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05 始まりの日 アンネミーケ

本編開始十数年前のエピソードです。

 アンネミーケは皿に並べられた色も種類も様々な菓子を睨みつけた。


 山のように積み上げられたクリームはコンスタンツェの乳房。

 艶々と輝く黄金色の蜂蜜はゾフィーの髪。

 とろりとして赤い木苺の砂糖煮はヨゼファの唇。


 それぞれに彼女の夫君の愛人たちの姿を思い出させて闘争心を掻き立てた。


 ――喰らってやる。


 敢然と立ち向かう。一口一口、口に運ぶごとに砂糖の甘さが舌に突き刺さり、吐き出したい衝動に襲われるのを耐えて飲み下す。


「甘い」


 挫けそうになっても手は止めない。脳裏に浮かぶのは彼女を見下した愛人どもの嘲笑と憫笑。それを噛み砕くようにアンネミーケは皿一杯の菓子を平らげた。


 そして程なくして吐いた。




「ご自身を大事になさってくださいませ、王妃陛下」


 女官の声には呆れと懇願と憐憫が絶妙に混ざっていた。


 アンネミーケは甘いものを受け付けない。にも関わらず大量の菓子を食べたがるのは、菓子のように白く柔らかく愛らしい夫君の愛人たちへの敵愾心から。また、長身痩躯で麗質に欠ける自身を恥じているから。


 宮廷では誰もが知っていることだ。


「うむ……」


 アンネミーケは口元を拭いながら苦々しく頷いた。香草の香りを移した水で口をゆすぎ、厭わしい後味を流し落とす。


「既に王太子殿下がいらっしゃるのです。あの女たちがどのように振舞おうと、陛下がお気になさる必要はございません」

(わたし)の役目は終わったというのか?」


 王太子のマクシミリアンを産んだとたんに夫君が彼女の寝室を訪れることはなくなった。世継ぎをもうけることこそ王妃の役目。それを見事に果たしたというのになぜか敗北感しか覚えない。


「王妃陛下のご見識は国政の助けとなっております。恐れながら国王陛下よりも。

 臣下一同、アンネミーケ様を王妃と仰ぐ幸運を、睥睨する(シュターレンデ)(・アードラー)の神に感謝しております」

「我が夫君はそうは思っていないようだ」


 何か問題が起きると、官吏や廷臣が夫君よりも彼女のもとに来るようになったのはいつからだろうか。知性を認められるのは嬉しかったものの、侮られたと感じた王はますます彼女を遠ざけ、代わりに頭に砂糖の詰まった女たちに囲まれるようになった。


「陛下……」

「まあ良い。そなたの言うことはわかった。菓子に八つ当たりするのは止めにしよう」


 女官を下がらせると、アンネミーケは手鏡を覗き込んだ。彼女が滅多にしないことだ。

 眼光鋭く、高い頬骨と鷲鼻が目立つ容貌は女らしい優しさからは程遠い。威厳ある、などと言われることもあるが素直に喜べるものではない。鏡を持つ手も骨ばって節が目立つ。


「多少肉付きが良くなったところで顔かたちが変わるわけでもなし……」

 

 彼女は自嘲すると手鏡を裏返した。




 幼い息子を寝かしつけた後、アンネミーケは一人冷たい寝台に横たわった。眠気は訪れない。

 

 ――妾は何を求めているのだろうか。


 家と国のための結婚だった。夫君を愛しているわけではないし愛されることを期待しているわけでもない。美人ではない彼女を相手に世継ぎをもうける義務を果たしてくれたことには感謝しても良いくらいだ。

 女官が言ったとおり、愛人に過ぎない女たちが何をしようと――例え夫君の子を孕もうと彼女の地位には何の影響もない。


 であれば、息子の養育と夫君の補佐に専念する日々に何の不足もないはずなのだが。


 ――なぜこうも苛立つ……?




