第58話
七月中旬、正に夏本番。
現在家の仕事は、炊事から洗濯掃除に至るまで全て亜香里が担当してくれている。
最初こそ魚を焦げ付かせたりしたものの、元々やれば出来る子なので覚え自体は早い。
結果たった一月余りで俺同様とまではいかないが、女子高生とは思えない包丁捌きが出来るようになった。
そして日曜日、今日俺は近所の老夫婦の家にお邪魔している。
実はこの老人夫婦の飼い猫が、最近子供を産んだらしい。
それを聞きつけ、うち一匹をもらい受けようというのだ。
「まだ生まれだばっかりだがらね~、歯も生えでねんだぁ~。」
おばあちゃんが抱えてきたのはミャアミャアと鳴く、真っ白い小さな猫。
何とも愛らしい。
そして色々と話を聞くと、始めてで子猫を飼うのは中々にハードルが高い気がしてきた。
多少の不安が沸き上がるもお礼を告げ、段ボールを優しく抱え帰路に着く。
家までは精々が二、三百メートル、子猫はその間ずっとミャアミャアと鳴き続けていた。
一体この可愛い生き物はなんなのだろうか。
無条件で守りたくなってしまう。
▽
「亜香里ぃ~~、ちょっとおいでぇ~。」
「は~い、何?…ぁ……猫。」
実は今日の事は彼女に秘密にしてきた。
いきなり見せて驚かせたかったからだ。
そしてもう一つアニマルセラピー効果を期待してのものでもあり、一緒に生活すればどんどん活発になるに違いない。
俺にとっても、生活に潤いをもたらす一助となってくれるだろう。
「……可愛い…」
やはり子猫の効果は覿面らしく、緩んだ表情で歩み寄る亜香里に段ボールごと預けると、俺はこの日に備えて買い揃えた道具を車へ取りに向かう。
「あの…さ、亜香里。何の確認もせず連れてきちゃったけど、面倒見れそう?」
これで嫌だと言われたらどうしようか、まあ俺が面倒見るしかないだろうが…。
「うん…。大丈夫。面倒見れる。」
返答を聞き、ほっと一息。
「そ、そっか。良かったぁ~。」
取り敢えず出戻りさせずに済み胸をなでおろす俺の横で、亜香里はスヤスヤと寝息を立てる子猫を眺めながら、柔らかな笑みを浮かべていた。
その夜、事の次第を伝えるべく春子に連絡してみる。
『どうだった?やっぱり可愛い?』
「うん。真っ白くてふわふわで、見てるだけで癒されるよ。」
亜香里はすっかり子猫に夢中であり、自分の部屋にケージを置き一緒に生活するつもりらしい。
『ああ~私も早く会いたいな~。来週行ってもいい?』
因みに春子とは今週の休みにも会っており、食事を取ったあと数時間ホテルで過ごした。
俺も彼女も若いので、二人きりで会うとどうしてもそういう空気になってしまうのだ。
厳密に言えば、俺の方が我慢出来ていない感じ。
貪る様に、という表現がまさに正しいほど彼女を求めてしまう。
「南さんの予定が空いてるなら、一緒に来てもらうのは駄目かな?」
『OK、いいよ。悠子も動物好きだし嫌がらないと思う。』
何故南さんを誘うのか、
それは二人きりだと、家で行為に及んでしまいそうな気がしたから。
亜香里にはそう言う空気を悟らせたくない。
兄としてその辺は線引きすべきだろう。
▽
翌朝ロードワークから戻ると、台所から漂う味噌汁の香り。
「おはよう亜香里。子猫は?」
「スイちゃんは眠ってるよ。子猫は一日の大半眠ってるんだって。」
スイ、それがあの猫の名か。
どういう経緯で決まったかは分からないが、中々良い響きだと思う。
そしてシャワーを浴びて卓に付けば、何もせずとも自動的に食事が並ぶ。
当初考えていた以上にしっかりとした仕事ぶり、それなりのお小遣いを出さねばなるまい。
「亜香里、これからは月初めに二万円あげるから。何か欲しい物でも買って。」
「お金はいいよ別に…母さんに言えばくれるし。」
「行為に対しての対価だ。グダグダ言わず貰ってくれ。」
因みに食材の購入などの為に、もう一枚クレジットカードを作り彼女に預けている。
減量時期の食事メニューなども教えれば、もっと俺の生活は楽になる筈だが、流石にそれは求め過ぎか。
「あんまり私の事甘やかしてると、春子さんに愛想つかされるよ?」
「そんな器の小さい女性じゃないよ。まあ正直、もう少しくらいは嫉妬してもいいと思うんだけどね。」
この間も亜香里の料理をおいしそうに頬張り、嫁いで来たら楽できるなとか言っていた。
それは冗談だろうが、あの軽い感じが一緒にいて心地良い。
恐らく亜香里にとっても同じではなかろうか。
「春子さんは兄さんの事、本当に信用してるから。そして…私の事も…」
