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帰郷⑪ ナスターシャ

 話が弾むこともないまま、クリャースタ妃はシグリーン公爵邸を後にした。かつて愛しんだ姪で、今は夫と息子を殺した男の妃である方にどう接すれば良いか――ナスターシャにとっては心に痛みと混乱を感じ続けたひと時だった。卓を挟んで対した美しい人に姪の面影を探しつつ、イシュテン王の子らのことを語る時に見えた情愛には勝手に傷つけられた。愛と憎しみはいずれも激しい感情でナスターシャを翻弄した。だから、ようやく屋敷の門で客を見送ることができるとなった時、彼女は心の底から安堵したものだ。


「次があるならば御子様方にもお目にかかりたいものです」

「そうですね……機会があれば……」


 別れ際に申し出たのは、ナスターシャの偽りのない本音だった。孫の成長を見守る喜びは、彼女からは永遠に喪われた。けれど、クリャースタ妃の御子たち、特に母親似だという王女を見れば、ミリアールトの血が受け継がれていっているのだと信じることもできたかもしれないから。

 けれど、クリャースタ妃が曖昧な表情で頷いた心情も、よく理解できた。再会してからの自身の態度を顧みれば、幼い子供を会わせることに母が不安を覚えるのは無理もない。だから、これも全てナスターシャの咎だ。少しでも血が繋がった子らの成長を、噂話として聞くことしかできないのは。




 客人たちが去ると、屋敷はとたんに寒々しい空気に包まれた。夏だというのに、太陽の光は屋敷の中までは届いてくれないかのよう。ナスターシャの心も冷え切って、温もりとはほど遠い。


「シャスティエ様――クリャースタ様は、グニェーフ伯家にも立ち寄られるとのことですわ」

「そう。あの家の者たちは喜ぶことでしょうね」


 侍女が淹れ直してくれた茶を口にして、ナスターシャの疲れも寒さもやっと少しばかり和らいだ。すっかり人が減った屋敷に、ずっと居続けてくれる者だから、甘気心も知れている。明るさや華やかさ、喜びとは無縁の余生になってしまったが、ひとりぼっちではないというだけでも、彼女には得難い幸運だろう。


「……はい。クリャースタ様は、()()()の忠誠を労われるのでしょうし」

「ええ。とても立派な方だったから」

「……はい」


 お前が殺しておいて何を、とは侍女は口にしなかった。ただ、哀れむような目でナスターシャをちらりと見ただけで。主の心情を慮ってくれているのか、呆れかえっているのかはどちらでも良い。自身の罪も過ちも愚かさも、彼女はよく承知している。


 シグリーン公爵邸から使用人たちが離れたのは、仕えるべき主たちが地上から去ったからだけではない。夫と息子たち亡き後も、ナスターシャを支えてくれようという者たちは大勢いたのだ。けれどナスターシャは彼らの忠誠と同情を喪った。憎しみに駆られて、ミリアールトの誰もが認める忠臣、長きに渡って国と王家に仕えた老臣を殺めるという暴挙によって。


 ――イシュテンに降ってなお、あの方の声望は褪せなかった。いいえ、私の行いがあったからこそ、なのかしら……?


 乱を起こしながらイシュテン王の前に膝を突き、ミリアールトから言葉を奪う命に従ったグニェーフ伯のことを、変節漢と罵る声も小さくはなかったのだ。その風向きが変わったのは、イシュテン王がクリャースタ妃のために遥かブレンクラーレまで兵を向けたから。ミリアールトの女王を守るという神懸けた誓いに偽りはないと、行動を持って示したから。だから、グニェーフ伯もただの裏切り者として見られるのではなくなっていった。クリャースタ妃が攫われるという一大事にも、イシュテン王はミリアールトを疑う気配は一切見せなかったこともあるし。


 そして、何よりも。グニェーフ伯は、毒で斃れるような最期を迎えるべき方ではなかったのだ。高潔な老臣の非業の死、それを悼む声は亡き人への非難の声を覆い隠した。そして同時に、ナスターシャの行いは――公に糾弾されることはなくても――正当な復讐ではなく卑劣な犯罪であると、大方の者が見るようになった。他ならぬ彼女自身も、グニェーフ伯の最後の言葉に背いてまでイシュテンに逆らうつもりはもうなかった。


