第59話
九月十三日、毎度同じく職場に休みをもらい帝都までやってきた。
試合のペースが結構早く少々申し訳なく思うが、それももう少し。
地元開催なら長距離移動も無くなるので、少しは休み期間も短縮できるだろう。
いつまでも環境に甘えてばかりでは駄目だ。
「え~六十一キロジャスト、ライト級遠宮選手…」
計量はいつも通り一発通過。
続いて王拳ジム会長が見守る中、今回の対戦相手である黒岩選手も上がる。
すると、こちらも危なげなく一発通過。
ライト級としては小柄だが、やはり一見して分かるほど分厚い筋肉の鎧を纏っている。
続いて秤に乗るのは、メインイベントであるバンタム級東洋タイトルマッチの選手たち。
まあ、佐藤さんの計量も済んだので俺達はすぐに帰るが。
▽
レストランに着くと、いつも通りご飯ものとパスタとデザートが眼前に並ぶ。
佐藤さんは小食でパスタのみの食事。
そこまで減量も苦しそうではなく、何かコツがあるのか知りたい所だ。
「相手の黒岩君、肌つや良かったね。」
「うん確かに。でも遠宮君も体しっかり出来上がってたよ。全然負けてなかった。」
計量時の相手選手を、麺を啜りながら思い浮かべる。
かなり筋骨隆々だった。
多分相当な筋力トレーニングをこなしているのだろう。
「そういえば遠宮君、偶にうちにも顔出すけど、エアロバイクくらいしかやらないよね。どうして?」
及川さんに問われどう返すか迷う。
何故と聞かれても、何となくとしか返せない。
「えっと…体が拒否するっていうか、腹筋とか拳立ては良いんですけどね、バーベル上げたりとかは何かやりたくないんですよ。」
「ああ~それ、何となく分かります。自分もそうなんで。本当に何となくなんですよね。」
佐藤さんも同調してくれて、互いに頷き合う。
「菊池君はかなりやってるけどな~。まあ、二人とはスタイルも違うしね。それぞれに合った形がある…か。」
やった方がいい人、やらない方がいい人、その線引きは誰にも分からない。
だからこそ俺は、自分の感覚を信じる。
会長も何も言わないのできっとこれが正しい。
迷わないという事、それもきっと大きな力となる筈だから。
▽▽
九月十四日、試合当日。
当然俺達は青コーナー側。
当日計量プラス四,九キロで迎え、気合が乗ってるせいか体が軽い。
相手も強いので、負ける気がしないとまでは言わないが、何か大きな事が出来そうな予感はしている。
控室で安物のパイプ椅子をギシギシ鳴らしている時も、ずっと体の奥から熱が沸き上がり、早くリングに立ちたいとさえ思っていた。
だが今日の出番はセミファイナル、結構待ち時間がある。
今は丁度佐藤さんが試合中であり、陣営は誰一人おらず寂しく待機中だ。
果たしてこの時間は、どう過ごすのが正しいのだろうか。
バンテージは既に巻かれているので、シャドーでもするべきか。
しかし出番はまだまだ先、アップを始めるのは早い気がする。
周りを見やれば、もうすぐ出番の選手が目を瞑りながらステップを刻み、ゆっくり体を解していた。
控室はいくつかあるので、今回一緒にあてがわれたのはその陣営のみ、空間自体は結構余裕がある。
そんなこんなでどうやら試合が終わり、我が陣営も戻ってきた様だ。
「あ…カットしたんですか?パンチで?」
「あ~いえ、最終ラウンド気が抜けてたんでしょうね。頭当たっちゃって。」
確かに、右目じりが切れている以外は綺麗なものだ。
聞けば判定もフルマーク、全てのラウンドを取る盤石の勝利だったとか。
それでも何が起こるかなど分からないのだから、俺も気を付けねばなるまい。
▼
『只今より本日のセミファイナル、ライト級八回戦を行います。』
客の入りは上々。
相手の選手名が書かれた垂れ幕も多く見え、かなりの期待度が伺える。
なのに不思議だ。
凄く思考が澄み渡っていて、リングも狭く感じる。
アウトボクサーは調子のいい時、今とは逆に広く感じると聞いた事もあるが、ならば調子が悪いという事だろうか。
否、多分今日の俺は強い。
『赤コーナ~公式計量は百三十四ポンド二分の一~………日本ライト級十一位~王拳ジム所属、くろいわぁ~よし~なりぃ~っ!』
観客の三割くらいから熱い声援が飛ぶ。
まあ、別に羨ましいとは思わないが。
『青コーナ~……十二戦十一勝一敗、十一勝のうち四つがナックアウト~………日本ライト級十位~森平ボクシングジム所属、地方の星っ!とおみや~とういちろう~っ!』
今日応援に駆けつけてくれた後援会メンバーは十人程。
一人一人の声が聞き分けられる不思議な感覚、外の情報をここまで拾えるという事はやはり集中が足りないのか。
何だか今日の俺はおかしい。
自分でも、実際調子が良いのか悪いのか分からないのである。
(まあ、なるようになるさ。)
緊張はしている。
でも、気負いは欠片もない。
さあ、もう一段上に駆け上がる為の戦いを、いざ始めよう。
▽
「統一郎君。多分立ち上がりから踏み込んでくるから。慌てずに対応してね。」
「はい。多分大丈夫です。」
「…そう。」
過去六戦の試合映像は全部見ているから知っている。
あの選手は開始早々から距離を詰め、圧力で押しつぶそうとしてくるんだ。
かと言ってがむしゃらに打つ訳ではない。
しっかり上下左右にパンチを散らし、ガードの隙間を打ち抜こうとしてくる。
カァ~ンッ!
