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帰郷⑬ シャスティエ

 イシュテンの王都が近づくにつれて、夫や子供たちからの手紙が届く間隔は短くなっていった。使者が行き来する距離に、手紙を送る側と待つ側とが待つ時間。いずれも短くなったということで、誰にとっても良いことなのだろうとシャスティエは思う。


 その朝も、シャスティエたちが逗留している城に王家の紋章を掲げた使者が到着した。この地の領主が王の使者の通行を快く受け入れるということは、王の権力が及ぶ領域に入ったことの証左でもある。旅の終わりも近いのだと思うと感慨深くもあるし、それほど近づいても手紙のやり取りを求める夫が少し面白くもある。もう少ししたら、王自ら迎えに出向いて来るのではないか、とはジュラが冗談なのか本気なのか分からない顔で述べたことだ。


 ――その前に、こちらから行って差し上げないと。


 これほど長く夫の傍を離れたのは久しぶりだ。ミハーイが生まれてからは初めてでもある。その前の機会とは、ブレンクラーレに攫われた時と、日数としてはずっと短いけれど、出産の出血によって昏睡し、常緑の草原を垣間見た時だ。いずれも生きて再会できるとは限らない事態だったのを思うと、夫が不安になるのも無理はない、のかもしれない。イシュテンの王ともあろう方が、誰に対してであろうとそのようなことを口にするはずはないけれど。

 でも、きっとそうなのだろうと思う。夫は、ミーナの死を看取ったのだから。妻が傍らから喪われて二度と触れることも語らうこともできないという思いを、あの方は既に実際に味わっているのだ。

 実際に離れてみれば、シャスティエも二度と会えないかもしれないという恐怖や心細さを思いだす。だから、里帰りを決めた際の夫の不機嫌にも、もっと寄り添うべきだったと今さらながらに思うのだ。




 とはいえ、気を急かしたところでシャスティエにできることはない。彼女はただ馬車に揺られているだけ、馬の脚や供の者たちの疲労の程度に気を配るのは主にジュラの役目だ。一刻を争う行軍ということでもないし、下々に無理を強いるのも本意ではない。


 という訳で、シャスティエは夫からの一番新しい手紙を、ハイナルカに髪を結ってもらいながら読んだ。イリーナにグルーシャ、ツィーラに続いて馴れ親しんだ侍女が増えるにつれて、髪型の種類も増えている。特に旅路にあっては、乗馬を嗜むことの多いイシュテンの女の技術がありがたかった。馬車の振動を受けても風に吹かれても崩れることなく、けれど頭を締め付けるようなこともない。


 夫の筆跡や言葉の選び方を知ることができたのは、今回の里帰りで良かったことのひとつかもしれない。面と向かって話すのと、手紙を介して語るのは全く違う。口頭でならば大仰にも思えるかもしれない気遣いの表現を、夫の声で耳に蘇らせるのは気恥ずかしいけれど楽しいことだった。一文一文を味わうように読んで――夫からの手紙を読み終わったところで、シャスティエは口元をほころばせた。


「――見て。陛下が結びの言葉をミリアールト語で書いてくださったの」


 手紙を少し高く掲げると、背後に立って彼女の金の髪を梳くハイナルカに紙面を見せる。夫婦と父母としての私的な部分を見せることはできないけれど、決まりきった署名のところだけが見えるように。


「まあ。何と書いてあるのですか?」


 ハイナルカが穏やかに笑んだ気配が、シャスティエの首筋をくすぐった。今回の旅路を経て、この侍女のミリアールト語は大分上達したけれど、イシュテンのそれとは異なる文字を読み解くのにはまだ苦労するらしい。シャスティエが異国の言葉を学んだ時は主に本を読みながらだったから、耳を頼りに言葉を覚えるハイナルカの感覚は聞いていて新鮮だった。


