杖なしの魔法使い
キィィン……
一瞬だった。
拳を振り下ろしたテッドとリリーを抱きしめるルークの間に透明な膜が張られ、テッドの拳を弾いたのだ。
テッドの拳に膜から衝撃が反転して返ってくる。
その衝撃は、本来ルークが受けるはずのものだった。
突然の痛みに、テッドは叫びながら後ずさる。
意識が朦朧としているルークは、衝撃が来ないことを不思議に思いテッドのほうを向く。
そして、ここにいるはずのない人物が立っていることに大きく目を見開いた。
(また幻覚かよ…………)
目の前に立っているのは、ローブからのぞく銀髪を高いところでひとつに結んだクレアだった。
ルークはここに連れ去られる前のように、また幻覚を見ていると思った。
都合のいい、俺を助けてくれる誰かとしてクレアが見えたんじゃないかと思っているようだ。
クレアはルークのほうを向いて悲惨な光景を目の当たりにしたような目でルークを見た。
ルークの服は泥だらけで、ところどころ破れている。
破れた場所からのぞく体は、肌色とはかけ離れた鮮やかな青や紫色の痣が波紋が広がるように散っているのが見える。
頭からは血を流し、目は虚ろで、クレアと焦点が合わない。
ここまで痛めつけられていたとは思っていなかったのか、クレアは後悔に顔を歪ませる。
クレアはルークの肩に手を置いた。
『鎮静』
クレアの言葉のあと、ルークは突然脱力してその場に倒れ込んだ。
一時しのぎでしかないが、痛いよりはましだろう。
そして、クレアがルークの頭上に手をかざすと、途端にルークとリリーがすっぽりと収まる大きさの魔法陣が現れる。
「警備舎まで_____『飛ばせ』」
次の瞬間、さっきまで倒れ込んでいたはずのルークとリリーがもともといなかったかのように姿を消した。
クレアが2人がいた場所をじっと見つめていると、背後から拍手が聞こえた。
フードを目深にかぶっていて、顔は見えない。
クレアが警戒すると、フードの男は乾いた笑いをする。
「やはり、銀の魔女は素晴らしい…………!!
詠唱の仕方、魔法陣の美しさ、どれをとっても素晴らしい!
杖なしなのも素晴らしい………。
ここで会えたのも、何かの縁です。一緒にお茶をしませんか?」
男の自分本位な言動に、クレアは俯いた。
場の気温が下がり始めた。
空気が張り詰め、無言が続く。
永遠に沈黙が続くと思われていたが、その沈黙を破ったのはクレアだった。
クレアは顔を上げる。
瞳から光は消えていた。
「断る」
次の瞬間、クレアの足元に巨大な魔法陣が何個も出現した。
全ての魔法陣が違う幾何学模様を何個もモチーフにして成している。
魔法陣が出現しただけで地面に霜が降りる。
風が強くなる。
クレアの結ばれた銀髪が荒く揺れる。
「____『貫け』」
クレアが男を睨みながら呟くと、クレアの周囲に鋭利な氷の剣が何本も現れ、男に向かって目に追えない速さで飛んでいく。
無防備な男は向かってくる剣を見て不吉な笑みを浮かべた。
『щакдкря』
ガキィィン……!
風が起きて埃が舞い上がって、何も見えなくなる。
視界がよくなるのを待つよりも前に、クレアは自分の魔法が防がれたことを察した。
(防御結界……)
予想通り、クレアの魔法は男の防御結界にヒビを入れるだけで防がれていた。
「……はは、まだ本気じゃないってことですか。
んー、面白くないですね……」
つまらなさそうな声の男は防御結界を壊し、今の魔法の衝突によって吹き飛ばされてしまったテッドに近づく。
テッドは先ほどのクレアの結界によって受けた衝撃に未だに悶えていた。
男はテッドを見下ろしながらも、頭に手を置いた。
『ейдбфйпшм одкешжш』
男が唱えた瞬間、テッドは突然叫びだした。
そして、みるみるうちにテッドの体が大きくなり、肌が黒くなる。
クレアはテッドの体内の魔力が増大していくのを確認して、目を見開いた。
(まさか、瘴気を?)