ゴングが鳴った。
ゆったりと中央へ歩み、グローブを合わせる。
この行為は、ボクシングが競技でありスポーツである事の証明。
(…リングが狭い。どこから打っても届きそうだ。)
とは言え、動きがスローモーションに見える等という事はない。
鋭い踏み込みで距離を詰めようとする相手選手を、視界で確実に捉えている。
(伸ばして来る左は…フェイントだな。)
何故か分かる。
決して一目で判別できるほど、分かりやすい打ち方ではないのに。
(右…オーバーハンド、ガードさせて密着しよう…ってとこか。)
この流れならば距離を取って左、それが俺のスタイル。
しかし今は必要ないと感じた。
結果、当然の様に踏み込まれ相手の距離になってしまう。
(下…これも誘導、力入れて打つのは…どれだ?)
トントントン、俺を下から覗き込みながら小刻みにガードの上を叩く相手。
隙を伺っている。
細かい連打につられ、一瞬ガードが甘くなるその隙を。
どんなに気を付けようとも完璧を求めるのは無理、人間であればどこかで必ずミスを犯すもの。
当然俺も例外ではなく、数秒間のやり取りのちガードに僅かな隙が生まれる。
今相手は、下から突きあげれば当たる…そう思った筈だ。
「…シッ!」
(残念…それわざと。)
軸となる左足を残したまま、右足でマットを蹴り体は半回転。
少し仰け反り気味の体勢で放たれたのは、相手の右アッパーに狙いを定めた左フック。
「…ダウンっ!」
完全に不意を突いた。
手には余り感触が残らず、例えるなら顎をすり抜けた感じ。
(なるほど、倒すって言うのはこういう感じか。初めて倒そうと思って倒せた気がするな。)
ニュートラルコーナーへ歩む際、俺はそんな事を考えていた。
今まで相手を倒すためには、ガツンとした手応えが必要だと思っていたのだが、どうやらそれは間違いであったらしい。
タイミングは速力に勝る…いや、恐らくパワーにも勝る。
それを今、初めて実感していた。
コーナーに背を預け、先ほどまで自分がいた場所へ視線を戻す。
すると、レフェリーが手を交差し試合終了を宣言していた。
しかし会場は静まり返っている。
(まさかつまらない試合だった?KОなら必ず盛り上がる訳でもないのかな。)
相手の黒岩選手と握手でもしようかと思ったが、まだ意識が戻っていないらしい。
仕方ないので、王拳ジムのセコンド方に礼を述べておく事にした。
「有難うございましたっ!」
「ああ…ここまでとは思わなかったよ。大したものだ…本当に。」
そう語る王拳ジムの浜口会長。
俺を見つめるその目は鋭く、少し怖い。
(そういえば国内ランキングの上位は、殆ど王拳ジムだったな。)
その時一つ沸き上がった不安。
それは、試合を受けてくれなくなったらどうしよう、という思いだった。
「…坊主、今日のお前…凄えな…」
「うん。本当に凄かったよ遠宮君。何か怖いくらい動き切れてた…」
二人からお褒めの言葉を頂いた後は、会長に視線を向ける。
「うん。良い試合だった。けど、今日の感覚を基準にするのは止めた方がいい。」
やはり会長は会長、手放しで褒めてはくれない。
でも言外には告げている。
だって、その表情が喜びを表していたから。
そんな顔を見れただけで、俺は満足だ。