「旅の無事を祈る、と――定型の文面なのだけど。上達されたと思わない?」

「はい、とても。さすが陛下です」


 たとえ読むことはできなくても、字として整っていることは分かるのだろう、ハイナルカは卒なく王の筆跡を称えた。イシュテンの王が異国の言葉を学ぶなど恐らくは例のないこと、言葉に拠らず剣で意を伝えるのが国の気風にも適ったことなのだろうけれど。当代の王の突飛とも呼べる振る舞いは、今のところ臣下に不審がられてはいないようだ。


 ――ミリアールトがイシュテンの一部になったから、なのでしょうね。


 他国に対して言葉で対話を試みるのは惰弱でも、自領の統治のための便宜上のことならば話はまた別、と捉えられているのだろうか。ミリアールト出身の者が妃だから、と見てもらえているのだとしたら、シャスティエがいる意味もあるというものだろうけれど。


 ハイナルカの指と櫛が髪を梳く感覚が心地良い。夫が報せてくれた子供たちの様子も愛しい。けれど幸せな心地に浸りきることもできないまま、シャスティエの心は不安にも揺れる。


「御子様方がもう少し大きくなられたら、ご一家でミリアールトにいらっしゃると良いと思いますわ。陛下がかの地の言葉を語るのを聞けば、民も喜びましょう」

「ええ。そうだと良いわね……」


 夫が――イシュテンの王がミリアールトを訪ねる機会は、あるだろうか。あった方が良いに決まっている。シャスティエが祖国の人々と顔を合わせづらいなどとは勝手な思い、()()統治者の姿を間近に見ること、かの地を粗略に扱うつもりはないと直に伝えることは重要なはずだ。イシュテンの騎馬は一度ミリアールトを踏み躙ったけれど、それはもう二度と起こらないことを知らしめなくては。

 ただ――ミリアールトの民の心を得るのに、同じ言葉を使うことがどれほど有効なのかどうか、シャスティエは今ひとつ自信がないのだ。




 ミハーイが生まれて間もなく、夫が出していたミリアールト語使用禁止の命令は解かれた。表向きの理由は、ミリアールトの血を引く王子の誕生を祝ってのこと。それに、ブレンクラーレ遠征やティゼンハロム侯爵の乱の間に叛くことがなかった忠誠を認めてのこと。

 けれど本当の理由は違う。イシュテンの者がミリアールト語を理解するようになっても、もう問題ないから。王の妃の婚家名の意味が知られたところで、何の憚りもないからだ。


 クリャースタ・メーシェ――復讐の誓い、という名の意味は捻じ曲げられた。国を滅ぼした仇に密かに突きつけたはずの刃は、その仇のためにこそ振るわれるものになってしまった。そのように意味を変えたのは夫だけど、シャスティエ自身もむしろ喜んで従った。ミリアールトはイシュテンと共にあった方が良いと、考えるようになったから。でも、祖国の人々が彼女と同じように考えてくれるかは分からない。


 ――裏切りだと思う人もいるはずよ……。


 シャスティエはイシュテンの歴史に復讐を刻むはずだったのだ。今は亡きグニェーフ伯らが反乱の剣を収めたのは、彼女がそう説得したからこそだ。ミハーイという王子を得た以上、確かにその母妃の名は後世にも残るはず。ただし、本来の意味は喪われて。

 ミリアールトのために、決して間違った選択をしたとは思わないけれど――シャスティエがそう思えるのは、我が子たちがいるからなのかもしれない。イシュテンによって愛する者を奪われた人たちの中には、彼女の心変わりを許さない者もいるだろう。例えば、シグリーン公爵夫人――シャスティエの、叔母であった方などは。




「クリャースタ様? どうなさいましたか……?」


 息子を全て失った方の凍り付いた目を思い出して沈黙していると、ハイナルカがそっと覗き込んできた。この侍女には言っても仕方のないこと、言えるはずもないことなのに気付いて、シャスティエはただ首を振る。


「いいえ。何も。――早く、支度をしなくてはね」


 男に比べて女は身支度に時間が掛かるもの。こうしている間にも、ジュラたちは出発が遅れるの焦れているのかもしれない。


「はい。クリャースタ様」


 シャスティエの顔色が冴えないのは分かっただろうに、ハイナルカは何も言わずに髪と化粧を整える手順を続けてくれた。女主人が時に物思いに耽るのに、この旅の間に慣れてくれたかのよう。


 ――私も、慣れたかしら……それとも、まだ?


