第90話
六月十八日土曜日計量当日。
会場である泉岡アリーナに到着した俺は、その大きな佇まいに圧倒された。
そして同時に不安も湧き上がる。
わざわざ俺を見る為に、こんな大きな会場を埋められるほどの人数が集まるだろうかと。
だがそんな不安をよそに、試合前日である今日までに売れたのはチケットの約八割。
安く借りられたという事情を鑑みれば十分な利益が出る数字だ。
計量場所は会議などに使うらしき一室で、思った以上の広さがある。
室内に足を踏み入れると少し増えた報道陣がお出迎え。
実はタイトルマッチを地方でやるということ自体が稀で、珍しさからくる注目もあるだろう。
室内を見渡せば既に王拳ジム側も到着しているが、まだ計量は済ませていない様子。
メインイベンターは最後という決まりでもあるのだろうか。
良く分からないが、取り敢えず空気を読んでこちらも明君から計量台へ。
その彼はフライ級リミットギリギリで一発通過。
珍しく頬がげっそりとこけており、少し減量に苦戦した様子が伺える。
今回の出来如何では次から一階級上げざるを得ないだろう。
続々と他ジムの選手たちも済ませていき、今度は佐藤さんの番。
こちらはきっちりリミットを少し下回った数値をキープ。
やはりうちの陣営で一番安定しているのは彼だ。
次に秤に乗ったのは初防衛戦の相手である中村レナード。
頬はこけているが肌つやも良く、きっちり仕上げてきたのが見て取れる。
リミット丁度、彼はどうだと言わんばかりにポーズを決め俺の方を見やった。
ならばと俺も秤に乗ると、
「…六十一,一…百アンダー…」
防衛戦のプレッシャーなど、俺には関係ない。
何故なら今までも同じだったから。
負けられない、次があるとは限らないという状況でずっと戦ってきたんだ。
負けたら失うものがある?
何を言ってる、同じだよ…何も変わらない。
もっともっと勝ち続けて己の価値を高めなければ、全国のジムが俺とマッチメイクしたいと思わせなければ。
まだ全然そこまで行けてない。
だから同じだ。
今までの延長線上、負けられない試合が続く…ただそれだけ。
チャンピオンベルトを肩にかけ、フラッシュを浴びながらそんな事を思った。
▽
「おしゃ!全員一発通過。どうする?何か食ってくか?」
「佐藤さんと明君次第ですかね。合わせますよ。」
俺の言葉に二人供が顔を見合わせる。
結果、食べていく事に決まった。
入ったのは帰る途中にあるレストラン、いつものと言ったらあれだが全国チェーンの店だ。
「そういえば王拳ジムの選手はウナギ食べるらしいよ。計量が終わった後は。」
「俺も前に調子悪かった時、奢ってもらいましたね。」
「ああ、折角上等なやつ食わせたのに体調戻らなかったよな坊主は。」
「う~ん、実際どうだったんでしょうかね。あれで戻った方だったのかも。」
そんな会話を続けていると、テーブルにどんどん料理が並べられていく。
明君も俺ほどではないが結構食べれる質で、佐藤さんは相変わらず小食。
いや、この節制がいつもの安定に繋がっているのかもしれない。
「…もぐもぐ…佐藤さんはいつも通りの食事って感じですね?物足りなくないですか?」
「え?あ~そうですね。でもこのくらいが一番調子いいって分かるので。」
「坊主、佐藤はお前みたいな鉄の胃袋持ってる訳じゃねえんだよ。」
自分が一番いいと思う形。
俺はこれこそが己の一番と思って生活しているが、もしかしたら違う可能性もあるのだろうか。
だが今までこれで勝って来れた。
結果が出ている以上は、これが自分のベストと信じるしかあるまい。
▽
「ただいま~。」
「あ、兄さんお帰りなさい。」
「お帰りなさ~い統一郎さん。スイもお帰りって。」
基本週末は一緒に過ごす事が多い二人。
冬子ちゃんの影響か、亜香里は去年よりずっと明るくなった気がする。
「ちょっと聞いてよ統一郎さん、フィットネスジム行ってきたんだけどさ…」
はいはいと冬子ちゃんの言葉に耳を傾けつつ居間へ。
荷物を横に置きごろり寝転がると、目を瞑り静かに過ごす。
