帰郷⑤ マリカ
ひとつの章を読み終えたところで、マリカは本を閉じて軽く伸びをした。かつては部屋の中に閉じこもることを嫌い、外での遊びを好んだ彼女だけど、この三年ほどは一日に少しずつでも本を読んで新たな知識を学ぶことを自らに課している。そうしないと母がもういないこと、母を死なせた自身の罪を意識してしまうからでもあるし、知識こそがこれからの彼女に必要なものだと考えているからでもある。
マリカを慈しんでくれた母も、誤った手段によってではあるけど守ろうとしてくれた祖父も、もういない。生きている祖母や伯母たちも――その力がないからと、許されないからと、ふたつの意味で――頼ることはできない。マリカの罪にも関わらず、前と変わらず接してくれる父の情愛を、別に疑っている訳ではないのだけど。それでも、王という立場からすれば、常にマリカの側に立つことができないということもあるだろう。彼女は反逆者の孫娘で、庇ったところで何の得がある訳でもないのだから。
だから、せめて父の悩みの種となってはならない。かつて無知によって祖父を嫌うことができなかったように。エルジェーベトの悪意を見抜くことができなかったように。知らなかった、などとはもう言い訳にできないのだから、正しく判断する術を覚えなくては。
「よいしょ、っと……」
まだ手に余る大判の本を書棚にしまいながら、マリカは誰にともなく呟いた。今日の勉強はひとまずここまで。分からなかったところは、父が来てくれた時に聞けば良い。
勉強と言っても、つまりは自分の意志で量や時間を決めているのだから、完全な苦行ということでもないのだ。今日のように、日が高い時間でも何となく切り上げてしまうことはあるし、一度読んで呑み込めなかったことが、後から知ったことで分かるようになる――そんな、糸を針に通すのに成功した時のような感覚は、確かに楽しいものでもあった。イシュテンの歴史や諸家を学べば、祖父を取り巻いていた人たちの模様も分かって来る。……それは、マリカの胸に痛みや苦みをも感じさせるのだけど。でも、知らないよりはずっと良いことのはずだった。
父も、マリカが学ぶことを喜んでくれていると思う……けれど。でも、単純な喜びだけでない、複雑な思いを垣間見てしまうこともある。いつだったか何かしらの質問を投げた時、それが的を射ていたものだったらしく、父はしみじみと呟いたのだ。
『お前の母に何も教えなかったことは、リカードの過ちのひとつだったな』
『そう、なの……?』
どうやら褒めてくれているようだ、マリカと母を重ねてくれているようだとは分かったったものの、父の真意を汲みかねてマリカは首を傾げた。母を死なせたことを責められることこそなくても、自分の中の罪悪感を無視することはできない。だから、父の口から母について語る言葉が出るのは、居心地が悪いことでもあった。
『あの者を無知と呼ぶ者は多かったし、俺自身もそのように考えてしまっていた、と思う。だが、教えられていないことを知らぬのは当然のこと。あの者も、学ぶ機会さえあれば知性を称えられていただろう』
『お母様は素敵な方だったの……』
父の声に、母を想い慕う響きを聞き取ることができたのは嬉しいのだけど。でも、父から母を奪ったのはマリカ自身、父の想いの深さを知るほど大きく頷くことなどできなくて、マリカは囁く声音で答えたものだ。
『まあ、その場合は俺など選ばなかったかもしれないが』
父は父で、皮肉っぽい言葉で締めくくってしまったし。そんなはずはない、と。マリカが言ったところで信じてもらえないのは明らかで。だから、マリカにとっても父との語らいは楽しいだけではなかったし、母を偲ぶことができる相手というのは、ごく限られてしまっていた。
後ろめたさを――全く、ではなくても――あまり感じずに接することができるとしたら、彼、だろうか。
「もう終わってるかなあ?」