 クリャースタの婚家名で呼ばれることに。周囲の人々を欺き続けることに。イシュテンの王に忠実な臣下たちが妃の名の本来の意味を知ったら、一体どんな反応を見せることだろう。あるいは、体裁が繕われていれば黙認してくれるのだろうか。

 背後で黙々と手を動かすハイナルカの様子を窺っても、穏やかに笑んだ口元がわずかに見えるだけだ。シャスティエが当初夫に取っていた態度を知っているジュラやアンドラーシは、婚家名の意味を知れば思うところもありそうなものだけど。妻たちには、何も漏らしていないのだろうか。


 ――いずれにしても、私が死ぬまでのことね……。


 誰が何を知っていても、あるいは知らないのだとしても、黙っているだけだとしても。歴史書にシャスティエの想いが記されることなどないのだから。ミリアールトはイシュテンに滅ぼされたけれど、その王家の血は最後の女王を通じて受け継がれる。その程度だろうか。それすらまだ決まってはいないこと、息子が健やかに育つよう、夫が戦いで斃れることがないよう、祈ることは尽きないのだけど。


 そうやって秘密を抱いたまま生きていくのだ。でも、夫がいて子供たちがいて、信じられる人々もいる。だから、シャスティエは十分に幸せなのだろう。




 それからも旅路は続き、手紙を携えた使者は王都とシャスティエの一行の間を行き来した。そしていよいよ王都の城門まであとひと息、という距離になったところで――なだらかな線を描く緑の丘陵を、馬の黒や茶、日差しに煌く絹服の彩りを見て、シャスティエは思わず苦笑した。


「まあ。また、大げさな……」


 ジュラの予言が当たった、と言えるのかどうか。彼女の夫は、妻の出迎えに五十騎近い手勢を率いて臨んでいた。騎馬だけでなく、従者なども含めれば人数としてはその数倍になる。そもそもシャスティエの一行にもジュラの手勢が護衛についているのだ。双方がじわじわと近づいていく様は、ちょっとした模擬戦のようにも見えてしまう。


「待ち遠しいと思われてのことでしょう。急ぎませんと」

「取り囲まれて槍を突きつけられてしまうのかしら」

「……陛下とクリャースタ様が並んだお姿を見れば、民も喜ぶかと」


 冗談めかしたシャスティエの述懐に、ジュラは敢えて触れずに慇懃さを貫いた。王に対する不敬になるとでも思ったのだろうか。ともあれ、急ぐことにはシャスティエも異論はない。まだ姿は見えないけれど、子供たちもきっと連れてこられているだろうから。すぐ傍まで来ているのだろうと思うと、再会までの時間が一分一秒でも待ち遠しかった。


 騎乗した者たちのひとりひとりの顔が見分けられる距離まで近づくと、シャスティエの胸はいよいよ高鳴り、喜びと驚きが溢れてくる。

 ひと際目立つ黒馬を御す夫は、子供たちのいずれも同乗させていない。夫の前は、シャスティエのために空けてあるということなのだろうか。王宮までの道のりは、無理矢理にも馬上に抱え上げられそうな予感がする。フェリツィアは懐いているアンドラーシに、ミハーイはまた別の者に抱えられている。王の側近で、ミハーイと同じ年頃の子がいる者だ。子供たちは王宮の中だけに留まることなく、臣下との交流を深めているのだ。


