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帰郷⑩ シャスティエ

 公爵邸に戻ると、シャスティエたちは客間に通された。ここも彼女の記憶にある通りの趣味良く整えられた場所だ。ただし、かつての和やかさというか温かい雰囲気はなくて、どこか閑散として冷ややかな気配が漂っている。屋敷の主たちのうち、多くが去ってしまったから、だろうか。ひとり寂しく屋敷を守る叔母の――公爵夫人の孤独な心の在り方が、映し出されているのかもしれない。


 茶器から立ち上る仄かな湯気は、冷えた客間の空気をせめて暖めようとしているかのようだった。熱だけでなく香りも芳しく、公爵夫人の趣味の良さを窺わせた。けれどシャスティエが茶器に手を伸ばそうとしたところを、ハイナルカの声と身体が遮ってしまう。


「失礼を――私が先にいただきます」

「ハイナルカ……?」


 まさしく、礼を失した振る舞いだった。侍女が、主のために供された茶に、勝手に口をつけるとは。でも、もちろんハイナルカが礼儀を弁えていないということではない。彼女の張り詰めた声からも所作からも、並々ならぬ決意のもとに踏み切ったことは明らかだ。その意図も、一応は、分かる。……分かった上で、シャスティエを絶句させた。


 ――毒見が……必要だと? 叔母様が、私相手に……?


 これまでの対応で、歓迎されていないことも許されていないことも十分に思い知って、弁えている。殺しても飽き足らぬと思われていても、仕方ない。とはいえ、シャスティエはイシュテンの王の妻で、その世継ぎの王子の母だ。たとえ事故であっても夫の目を離れた場所で何事かがあれば、厳しい追及は免れないだろう。ミリアールトを脅かすようなことをするとは、普通ならば考えられないはず、なのだけど。


「あの……申し訳ない、ことを……」


 ハイナルカの目には、公爵夫人の憎しみはそれほど深く見えたのか。シャスティエの考えが甘すぎたのか。疑いの目をあからさまに向けられて、公爵夫人はどう思うか。

 疑問と不安のあまりにシャスティエはまた無様に言葉を忘れたけれど、公爵夫人は嗤うことも咎めることもしなかった。


「どうぞ召し上がってくださいませ、クリャースタ様。お口に合うとよろしいのですが」


 まるで、ハイナルカの振る舞いなどなかったかのように。淡々と茶菓を勧める公爵夫人の態度によって、シャスティエはこの方が疑念を粛々と受け止めたことを知った。




 ハイナルカが睨むように見守る中で、二杯目の茶が淹れられて、そして今度こそシャスティエの唇に届いた。茶の香りと温もりに心が緩む思いがしたのも束の間、シャスティエが茶器を置くか否かのうちに、公爵夫人は口を開いた。


「この地の果ての土地では、イシュテンの噂も届きませぬ。御子様方のことも、誠に失礼ながらお名前も存じ上げないままで――よろしければ、この機会に伺いたいものなのですが」

「は……?」


 ミリアールト語は、シャスティエにとってはもちろん母国語なのだけど。今この場で問われるとは予想だにしていなかったことを告げられて、思わず耳を疑ってしまう。けれど公爵夫人は薄く微笑んだまま彼女の答えを待っている。問いを繰り返すことも、その意図を説明することも望めないと悟って、シャスティエは恐る恐る、愛しい子供たちの名を紡いだ。


「……上の……娘は、フェリツィア。下の、王子はミハーイと名付けました」

「フェリツィア……幸福……」

「はい。あの、私の元の名がその意味だったものですから」

「貴女様が名付けられた……? イシュテン王ではなく?」


 公爵夫人がイシュテンの王女と王子の名を知らないというのが本当なのか、シャスティエには判じかねた。総督に問い合わせればすぐにも答えが返ってくるはずのことだから。敢えてこの場で聞くことで、彼女の子らへの無関心を暗に突きつけようとでも言うのだろうか。意趣返しにしては、あまりにもささやかではないだろうか。


「はい。そのように許されましたので。代わりに、というか……息子の時は、古い王の名をいただきました」

「そう、ですか……」


 公爵夫人が漏らした吐息に込められた意味も、やはり分からなくて落ち着かない。娘に幸福を願った名づけをしたことを、咎められたということなのか。国の仇の血を引く子供に幸せなど許さない、と。フェリツィアが生れた時はティゼンハロム侯爵がまだ健在で、無事に成長できるか分からなかった。母の愛さえ不確かで、生まれたこと自体が哀れむべきにも思えてしまった。だからせめて名前だけでも幸福(フェリツィア)を、と名付けたのだけど。


 ――いいえ……この方にはそれは関係のないこと……。


 敵国の内情のことを、それも、既に過ぎたことをくどくどと述べても言い訳にしかならないだろう。だから、シャスティエにできるのは公爵夫人の顔色を窺いながら茶器を(いら)うことだけだ。