 考えているうちにまどろんでいたらしい。次に気付いた時には女官に激しく身体を揺さぶられていた。


「王妃陛下! ご無礼をお許し下さい。国王陛下が……」

「身罷れたか」


 叩き起されたことへの苛立ちも込めた嫌味だったが、女官は元から悪かった顔色を更に蒼白にした。


「……そうなのか?」


 アンネミーケは顔をしかめた。ひどく不謹慎なことを言ってしまったようだ。

 傍にいたのが裸の女でなければ良い、と思った。彼女のというよりも夫君の名誉のために。

 しかし、女官は激しく首を振った。


「いえ、しかしお倒れになって意識がない状態です」

「侍医は?」

「参っておりますが……」

「何をしておるのだ?」

「ゾフィー殿が陛下に縋り付いていて離れないのです」

「引き剥がせ」


 はしたなくも舌打ちしてしまった。王の寵姫に手を触れるのが憚られるのはわかる。しかし、時と場合によるではないか。

その間にも女官がアンネミーケにまとわりついて着替えさせている。ドレスに袖を通しながら、命じる。


「こういう場合は一刻を争うものなのであろうが? 医者に最善を尽くさせよ」


 最初に彼女を叩き起した女官が目を瞬かせた。


「よろしいのですか」

「何がだ」


 女官は彼女の耳元に口を近づけると、低い声で囁いた。


「このまま放っておけば寵姫のせいにできます」


 何を、と問うまでもない。

女官にまでも死を望まれているとは夫君も人望がない。あるいは、思った以上に彼女は同情されているのかもしれない。


 ――しかし不敬だ……。


 アンネミーケは軽く溜息をつくとやはり低い声で答えた。


「非常の時ゆえ動転したのだな。忘れてやるから妾の言った通りにせよ」


 有無を言わせぬ口調に、女官は頭を下げて従った。




 それからの数日は目まぐるしく過ぎ去った。


 彼女の夫君は享楽的で政を顧みないと誰もが思っていたが、やはり王でなければならない仕事というのは一定量あったらしい。そうした仕事を彼女の判断で処理できるように高官たちと掛け合った。

 日常の業務も滞りなくこなし、近隣国はおろか厄介な大貴族にも王の不在を悟らせぬよう手を回した。合間に息子の相手をしては夫君の容態の報告を受ける。

 身体が二つあれば、と思うような慌ただしさだった。


 とはいえ、アンネミーケは充実感に満たされていた。

 難題の山というのは菓子の山よりも歯ごたえがあって味わい深く、片付けた時の満足感は比べ物にならない。

 彼女は、命令するということが性に合っていることに気づき始め、国政をその手に収めようとしていた。




 彼女が夫君を初めて見舞ったのは、彼が倒れてから半月ほどが経った日のことだった。

 容態が安定したと聞いてからは、夫君のことは頭のごくごく片隅に追いやられていたのだ。信頼できる侍医と、それに――寵姫たちが代わる代わる傍に付いていたので、どの道彼女にできることはないと判断したこともある。


「王妃様」


 この日夫君に付き添っていたのはゾフィーだった。彼が倒れた際に侍っていた女でもある。

 蜂蜜色の髪をした美女が心配そうに白皙の貴公子――夫君のことだ――の汗を拭う図は大層絵になるものであり、彼女を何となく苛立たせた。

 恋物語というのは美男美女だけのものであり、彼女は部外者あるいは観客に過ぎないのだと思い知らされるような気がした。


「我が夫君と話がしたい。外していただけるか」

 

 依頼の形式をとった命令だったが、寵姫は激しく首を振った。


「貴女様は今日まで陛下のことを顧みていらっしゃいませんでした。一体何をなさっていたのですか? 今更何のご用ですか?」

「夫君に代わって国を守っていた。陛下と妾の国であり、息子が受け継ぐ国だからな。

 さて、貴女方は我が夫君のために何をしてくださった?」


 意地悪く反問したのは、蜂蜜のように甘ったるく頭の悪い言葉が少々癇に触ったから。寵姫たちの看病などたかが知れていることは百も承知していた。

 皮肉を解したのか、不美人な正妻の口答えが気に入らないのか、ゾフィーの頬が紅潮した。


「貴女が今日まで我が夫君の傍に居ることができたのは妾の寛容のおかげと理解するが良いだろう。下がりなさい」


 重ねて命じると、寵姫は言葉もなく病室を辞した。


 さて、と寝台に横たわった夫君を見下ろす。いくらか窶れてはいるものの、やはり整った顔立ちをしている。しかしどこか弛緩した表情をしているのは、四肢の麻痺が顔面にも及んでいるからだと聞いた。


