第88話
二月下旬、佐藤さんの九戦目の試合が帝都で行われ、結果は七回TKO。
まあ相手がノーランカーの選手とは言え、この調子ならランキングに乗る日も近そうだ。
因みに明君は大学受験があるので、試合は暫くお預け。
何でも母親との約束で、浪人するようならボクシングは諦めなさいと言われているとか。
十代ならそんなもの知るかと反抗しそうなものだが、真面目な彼はその約束をしっかり守る。
そしてそう言う真面目な精神性は、ボクシングという競技に於いてとても重要、きっとこの先の彼を支える大きな力となるだろう。
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三月に入ると、少しずつ景色に春が混じり始める。
東北の冬は長いが、それでも少しずつ緑が混じり始めるのだ。
そして俺がタイトルを獲得した効果か、先月中頃から幅広い年代の練習生がジムを訪れるようになった。
中には三十歳の会社員の男性などもおり、俺としては是非応援したい所。
しかしこうなると問題になるのがジムの狭さ。
流石にプレハブ小屋だと限界が来る。
という訳で、無駄に広い敷地にもう一個同型のプレハブ小屋を設置する事になった。
そちらにはリングを置かず、サンドバッグ等の練習器具を多数用意する予定。
床は全面マットにするらしく、ミット打ちなどをする分には問題あるまい。
だが問題はもう一つあり、それこそトレーナー不足。
当然会長は俺や佐藤さんなどプロを見るのに忙しく、練習生全員までは見てやれない。
牛山さんは会長から教わってはいるが、それでも専門ではなく本人も一から教えるのは荷が重いと言っている。
ならばどうするのかと思い聞くと、
「新しいトレーナーさんね、来月の中頃までには来れるってさ。」
「そうなんですか?しかし随分早く見つかりましたね。」
「うん。実は一昨年引退したばかりの人でね、結構前から声をかけてたんだ。」
流石会長と言うべきか、何をするにもぬかりない。
一体どんな人が来るのか今から楽しみである。
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四月に入ると、初防衛戦の話も聞かれるようになる。
数人候補がいるらしいが、一番可能性が高い選手はランキング二位の中村レナード。
名前はリングネームではなく本名で、外見は白人系のハーフ。
現在二十二歳サウスポーのボクサーファイター、身長が百七十二センチでリーチ百七十六センチ。
まあ俺と殆ど変わらない。
所属は王拳ジム、またかという感じだ。
戦績は十三戦十一勝一敗一引き分け七KО、アマチュア実績は高校インターハイで二年連続二位、更に大学一年の時社会人の全国大会で三位、間違いなく強敵だ。
因みにインターハイは高校二年と三年に学年が一つ下であった、あの御子柴選手に敗れての二位らしい。
階級も恐らく彼を避けてライト級、胸の内には色々溜まっているものもあるのではなかろうか。
そんな者達の挑戦を受ける立場の俺は、現在ディフェンス中心のメニューをこなしている。
練習生たちにある程度好き勝手打たせ、それをいなすという流れだ。
「そうそう、ただ漠然と手を出すんじゃなくて意味を持たせる。」
高校生三人組はこういう時、存外いい練習相手になる。
何故なら三人共が全くタイプの違うスタイルなので、それぞれ違う対応をしなくてはならないのだ。
動きが速く小柄な奥山君は、行動を先読みしないとガードの隙間を抜かれる。
だが先読みとはそう簡単ではなく、フェイントや牽制で選択肢を狭め、ある程度は動きを誘導しなければならない。
そしてライト級で彼以上に早く動ける選手は恐らくいないので、感覚的にも鍛えられている。
「そうそう、下がるにしても只下がらない。嫌がらせをするのがボクシングという競技だよ。」
次に相手するのは、この一年で更に逞しい体付きになった古川君。
足しげく及川さんのフィットネスジムにも通い筋力トレーニングに勤しんでいるとか。
とは言え完全な自己流ではなく、彼女の指示をしっかり聞きボクサーに必要な筋力のみを養っていると聞いた。
彼は突進力が武器、俺がこの間やった松田選手とかなり近しいタイプ。
しかしまだ踏み込みが強引過ぎて、良い様に俺のジャブを浴びてしまう。
この辺りのタイミングが改善されれば持ち前のパワーも活きてくるだろう。
「そう、しっかり見る。懐深い選手は自分の距離で思い切り振って来るから、その一瞬を見逃さない様に。」
そして次の相手は、また少し身長が伸び百八十三センチとなったイケメン吉田君。
この子は非常にディフェンスの意識が高い。
前からそうだが非常に勉強しており、攻撃よりも防御に意識の大半を割いている印象だ。
だが決して後手を引くだけではなく、自分の距離になると思い切ったパンチを打てるのが強み。