この胸がざわつく感じ、今更になってプレッシャーを感じてきたか。
だが悪い意味での緊張はし無さそう。
それもこれもいつも通りに迎えてくれる周りあってのもの。
「お姉ちゃんも薄情だよね~。どうせやる事ないなら傍に居てあげればいいのに。」
「そんな事無いよ。春子はちゃんと力になってくれてる。」
「え~?だって何にもしてないじゃん。」
「う~んとね、チケット三十枚近く春子のお陰で売れたよ。これも割合で俺の収入に加味されるんだ。」
しかも春子に声を掛けて来る人は良い席を求めるのが殆ど。
当然その分高い料金になるので、そう言う意味でも助かっている。
周囲の助けがあっての今、明日はカッコいい所を見せられたらいいなと、そう心底思った。
▽▽
六月十九日日曜日、試合当日。
俺達はちょっと早めに会場入り、控室を確かめる。
俺は個人用控室、佐藤さんや明君とは別だ。
同じで良いと言ったのだが、本人たちから断られてしまった。
何でも、この部屋は自分の力で勝ち取るものだとか。
会長と牛山さんは二人に付きっ切りなので、俺についているのは及川さんと清水トレーナー。
因みに練習生の何人かも駆り出されている。
「おお凄えな。モニターまであんのかよ。及川先輩、向こうのホールよりずっと立派っすよね。」
「まあね、でもこっちは新しいから。伝統とか歴史とかそう言う意味では勝負にもならないよ。」
試合の流れを確認出来るモニター、いつもは同門の試合を見られないので少し楽しみな自分がいた。
そんな浮ついた気分でいても及川さんが近くの椅子にベルトを置いた途端、守るという意思も湧いて来る。
だがその時、俺はある重大な問題に気付いた。
「ん?どうしたの遠宮君?」
「どうした?そんなそわそわして。初防衛戦だからって駄目だぞ。チャンピオンはドシッと構えてねえと。」
「えっと……すみません。マウスピースが見当たらないんです…」
透明なプラスチックのケースに入れてあるはずのそれが、どんなに探しても見当たらない。
そして頭を巡らせ思い出すと、居間で荷物の確認してた時脇に置き忘れたのではと思い至る。
かといって今から店で買って型を作ればいいとか、そう言う問題じゃない。
使い慣れたあれが良いんだ。
いや、あれじゃなきゃダメなんだ。
俺はまだ家を出ていない事を祈り亜香里に電話、直ぐに及川さんが会長に連絡を入れちょっとした騒ぎに。
『兄さん?どうかした?』
「あのさ、家のどっかにマウスピース置き忘れてない?」
『あ、居間になんかあった様な気が…うん、あるよ。』
「…悪いんだけどさ、亜香里ここまで持って来てくれない?」
『え、私が?…分かった。冬子の家の車で行くから、着いたら連絡するね。』
電話を切ると、陣営全員が顔を見合わせ苦笑い。
メインイベントまでは充分に時間もあるので問題はないが、少々心が搔き乱されてしまった。
日頃そこまで拘ってるつもりも無かったが、いざ本番で無いとなるとここまで動揺するものか。
もしかしたら少しナーバスになっているのかも。
「とんだドタバタ劇だな坊主…」
「いやでも、初防衛戦だしそんなもんじゃないっすか?」
「まあね、統一郎君らしいといえばそうかも。でも何とかなりそうで良かったよ。」
ほっと一安心し、会長たちは隣の控室へ戻っていく。
そしてマウスピースが届いたのは、第一試合が始まるほんの少し前。
亜香里が大事そうに包み持って来てくれた。
その横には笑いをこらえている冬子ちゃんの姿もある。
更に事情を聴いたであろう春子と南さんの姿も確認。
皆ちょっと呆れ顔を浮かべていた。
「兄さん、これ。」
「うん、ありがとう…」
「頑張ってね。じゃあ、もう行くから。」
「…あははっ、頑張ってね統一郎さん。」
「遠宮君、ここから集中すべきだ。応援してるからね。」
「うん、悠子の言う通り。何も問題なかったんだから、集中だよ集中!」
そうは言っても、簡単に切り替えられれば苦労はない。
今日の試合、果たしてどうなってしまうのだろうか。
心に少々の不安を抱きながらも、時間はいつも通りに過ぎていくのだった。




