帰郷⑫ ファルカス
その日、ファルカスは早めに政務を切り上げて子供たちの元へ向かった。執務室に届けられた側妃からの手紙を、早く見せたかったのだ。
「お父様! 今日は遊んでくださるの!?」
真っ先に彼に飛びついてきたのは、二番目の娘のフェリツィアだ。誰に似たのか、あるいは母親も幼い頃はこうだったのか、彼の子の中では最も溌溂として、甘えるのにも遠慮がない。
「父上、お疲れ様でした」
対する末の息子のミハーイは、姉が父にじゃれつくのを少し遠巻きに眺めている。高く、少し舌足らずな声で挨拶を述べるのは、世継ぎらしくあれと常日頃言い聞かされているからだろう。ファルカス自身の幼い頃を思えば大分甘やかしてしまっていると思わないでもないが、幼いながらに立場に相応しくあろうとしているのは頼もしい。後でしっかりと撫でてやるのが良いだろう。だが、その前に――
「お父様――」
ミハーイよりさらに離れたところで控えめに微笑むマリカに向けて、ファルカスは笑みを作った。できるだけ自然に、娘を怯えさせたりなどしないように。母を亡くした心の傷が、たかだか数年で癒えるはずはないのだろうが、今も自分を責め続けているであろう娘が、一日も早くかつてのように笑えるように、親としては努めたかった。
「マリカ。来なさい」
「でも、フェリツィアがいるから」
痛ましいほど聞き分け良くマリカが首を振った途端、ファルカスの腕の中からフェリツィアが飛び出した。纏めた淡い色の髪を馬の尾のように跳ねさせながら、向かうのは姉のもとだ。
「私は大丈夫! フェリツィアはお姉様だから、譲ってあげられるの。どうぞ、ができるの。マリカお姉様にも、お姉様だから……あれ?」
「うん……フェリツィアは偉いのね」
「ええ! だからお姉様、どうぞ!」
「えっと……ええ、ありがとう」
姉に対して年長ぶるという謎めいた事態にフェリツィアが気付く前に、マリカが苦笑しつつ折れた。幼い妹の無邪気な申し出を無下にすることはできないということなのだろう。……つまり、ファルカスの気遣いなど子供のそれより役に立たないということだ。
こうして弟妹たちと遊ぶようになったのは喜ぶべきことだが、それも彼の力によるところではない。リカードの乱を知らないフェリツィアたちの遊び相手の子供たち。そしてミーナを知るシャスティエの侍女たちとの触れ合いを求めて、マリカはようやく少しずつ前に進み始めたようだった・
「マリカ。お前はもっと甘えて良い。お前も王女なのだから」
「……ありがとう、お父様」
ファルカスが手を広げると、マリカは大人しくその中に納まった。けれど、頷いたのが本心でないのは分かってしまう。彼の胸に軽く頭を寄せたきり、娘はそれ以上身体を預けてくれることはなかったのだから。
それにマリカは、父の訪れを単純に喜ぶだけでなく、時刻の早さに不審も覚えているようだった。軽く首を傾げながら、ファルカスを見上げて問うてくる。
「今日はどうなさったの? 随分早いから……お身体の具合でも悪いんじゃ……?」
「大丈夫だ。ただ、お前たちに伝えたいことがあったのだ」
マリカの、母親譲りの艶やかな黒髪を撫でながら、ファルカスは心の中でフェリツィアに感謝した。三人の子供たちの中で、マリカが彼の傍にいる状況にできて良かった。これから告げることを下の子供たちの傍で言ったなら、マリカはきっと傷ついてしまっていただろう。
「側妃が、帰国の途に就いたとの報せが来た」
「母上が? ほんと!?」
「お父様、いつなの? いつお母様に会えるの!?」
いや、父がついていてさえ、弟妹の喜びようを見るのは辛いことに違いない。シャスティエは一時里帰りをしただけだが、ミーナは――マリカの母は、戦馬の神の常緑の草原から還ることはない。母のいない寂しさで一時きょうだいが近づいたとしても、側妃の帰還はまたマリカの心を閉ざすかもしれない。事実、マリカはぴくりと身体を震わせるとファルカスの傍から離れようとする気配を見せた。
「良い馬を送らせたが、それでもまだ数日はかかるだろう。王都に近づいたらまた報せるように伝えたから、その時は皆で迎えに行こう。マリカ、お前もだ」
だからファルカスは、下の子供たちにではなく特にマリカに向けて語りかけた。母ではない父の妻を出迎えるのも、不本意で心を軋ませることには違いないのだろうが。それでも、ひとりで閉じこもるままにさせるよりは幾らかマシなはずだった。
「お父様。でも……」
「側妃は嫌いか? 会いたくないか?」
「そんなことはないわ……でも、私が行っても……」
内心緊張しながらファルカスが問うと、マリカはゆるゆると首を振った。弟妹たちやその母と距離を置こうとするのは嫉妬や敵意からではないはずだ。そう、ほぼ確信できてはいても、娘の表情を読みとるのは難しかった。ただ、ずっと見守っていれば、多少なりともマリカの心の裡を汲むことはできる。
――お前は、自分が許せないのだろう……?