信じられない光景だ。
今起きている現象は瘴気以外に説明がつかない。
瘴気。魔物の魔力の源。
そして、大陸中で瘴気による被害_____肌の変色、魔力過多症など_____が出ている。
テッドの変化は瘴気の被害ととても似ている。
テッドは元の体長の2倍ほど、約4メートルもの巨体を真っ黒に染め上げ、魔物のように雄叫びを上げた。
雄叫びの大きさに建物が破壊されて吹き抜ける。
「はは、驚かれましたか?これが全知全能の力ですよ。奇跡のような力ですよね………」
ほぼ魔物化したテッドをうっとりとした声で紹介した男は宙に浮いて、空高い場所まで移動する。
「テッド、銀の魔女を大人しくさせてください」
あくまで自分は鑑賞する側だというように、男はケラケラ笑いながらテッドに命令した。
魔物化したテッドが聞けるはずないと思っていたが、主人の命は絶対と言うように、テッドはもう一度雄叫びを上げた。
命令が聞こえているようだ。
クレアは唾を呑み込んだ。
互いに見つめ合う。
相手がどう出るか探っている。
先に動いたのはテッドだった。
テッドの口が青く光り出したと思うと、濃密な魔力がこもったものが太い線となってクレアへ発される。
『護れ』
クレアはすぐに結界を張り、テッドからの攻撃を受ける。
キィィィン…………ギギギ
結界が削れる音がして、クレアは層を増やして対策する。
目の前は青い光でいっぱいで何も見えない。
結界の層が4回ほど張り直されたころ、攻撃が止む。
クレアの立っている場所以外の地面が抉れ、瘴気が溢れている。
あの攻撃を受けていたら、確実に廃人だっただろう。
クレアが反撃しようと魔法陣を展開しかけた瞬間、
「ツエ、ナシ………ツエナシ……コロス!!!!」
人語を発したテッドが間合いを詰めてクレアに殴りかかってくる。
近づいてくるテッドの拳。
(………くそ)
クレアは避けきれないと思ってめんどくさそうな顔をした。
テッドの拳が目の前まで迫ってきて、もうぶつかると思われたとき、一瞬にしてクレアが姿を消した。
テッドの拳を振った風圧で周囲の瘴気が舞い上がり、地上は黒に覆われる。
クレアは息を整えながらテッドを見下ろす。
テッドの攻撃の瞬間、クレアは無詠唱で空高く浮いていた男と場所を移ったのだ。
無詠唱で最大限のスピードで転移することは誰にもできることではない。
クレアだからできたと言ってもよい。
クレアは休むことなく、肩を上下させながら地上へ向かって手をかざす。
一瞬にして辺り一帯_____北の森全土、およそ5キロメートル四方_____に広がる魔法陣が現れる。
その魔法陣はひとつだが、視認できないほど細かい幾何学模様が調和しながら存在している。
魔法の強さは魔法陣の複雑さで決まる。
この魔法陣は、一般人は拝むことなく死ぬくらいの複雑さだ。
魔法に関して知識のあるものは、この世の終わりと嘆くほどの複雑さ。
しかし、目を奪われて逃げることも忘れてしまうような神秘的な美しさを持ち合わせている。
魔法陣が黄金色に輝く。
魔力がこもっていく。
濃密で包み込むようなあたたかい色を帯びて、どんどん魔法陣の魔力が膨らんでいく。
クレアはかざしていた手を勢いよく地上に向かって振り下ろした。
刹那、魔法陣から金色の光が北の森全土を包み込んだ。
何もかもが光に包まれていく。
月が昇っているはずのフレンティアが一瞬、昼のように明るくなった。
わずか5秒の出来事だった。
北の森の各地から叫び声が上がる。
人ではない、魔物たちの悲鳴。
クレアのすぐ下からも耳をつんざくような悲鳴をあげる者がいた。
テッドだ。
瘴気を吸い込みすぎたテッドの体は魔物と同じだった。
そして、テッドの叫びで聞こえないだけなのか、それともまた逃げたのか。
どちらにしろ、あの男もこの光に呑まれているはずだ。
瘴気を与えていた男は少なくとも瘴気の影響を受けているはずだ。
聖魔法の最上位、『神の鉄鎚』。
瘴気に蝕まれた土地、魔物すべてを、神が創り出したころの自然に戻す魔法。
使える魔法使いも、聖者もこの世から去ったと言われる『伝説の』魔法だ。
光を出し切り、辺りはまた元の暗さを取り戻す。
クレアは真下を見下ろした。
テッドがいた場所や、テッドが放ったことで抉れた土地は元通りになって緑が広がっている。
その真ん中、クレアが元々いた場所には、男が横たわっていた。
結局逃げきれなかったようだ。
クレアは地上に降り立ち、男に最後の一撃を与えようと近づいて足が止まった。
耳より上で切りそろえられた黒い髪、耳についているサファイアのピアス。
13歳ほどの男の子。
まさかとは思っていた。
それでも、自分を攻撃する理由が分からなくて、避けていた可能性。
「テルム………………?」