「ゾフィーを……いじめるな」


 その弱々しい声が夫君のものであるに気づいて、アンネミーケは驚いた。随分とか細く、不明瞭で聞き取りづらい。後遺症は発声にも残ると説明されたのはこういうことか、と納得した。


「心配なさいませぬよう。あの女たちはこれまでどおり陛下のお傍に侍らせましょう。妾では不足でしょうし、その時間もありませんので」


 答えながら、先程までゾフィーが掛けていた椅子に座る。夫君の呻き声を相槌と解釈して、報告すべきこと、考えてきたことをつらつらと述べる。


「政についても心配はいりませぬ。臣下と私とで滞りなく進むように整えました。息子の養育も、信頼できる者を探しますゆえ同様に。王妃という称号は統治する者に相応しくないということで、適当な呼び名を考えた方が良いという者もおりますが……まあこれは学者の領域でございましょうな。良き案があれば奏上されることでしょう。

 陛下はあの蜂蜜たちと治療に専念なさるがよろしいかと」


 言いながら、寵姫たちは夫君の元に留まるのだろうか、と不思議に思った。見目の良いのは変わらないが、気の利いた詩を諳んじることも嫋々とした調べを奏でることも、もう叶わない。男としての機能も失われたということだ。彼女たちは日頃から王を愛していると公言していたが……。


 ――留まってくれると良い。


 物語のような美しい愛は物語のように美しい男女の特権だ。こういう時こそ心置きなく特権を行使して欲しいものだ。


 夫君が再び呻いた。今度はどういう意味かとその口元に注目すると、彼は時間を掛けて言葉を吐き出した。


「アン……これ、は……きみ……の、復しゅ……か、それ……とも――」

 

 これは君の復讐なのか。それともしくじったのか。


 夫君の切れ切れな言葉を聞き取り、さらにその意味を理解するのに数秒かかった。


 ――妾がやったと思っているのか。


 思わず、声を立てて笑っていた。夫君が怯えたように不自由な身体を身じろぎさせるのを愉快に眺める。


「おかしなことを仰る。貴方が倒れた時に傍にいたのは貴方の優しく柔らかく美しい菓子たちではありませんか」


 聞き分けのない子供に対するように言い聞かせる。それほどに、彼女の夫君は浅はかで愚かだった。


「それに、妾は貴方に感謝している。妾にこの国をくれたことに対して」


 結局のところ、彼女は従の立場でいるのが嫌だったのだ。


 王子を産もうと多少の知識を認められようと、王妃の地位も権力も王の存在に依存している。王族ではない以上、この国では男しか王になれぬ以上、彼女は王にはなれないのだ。

 しかし、夫君の代理としてなら名分が立つ。事実、王が倒れて数日で廷臣は王の存在をなかったことにした。体裁が変則的であることは仕方がないが、実質的には今や彼女がこの国の主だ。


 彼女は国の、夫君の運命を操る立場に立ったのだ。


 夫君が逝去していたらまた話が違っていた。血で血を洗う継承争いで悪名高いイシュテンほどではないにせよ、幼い王は簡単には受け入れられない。場合によっては内乱も覚悟しなければならなかっただろう。

 王が存命かつ身動き取れない今の状況は、彼女にとっても息子にとってもまことに都合が良い。

 夫君の惰弱も放蕩も、この時のためであったかのよう。

 知らず、アンネミーケの口元に微笑みが浮かぶ。


「我が夫君よ。ようやく貴方のことを愛することができそうだ」




 ブレンクラーレの歴史上にも稀な、女の統治者。摂政陛下アンネミーケはこの日誕生した。

 彼女はその後息子にその地位を譲るまで長く権力の座についた。

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