 シャスティエ自身が父母から賜った名も忘れていないことを、何かしら良いように捉えてくださった、ということはあるだろうか。それとも、復讐はどうしたのだ、と詰られるだろうか。何ひとつ分からないまま、公爵夫人との問答は続く。


「お幾つになられましたか」

「娘は四歳、息子は三歳になりました」

「可愛らしいお年頃でしょうね……」

「はい。とても」


 頷いたのは、心の底からの同意を込めて。けれど同時に胸を鋭い刃で貫かれたような痛みも走る。この方も、従兄弟たちの成長を同じ思いで見守ったに違いないから。この方を前に、どうして無邪気に我が子の愛らしさを語ることができるだろう。

 よちよち歩きから、おぼつかない舌足らずなおしゃべりに付き合って。軽々と抱き上げることができていたのが、飛びつかれるとよろめくほどに大きく重くなっていって。これからは肉体の成長だけではなく、心の在りようや礼儀作法や勉学にも心を割いてやらなければならない。その苦労や気構えさえ愛しい存在。――シャスティエにはその希望があるけれど、この方にとってはそれはもはや過去のもの、全て奪われ、打ち砕かれたものなのだ。


 ――この、想いをさせたかったの? 自分だけ幸せであることの後ろめたさを味わわせる……?


 シャスティエに己の罪深さを思い知らせるための仕打ち、と考えれば筋が通るかというと、そういうこともない。この方が彼女を憎んでいるなら、そのような心の動きなど期待するものだろうか。たとえそうだとしても、心の裡を慮られて哀れまれるのは不快ではないのだろうか。

 何より――公爵夫人の顔色は蒼白で、指先は衣装をきつく握りしめている。シャスティエが語ったことによって、この方も深く傷ついているのは明らかだった。


「ご気性は? 父君様と母君様、どちらに似ていらっしゃいますか」

「どちらも……どちらにどれだけ、とはまだ分かりません。娘は……私ほど書物に興味を示す様子はないのですが。利発で、お喋りだとは思います。侍女や臣下に甘えるのが上手くて……厳しくしなければ、と思うこともあるのですが」


 墓参を申し出ただけでも図々しいことだと分かっている。許しを乞える立場ではないのはもちろんのこと、この上シャスティエ自身の言葉によってこの方を苦しめたくなどない。でも、問われた以上は答えなければならない。我が子のこととなると、語る言葉は幾らでも出て来るものだけど――今、この時に限っては、ひと言ごとに顔を強張らせる相手のことを慮って、シャスティエの胸は愛しさではなく苦しみによって締め付けられた。

 そして、唇を噛み締め、肩が震えるほどに力を込めて聞いている公爵夫人は、さらに問いを重ねてくるのだ。


「……可愛らしい姫君なのでしょうね。目に浮かぶようです。では、王子殿下は?」

「こちらもまだ幼くて……。馬に興味を示すようになったのは、イシュテンの世継ぎとしては良いことなのでしょうが。剣にも、狩りにも。母としては……あの、心配でもある、のですが……」


 話題が息子のことに及ぶに至って、シャスティエはとうとう言葉を途切れさせた。心配、などとは彼女が決して口にしてはならないことだ。イシュテンの世継ぎの母である者が。

 彼女の息子は、父の王位を継ぐならば、必ず戦い殺し奪う者になる。軍の先頭に立って剣を揮う者でなければ、イシュテンの王とは認められない。その剣を向ける先が、国内の逆臣や領土を脅かす外敵ならばまだ良いけれど――状況次第で、自ら戦いを仕掛けることだって十分にあり得るだろう。イシュテンの剣によって夫と息子を失った方に、イシュテンの王子の身を案じるようなことなど、まともに言い切れるはずがなかった。


「お気持ちは、よく、分かります」


 公爵夫人がゆっくりと、噛み締めるように呟いたのは、文字通りの意味だけだろうか。自身も同じ思いだったのに、息子たちの訃報を受け取る運命をシャスティエの夫によって課せられたと、暗に責めているのだろうか。分からないから、シャスティエは黙することしかできなかった。母としての不安を語るなど図々しい。かといって、ありきたりな慰めを述べるのも空々しい。

 シャスティエと、公爵夫人と。同じ色の碧い目が、しばらくの間見つめ合った。最初に会った時は凍り付いたようと思えたその目は、今は緩んでいるようにも見えた。否、けれど叔母であった方の心が解れたなどとは期待してはならない。幼い子供の話を聞いて、もはや地上にいない従兄弟たちに思いを馳せただけなのかもしれないのだから。いずれ生まれるかもしれなかった、彼らの子供たち――シャスティエの甥姪たちが笑い合い走り回る光景も、もはやあり得ないものなのだから。


 どれだけの時間、無言でいたのか――公爵夫人は、やがて視線を少し逸らすと、溜息と共に呟いた。


「貴女様も、母君になられたのですね……」

「……はい」


 親になることができなかった従兄弟たちを置き去りにするかのように。愛する幸せと、喪う恐怖を同時に得て。復讐を意味する婚家名を、子供たちにどう告げて良いか分からないままで。更には息子が母の祖国と同じ悲しみを生む可能性にも怯えなければならない。息子が憎まれ恨まれる未来も十分あり得る。――公爵夫人によって、気付かせられた。


 ――母であるがゆえに苦しめ、と仰っているのかしら……?