しかし踏み込まれると防御一辺倒になってしまうのが不味い所か。
安定した立ち回りを求め過ぎるがゆえの慎重さ、どういう方向に伸ばすのが良いのだろう。
そして俺のディフェンス練習が終わると、佐藤さんと明君のスパー。
この二人のスパーを一言でいうなら追いかけっこ。
つっかえ棒の様な佐藤さんのリードブローを、明君が上手く捌き踏み込めるかの勝負だ。
まあ踏み込んだ所で、佐藤さんは近距離のいなし方も上手いのだが。
「そうだ明!いきなり上狙うんじゃなく下!佐藤の腹叩いて悶絶さえちまえ!」
実はこの二人、減量前の体重ではもうそこまで差が無い。
確かあっても二キロくらいなので、明君はそろそろ階級の上げ時か。
練習熱心でよく筋肉も付いており、肉体の見栄えと言う意味ではジム内でも一二を争う。
しかし残念ながらパンチの天分は持って生まれていない。
だからと言って諦めるなら、今の戦い方自体を見直さなければならないだろう。
だが人は個々で性質若しくは性格が違い、それによって好む形も違うので難しい所である。
それを無視して押し付けると、人とは不思議なもので途端に能力を発揮できなくなるのだ。
市内の大学に進学して直ぐの時期、私生活も大変だろうが何とか頑張ってほしいと切に願う。
▽▽▽
四月中旬、仕事が終わりそのまま車でジムへ。
以前は一度家に帰り体を解しながら向かっていたのだが、いつからか車で向かうようになった。
無駄に広い駐車場に車を停めようとした時、見慣れない車両が停まっているのに気付く。
一体だれの車だろうかと思い戸を開けると、
「「「「「チャ~~ッス!」」」」」
いつも通り、練習生たちが元気のいい声で迎えてくれた。
こちらの建物には高校生三人組を含め五人、隣の建物には十人近くいる。
一応棲み分けみたいなものは出来ており、スパーなどをする段階にない者は向こうでシャドーやサンドバッグ打ち。
見るのは基本牛山さんの仕事。
「おっ、成瀬会長自慢の後継者がお出ましだ。」
「え?あ、どうも。えっと…」
「はは、どうも。清水武人三十九歳です。これからよろしく頼んますっ!」
「これはこれはご丁寧に。もしかしてトレーナーさんですか?」
「そそ、成瀬会長に教わりながらな。」
中々に大柄で逞しい人だった。
俺より十センチくらい身長が高い。
そんな事より顔に見覚えがあり、どこで目にしたかと思考を巡らしていると、会長から説明が入る。
「彼ね、ほんの二年前までミドル級の東洋王者だったんだよ。」
「あ、成瀬会長、そこに日本王者も付け加えてもらえます?一応二つ同時に持ってたときあるんで。」
「ああ、そうだったね。とにかく結構凄い人なんだよ。」
「いやぁ~あの成瀬さんに言われると照れるなぁ~。」
清水トレーナーは、牛山さんとはまた別の意味で快活な人だ。
聞けば会長とは同郷で強い憧れを持っており、ボクシングを始めた切っ掛け自体がそれであったとか。
「ああ…そうだ!結構前に引退式の記事見ました!あれ?所属って確か…」
「あ~…そこ言っちゃう?俺もちょっと後ろめたいなって思ってんだけど。でもまあ、引退してからはずっとぶらぶらしてたしな。」
現役時代は王拳ジムに所属しており、叩き上げの代名詞みたいな人だった。
生涯戦績四十一戦二十九勝九敗三引き分け二十五KО。
勝っても負けてもとにかく豪快な試合で、ホールはいつも満員御礼。
かなりの人気選手だった筈。
一時期は世界ランキングにも名を連ねていたが、当時はミドル級に四団体統一の絶対王者が君臨していた時期であり、結局挑戦するチャンスさえ巡ってこなかったのである。
全盛期の実力は世界に届いてもおかしくなかっただけに残念だ。
「お~い清水、今日の練習終わったら呑み行くぞ。俺がおごってやる。」
「マジっすか牛山さん!あざっす!ゴチになりや~す!」
一体いつの間に意気投合したのだろうか。
二人はガハハと豪快な笑い声を響かせながら、この後の予定について話し合っている。
たった一人増えただけなのに、ジム内の活気が数倍になった気がするのは流石。
「じゃあ俺、フィットネスジムの方にも挨拶行って来るんで。」
「おう。及川さんにセクハラすんじゃねえぞ~。」
「しないっすよ!まあ美人だったら、ちょっと長居してくるかもしんないっすけど。」
「馬鹿野郎…人妻だぞ。」
「え?そうなんっすか…あ~あ、誰か良い人紹介してくんないっすかね?」
そんな事を呟きながら清水トレーナーは外へと向かった。
これから暫くは会長の手ほどきを受け、トレーナーとして必要な技量と知識を学ぶ事になるらしい。
最初は俺と会長しかいない、たった二人だけのジムだった。
それを思えば、本当に立派になったものだ。
俺はまだ大きな事など何一つ成しえていない段階にもかかわらず、妙にしんみりとしてしまうのだった。




