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帰郷⑨ シャスティエ

 シグリーン公爵邸の門扉にてシャスティエたちを迎えた叔母は、氷でできた彫像のようだった。シャスティエ自身にとっても馴染みのある表現ではあるけれど、彼女の場合は概ね髪や肌の色の薄さや容貌の整っていることを賞賛されために用いられるのに対して、今の叔母については完全に文字通りの意味だった。つまり、冷たく凍りついて、余所余所しく厳しく、血縁の情愛の欠片たりとも感じることができない。ミリアールトの女神である雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の、恐ろしい一面だけが人の姿を取ったかのよう。

 叔母の色の褪せた唇から紡がれる言葉もまた、(ひょう)(つぶて)を拭きつけられるかのように冷たく鋭いものだった。


「ようこそお出でくださいました。クリャースタ・メーシェ様」


 言葉遣いも、恭しく頭を下げる所作も、それは丁重なものだった。それでも、たった一言の口上で叔母は――シグリーン公爵夫人は、はっきりと伝えてきていた。シャスティエを姪として扱う気はもうない。あくまでも、征服されたミリアールトの者が、勝ち誇るイシュテンの王の妻に対するという形を崩すつもりはないのだ、と。


「……わざわざお出迎えいただき、まことにありがとうございます……シグリーン公爵夫人」

「夫亡き今、そのようにお呼びいただくのはとても不思議なことと存じます。このような北の果てまでおいでいただいたのは、どのようなご用件でしょうか」

「…………」


 気安く呼び掛けられたくはないのだろうと察して、称号で呼ぶことを咄嗟に選んだのだけど。それに対してさえ公爵夫人の答えは冷たく、叔父の死に対するシャスティエの責を暗に咎めてくる。叔父と従兄弟たちの墓参を願うためにはるばる旅してきたはずが、舌が凍ったようにどうしても動いてくれないほどに。


「クリャースタ様――」


 シャスティエの背に付き従うハイナルカは、さぞ戸惑っていることだろう。馬車の中でのシャスティエの不安がこうも的中しているとは、思ってもいなかったのではないだろうか。屋敷に上げることすら許さず、何の用だと尋ねてさえくるなんて。普通ならば考えられない非礼――でも、シャスティエが咎めることなどできようはずがない。


「あの、私、この国に縁があるものですから――祖国に殉じた方々の魂に詣でたいと思いましたの」

「ミリアールトはもはや国ではございません。よくご存知のことと思いますが」

「……はい。申し訳ございません」


 イシュテンが――シャスティエの夫が、ミリアールトを滅ぼし呑み込んだのだ。今の彼女が軽々しくミリアールトを国と呼ぶのは失言だった。イシュテンの者でさえ、領土が大幅に増えたのを認識しているとは限らないのだけど、ミリアールトの者がこの地を国と呼んだなら、離反の意思があると捉えられかねない。よくよく承知していたはずなのに口が滑ってしまったのは、緊張と動揺のためなのだろうか。


 叔母であるはずの人に、一体何を言えば良いのか分からなくて、シャスティエは俯いて指先を弄ぶ。彼女が言葉に詰まるなど、滅多にないことなのに。黙り込んでいたところで、何も良いことはないはずなのに。

 紡ぐべき言葉が見つからないまま、それでも唇を動かそうとした時――後ろから、おずおずとした声が上がった。


「公爵夫人。クリャースタ様は長旅でお疲れでいらっしゃいます。このように門の外で話し込むのがミリアールトの倣いなのですか……?」


 一歩下がる位置でシャスティエに従っていた、ハイナルカだった。高位の貴族や王侯とは無縁だった出自ゆえに、何かと控えめなこの女性があえて口を挟むことこそ珍しい。それだけ、公爵夫人の態度は不審なのだろう。ハイナルカをして、序列を乱して声を上げさせるほどに。今回の旅のために、ミリアールト語を教えたとはいえ、ハイナルカはまだこの地の言葉がおぼつかない。だから、細かな機微を聞き取ることができないということもあるのだろうけれど。でも、それならばシャスティエが泰然と振る舞って不安を与えることをしてはならなかったはずなのに。


 ――ああ、情けない……!


 公爵夫人は、相変わらず冷ややかな目でシャスティエとハイナルカとを眺めている。侍女に口を出させるとは何たる非礼と、無言のうちに責めているよう。シャスティエさえ毅然として振る舞うことができていれば、ハイナルカに気を揉ませることもなかっただろうに――だからこれは、主たる彼女の落ち度だった。


「あの――」

「大変失礼いたしました。田舎者の不調法をお許しくださいませ。――墓所へご案内いたします。当家の馬車を用意しておりますので」


 何かしら取り繕う言葉さえ、シャスティエは口にすることを許されなかった。公爵夫人はふと頬を緩めると踵を返し、ついてくるように態度で示した。シャスティエが狼狽える姿が、この方に幾らかの満足を与えたのかもしれない。そして、馬車の用意が整えられていたと知らされたことで、叔父たちの墓参を願う手紙もちゃんと届いていて、目を通してもらえていたのだと、シャスティエはやっと納得することができた。




 シグリーン公爵邸からほど近い丘の影に、風雪を避けるようにして墓所が設けられていた。シグリーン公爵家はミリアールト王家の中でも王位に近い人々が守り伝えてきた家系だから、ここに眠るのは、ほとんどがシャスティエにも縁がある人々ということになる。


