帰郷⑥ マリカ
「……どうしたの? 何をしに来たの? 離宮の人たちが心配するでしょう……?」
「あれ、いないの……?」
この場所にいるはずのない妹が突然現れたことに驚いて、マリカは数秒に渡って言葉を失った。やっと立ち直ってフェリツィアに問いを重ねてみるけれど、でも、相手はきょろきょろと辺りを見渡しては大きな目を瞬かせている。
「いない? 誰のこと……?」
――小さい子……こんなに近くで見たのは、初めてだったかも。
幼子の要領を得ない受け答えを訝りながら、同時に、マリカはその小ささと愛らしさにも目を瞠る思いだった。フェリツィアとミハーイと顔を合わせる時は、概ねいつも卓を間に挟んでいる。それか、庭や室内の開けたところで遊び回る弟妹を、マリカが椅子に掛けた姿で見守るのだ。ふたりは母君の傍に、マリカは父の傍に、という位置関係もほぼ定まっている。
だから、フェリツィアが母君に似てとても整った顔かたちをしているのは知っていても、見蕩れるということはなかった。ぱっちりとした目を彩る濃い睫毛は、小さな顔には重たげなほど。傾げた頭を支える首の危うい細さ。頬にあてた華奢な手の、花びらのような桃色の爪。あらためて間近に見ると、小さな子供の可愛らしさは胸が苦しくなるほどだった。――もう何年も前、生まれたばかりの赤子だったフェリツィアを抱かせてもらった時も、多分こんな気持ちを味わったのだ。あの時は母もまだマリカの傍にいて、彼女は側妃の意味も祖父の罪も知らなくて、可愛い妹と綺麗なお姫様と、ずっと仲良くしたいと思っていたはずだ。
今でも、マリカはクリャースタ妃もその御子たちも嫌っていない。母を悩ませたのは美しく若い側妃よりも祖父の方だったのだろうし、何より、母を死なせた毒はクリャースタ妃ではなくエルジェーベトが用意し、そしてマリカ自身が母の口まで運んだものだ。あの人たちを恨むなど、筋違いにもほどがある。でも、事実を弁えているからこそ、マリカは家族の団欒など望んではいけないと思ってしまうのだ。
姉の無言に気付いていないのか、フェリツィアは笑顔のまま、少し背伸びをして口をマリカの耳元に近づけた。まるで大事な秘密を打ち明けるかのように、はにかんだ笑顔で教えてくれる。
「あのね、アンドラーシと遊んでもらおうと思ったの。お姉様のところにいるって言われたから……」
「ああ……」
溜息のような吐息と共に、マリカは納得した。アンドラーシはクリャースタ妃を深く尊敬しているらしいから、その御子たちも可愛がっているのだろう。幼い子供が遊んでくれる相手に懐くのはよく分かるし、マリカの住まいを訪れたことがないフェリツィアが、ここに辿り着くことができたのも不思議はない。だって、王女の身には広い王宮の全ては遊び場なのだ。普段行かない一角が目当ての場所だと、見当をつけるのは難しくない。マリカもかつてはそうやって、王宮中の抜け道を探索したものだから。そうやって、エルジェーベトの牢獄も見つけてしまったのだから。
「アンドラーシ様なら、こちらにはもういらっしゃいません。表の方へ行かれました」
「ええ、いないのお?」
マリカが声に出すべき言葉を見つけられないでいるうちに、ラヨシュがおずおずとした口調で助け舟を出してくれた。もっとも、フェリツィアを納得させることはできなかったようだけど。小さな唇を、憎らしさなど全くない可愛らしい形に尖らせた異母妹に、マリカも辛抱強く語りかけることにした。
「……離宮に戻った方が良いわ、フェリツィア。あちらから遣いを出してもらえれば、アンドラーシは来てくれるはず」
「疲れちゃったの。お姉様、ここに呼んじゃダメなの? フェリツィアが会いたいって、アンドラーシに言ってよ!」
フェリツィアは言い放つなり、ぺたりとその場に座り込んでしまった。もともとあった背丈の違いがますます大きくなって、マリカは見上げられる格好になる。上目遣いも甘える声も眼差しも、逆らいがたく可愛らしい。再び溜息を吐きながら、降参せざるを得ないほどに。早く追い返した方が良いと、頭では分かっているというのに。