そう呟き微笑む亜香里が、少し悲しそうに見えたのは何故か。
いや、本当は分かっている。
俺達は血など繋がっていないし、戸籍上も兄妹ではない。
そして毎日生活を共にしていれば、只の同居人以上の感情が芽生えるのは当然の事。
しかし俺も彼女も常識人であり、感情に支配されるタイプでもない。
故にその一線は絶対に超えないのだ。
只、それだけの事である。
▽
八月中旬、俺と佐藤さんの次戦が決まった。
会長は上位ランカーを俺の相手に決めたいらしいが、中々上手くはいかない様だ。
中央の名門としては、地方選手に負けランクを奪われるのは屈辱なのかもしれない。
「日取りは九月の十四日。幸弘君も一緒にまた向こうに行くよ。」
「坊主、今回の相手はちゃんとランカーだぞ。気ぃ引き締めろよ。」
そう言われ、会長のパソコンを横から覗き込む。
黒岩良成二十二歳、百六十五センチのファイター系、戦績は六戦六勝三KОで所属は王拳ジム。
現在日本ライト級十一位、戦績からも察せられる通りアマチュアからの転向組である。
今月発表されたランキングで、俺が十位となり彼が十一位に食い込んだ形だ。
一昨年のアマチュア全日本選手権で、三位に輝いた実績があるらしい。
御子柴選手ほどではないが、名門が期待する一人ではあるだろう。
「へへ、何かよ、遂に本気で潰しにきやがったって感じだな。このままするする上に行かれたら困るってか?」
「見た感じ横の動きを多用するファイターですから、統一郎君にとってはどうでしょうね。」
モニターには黒岩選手の一つ前の試合が映し出されており、確かに動きに切れがある。
真っ直ぐ踏み込みはするのだが、そこから細かい横の動きを多用し翻弄してくるようだ。
「そもそも踏み込ませなければ良いんじゃ…距離取って左で止められませんかね?」
「う~ん、飛び込んで打ってくるパンチが結構厄介だからな~。それ一辺倒だと厳しいかもね。」
まあ、そこら辺を突き詰めていくのはこれからの作業。
俺はいつも通り、やるべき事をやるだけだ。
「そうだ。今話すのは捕らぬ狸の皮算用になりかねないんだけど、次の試合からこっちでやるよ。」
「そうだぜ坊主。俺らはもう今から準備進めてんだ。こんなとこで躓くんじゃねえぞ。」
ランキングも一桁になって来れば、地元での知名度も重なりある程度の集客を見込める。
会長はそう判断したのだろう。
こんな話を聞けばプレッシャーになりかねないが、俺の内からは沸々と力が湧いて来る。
そんな俺を見る会長の目は、全てを見通していると言わんばかり。
見せる…いや、魅せるしかない。
俺の試合が生で見たいと、大勢の人にそう思わせる内容で勝つ…絶対に。
▽
家に帰り着くと、愛猫スイを抱いた亜香里が迎えてくれた。
躾もしっかり為されており、トイレなども決まった場所でしてくれるお利口さんだ
そして相変わらず可愛いその姿、俺も撫でようと手を伸ばす。
「スイ、兄さんにも撫でさせてあげて。駄目?」
逃げる様に頭部を亜香里の胸に埋め、撫でるのを拒否されてしまった。
家にいる時間が少ないせいか、あまり俺に懐いてくれない。
偶にしかやってこない春子には凄く懐いているのに。
南さんにもゴロゴロ喉を鳴らしてジャレつくのに。
う~ん、何故だろうか。
だがこういうのは焦ってはいけない。
ゆっくりと信頼関係を築いていけば、いつか俺にもすり寄ってきてくれるはず。
そう信じよう。
▽
八月下旬、近距離戦における武器が一つ増えた。
至近距離で会長が二つのミットを重ねる様に構え、俺はその一点目掛け力一杯叩きつける。
系統としてはフックになるのだろうが、軌道が少々独特で威力はコークスクリューブローに並ぶこの一撃。
ズバァンッ!
会長が少し仰け反ると同時、強烈な炸裂音がジム内に響き渡った。
「うん、そんな感じ。いい感覚掴めてきたみたいだね。」
「でもやっぱり隙も大きいですね。」
このパンチもまたコークスクリュー同様、相手を一撃で倒す事を想定したものだ。
通常のフックの様に横から当てるというよりは思い切り腰を捻り手首を返し、腕ごと自分の内側まで巻き込むイメージで放たれる。
軌道も通常よりかなり外側を走る為カウンターの餌食になりやすく、打つ状況には特に注意が必要だ。
やはり連打は利かず一撃に全てを賭けるロマン溢れる必殺技、当然当たれば一撃で充分なほどの破壊力を持つ。
このブローはトルネードフックと命名された。
因みに名付け親は明君で、個人的には結構気に入っている。




