おうきゅうもの
ユノは物心ついてからノ―ケルの街を出たことはなかった。いや、本当はそれが普通なのだ。
女性、それもユノみたいな子供はまず街の外へ出て行くことは禁じられているし、女性であれば婚姻の時以外はもう、外の世界なんて望めもしないのが当たり前だ。たとえ夫が地方へ都へ働く事がきまっても女は家を守り、子を育て、夫を待つものと決められている。
ところが、ユノは働くために王宮などという場所に来ている。
「…………」
「ユノ―ついたぞ、大丈夫か?また気分悪いか?あともうちょいで王宮につくからな、身支度調えておいてくれよ?」
馬車の窓から広がるノ―ケルの街とは違う、洗練された街並みを見てユノは改めて自分が遠い場所に来たのだと実感した。
ぽかんと口を開けたまま視界に入る優美で繊細な建物を眺める。
信じられないほど細く高い塔は鐘を鳴らし、神の家はきらびやかなステンドグラスがきゃらきゃらと日の光に瞬いていた。地元・ノ―ケルはどちらかというと無骨で丈夫な物が多いのに対し、首都の人間は余程芸術性が高いらしい。例えば屋根と壁のちょっとした隙間だとか窓枠の下だとかにまで繊細な彫り物がされていてそれなのにゴテゴテとした印象がない。余程の職人でもないとこうはいかないだろう。
目に入る建物全てそんな調子なのだからユノはあと少しで目を回すところだった。これほど見事な細工はディアンの館以外に見たことがない。
鐘のある塔を上まで見ようと、首が限界になるまでうんと曲げると途端に視界は空の青と白い塔から茶色い荷馬車の天井に変わり、ユノはぽすんと固いのに柔らかい何かに倒れ込んだ。
上体のバランスを崩したのだ、と理解できると同時に背の固柔らかい何かはするりと隙間を抜け、ユノは先ほどよりは軽い衝撃で床に倒れ込んだ。
それでも痛いものは痛い。恨まし気にクッションが去った先を睨むとそれはぺらりと手元の本をめくり、何事も無かったような顔でそっぽを向いた。
「ディアン」
仰向けのまま名を呼ぶ。ディアンはちらと視線だけよこした。
「なんだ」
「痛い」
しったことか、と視線が語る。とはいえ、せっかく助けてくれたのだからそのまま腿を貸してくれてもいいじゃないか。
不満顔のままユノが這いつくばってじりとディアンとの隙間を埋めようとにじり寄る。するとディアンはどこか慌てたようにさっと立ちあがり、少しだけユノより遠い位置に腰をおろしてしまった。ユノの眉間のしわが濃くなる。
山賊事件の後、ディアンはユノとの距離を積極的に取ろうとするのだ。といっても狭い荷馬車では動けるスペースも限られているので左程の距離でもないのだが、ユノが少しだけ動くたびにディアンは距離を取る。避けられてはいないのだが、どうしてもその行動が目に入り、ユノはこの旅の間中居心地悪く、すこし悲しく、なんでといった戸惑いと苛立ちを胸に秘めていた。問いただしてもディアンはなんでもない、の一点張りなのだ。
どうしようもない。
ふくれっ面のままのユノといつもより遠い位置のディアン。沈黙が滞り、ユノが膨れるのもいつものことだが、このままではいけない。なにしろこれから研究者とその侍女として王宮に入るのだ。それなりの信頼関係を見せつけなくてはならないだろう。
「ねえディアン」
「なんだ」
返事だけはいいのに距離が可愛くない。いっそ一気に距離を縮めたらどんな反応をするのだろうか。少しだけ試したい気もしたが、ユノは誘惑をはねのけた。身を起こし、今度はちゃんとディアンを向き直った。
「レオン、元気かな」
ずっと口に出せなかった名前を零すとディアンはまたちらりとユノを見た。そしてぺらりとページをめくると唐突にパタンと本を閉じ、手近の本を題名も確認せずに開いた。
何も言わないディアンにユノは顔をうつ向かせる。膝の上の手が馬車の震動と一緒にがたんと大きく揺らいだ。
「元気、とは言い難いが」
少しの間を置いてディアンが続けた。一瞬何の話かわからなかったが、レオンのことだとユノは慌てて視線をディアンに戻した。ディアンは変わらず手元の本だけを見ていた。
「けものという共通点がある以上、レオンとの接触はあるだろう。それまで必要以上の危害を加えるとは思えないな」
「えーと、きっと無事に会えるってことだよね?」
ディアンの言葉を噛み砕くとディアンは呆れたような雰囲気でユノを見やった。
ユノはというとふふと零れる微笑を抑える事ができなかった。ディアンが大丈夫だというのだ、きっとまた会える。それにユノの不安を気遣ったディアンの心も嬉しかった。
ふやふやと口角があがり、馬車酔いの気持ち悪さもどこかへ飛んで行ってしまった。
がたん、とディアンが席を立ったのと荷馬車が止まったのはほぼ同時で。
「おい、お二人さん、降りろー 着いたぞーっておいおにーさんどうしたんだよ」
「兄さん」