マリカが誰よりも憎み責めるのは自分自身だ。母を死なせたのは自分のせいだと思い込んで、あらゆる幸せと喜びから自らを遠ざけているかのようだ。無論、弟妹たちが母と戯れる様を見たくないという思いもあるのだろうが。だが――いつまでも闇の中に留まっていて良いはずがない。そろそろ、陽の当たる場所に出られるよう、手を引いてやらなければならない頃だ。
笑っても良いし、はしゃいでも良い。誰もそれを咎めないし、むしろそれを望んでさえいるのだ。多分、マリカがそうと信じられるほどファルカスは頼りがいのある父親ではない。夫としても父としても、王としてさえ、彼にはあまりに不足が多すぎるのだ。それでも、娘がいつまでも沈んだ顔をしているのは見るに忍びない。だから思い切って、踏み込まなくては。
「お前が行けば、側妃は喜ぶだろう」
「嘘……。それは、嫌な顔はなさらないでしょうけど」
「嘘ではないぞ。むしろ、フェリツィアやミハーイの姿を見るよりも喜ぶかも知れぬ」
何しろ、実の子たちが母の出迎えに並ぶのは当然だが、マリカはこの三年というものほとんど王宮から出ていない。シャスティエがミリアールトに発った時も、弟妹たちが馬に乗せられてはしゃぐのを他所に、マリカはひとりであのラヨシュという若者と過ごしていたのだ。家族の輪から娘が外れたままでいるのを、どうして見過ごすことができるだろう。
「お前は馬が好きだっただろう。今は良い季節だし、久しぶりに乗ってみないか?」
「ありがとう、嬉しいわ、お父様。でも……」
フェリツィアとミハーイがきょとんとした顔で見上げてくるのを感じながら、ファルカスはマリカを諭そうとした。強情に唇を結んでしまった娘の真意を読み解こうと目を凝らしながら。外に連れ出したい思いは強いが、それが無理矢理になってしまってはならないのだから。そんなことをすれば、マリカの心が父に開かれることはなくなってしまうだろう。
――だが、また置き去りにはしたくはない……!
「マリカ――」
娘を説得する言葉を見つけられないまま、虚しくその名を呼んだ時だった。視界の端で、小さな影が近づいてきた。ミハーイが、ちょこちょことマリカの傍まで歩いてきたのだ。目を輝かせているのは、馬、という単語を聞きつけたからだろう。彼の末の息子は、イシュテンの世継ぎたるべく剣や馬術を教え始めたことで、年齢以上に大きくなったつもりでいるのだ。
「マリカ姉上、どうして行かないのですか? 姉上は、馬に乗れるの?」
母との再会が待ち遠しいのはもちろんのこと、ミハーイにとっては馬に触れる機会を逃すことも考えられないことなのだろう。父に似た青みがかった目が、不思議そうな色を浮かべて姉を見上げている。
「前はお父様に乗せていただいたの。もう何年も乗ってないし、ひとりではきっと無理ね」
「じゃあ、僕が教えてあげる! あのね、馬を怖がってはいけないんだって。『ゆれ』を『にがす』ためにね、背筋を曲げないでね――」
「まあ……」
硬く強張っていたマリカの口元が綻んだ理由が、ファルカスにはよく分かった。ミハーイが得意げに語ったことは、かつて他ならぬ彼がマリカに教えたことだ。当然知っていることを幼い子供に諭されるとは、思わず笑っても無理はない。
「あー、マリカ、無理にとは言わぬ……」
マリカの表情は緩んだものの、ファルカスが安心することはできなかった。幼い弟妹たちの無邪気さがマリカの心を開かせたのは間違いないが、限度というものはあるだろう。無知と幼さゆえの放言が気に障ることもあるだろうし、弟妹への遠慮のために不本意を強いることになっては本末転倒というものだろう。
マリカが気を悪くしてはいないかと、恐る恐る娘の顔を覗き込むと――しかし、にっこりと微笑んでいた。自然なものであるだけではない、本当に久しぶりに見る、勝気な笑みだった。そうだ、マリカはこういう顔をする娘だった。母よりも父の気性に似て負けず嫌いで時として短気で危うい部分さえあったと、ファルカスは思い出させられた気分だった。
「ううん、お父様。ミハーイよりも乗馬が下手なんて情けないわね……お姉様、なのに」
「マリカ。では……!?」
「外にも、行かなくちゃ、なのね。フェリツィアやミハーイも大きくなっているのに」
フェリツィアたちの成長は確かに目覚ましい。一日でも会わないと、その間に覚えた言葉や事柄に驚かされるほど。
――シャスティエも、さぞ驚くのだろうな。
数か月に渡って子供たちと会っていない妻に思いを馳せながら、ファルカスはマリカの心中も慮った。何かと背伸びをしようとする弟妹たちに、一番上の姉として、負けん気のようなものが刺激されたのだろうか。
マリカの母はすでに亡く、父も信頼を得られているか怪しいものだ。実母の他の妻と子がいることを、恨まれていても仕方がない。だが、父を通して、弟妹たちとの血の繋がりを感じてくれているのだろうか。
「……礼を言うのも詫びるのも何か違う気がするな、マリカ。だが、嬉しく思う」
「ううん……私が、心配をかけていたのだもの。申し訳ないとは、思っていたんだけど……」
「お前が引け目を感じる必要はない。……事前に、少し練習をしておくか? イシュテンの王女が馬の乗り方を忘れることもないだろうが」
気が早い、急いては娘も嫌がるだろう。頭では分かりつつ、ファルカスは勢い込んで娘に語りかけていた。フェリツィアとミハーイも構わなければならないし、シャスティエが実際に帰るまでと帰ってから、子供たちのそれぞれと触れ合う時間の配分も考えなければならないというのに。だが、マリカが自ら一歩を踏み出した瞬間に、浮かれてしまうのを留められなかった。
ミーナの死以来、イシュテンの王宮の時の流れは歪んでいた。幼い子供は健やかに成長する一方でマリカは母の死に囚われ続けていた。ファルカスもシャスティエも、過去を覗き込んでは後悔に苛まれ、罪の意識を慰め合って傷を舐め合い澱んでいた。
それでも確実に時は流れ、変化が訪れる。悲しみが消えることはなくても、新たな喜びが生まれることもある。
マリカの微笑みが、そう教えてくれたようだった。




