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帰郷⑧ シャスティエ

 朝の身支度のためにシャスティエの寝台の傍に現れた時、ハイナルカは少し眠そうに目蓋を擦っていた。もちろん、彼女自身はきっちりと髪を結い化粧を整え、主の前に上がるのに相応しい格好を整えていたのだけど。寝不足の理由は想像ができたから、シャスティエの口元には笑みが浮かぶ。夏のミリアールトを初めて訪れた者には、とてもよくあることだった。


「まだ、白夜には慣れないかしら」

「はい……お恥ずかしいことでございますが」


 尋ねてみると、ハイナルカは頬を微かに染めて目を伏せた。言葉を交わす間にも、お互いに手を動かし身体の向きを変えて洗顔や着替えを粛々と進めている。最も馴染んだ侍女のイリーナほどでなくても、イシュテンで新たに知己を得た者たちとも、シャスティエは居心地の良い距離感を掴んでいた。クリャースタ・メーシェの名を得てからもう何年も経っているのだから当然のことだ。


「壁も厚いし、きちんと窓を閉めてはいるのですが。明るい気配を感じてしまうようなのです」

「外国からのお客はよくそう仰るわね。夜も灯りがいらないというのは、とても素敵なことなのだけど」

「クリャースタ様のことですから、遅くまで書を楽しまれるのでしょうね」

「ええ……子供の頃は、侍女を困らせてしまったかもしれないわ」


 ハイナルカに化粧を施してもらいながらのやり取り、鏡の中のシャスティエの頬は微かに歪み、目も軽く伏せられた。かつて彼女の夜更かしを咎めた者たちの多くは既にこの地上にいない。あるいは、共に大人の手を逃れようと王宮中を駆け回った者たちも。父や兄、叔父や従兄弟たち。グニェーフ伯も。ミリアールトは、シャスティエにとって懐かしい故郷であると同時に――あるいは、だからこそ――この地を訪れると胸の痛みから逃れられない。親しい人たちは雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の氷の宮殿に召されたというのに、どうして彼女は生きているのか――イシュテンで子供たちに対している時ならば頭の片隅に追いやることができても、この地にいると常に考えずにはいられないのだ。


「並の子供でしたら、外で遊べることを喜びそうなものですが。フェリツィア様もミハーイ様も、きっと寝台に入っていただくのが大変ですわね」

「そうね、子供たちを連れてくるなら夏が良いでしょうから。そうなるかもしれないわね……」


 ハイナルカが描いてくれた絵も、微笑ましく幸せなものであると同時にシャスティエの胸を締め付けるものでもあった。

 子供たちには、折に触れて母の故郷のことを話して聞かせている。夏の沈まない太陽や、溶けない雪。厳しい冬の厚く重い雪や明けない夜でさえ、ふたりは興味深げに目を輝かせていた。冬の夜を彩る極光のことを教えたら、フェリツィアはその輝きをドレスにしたいと言ってくるくると回ってみせた。小さな手で、ドレスの裾を摘まむ仕草をして。実際に極光を見せたら、どれほど驚いた顔を見せてくれるだろう。全身で喜びを表してくれるだろう。その姿を見たいと、母としては思うけれど――


 ――いつになるか、分からないけれど、ね。


 子供たちをミリアールトに連れてくるために、乗り越えなければいけない問題がある。ふたりとも、父と母の過去の経緯をまだ何も知らないのだ。もちろん、母の名前の――本来の――意味も。ふたりにとって祖父にあたる先のミリアールト王は父の手で殺された。母は、一度は父を憎んで復讐を目論んでいた。それを教えた後でも、子供たちは今のように両親を無邪気に慕ってくれるだろうか。

 不安と恐れはありつつも、夫とはいずれ子供たちに伝えなければ、ということで見解を一にしている。将来ミリアールトを治めることになる子には、その地の言葉を教えない訳にはいかないのだし。それならば、母の名の意味も隠すことなく知らせなければ。ティゼンハロム侯爵はもう亡いとはいえ、自家の娘を新たに側妃に送り込もうと考える諸侯もいるのだとか。夫とシャスティエと子供たちとの間を引き裂くために、事実を捻じ曲げたことを吹き込む者が出ないとも限らない。ならば、あらかじめ父母の口から伝えた方が良いだろう。


 ――たとえ、嫌われてしまったとしても……!


 暗い将来を思い描いて溜息を洩らしそうになったシャスティエの顎を、ハイナルカの指がそっと捕らえた。


「クリャースタ様、お顔を上げてくださいませ。お髪と、お化粧の加減はこれでよろしいでしょうか?」

「そうね……」


 改めて鏡の中の自身と向き合ってみると、身支度はほぼ整えられていた。髪は垂らさず、編み込んでまとめて、真珠で飾る。金の髪に真珠の控えめな輝きは映えないから、こういう時はミーナやマリカ王女のような艶やかな黒髪が羨ましくなる。唇や頬に挿した色も控えめに。何より、用意してもらった衣装は黒一色――喪服だった。


「ありがとう。これで伺いましょう」


 シャスティエは今日、叔母のシグリーン公爵夫人を訪ねる。そして、叔父や従兄弟たちの墓参をさせてもらうのだ。重ねて、あの方に許しを乞うことができれば良いけれど――美しく優しかった叔母が、かつてと同じように接してくれることなどは期待してはならないのだろう。




 ミリアールトに滞在する間、シャスティエはかつての王宮に寝起きしている。彼女が生まれ育った建物も庭も変わらないけれど、ミリアールトにもう王も女王もいない以上は、この場所は王宮とは呼べないのだ。事実、王族が過ごした奥の部分は常は閉鎖され、かつての宮廷、官吏たちが行き交い公的な儀式などを行った表の部分だけが総督府として使用されているのだという。だから、シャスティエが滞在する部屋の手入れをするのも久しぶりで、昔王宮に務めていたものを探すのに苦労したのだとか。