衝撃を抑えきれず本の山にひっくり返ったディアンと困ったように兄を見上げ、どうにかディアンを掬いだそうとしている愛しい妹を見てノクスは盛大に首を傾げて見せた。
「ノクス、なんですかーそのちっこいのは」
「妹だよ、俺の。かっわいーだろ?」
「はあ?妹ぉ?ぜんっぜん似てませんねぇー本当」
「おいこら誰を捕まえて似てないって?よく見ろよ、俺ほど可愛げのある男は他にいないだろーが」
「誰もあんたの可愛さなんて求めてませんよ」
ユノは兄にしがみつきながらひたすら嵐が去るのを待った。
ノクスはどうやら王宮内ではなかなかの有名人らしい。先ほどから少し進むたびに呼び止められ、軽い世間話が始まる。さっきは武官だったが、今度の親しい口調から察するに同僚の文官だろう。
今ユノは兄と一緒に兄の上司(つまり皇子様)に帰還報告と顔合わせを行うために王宮の白い廊下を渡っているところだった。クラサは馬車を研究棟の近くに誘導するため、ディアンは本の最終確認のため少し遅れてくる。よってユノが頼れるのは実兄しかいなかった。
兄の軍服が皺になりそうな勢いで握りしめる。先ほどから緊張で目が回っていた。王宮の高そうな調度品も触ったら壊れてしまいそうでもうしがみつけるのがノクスしかいない。
「ほら、挨拶しなー大丈夫、人喰うようなやつじゃないから」
「一言多いんですよーあんたは」
兄の背中から顔を出すと変な敬語の彼はにっこりと笑いかけた。眉が隠れるくらいの長さの赤毛、そして細い目が印象的な人だが、分かりやすい愛想笑いが胡散臭さを醸し出していた。
「ユノ=メリクリスです。よろしくお願いします」
震えながらの自己紹介に彼はおやと細い目をより一層細めた。
「こちらこそ、ラズリー=ヒュードンといいますー。なんだ、ノクスより断然礼儀正しい子じゃないですかー」
くしゃりと頭を撫ぜられ、ユノは慌てて兄の背中に隠れた。ラズリーは残念そうに手をひっこめた。
「かくれちゃった」
「おいこら誰の許しを得て人の可愛い妹触ってんだてめー 俺の槍受けてみたいのか?」
「兄馬鹿も対外にしなさいよー、ただの挨拶だ挨拶」
呆れたようにラズリーは手を振りさっさとその場を去る。すれ違いがてらまたユノの頭を撫でて行った。
「じゃあねーメリクリスの子猫ちゃん」
「おいこらヒュードンてめぇ!!!」
口から火を吐く勢いのノクスの剣幕に怯える所かラズリーはあはははと明るい笑い声を残していった。
「あいつ今度会ったら殴る、ぜってー殴る。石で」
「に、兄さん、悪気はなかったんだから」
「悪気あったにきまってんだろあの根性悪」
ぐるるるると唸り声を出すノクスをユノはどうにかなだめる。変な人だったが、ユノの緊張を解いていってくれたような気がした。今度ラズリーにあったらちゃんとお礼を言おうとユノはそっと決めた。
「おっと、上司様の所に行く前につれてこいって言われてたんだっけ」
急にノクスが方向転換をしてユノは危うくノクスの腰に鼻をぶつけるところだった。ノクスはごめんごめんと口先だけで謝り、こっちだとユノの手を引いた。
「確か…あーなんとかの間…なんの間だっけ?」
「私に聞かないでよ、もう今どこにいるのか全然わからないんだから」
ノクスの無責任な言葉にユノは口をとがらせた。さっきから白い石の床に淡い黄色のガジの花の様な色の壁にまた白い木の扉、と同じような場所ばかり歩いてユノの方向感覚はすでに麻痺していた。扉の近くに金属のプレートがあるにはあるが、ノクスの足の速さとユノの身長の関係で見ることは敵わない。きっとノクスの手を離したら迷子になってしまう。
「多分もうちょっと…あーたぶんあそこだ」
「…大丈夫なの?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。たしか中にいんのティーだったと思うからまあ平気だろ」
「ティー?」
どこかで聞いたような気がした。だが記憶を遡るのよりもはやく、ノクスの足は目的地に付いたらしい。白い木の扉の1つの前で足を止めると3回扉を叩いた。中からちりりんと音がしてノクスは扉を押し開いた。
「よぉ、ティー元気だったか?」
ちりんと音がする。ノクスが邪魔でユノからは中の人物が見えそうになかった。
「ほら、つれて来たぜー 研究者の方ももうすぐ来るらしい」
ちりん
「うん、皇子様もこっちにくると思うからその時はいいんじゃねーの…ともうこんな時間か。ユノ」
名を呼ばれたと同時にユノは部屋の中に押し詰められた。
「に、兄さん!?」
「うん、こいつがユノ、俺の妹。で、だ。ユノ、そこに居るのがティー。ティカ=メリクリスだ。ちょっと皇子様つれてくるからちょっとここで待ってろよ…あ、ティー、茶、好きに使っていいらしいから」
じゃーちょっといってくるなーとノクスは良い笑顔で手を振った。状況説明などする気はないらしい。そのままバタンと扉は閉められてユノは見知らぬ他人と同じ空間に放り出されたのだった。