 シャスティエが相手の真意を測りかねていると、公爵夫人はまたひとつ、溜息を吐いた。そして、居住まいを正してこちらを見据える時には、その目はどこか凪いだ、清々しい色をしていた。


「まだ王妃になられていないと伺いました。なぜでしょうか」


 公爵夫人の胸の中で、何かしらの区切りがついた、のだろうか。けれど、急に変わった話題の意図もやはり掴みづらく、シャスティエは惑うばかりだった。


「その位に相応しい方がいらっしゃいましたから。たとえ地上を去られても、私が占めて良い場所ではないように思えるのです」


 戸惑うからこそ、答えたことは真実で、けれど公爵夫人には理解されづらいことだろう。シャスティエがイシュテンの王妃をどれだけ敬愛し、その死を悼んでいることか。この方にとっては、ミーナも敵国の者のひとりでしかないのだろう。そう考えると、シャスティエの胸を先ほどまでとはまた違った種類の痛みが襲う。あの方の優しさ美しさを知る者は、あまりにも少ない。


「とはいえ十分に喪に服されたかと存じます。……貴方様を王妃(コロレファ)と呼ぶことは、この地の民も喜びましょうに」

「……はい。そうかもしれません」


 ――王妃……? それとも女王(コロレファ)ということ……?


 ふたつの単語は同じ音を持つ。そのいずれの意味で発せられたのか訝って、シャスティエは慎重にごく小さく頷いた。彼女を王妃と呼ぶことで、ミリアールトの民は女王は喪われていないと信じることができるだろうか。ささやかな希望、ということなら良いけれど、イシュテンへの叛意を煽るような結果になるのは避けたいところだ。


「息子の――王子の立場もありますから。いずれは、ということになるのでしょうが……」


 側妃といえども王の妻――とはいえ、外国からの使者などに対する時には、王妃でないと侮られたと感じる者もいるようだ。今はまだミーナの喪に服しているからと臣下の勧めを断っているし、夫も現状を保つことを望んでいるようではある。でも、いつまでも、という訳にはいかないだろう。いずれ、何かの儀式やら記念にかこつけて、彼女はイシュテンの王妃として立てられるだろう。

 何より、今は夫の妻はシャスティエだけだけど、また新たに側妃が召されることもあるだろうし、その女性が子に恵まれることもあるかもしれないのだ。そのような時に、母の地位の上下は子にも影響するものだろう。そう考えるのも、我が子のためにミーナを踏み躙るようで心が痛むのだけど。


「……亡くなった方は、生きている者を縛りつけることを望んではいらっしゃらないでしょう。そのようになさるのが良いと存じます」

「は……?」


 ぽつりと呟かれた言葉は、シャスティエを物思いから現実へと引き戻した。公爵夫人の囁きは、そよ風のように微かなもので、シャスティエは危うく聞き逃しかけた。あるいは、聞き間違いを疑った。祖国の言葉のはずなのに、この方の言うことを掴むことができない。敬愛する叔母だったはずなのに、何を思っているのか量り知ることができない。


「イシュテンの王妃におなりなさいませ。死者を憚ることなどございません」


 穏やかな微笑と共に述べられることの本意も、分からない。ミーナのことを気にするなと言っているのか――それとも、死者とは、叔父や従兄弟たちのことなのか。


「……はい。夫とも、よくよく相談してみようと思います」


 ――ここ(ミリアールト)は、私の国ではないのね……。


 何も、分からないのだけど。ただ、ミリアールトはシャスティエが生れた地であっても、帰る場所、属する場所ではないのだ、と腑に落ちた気がした。声高に詰られ追い出されるのでなくても、公爵夫人の態度は彼我の間にくっきりと線を引くかのようだった。シャスティエが子を愛しむのも王妃の位を得るのも認めるけれど、それは遠い世界のことだ、と。

 夫の傍にあることも、イシュテンに骨を埋めることになるのも、とうに覚悟を決めていたこと、彼女の中で自明になっていたことだった。それでも、祖国()()()地の人、それも、血を分けた肉親のはずの人にそうと言われるのは、無性に寂しい気がした。

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