 それに、何より――


「見て。マリカ様まで……!」


 小柄な少女を支える片腕の騎手は、グルーシャの弟のカーロイだ。不具でありながら王女を任せられたのは、忠誠心を買われてのこと、それに、支える相手に心配がないからだろう。後ろのカーロイにさほど頼る様子もなく、背筋を伸ばし、豊かな黒髪を風になびかせるマリカ王女の姿は、母君を思い出させて目の奥が熱くなる。生さぬ仲の側妃の出迎えに来てくれた、などとは思わないけれど、外の空気に触れる気になってくれたのは心から喜ぶべきことだった。


 ――私がいない間に、何があったのかしら。陛下と何をお話されたのかしら……?


 早く夫たちに会って話をしたい、聞きたい、と――逸る思いで、シャスティエは馬車の中で身を乗り出した。馬に乗れないことを、これほどもどかしく思うのは初めてかもしれない。目に見えるだけの距離を縮めるための時間が、ひどく長く思われて。


 それでもついに、シャスティエが乗る馬車を中心とした一団は、夫が従える列の前に辿り着いた。シャスティエは馬車が完全に止まるのを待たず、扉を開けて地面へと転がるように降り立つ。ほぼ同時に、馬から降ろされていた子供たちも、大人の手を振り切って母のもとへと駆けてくる。


「お母様!」

「母上ー!」


 小さいながらに子供たちの足は速くすばしっこく、よろめくシャスティエが体勢を整える前にふたりの身体が全力でぶつかってくることになった。痛いほどの衝撃に危うく倒れそうになりながら、両手で大切な存在を抱きしめる。記憶にあるのよりもよほど大きい温もりに、小さい子供たちから何カ月も離れていたことに気付かされてシャスティエの胸は熱くなる。子供たちへの申し訳なさと――それに、何度でもこみ上げる愛しさによって。


「ふたりとも……大きくなったわね……」

「うん!」

「あのね、お母様――」


 子供ふたりは、母の衣装にしがみつき、全身で抱きついて離れようとしない。それに、とめどないお喋りが続きそうな気配を察して、シャスティエはそれぞれの頬に口づけて制した。夫が、所在なげな面持ちで佇んでいるのに気付いたのだ。馬から降りたのは良いものの、子供たちを押し退けて駆け寄る訳にはいかないからどうしたものか、とでも言っているかのような表情は少し気の毒で、けれど微笑ましいものでもあった。


「待って。お父様にもご挨拶をさせて。後で沢山、遊んであげるから」


 子供たちを身体の両側にしがみつかせたまま、シャスティエは夫の前へと進み出た。精悍な顔を見上げる時の首の角度が、妙に懐かしいと思う。

 妻の顔を間近に確かめて、夫の青灰の目がふと緩んだ。約束を違えず戻ったことで、ようやく安堵してくれたのだろうか。


「……よく、戻った」


 低い声の呟きが、シャスティエの胸をくすぐった。短いひと言を聞いただけで、どうしてこんなに顔が熱くなってしまうのだろう。寂しがらせてしまって申し訳なかったと、思わさせられてしまうのだろう。不思議な感慨に浸りながら、シャスティエは微笑みを浮かべた。確かにここにいるのだと、夫に示すことができるように。


「はい。無事に帰ることができました。再びお会いできたことを、心から喜んでおります」

「うむ」


 言葉での答えはまたも短かった。代わりに夫の思いを伝えるのは力強い腕だった。逃がしはしないとでもいうかのように、抱きしめられる。


 ――ああ、帰ってきたのね……。


 夫と子供たちの温もりに包まれて、シャスティエは思う。彼女のいるべき場所、帰るべき場所はここなのだ、と。

大分間遠な更新になってしまって申し訳ありませんでした。シャスティエ里帰り編は今回で完結です。今後は、また何か思いついた時に書くかもしれません。

また、ムーンの方にも今回のその後のエピソードを1話投稿しますので、18歳以上の方はよろしければご覧ください。

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