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04 針と糸 イリーナ

24話、寡妃太后の来襲後のエピソードです。

 主の手による刺繍を見た王妃は、自身も手を動かしながら、何と言うべきかずっと考え込んでいるように見えた。

 無理もない。雪の(コロレファ)女王(・シュネガ)の化身と名高い美姫の、白く細い指先が生み出したのが、針を持ち始めたばかりの子供のような――言っては何だが――残念な代物だとは、長年仕えたイリーナでさえ信じがたいことなのだ。


「ミリアールトではあまり刺繍が盛んではないのかしら」


 そしてやっと王妃が口にしたのが主を嘲り揶揄する言葉ではなかったことに、イリーナは心から安堵した。度を越した無邪気さに思うところがない訳ではないが、取り敢えずこの女性は穏やかで優しい気性の人だ。


 ――あの人たちがいる時でなくて良かったわ。


 ティゼンハロム家ゆかりの貴婦人たちがいるところだとこうはいかなかっただろう。主の美貌と教養を妬んでいるらしいあの女性たちなら、ここぞとばかりに主を貶め嬲りものにしていたに違いない。

 そしてそれに対して主が平静を保てるかどうかは非常に危ういところだった。人質の身で、女とはいえ敵のただ中でむくれかえることに利がある筈はない。雪の女王は自身の写し身の姫君を嘉したもうているらしい。


「そうですわね、私も祖国ではあまり針を持つことはしておりませんでした」

「そうなの」


 主の答えに、王妃は安心したように微笑んだ。的外れで無礼なことを言ったのではないと分かったからだろう。


 ――シャスティエ様、そんな嘘を堂々と……。


 傍で見ているイリーナとしては、嘆息をこらえるのに多少の努力が必要だったが。


 例のアンドラーシとかいう男と出掛けた主を心配しながら待っていたら、急に王妃の元へ来てほしい、との伝言で呼び出されたのだ。受け取った紙片にはミリアールト語でひと言助けて、とだけ書かれていたからそれはもう心臓が潰れる思いがしたものだ。それが温室まで来てみてば、刺繍をさせられて困りきった姿の主がいた。


 そもそもミリアールトの女が刺繍をしないなどということは決してない。

 イシュテンの女ほど人前に出る機会が限られている訳ではないが、ミリアールトの冬は何しろ長い。雪に閉ざされた夜、親しい者たちで集まって刺繍や編み物の腕を競い合うのは非常によくある光景だ。

 そして彼女たちが趣向を凝らして描き出す模様は、決してイシュテンの女たちに劣るものではない。ミリアールトの文化が劣っているように思われるのは、刺繍の腕に自信のあるイリーナとしては大変不本意なことだった。


 だが、侍女であるイリーナが横から口を出すのは無礼だろうし、何よりミリアールトの実情を明かすと主に恥を掻かせることになる。

 だから、イリーナは祖国の名誉と主のそれとを天秤にかけ――後者を取って口を噤むことにした。

 主も少し耳が赤くなっているから、全くの平静という訳でもないのだろう。自業自得だと思う。少しは刺繍の練習もするように、と。彼女は再三勧めてきたというのに怠けるからこうなったのだ。


 ――この機会に少しは女らしい嗜みを覚えてくださらないかしら。


 ミリアールトでは、主ももちろん女たちの輪に混ざって歓談していた。だがその手にあるのは針や編み棒ではなくいつも本や辞書の類だった。

 イリーナを始め、誰もがそれに気付いてはいた。それでも強く諫める者がいなかったのは、学ぶのは何も悪いことではないと思われていたから、そして何より聡明な主のことだからその気になれば刺繍くらいすぐに修めるだろうと皆が何となく信じていたからだ。