「ラヨシュ、表を見て来て。フェリツィアの命令ならきっと聞かないことはないでしょう」
「でも、フェリツィア様は――」
「……誰かに、離宮にも行ってもらおうかしら。あちらでもきっと探しているわ……」
マリカが閉じ込めた、などと思われたくもないことだし。小さな妹を返すために手を尽くしたという体裁を残しておく必要があるだろう。マリカたちが摘まんでいた菓子の香りを嗅ぎつけ、その源を探して目を輝かせながら首をきょろきょろと左右させるフェリツィアに、その無心さに、マリカの気は重くなる一方だった。
侍女を呼びつけて離宮への遣いを命じようとすると、その女はなぜか気乗りしないようだった。
「離宮へ参るのは構いませんけれど……その間、フェリツィア様は――」
「仕方ないもの、私が見てるわ。お菓子をあげるくらいは良いわよね?」
というか、フェリツィアは既にマリカに菓子を食べても良いかと、たどたどしくも丁寧に強請ってきていた。舌足らずなお願い、という言葉、その言い方の一生懸命さに、また聞いてあげたいと思わされてしまうのだ。おねだりの威力をフェリツィア自身も知っているからこそ言ったのだろうし、クリャースタ妃の躾でもあるのだろうと思う。
マリカだって、遊びに行った先で食べ過ぎたら叱られる、程度の礼儀作法は弁えているから、フェリツィアが帰った後で咎められるようなことはさせたくない。とりあえず食べている間は大人しくしてくれるだろうし、アンドラーシか離宮の者がやって来るまでの間を持たせるために、それくらいは見逃して欲しかった。
けれど、その侍女は眉を寄せて声を低めた。
「まあ、そのようなことはなさらない方が……マリカ様のためにも……」
「そんなにいけないかしら? ご飯が食べられなくなってしまう……?」
自身の同じ年頃の時がどうだったか思い出せなくて、マリカは首を傾げた。確か、厨房で焼き立ての菓子やら炙った肉の切れ端をもらったことはあったはずだし、本当は褒められたことではないのも分かってはいるのだけど。特に困ったことになった覚えがないのは、母の優しさと大らかさのためだったのだろうか。
「いえ……その、だって。フェリツィア様がお腹でも壊されたら、こちらで出したもののせいにされてしまうかもしれません」
「ああ……」
フェリツィアが訪問の理由を打ち明けてくれた時と違って、今度の納得は嫌な苦みを伴うものだった。侍女が本当に言いたかったことが分かってしまったからだろう。腹違いの妹とふたりきりにさせたら、マリカが何をするか分からない、と。
「……大丈夫よ。私だっていつも食べてるものなのだし。それに、それならなおのこと早く迎えに来てもらった方が良いじゃない」
「マリカ様、ですが――」
「良いから早く行って。私がフェリツィアを見てる時間を、できるだけ短くしなさいな」
心がひび割れ、ささくれ捻くれた思いが声を尖らせるのがマリカ自身にもよく分かった。突き放すように命じた声は、多分父に似ているのだろう。侍女が顔を引き攣らせてひざを折ると、衣装を翻して走るように退出して行ったことからも分かる。でも、言うことを聞かせることができたからといってマリカの心は晴れなかった。彼女が思い通りにできるのは侍女相手がせいぜいで、父と違って数多の民や臣下を従わせることはできないのだから。否、マリカの言葉は侍女にさえも届いていない。あの女は、結局マリカのことを信じていないのだろう。愚図愚図しているとフェリツィアが害されてしまうからと、怯えに駆り立てられているだけだ。……早く迎えが来てくれるなら、それで良いと思うしかないけれど。
「お姉様? どうなさったの?」
「何でもないのよ、フェリツィア。アンドラーシが来るまで遊んでいましょうね」