 ――そうやって、ミリアールトの民と話ができるようになったなら良かったけれど。


 ミリアールトを滅ぼしたイシュテン人の総督の要請に応えて、元侍女や従者が名乗りを上げてくれたという。彼らの尽力によって、シャスティエは以前と変わらぬ自室で旅の疲れを癒すことができた。元王宮の最奥にある霊廟も、心ある者が手入れを怠らずにいてくれた。

 だから、両親と兄については、シャスティエは滞りなく墓参を済ませることができている。石の棺が並ぶ霊廟に跪き、心行くまで彼らの安らかな眠りを祈り、懐かしい思い出に浸り、滅多に訪れることができない不孝を詫びることができた。

 問題は――と、そのような言い方も傲慢に思えて不本意なのだが――シグリーン公爵夫人の方だった。


 シグリーン公爵邸に向かう馬車の中、シャスティエは落ち着きなく何度も髪に触れ、衣装の(ひだ)を整えた。その度に溜息を吐くものだから、とうとう横に座るハイナルカに窘められるほど。


「クリャースタ様、どうか肩の力を抜いてくださいますよう。実の叔母君ということなのですから」

「そうね」


 困ったように微笑むハイナルカは、シャスティエを案じて言ってくれているのだ。でも、そうと分かっていても、短く硬いひと言で返すのが精一杯だった。公爵邸へと続く道は、彼女の記憶にあるものと変わらない。丘陵が描く線も、背の高い木の枝の曲がり方も。それだけに、あとどれだけで屋敷が見えるか、その門の前で馬車が止まるかも測れてしまう。叔母との再会までにどれほどの猶予があるか、分かってしまう。一応は訪問の申し出を受け入れてくれたものの、あの方がシャスティエに対してどのような想いを抱いているかはまだ分からない。恨み言を言うために会おうというのかもしれないし、そうだとしても彼女に不満を抱くことなど許されない。

 多分、全てはシャスティエの自己満足に過ぎないのだ。謝罪して、少しでも心の重荷を下ろしたい、という。


「……クリャースタ様がお気に病まれることはありませんわ。クリャースタ様がいらっしゃるからこそ、ミリアールトの平穏があるのですから」

「ええ、ありがとう」


 ハイナルカの慰めは、どこまでもイシュテンの者の理屈だった。シャスティエとイシュテン王の結婚はミリアールトの服従の証であり、だからこそイシュテンの領土の一部として王の庇護を受けているのだ、という。勝者の側から見れば、それは慈悲であり寛容なのだろう。でも、敗者にしてみれば屈辱に他ならない。かつてのシャスティエがそう感じ、歯噛みしていたように。

 それでも、時を経れば屈辱は薄れ、ミリアールトは緩やかにイシュテンに呑み込まれていくのかもしれないけれど。その一方で、イシュテンの文化や気風に、ミリアールトのそれが混じることもあるのかもしれないけれど。叔母は、その流れに呑まれることはないだろう。

 だってあの方はレフの母君なのだから。最後までイシュテン王を――シャスティエの夫を憎み、決して退かなかった。ブレンクラーレまで巻き込んで、多くの人の命を奪ってなお、彼女を夫と子供から引き離し、ミリアールトへ連れ戻すことを正義と信じて疑っていないようだった。多分――否、そのように気付かない振りをすることこそ全ての人に対して不実だろう。レフは、シャスティエを愛していたから。


 ――叔母様は、どこまでご存知なのかしら……。


 レフは、恐らくブレンクラーレから叔母に通じていただろうと思う。ミリアールトの貴人が黒松館からイシュテンの側妃を攫ったのだと見せつけて、夫の剣の先をミリアールトに向けようとしていたようだから。ティゼンハロム侯爵とさえも、叔母は策を巡らせていたのかもしれない。優しく気高い方がそのようなことを看過したとは考えたくないけれど、親は子のためなら幾らでも変わるし何でもできてしまうということ、シャスティエは既に知っている。レフがミリアールトに戻るためなら、あらゆる悪事に目を瞑ろうと、叔母が考えることもあるだろう。母君から諫めてくれていれば、とは思うけれど――我が子を得て仇に愛さえ抱いてしまった自身を顧みると、責めることなどできはしない。


 更にシャスティエの心を悩ませるのは、叔母はレフの動機を知っていたのだろうか、ということだ。従姉弟としての肉親の情ゆえ、あるいは女王への忠誠ゆえの暴走だと認識しているのか、それとも深すぎる――と、そのようにしか彼女には言えない――愛ゆえのことなのか。もしも彼の本心までもを叔母が知っていたとしたら、シャスティエの今の在りようは、一層許しがたく見えることだろう。


「クリャースタ様……」

「大丈夫よ。お会いしてみないと分からないことだもの。今から気に病んでも仕方のないことね……」


 顔色の晴れない主を案じてくれているらしいハイナルカに、シャスティエは微笑んだ。弱々しかったかもしれないけれど、叔母の前では礼儀正しく振る舞えるだろうと安心して欲しかった。


「あ、クリャースタ様、あのお屋敷ですね……?」

「ええ。前と変わらないわね。懐かしい……」


 そのようなやり取りのうちに、シグリーン公爵邸が馬車の窓の外に見えかくれし始めた。道が緩やかに曲がるのにつれて、木々や丘陵の陰に隠れながら、それでも確実に近づいている。それはつまり、叔母との再会もいよいよ間近に迫っているということだ。


 不安と緊張に、シャスティエは指先が白くなるほど衣装を握りしめた。

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