 主の作品を見れば明白なように、もちろんそのようなことは決してなかった訳だが。


 叔母である公爵夫人に嘆かれ、従兄弟たちに揶揄われればその時だけは針を持つものの、それが三日と続いたためしはなく、主の刺繍の腕は非常に低い水準にとどまっている。

 それが人質として連れてこられたこの国で、かつてなく真剣な表情で針と糸に向き合う主の姿が見られるとは、何とも不思議な皮肉な巡り合わせだった。




「ファルカス様」


 懐かしい祖国での情景に思いを馳せていたイリーナだが、王妃の弾んだ声で我に返り、慌てて跪く。王が、いつの間にか訪れていたのだ。


 ――やっぱり、恐いわ……。


 丈高く顔立ちの整った王は、見るだけならば申し分ない。先日の狩りの際に主と共に騎乗した姿を見た時は、思わず見蕩れてしまったほどだ。


「太后が来ていたとか。大事なかったか」

「はい。シャスティエ様と、アンドラーシ様がいてくださったお陰です」

「一緒だったのか。……何事もなかったなら、まあ良い」


 だが、一方で祖国を滅ぼしたのがこの男であることもまた事実。更には主の生殺与奪を握っているのもこの男だ。だから、恐い。

 王の目に留まることなどないように、イリーナは必死で身を縮めた。主も同じようにしてくれていることを願いながら。


 顔を伏せたイリーナの頭上では王と王妃が言葉を交わしている。


「マリカに針を持たせたのか」

「いいえ? どうしてですの?」


 王の口調はなぜか不機嫌そうで、咎める響きがあった。どうして王妃が当たり前のように受け答えできるのか、イリーナにはまったくもって理解できない。日頃、夫のことを楽しそうに語るのも、ずっと不可解だと思っているのに。


「違うのならば良いが。マリカには早いのではないかと思っただけだ」


 イリーナは王の言わんとするところを何となく悟った。


 マリカ王女は――まだ五歳だから仕方ないといえばそうなのだろうが――少々落ち着きがないように思える。母や主が刺繍にいそしむ間も、地に落ちた葉や花びらを集めたり、温室のガラスの歪みが生み出す影を追ったりと一時も大人しくしていることがなかった。先日主の部屋へ忍び込んできたのもそのような冒険の結果なのだろうと思うと、王妃やその周りの者たちには王女の躾をもっと頑張って欲しいと思ってしまう。


 そんな王女のことだから、父親が針を持たせるのを危険だと感じるのも無理はないのかもしれなかった。

 王妃も納得したようで朗らかに笑った。


「ええ、確かにまだ危なっかしいですわね。――でも、どうしてどのように思われましたの?」

「それはお前が作ったものではないだろう。そのように下手なものが大人の手によるものとは思えない。一体誰が作ったのだ」


 ――え?


 王の言葉にイリーナは思わず顔を上げ、その視線の先に主の作品があるのを見てとった。ああ、と嘆息しそうになったその瞬間、主が険のある声を上げる。


「――それは私が作ったものでございます」

「お前が? だが……」


 王の顔に困惑が、主の顔には怒りが浮かんでいるのに気付いてイリーナは悲鳴をあげそうになった。どうしてこの方は、わざわざ怖い相手に楯突くのだろう。

 そして王妃は相変わらずのんきに笑っている。


「そうよ、ファルカス様。いくらなんでもマリカが作ったにしては上手すぎます」

「比べる相手がマリカなのか。年頃の娘が?」


 揶揄するというよりも心底疑問に思っているような王の口調が、余計に主の矜持を傷つけたらしい。 白い顔が真っ赤になってうつむいている。斜め後ろに控えたイリーナからは見えないが、主の碧い瞳はきっと熱すぎる炎のように怒りに燃えているのだろう。


「ミリアールトでは刺繍は盛んではないのです!」

「あまりやったことがないならお得意でなくても当然ではないですか。今、イシュテンの模様を教えて差し上げていたところなのです」


 我慢しきれなかったらしい主は先ほどの嘘を繰り返し、王妃の無邪気な言葉に更に傷を抉られているように見えた。主がこれほどに赤面しているのは非常に稀なことで、内心そうとう恥ずかしい思いをしているのに違いない。


 イリーナは雪の女王に心から祈った。王がミリアールトで刺繍の類にあまり目を留めていないことを。王宮の調度にもミリアールトの技術をうかがわせる品は山とあったから、もしも記憶に残っていたなら主の言葉が苦し紛れの嘘だと分かってしまう。多分、芯からの武人であろう王ならいちいち装飾などに目を向ける感性はないだろうとは思うけれど。


 そして何よりも祈るのは、主のことだ。


 ――シャスティエ様、どうか王を怒らせたりしないでください。


 憎い敵に庇護される現状に憤っているのは、分かる。イリーナも複雑な思いを完全に割り切ることはできない。でも、そうはいっても主はミリアールトの女王、生き残ったただひとりの王族なのだ。いたずらに王を刺激して身を危険にさらすことはないと思うのに。


 王が現れて心が乱れたらしい主の手元は、更におぼつかなくなって、作り出される作品の質は、それこそ幼児並みの作品にまで落ちている。


 王宮にあるからには質の良いものであろう布と糸を哀れみながら、イリーナは主人の気性が和らぐことを切に願った。

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