幼いフェリツィアは、侍女とのやり取りも姉の憂いも気付いていないようだった。この子はまだ何も知らないのだ。マリカの母のこと、クリャースタ妃の立場、姉と将来争うことになるかもしれないこと。何も知らずに笑っていられるということは羨ましく妬ましい。でも、この子はマリカの罪も知らないのだ。だから、マリカも少しは笑えるだろうか。無垢な妹と戯れるのも、ほんの少しの間なら良いかもしれない、と思えた。
駆け出していった侍女は、慌ただしい足音を倍以上に増やして帰ってきた。アンドラーシを探しに行ったラヨシュよりも早い。マリカとフェリツィアをふたりきりにさせるのが、よほど怖かったのだろうか。当のフェリツィアはというと、マリカと並んで本を眺めて機嫌よく過ごしていたというのに。
離宮から駆けつけた金茶の髪の侍女は、ミリアールトの出の者だとマリカも知っている。だから、クリャースタ妃の里帰りに同行していなかったのを少し不思議に思ったのだけど。首を傾げる間もなく、その侍女は息を弾ませながらマリカの前に膝を突いた。
「マリカ様、私共の不注意で大変なご迷惑をおかけしました。申し訳もございません」
「別に、良いの」
異国の侍女の勢いに、この人もマリカを疑って急いできたのだろうか、と思う。母が存命の頃に何度か顔を合わせた程度の間柄でしかないから、そう思われても仕方ないのだけど。胸に刺さる小さな痛みに、俯きながら答えると、侍女は首を振ってマリカの顔を覗き込んだ。
「いいえ。頼りない方を見守るということ、さぞお疲れになったでしょう。ましてマリカ様ご自身も幼くていらっしゃるのに……。フェリツィア様も、お姉様にごめんなさい、を申し上げましょうね」
「フェリツィア、良い子にしてたわ! お姉様とご本を読んだの」
「それは、お姉様がお優しいからです。フェリツィア様も、例えばセリェムを預けられたらどうしたら良いか分からないでしょう。お姉様も同じことだったのですよ」
――何なのかしら、これ。
まるで、侍女はマリカではなくフェリツィアの方を咎めているようだ。妹が心配で、攫うようにして連れ帰るのだろうと、何となく想像していたというのに。金茶の髪の女は、マリカに優しく語りかける一方で、なぜかフェリツィアには硬い声で接している。もちろん、幼い子供が相手だから、叱るというよりは訴えかけるという感じなのだけど。フェリツィアが、マリカと同じく驚いた顔をしているのを見ると、普段はこのような接し方はされていないのだろう。
「……赤ちゃんのお世話だってちゃんとするもん」
「ええ、お世話、ですね。フェリツィア様はお姉様にお世話していただいていたのです」
侍女と妹のやり取りから、何となく離宮の様子を窺うことができた。誰か、クリャースタ妃に親しい者の子供がお披露目される機会でもあったのだろう。小さな赤ちゃんは可愛いけれど、怪我をさせてしまわないか恐ろしいもの。生まれたばかりのフェリツィアの温もりを抱かせてもらった時のマリカも同じだったのだから。
あの時のマリカは、今のフェリツィアよりは少し年長だったはずだけど、小さな子に触れた時の心の高ぶり、一方の不安さは、フェリツィアにも心当たりがあったらしい。侍女に対してぎゅっと顔を顰めると、すぐに、マリカに不安げな目を向けてくる。
「……お姉様。フェリツィアが来て嫌だったの……? ……ごめんなさい」
「いいえ。私も楽しかったもの。……いつでも来て良いのよ、ただし、大人の人と一緒なら」
「ほんと……!?」
フェリツィアが目を輝かせた一方で、口を滑らせてしまったという微かな後悔でマリカの舌先に苦みが走った。眉を寄せて見上げてくる妹を無碍にはできなかったのだけど、これではまた彼女の住まいが騒がされることになってしまうのだろうか。クリャースタ妃やその侍女たちは、フェリツィアを上手く言い包めて止めてくれるだろうか。彼女と弟妹たちを仲良くさせようという父の意図を感じることは多々あるけれど、クリャースタ妃の方では無理に近付こうとする気配はなくて、それはありがたいと思っていたのだけど。
