに蠢くのを感じた。
私は台所にいるお母さんに目を向けた。
お母さんはいつもと変わらず、鍋が沸騰しないように、
お玉でゆっくりと、丁寧にかき混ぜていた。
「ナーレ? 不安なの?」
お母さんが、ちらりとこちらに顔を向けて訊いてきた。
【ううん──不安じゃないよ】
「不安だよ……昨日は、全然眠れなかった」
私はそう答えながら、木のスプーンでボウルをコツコツと鳴らし、目を逸らした。
「そういう時はあるわ。どれだけ準備しても、
予想できない角度から狙い撃ちされることって、あるものよ」
【そうだよ──どれだけ足掻いても無駄さ。
君を狙い撃つ、君を見つめているのさ──】
「そういう時って……どうすればいいの?」
私は不安を吐露した。
「そうね……」
お母さんはふっと遠くを見るような眼で、玄関の方を覗き込む。
【やあ……マダム。
昨日はどうも。大変馳走でしたよ。
本日は引率係なんですよ──】
数分の間、微動だにせず、黙り込んでいた。
「お母さん? どうしたの?」
「えっ? ……何でもないわ」
そう言い終えると、お母さんは再び鍋と向き合い、静かにお玉を動かした。
「おーい、ナーレ、まだ食ってんのかよ……」
そんなやり取りの最中、ぽっと現れたフィーネが、玄関口にも凭れ掛かっていた。
「いつからそこにいたの?」
「いつからって? 今だよ」
「もう、それくらいにして行かないと──また遅刻になるわよ」
フィーネは腕を組み、鋭く睨む。
「分かったわよ。それで、『選別の儀』ってどこでやるのかしら?」
私は慌てて自室に戻り、修道服を手に取り、急いで着替え始めた。
「ナーレって、少しくらい恥じらいってもんがないのか?」
「恥じらい? ここ、女しかいないでしょ?」
修道服の中からそう返すと、
フィーネが呆れたようにため息をついた。
【いんや──私がいるぞ。
もう少し、情緒ってもんが欲しいなぁ、お嬢さん。
これまでのことを予習するんだからさ──】
「そういうことじゃないんだよ。元々じゃじゃ馬みたいなお前はさ……」
「私はじゃじゃ馬じゃないわよ? どっちかっていうと、駿馬!」
私は修道服からようやく頭を出し、自慢げに胸を張った。
【あ~らま。
そんなぺったんぺったんで強調されてもなぁ。
情緒の欠片もないし、スッとんしてんじゃん!】
作者は揶揄した──
これから、心情的にスッとんするとも知らないナーレに向けて。
「そういうやつは遅刻なんかしないんだよなあ」
「おばさーん、この駄馬は私が引きずって行きますんで!」
フィーネはお母さんにぺこりと頭を下げる。
「あらま、駄馬ですって?」
お母さんが微笑みながら私を見る。
「駄馬じゃないってば!」
「はいはい。さっさと行ってらっしゃい」
お母さんは、このやりとりが面倒くさくなったのか、
私を玄関までぐいっと連れて行って、フィーネに押し付けた。
「いってきまーす」
フィーネと私は同時に声をそろえ、出発した。
「で、結局『選別の儀』ってどこでやるの?」
私はもう一度、フィーネに訊ねる。
「教会の地下に儀式の場所があるらしいよ──又聞きだけど」
「教会? そんなのあったっけ?」
学院の地図を思い出そうとするけれど、ほとんどが朧げで、白紙のようになっていた。
「あるよ、ほら。東端の方にさ」
【朧げっていうか、そこにあるってだけで、
未だないんだなぁコレが!】
作者は、まだ教会を造っていなかった。
ぼんやりと、校舎の東側の窓から見える小さな教会の姿が思い出される。
確かに、目にしたことはある。
けれど一度も近づいたことがなかったから、
すっかり記憶から抜け落ちていたのだ。
「教会の地下でやるんだ……」
「らしいよ。中で何をするかまでは分かんないけどね」
フィーネは、又聞きしたという事象を強調する。
「とりあえず、教室行こうか」
フィーネが私の手をつかんで、引っ張ろうとした。
「自分で歩けるわよ、学院くらい」
私たちは見つめ合い、思わず笑い合った。
【なんだよ……おじさんは抜きか?
その間に割って入っちゃおうぞ♪】
作者は二人の背を臨みながら、校舎に向かう。
「そうか? 駿馬だって手綱くらい引いてやる必要あるんじゃない?」
フィーネはニヒルな笑みを浮かべ、私に手を携えてきた。
「そう? じゃあ、エスコートお願い」
「仕方ないなあ」
フィーネは手を離し、私の隣に並ぶ。
「エスコートはするけど、必要な時だけだかんな。」
「必要な時は言うわ......」
短いやり取りのあいだに、朝の光が二人の影を並べて長く伸びていた。
「……」
ふたりは笑い合いながら、学院へと歩を進める。
道はデコボコでも──
それでも、同じリズムを刻みながら、坂を登り始めた。
「ねぇ!? 走っていかない?」
「あぁ! 誰かさんのせいで、また遅れそうだ!」
私たちは駆け出した。
それでも、同じリズムで、ちゃんと歩ける──
今という転歩を、確かに刻みながら。
皆様、最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
『第二十三話「選択の儀 ≪動顛遍≫」』における、プロットや物語進行の意図を、少しでも感じ取っていただけていれば幸いです。
異様な昨日の先は──
異常ないつもの日。
作者も、22話を夢見た後で、現実感がない。
きっと──
これもまた、夢の続きなのだろう。
世界は、信じられないほど美しかった───
夢の中のすべてが、戯れのように思えた。
全てが戯れのように──
いつも通りだった。
誰にだって、そんな瞬間はある。
ただ、今日それが──
私であるだけのこと。
そう───御伽噺。
御伽噺は、いとも容易く、脆く──。
「確かに、存在したんだ、もん!」
それが、何の前触れもなく毀れ、
指の隙間から零れ落ちていく……。
この時の私は、まだ知る由もなかったのである。