「クリャースタ……様、も慰められるでしょう。あの家の者たちは、女王に正しい敬意を払うはずよ」


 ミリアールトは、もはやイシュテンの統治を受け入れつつある。クリャースタ・メーシェ妃の名の意味は歪められ、復讐とはイシュテンに仇なすものに対するものと解釈されて。かつてならば屈辱に震えたであろう者たちも、大分数を減らしたようだ。とりあえずイシュテンはミリアールトを虐げてはいない――むしろ、王の妃の故郷として手厚く扱っているし、何より、イシュテンの次の王はミリアールトの血を引く王子の可能性が非常に高いのだから。


「あの方はここへ来るべきではなかった。もっとちゃんと……歓迎と尊敬を受けられる場所が幾らでもあったのでしょうに。ミリアールトに、あの方を恨む者は決して多くはないというのに」


 熱い茶で指先を温めながら、呟く。ひどく身勝手なことを言っているという自覚は重々あったけれど。でも、それもまたナスターシャの本心だった。数年ぶりに故郷を訪れて、掛けられる言葉が嬲るようなものだけだとはあまりに哀れだ。

 グニェーフ伯爵家では、クリャースタ妃は身分に相応しく供応されるだろうと信じられた。亡くなった方の忠誠を、遺された家族たちはよく知っているだろうから。だから、はるばる遠い国からやって来たクリャースタ妃に、故郷の良い思い出を差し上げることもできるだろう。


 ナスターシャが話したがっている気配を察してくれたのだろう、侍女は彼女の向かいの椅子に掛けた。言葉にせずとも主の意を汲んでくれる、全てを喪った女にはまことに得難い者だった。


「ですが、奥様のためには良いことだったのではないかと……あの、姪御様にお会いできて、喜んでいらっしゃるのでは……?」

「それならそう言ってあげるわ……!」


 更にこの侍女は、ナスターシャを慰めようとしてくれている。クリャースタ妃に対する態度を目の当たりにしてなお、このように言ってくれるとは。ナスターシャの胸に渦巻く黒い思いの中から、一かけらの輝きを見出そうとしてくれているとは。その優しさは甘く嬉しく、けれど同時にナスターシャを苦しめる。侍女の厚意に値しないと、自分自身でよく分かっているから。


 クリャースタ妃を――シャスティエに、もっと優しく接することもできたはずなのだ。かつての名で呼ぶことがイシュテンの倣いに叶うのかどうかは分からないけれど、少なくとも叔母と姪として会うことはできたはずだった。

 それができなかったのは、どうしても理不尽だ、という思いが拭えなかったからだ。夫と息子たちは皆、雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の氷の宮殿に召されたというのに、ナスターシャは家族を全て喪ってしまったというのに、あの娘はあらゆる幸せを手にしたように見えたから。夫がいて、子供たちがいて、成長を見守る喜びがあって。しかも、ナスターシャに対して罪悪感を抱いているのも見えてしまったから。だから、つい――というには、あまりに醜いことだったけれど。つけ込むように、相手の胸を刺す言葉と態度を選んでしまった。でも――


「……お産で死ぬところだったなんて、知らなかったわ……」


 不意打ちのように言葉の剣に貫かれたのは、ナスターシャの方だった。

 産褥の床で生死を彷徨い、氷の宮殿の扉が閉ざされているのを見た、と。クリャースタ妃は、ぽろりと漏らした言葉がこれほど彼女を驚かせ慄かせたとは気付いていないだろう。むしろ、ミリアールトの女神に見捨てられたのだと主張しようとしているようだった。惨めな身の上だと自らを卑下して、許しを乞おうかとするような。

 けれど、あの娘の言葉はナスターシャの息を止めさせたのだ。クリャースタ妃は、労せずして幸せを得たのではないと、やっと気付かさせられて。子を生むということは命の危険があること、身重の身体で異国に攫われることの不安と恐怖、その暴挙を行ったのが他ならぬ彼女の息子のひとりであるということ。あの墓所で、ナスターシャは初めてそれらを認識したのだ。