再び宙に向けて問い掛けながら、マリカが足を向けるのは庭の方だ。そこでは、ラヨシュがアンドラーシから剣の稽古を受けているはずだ。稽古が終わっているなら、ラヨシュとお喋りもできるだろうし、終わっていなくても、刃を潰した剣が踊る様を眺めるのは楽しいかもしれない。何しろただの稽古だから、お互いに相手を傷つけようとしてのことではないから安心して見ていられる。かつてのように、マリカ自身が剣を持って戦える、などとはもう思わないけど、ラヨシュもアンドラーシも父やイシュテンを守ってくれるはず。だから、彼らが心身を鍛えるところを見るのは頼もしいと思えるのだ。
日差し溢れる庭に一歩踏み出した瞬間、マリカの耳に金属がぶつかり合う鋭い音が刺さった。次いで、目の端に回転しながら弧を描いて飛ぶ細長い影が映った。どちらかの手から、剣が弾かれて飛んだのだろう。
「マリカ様!」
「気を散らすな。戦場だったら首が飛んでいたぞ」
どちらか、といっても、もちろんより未熟なラヨシュの方に違いなかった。というか、自身が姿を見せたことで邪魔をしてしまったことに気付いて首を竦めつつ、マリカはそっと庭の端の木の陰に寄った。
「気にしないで。続けて」
「王女様に良いところを見せねばな。もう一度だ」
「……そういう言い方は止めてください」
性別も年齢も異なる三者の声が交錯する間に、ラヨシュは剣を構え直した。彼の顔が見える位置に陣取ったマリカからは軽く目を逸らす彼の頬には、もうかつての丸みはない。声も最近急に低くなったし、ほとんど大人と言えるのではないかとさえ思う。
王宮の中でのんびりと剣の稽古をするだけでなく、本来なら馬術も兵を率いる技も訓練もしなければならないとか。バラージュ家の家臣としての身分を得たラヨシュには、それだけの働きが期待されているということなのだけど。必要なはずの鍛錬を置いて王宮にいてくれるのは、ひとえにマリカの我が儘のためだ。
クリャースタ妃が遠い北の国に里帰りする、とマリカに伝えた時、父はひどく後ろめたそうな顔をしていた。
『フェリツィアとミハーイは、しばらく母がいないことになる。だから、あちらにもついていてやらねばならなくなるが――』
『ええ、そうしてあげて。ふたりともまだ小さいのだもの』
『マリカ、そうではなく――』
お前もその間、離宮で過ごさないか、と。父が言おうとしていたことには気付かない振りで、マリカは微笑んで見せた。別にクリャースタ妃が嫌いな訳でも、幼い弟妹たちが気に入らない訳でもない。ただ、あの人たちが暮らす離宮は彼女の家ではないと思うだけだ。母の思い出の詰まった一角にいさせてもらえて、父が二日と空けずに訪ねてくれるだけで十分恵まれていると思う。しばらくの間、父の訪れが減ったとしても、他人の家に上がり込むようなことはしたくない、と思った。
『……代わりに、ラヨシュを来させて。そうしたら大丈夫だから』
そう願ってみると、父の頬が微かに強張ったのが分かった。エルジェーベトを母に持つことで、父はまだラヨシュを快く思っていないのかもしれない。――でも、マリカには彼が必要なのだ。母を殺した罪を負っても、生きていて良いのだと、学び成長して、時に笑っても良いのだと信じるには、同じ境遇の相手がいなければ。ラヨシュの幸せを願うことを通してやっと、マリカも日々を過ごすことができているのだ。
『あの者にも学ぶことは多いはずだが……』
父が弱々しく呟いたことは、マリカも承知していた。でも、彼女が強く望めば父は叶えてくれることも知っていた。
『それは、王宮でもできることか。鍛錬についてはアンドラーシに任せよう。勉学の方は……お前と、が良いのだな?』
『ええ。お願い』
アンドラーシにも面倒をかけることは、申し訳ないとは思ったけれど。でも、バラージュ家で多くの時間を過ごすラヨシュと、久しぶりに王宮で語らうことができるのは楽しみだった。だからマリカは、父にはっきりと頷いて見せたのだ。