 墓所の中でも、まだ明らかに新しい四つの墓石。そのひとつひとつの前に跪いて、シャスティエは長い時間を祈った。叔父と、従兄弟たち。皆、彼女の夫が命を奪った。首を刎ねたのだ。どんなに乞うても遺体に会わせてもらえなかったレフを別にすれば、叔父たちの死に顔は今もはっきりと目に蘇る。あの時感じた怒りと悲しみ、絶望と憎しみ――身を焦がすような激しい感情もまた、再び燃え上がってシャスティエの胸を苦しめた。そのような感情が実際に再び湧き上がったというよりも、それほどの激情を抱いたことを思い出した、と言った方が良いのかもしれないけれど。

 だから、あの時よりも醒めていると言えるかもしれないし、一方で、理性が残っているだけ、あの頃との自身の心の違いにより一層苦しめられるのかもしれない。


 絶対に許せなかったはずの男、国と肉親の仇を、彼女は夫と呼ぶようになった。復讐のための方便というだけでなく、心を傾けるようになった。子供を儲けたのは復讐の一環のはずだったのに、子供たちはこの上なく愛しい。その父親である男も、また。その想いは真実で、悩み苦しんだ末に自ら選び、決めたことのはずだった。なのに、こうして叔父たちの死に向き合うと、今の状況はやはり許されないことだと思えてならなかった。


 ――叔父様、皆様……。


 仇を愛してしまったことを、詫びようと思っていた。でも、物言わぬ墓石を前に、どうしてそのように図々しいことを願うことができるだろう。それをしたところで、シャスティエの心が少しばかり軽くなるだけだというのに。そのような気休めは、自らを慰めるための卑怯な手段でしかないだろう。――では、そんなことのために、彼女は子供たちを置いて遥かミリアールトまで旅したのだろうか。全て、彼女自身の心の弱さのために?


「クリャースタ様。あまり長居はなさいませんよう。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)は美しい若者を好まれるとか。死者の国を覗き込まれると、氷の宮殿に召されてしまうかもしれません」

「お気遣いをありがたく存じます、公爵夫人」


 公爵夫人の言葉は、彼女の卑怯を見透かしたとしか思えなかった。身勝手な思惑で夫と息子たちの墓前を汚すな、との糾弾だと解して、シャスティエは慌てて立ち上がる。とはいえ、雪の女王の氷の宮殿は、もはや彼女には相応しくない場所だ。たとえ地上での日々を終えたとしても、シャスティエが叔父たちの眠りを妨げることはない。そう、教えて差し上げたくて、早口に、そして必死に舌を動かす。


「ですが、私は氷の宮殿には入れていただけないでしょう。二人目の子を生む時に、血を流して何日も眠っていました。その間、雪原をひたすら歩いて、美しい宮殿に辿り着いたのですが――扉は、固く閉ざされていました。私が行けるところではないようです」

「まあ、それは――」


 公爵夫人は、シャスティエがこのように長々と語ることを予想していなかったのかもしれない。彼女自身と同じ色の碧い目が軽く見開かれた。その目を覆っていた氷の膜が一瞬だけ溶けて、棘のない、純粋な驚きが見えたような気がしたけれど――公爵夫人の目は、すぐにまた硬く冷たく凍りついた。


「ここに眠る者たちが、扉を閉ざしていたのでしょうね」

「……はい。そうかもしれません」


 お前の行き先など知らない。死者の方でお前を拒絶したのだ。そう、言外の言葉を聞き取ってシャスティエはまた俯いた。そうすると目に入る墓石は、苔生すこともなく染みひとつなく手入れされている。妻であり母であった方がそれだけ頻繁に訪れていることの証拠に思われて、死者の眠りを妨げた非礼が一層強く感じられて、身が縮む。


 ――もう、お暇した方が良いのでしょうね……。


 死者はもちろんのこと、公爵夫人にとってもシャスティエの存在は不快でしかないのだろう。きっと、謝罪の言葉も空々しく聞こえてしまうのだろうけど――それでも、言わない訳にはいかない。この方から愛する存在をことごとく奪った罪を詫び、自身は夫と子供に囲まれていることを恥じて。せめて、この先ミリアールトに戦火が及ばぬように努めることを誓わなくては。


 軽蔑の視線を浴びるのを覚悟しながら口を開こうとしたのだけど。公爵夫人は、またもシャスティエに先んじた。


「末の息子なら、扉を開けようとしたのでしょうけれど。きっと、他の者たちに止められたのでしょう……」

「え……?」


 それも、シャスティエが予想していたような冷たさも鋭さもない、どこかしみじみとした口調だった。言われた内容の意味も咄嗟に捉えかねて、シャスティエの唇から間の抜けた吐息が漏れる。けれど、公爵夫人は言い直すことも言い添えることもしてくれなかった。代わりに、うっすらと微笑んでから墓地の入口へと爪先を向ける。


「ミリアールトの大地は夏とは言っても冷えますでしょう。墓地とあってはなおさらのこと――王の妃たる方には似つかわしくない、みすぼらしい屋敷ではございますが、どうぞお茶を召し上がってくださいませ」


 だから、シャスティエはその言葉を公爵夫人の背中越しに聞かされた。そうすると結い上げた髪の色の薄さがどうしても目についてしまう。元々の金の輝きはなく、悲しみと嘆きに褪せてしまった色だ。美しく優しかった叔母を変えた咎の、一端とは決して言えない大きな部分をシャスティエは負っている。――この方に異を唱えることなどできるはずがない。


「クリャースタ様……?」


 ハイナルカが不安げな眼差しで見つめているのを、感じることはできたけれど。彼女自身も、公爵夫人とより多くの言葉を交わすことに、不安を覚えずにはいられなかったけれど。


「……お招き、まことにありがたく存じます。――是非とも、甘えさせていただきますわ……」


 それでも、馬車へと向かう公爵夫人の背に向けて、シャスティエはそう答えるしかなかった。

間が空いてしまい、申し訳ありませんでした。

少し短いですが区切りの良いところで。次回もシャスティエ視点の予定です。

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