 クリャースタ妃の第二子について彼女が知っていたのは、早産だったけれど無事に健康な王子が誕生した、とだけ。それだけを聞いて、クリャースタ妃は苦労なくして栄光に包まれていたかのように捉えてしまったのだ。その考えの、なんと浅はかだったことだろう。


 震える手で茶器を置くと、侍女の手がナスターシャのそれをそっと包んだ。


「無事に済んだから、あえてお知らせしなかったのかもしれません」

「知らせる必要がないと思ったのでしょうね」


 優しくされればされるだけ、自身の愚かさを突きつけられる思いだった。せめて甘え切ることはすまいと、ナスターシャはそっと首を振る。イシュテンの王妃になるようクリャースタ妃に勧めたのは、あの方はもはや彼女の姪ではないと思い知ったからだった。それも、決して突き放すような意味合いではない。若くしてあまりに重い苦しみ悲しみを負った娘をろくに思い遣ることもしなかったのに、どうして肉親面ができるだろう。

 この先クリャースタ妃の身に――慶事であれ凶事であれ――何があったとしても、ナスターシャがその報せを受け取るのはイシュテンから派遣された総督を通してだけ。微かにとはいえ血がつながった王子や王女の成長も、見守ることは許されないだろう。

 これは、ナスターシャが当然受けるべき罰なのだ。クリャースタ妃とミリアールト、更には亡夫と息子たちに対しても、彼女は罪を犯したのだから。


「レフはとてもひどいことをしていたのね」

「ご懐妊のことはきっとご存知なかったのですわ……シャスティエ様は、きっと隠そうとなさったでしょうから……」


 侍女の慰めは、いかにも苦しい。そしてたとえその推量を容れたとしても、レフの罪が軽くなることはない。祖国の復讐のためと言えば聞こえは良いけれど、ナスターシャの末の息子がしたことは、結局のところ横恋慕に複数の国を巻き込んで戦乱を起こすことだった。全く気付いていなかった訳ではないのに、息子と姪が共に帰ってくれたら、という期待に縋ってナスターシャは目を瞑ってしまったのだ。


「何もかも遅い……。私は、多くの過ちを犯した。氷の宮殿に入れないのは、きっと私の方……!」


 死者が休む雪の女王の宮殿を閉ざしたのは、確かにナスターシャの夫や上の息子たち――それに、グニェーフ伯らで間違いないだろう。ただしそれはクリャースタ妃を拒んだのではなく、まだ眠る時ではないからというだけ。もっとはっきりと、あの娘に言ってやることができれば良かった。心を安らげてやることができなかったのもまた、彼女の罪であり誤りだ。


「奥様――」

「大丈夫よ。分かっているから。死者の国に受け入れられないなら、まだ生きていなくては」


 なぜか慌てたように腰を浮かせた侍女を、ナスターシャは少し微笑んで止めた。世を儚むつもりだとも思われたのだろうか。そうできたら、楽になれるだろうか。けれどそれはあまりに無責任というものだろう。ナスターシャにもまだできることがあるはずだ。何しろミリアールトでイシュテンに不満を持つ者は、まず彼女に擦り寄るのだから。そういった者たちを宥め、不満を聞き、最悪の場合には総督に諮る。そんなことも、できるはずだ。ミリアールトの未来のために。


「もしも、次に会えたら――もっと、ちゃんと話さなければ……」


 ナスターシャは、またも勝手な希望を抱く。あんな態度を取っておいて、クリャースタ妃やその子供たちと会える機会が巡ってくるとは限らないのに。

 でも、夢を見るくらいは良いだろう。クリャースタ妃の御子たちは、きっと彼女の子供たちの面影もあるのだろうから。今度こそ憂いや悲しみや憎しみを知らずに育つのは――イシュテンの気風では、難しいのかもしれないけれど。


 ――どうか、幸せに……。


 それでも改めて祈るのだ。クリャースタ妃が生まれた時に託された願いが、未来でこそ叶うように、と。

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