剣の稽古は、夕方の気配もまだ感じられないうちに終わった。
「いつもは真面目にやっているのだ。今日は、後は王女様のお相手をすれば良い」
「良いのですか?」
アンドラーシが汗を拭いながら告げると、ラヨシュは首を傾げたし、マリカも腰を落ち着けていた木陰から立ち上がった。まるで、彼女のためにラヨシュを解放してくれる、と言ってくれているかのようだったから。父ならともかく、この男がマリカに気を遣ってくれることなどないと、父の命令で渋々この建物に来てくれているのだろうと思っていたのに。
「赤ちゃんが生まれたんでしょう。おめでとう。……あと、色々させてしまってごめんなさい。……あの、ありがとう」
「王女様に祝っていただけるなど、光栄の極みでございます。それと、ラヨシュのことならマリカ様が気になさることではございません。陛下のご命令に従うのは、いつでも臣の喜びですから」
思わず駆け寄って、背の高い男を見上げて礼を述べると、相手はさらりと笑って膝を突いた。マリカに目線を合わせたアンドラーシの表情からは、嫌々言っているようには見えなかった。大人のことだから、不満も上手く隠してくれているのかもしれないけれど。でも、彼女を相手に礼儀を守ろうとしてくれているだけでも望むべくもない丁重な態度と言えるだろう。だから、マリカも少しだけ余計なことを話す気にもなれる。
「ラヨシュの練習は、本当に大丈夫なの?」
「はい。いつも真面目なのは本当ですから。バラージュ家で休みを与えたところで、気心の知れた者も少ないでしょうし――王女様のお傍の方が、恐れながら羽根を伸ばせるかと」
「そう……」
バラージュ家の屋敷や領地で、ラヨシュには友と呼べる者がいるのだろうか。いて欲しい、とも思うし、いないで欲しい――置いて行かないで欲しい、とも思う。マリカの傍にいることを、ラヨシュの方でも望んでくれているなら良いけど、本人に確かめることはできない。ラヨシュは、本心はどうあれ彼女に対しては微笑んでくれるに決まっているから。かといって、それをアンドラーシに尋ねるのも憚られる。だから、マリカは少し迷ってから言葉を継いだ。
「……ラヨシュは強くなれるのかしら。お父様みたいに」
「陛下に並ぶ戦士などそうはおりません。ですが、この者は見込みがあります。そう……気弱というか、争いに向かない質ではあるようですが。王女様をお守りするならそれくらいの方が良いのでしょう」
マリカのせいで、ラヨシュはあちこちに振り回されてしまっている。でも、彼の将来の妨げになりたいとは決して望んでいない。だから、確かな言葉を聞きたかったのだけど――アンドラーシが笑顔で述べたことは、どうも含みがあるように聞こえてならなかった。
アンドラーシは、王宮の表向きで用があるとかで退出していった。本当にそうなのか、マリカとラヨシュをふたりきりにしてくれるという計らいなのかは分からない。あの人の悪戯っぽいような、どこか子供っぽいような表情からして、もしかしたら後者なのかもしれない。
もう若者とか青年と呼んでもおかしくないラヨシュと、一応は王女であるマリカでは、完全にふたりきりという訳にはいかないのだけど。ウカツなことをしてはラヨシュは二度と王宮に上がれなくなるかもしれないということで、おしゃべりに留めるようにと侍女たちからは言われているのだけど。
――お庭を一緒に走り回ったり、とか。本当はいけなかったのね……。
母がいた頃、まだ幼かった頃、マリカはあり得ないほどの目溢しをしてもらったいたらしい。それは母の優しさであり甘さであり、大らかさでもあったのだろう。