「あのね、フェリツィアはアンドラーシを探していたのですって。ラヨシュが探しに行っているのだけど、離宮からも人を出してもらって――そちらに行ってもらうようにした方が早いんじゃないかしら」
妹が不意に踏み込んできたことの動揺を紛らわそうと、マリカは侍女の若草色の目だけを見つめて早口に言った。フェリツィアの相手が嫌だったという訳ではないけれど、賑やかなのは苦手だった。アンドラーシが来たら、もっと賑やかになるに決まっている。マリカは、よく知った場所で静かに過ごしたいのだ。でも――
「まあ、お気を遣っていただいて……。では、マリカ様もお出でいただけませんでしょうか? お騒がせしたお詫びをしませんと、主に叱られてしまいますから」
「え……」
侍女は当然のように微笑んで、マリカの目を瞬かせた。離宮に出向くなんて。父が相手なら、即座に断ることもできていただろう。でも、さして仲良くもない侍女に対してもそうするのは、無作法でないかとも思えた。それに――今なら、クリャースタ妃はいない。それなら、あちらに行っても母君に甘える弟妹の姿なんて見なくても済む、だろうか。何より、フェリツィアの期待に満ちた目が見上げてくるのが分かって、困る。本と菓子を与えて疲れも取れたのか、妹はまだまだ遊び足りないという表情をし始めているのだ。
「でも」
「マリカ様、私、思い出したことがございますの」
言葉を濁して目を逸らすマリカに、侍女は笑みを深めた。その目の奥に宿る思いは、でも、真剣なもので、マリカに何かを伝えようとしているかのような。
「ちょうど今日のフェリツィア様のように、マリカ様はクリャースタ様を訪ねてくださったことがありました。あの方と私と、この国に来たばかりの頃です」
「そんなことがあったかしら……」
今のフェリツィアのように、あの頃のマリカは王宮中を駆け回るのが好きだった。ラヨシュもまだいない頃、止める者もいなかったし、異国から来た綺麗なお姫様のことも好きだった。物珍しさに由来する、多分失礼な動機からではあったけど。だから、覚えてないとはいっても、こっそりあの方のことを訪ねるというのは、ありそうなことではあった。
「はい。小さなお客様に、とても驚いてしまったものです」
「……ごめんなさい」
同じ理由でフェリツィアが叱られているのを見たばかりだ。だから、身体を縮めて謝ると、侍女はいえ、と言いながら首を振った。
「……こう言うのも何なのですけれど。あの頃の主と私は、異国で大変心細い思いをしておりました。明日の身の上も定かではない不安を和らげてくださったのは、マリカ様、貴女様の可愛らしさでした。……それに、母君様のお優しさです。おふたりがいらっしゃらなければ、クリャースタ様の今はなかったでしょう。……ですから、今日のことだけでなく、お礼を申し上げなければならないと、と――クリャースタ様もそう仰るに違いありません」
「そうなの……? お母様が……?」
父とラヨシュ以外の人の口から母のことを聞くのは、本当に久しぶりのことだった。マリカを気遣ってか、クリャースタ妃を憚ってか、誰も母のことを口にしてはくれないし、マリカの方から尋ねることもできなかったから。それも、こんな風に嬉しい形で。母を覚えていてくれる人は、ちゃんと残っていたのだ。
「お姉様、どうしたの……!?」
視界に映る侍女の姿がぐにゃりと歪んだ。フェリツィアの慌てたような声も聞こえてきたけど、そちらを向いて答えることはできない。下を向いたら、涙が零れてしまうから。だから、マリカは拳で目元を抑えながら、絞り出すように呟いた。
「……大丈夫よ。何でもないの」
侍女の招きを受けよう、とマリカは思った。父もクリャースタ妃もいないところの方が、母の話もしやすいから。この人の目から見て母がどうだったのか教えてもらいたいから。日を追うごとに儚く消えていきそうな母の面影を、少しでもはっきりと手の中に捕らえておくために。