とにかく、考えなしの振る舞いでラヨシュに迷惑をかけることなどあってはならない。だから、マリカは行儀よく室内に腰を落ち着け、ラヨシュと茶菓を摘まんでいた。先ほどまで剣の稽古が行われていた庭を眺め、初夏の緑や風の香りを――楽しむ、と言い切るには、先ほどのアンドラーシの物言いが気に懸かってしまっている。どうにもすっきりしないから、マリカは思い切ってラヨシュの意見も聞いてみることにした。
「……どういう意味だったのかしら。私のためにラヨシュを鍛えるのは嫌だということかしら……?」
「いえ、違うと思います。えっと……もしも私が手柄を立てたり、重用していただくようなことになれば、そういった者はマリカ様のお傍にいられないだろう、ということかと」
「ああ……ミハーイやフェリツィアの邪魔になってしまうものね」
ラヨシュの曖昧な笑みは、マリカが度々目にするものだった。父や侍女、ごくたまに機嫌伺いに訪れる貴族とかが浮かべる表情だ。哀れみというか、ひどく可哀想なものを見る眼差しが、母親違いの弟妹たちとマリカとでは、他の人たちからの扱われ方が違うのだと、言葉よりもはっきりと教えてくれる。
ミハーイがすんなりと父の王座を継ぐためには、マリカは常に弟妹たちより下の位置にいなければいけないのだ。祖父のように、マリカを担いでどうこう、なんて考える者が現れてはならないから。だから、もしもラヨシュが優れた才覚を見せたなら、マリカからは引き離されることになるのだろう。言われてみれば、ごく当たり前のことだった。
「……申し訳ございません」
「ううん。仕方ないことよ。……でも、ラヨシュはそれで良いの? あの人に頼めば、フェリツィアかミハーイの従者とかにもなれるかもしれないのよ?」
いよいよ味のしなくなった茶を啜りながら、マリカは小さく首を振った。ラヨシュのためを思ったようなことを言いながら、彼の答えはもう分かっている。そんなことはない、出世になど興味はないと言ってくれるのだろう。ラヨシュに甘え切った上で、形ばかり思い遣ってみせる自身の醜さが嫌になって仕方なかった。
「マリカ様――」
ほら、ラヨシュはやっぱり慰め宥める言葉をかけてくれようとしている。また、マリカを気遣わせて、言葉を探す苦労をさせてしまう。けれど――
――何……?
ラヨシュの声の前に、中庭から聞こえるがさがさという音がマリカの耳に届いた。顔を上げてみれば、植木の茂みが確かに揺れている。でも、マリカの犬のアルニェク以外に、王宮で放し飼いにされている動物の類はいないはず。庭師が手入れをしているにしては、でも、音も茂みの動きも大きくて粗忽な気がする。
ラヨシュも物音に気づいたらしく、言葉を止めて庭に目を向けている。ふたり分の視線を浴びながら、茂みはまた動き――華やかな彩りの何か、が転がり出てきた。
「あ。お姉様だあ」
その小さく可愛らしい存在は、何が楽しいのかきゃらきゃらと囀るように笑った。麦わら色の柔らかな髪、母君のように宝石を思わせる澄んだ碧ではないけれど、父やマリカよりも数段明るく鮮やかな、空色の目。白く柔らかい頬に浮かべた笑顔。甘えた声でお姉様と呼び掛けてくるけれど、たまに顔を合わせるだけで親しいという意識はマリカにはない。なのにこの無邪気さは、この子にとって周囲の存在は全て自分を愛してくれるものなのだろう。傅かれ甘やかされることしか知らない、絶句したマリカの表情もその理由にも気づかない――何の曇りも憂いもない笑顔は、マリカが忘れてしまったものだ。だから、見ていると眩し過ぎて切な過ぎて羨まし過ぎて、息が苦しくなってしまう。
まるでかつてのマリカのように、髪と衣装を木の枝で乱し、草の葉を飾りのようにくっつけて。幼いながらに上品に口元を手で隠して笑っているのは、腹違いの妹のフェリツィアだった。
一話にまとめるつもりが少し長くなったので区切ります。次話もマリカ視点で、短めになると思います。
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