帰郷④ シャスティエ
ミリアールトへの出立の日はすぐに決まった。夫が――不機嫌に任せてではあったけど――言った通り、ミリアールトの夏は短く冬の訪れは早い。だから、少しでも早く発たないと、帰路を雪で塞がれかねない。行くと決まれば急いだ方が良いのだ。
慌ただしく荷造りを済ませ、供の者を選び、留守中の子供たちの養育についても手配して。そういう訳で、シャスティエは北に向かう馬車の車中の人となった。王都の門を出てからしばらくの間は、夫と子供たちが見送ってくれる。彼らに従う従者と、彼女の護衛とが合わさって、一行はちょっとした軍隊のような規模にまでなってしまった。王の妃ともなると、里帰りも気軽なことではないのだと、出発の日になってシャスティエは改めて思い知らされた。
いまだにさしたる上達を見せないシャスティエの馬術の腕を、子供たちが受け継いでしまったのかどうかは分からない。四歳のフェリツィアと三歳のミハーイでは、まだ独力で馬にまたがることもできないのだから。でも、今回は母と同じ馬車に乗せては別れる時にぐずって面倒になるかもしれない、との判断で、大人の馬にひとりずつ乗せることにした。ミハーイは父王に、そしてフェリツィアはアンドラーシに抱えられてシャスティエの馬車の隣を進んでいる。窓越しに見る限り、馬上の高さに怯えることもなく、むしろ目新しい視点を愉しんではしゃいでいるようなのは良かったのだけど――
「アンドラーシ、もう一回! また、ぴょーん、ってして!」
「仰せのままに、フェリツィア様」
無邪気に強請るフェリツィアも、それにあっさり応えて馬を後ろ脚で立たせるアンドラーシも、シャスティエから見れば危なっかしくて仕方ない。幼児が落ちて地面に叩きつけられたら、馬の蹄に踏まれることがあったらと思うと心臓が凍る思いがする。
「やめて! フェリツィア、大人しくしていなさい!」
「大丈夫ですよ。とても良い子にしていらっしゃいます」
窓から顔を出して怒鳴るように悲鳴を上げても、イシュテンの者たちに彼女の恐怖は伝わらないらしい。アンドラーシは首を傾げただけで済ませるし、夫でさえも呆れ顔で子供と臣下の肩を持つのだ。
「お前は馬を恐れるから嫌がられるのだ。幼いうちから馬に親しんでいた方が良いだろうに」
「ですが――」
「父上、僕にもやって!」
「……母が怖がっているから今は駄目だ。代わりに、そろそろお前だけの馬を探してやろう」
「ほんと? やった!」
年下の王子の願いを退ける前に、夫はシャスティエの顔色をちらりと窺った。だから、一応は彼女を慮って譲歩してくれた、ということではあるのだろう。でも、代わりにミハーイに申し出たことも聞き流すことができなくて、シャスティエは夫を睨め付ける。
「そんな。早すぎます!」
「すぐにまたがる訳ではない。世話をするところから覚えさせる」
イシュテンの王が馬に乗れないのでは話にならないのは、分かる。武術や学問と同様、早いうちから馬術の訓練を始めなければならないのも。でも、自分の足で走ることさえまだおぼつかない、何かと転んでばかりの幼児を馬に近づけさせたくはない。世継ぎの王子だからと、夫は必要以上に息子を厳しく躾けようといているのではないかという疑いも拭えないのだ。
――こんな時に……!
少なくともこの先ひと月は夫とも子供とも離れることになるのだ。決して、嫌な気持ちで別れたいなどとは思っていないのに。でも、母の不安と父の厳しさは相容れず、夫もシャスティエも眉を顰めた顔で向かい合うことになってしまう。揺れる馬車の中と、馬上の相手と。そんな体勢も見送りという状況も、睨み合うためのものではないというのに。
と、馬車の中で半ば腰を浮かせていたシャスティエの袖が、そっと引かれた。
「クリャースタ様、ご心配なさいますな。イシュテンの男の子なら誰でもすることですもの。利発なミハーイ様ができないなどということはございませんわ」
「そう、なの……?」
控えめな声で宥めてきたのは、ハイナルカ――ジュラの、妻だった。赤子を抱えたグルーシャや、高齢のツィーラに代わって、今回侍女として同行してくれることになったのだ。総督としてミリアールトに滞在していたことがあるジュラが、シャスティエの護衛を任されたことも指名には一役買っている。
身分低い出自に遠慮してか、他の侍女たちに比べると主にはっきりと諫言することは少ない女なのだけど。そのハイナルカが言うならば、イシュテンでは本当に常識なのだろうか。
恐らくは険も和らいだ目で、息子を抱える夫を見れば、その口元が苦笑に綻んだ。やはり、シャスティエの過ぎた心配で、夫を呆れさせていたのだろうか。気まずさに言葉を探すうち――夫は、笑って息子の方に語りかける。
「ミハーイ、母を安心させてやれ。会えぬ間も、怠けることはしないと。剣や馬を正しく扱い、年長の者の言うことを聞くと。できなければ馬を与える訳にはいかぬ」
「はい、父上! ――母上、約束します」
――危ないことはしない、と言って欲しいのだけど……。
父と息子のやり取りは、母の望みとは少しずれている。でも、薄い胸を誇らしげに張るミハーイに、どうしてこれ以上否と言えるだろう。シャスティエが望もうと望むまいと、この子はいずれ戦場に立たなければいけないというのに。
だから、シャスティエは息子の頬に向けて手を伸ばす。馬車の中からでは触れることはできないけれど、万感の思いを込めて、愛情が伝われば良いと願って。
「……お父様たちの言うことをよく聞いて励みなさい。お母様が帰って来るまでに、大きく強くなったところを見せてちょうだい」
「はい、母上」
大きく頷く息子の顔は、夫の幼い頃はかくや、と思わせるほど面差しが似ている。けれど、ミハーイにはまだ厳しさや苛烈さ、傲慢さといった表情は見えないけれど――いずれは身に付けなければならないものなのだろう。王になるならば当然のこと、喜ぶべきことでもあるはず。それでも、我が子を真綿に包み続けたいという衝動は強く、シャスティエの胸を苛んだ。
王都から丘をひとつ越えたところで、シャスティエは一旦馬車を降り、子供たちを抱きしめた。いよいよ見送りの一行を離れ、彼女たちだけでミリアールトへと向かうのだ。
「ミハーイ、お父様たちの言うことを聞いて良い子でいてね。フェリツィアも。ジョフィアやフェレンツと仲良く、ミハーイとも喧嘩しないでね」
「ええ! お姉様だもの」
得意げな表情の娘に、お姉様とも仲良く、とは言えなかった。日頃はお姉様だから良い子に、と言い聞かせているというのに、お姉様――マリカ王女への気遣いまでもをフェリツィアに求めるのは幼い脳を混乱させてしまうだろう。第一、彼女の子供たちの姉として扱われることを、マリカ王女が喜ぶとは限らない。
「賢い子ね。お母様は誇らしいわ」
「でしょう!」
憂いなく笑ってじゃれついてくる娘の無邪気さは、この上なく眩しく愛しくて切なくなるほど。胸の苦しさを紛らわせるために小さな身体を抱きしめ、心が収まってからやっと離す。後は、夫との別れを惜しむだけだ。とはいえ子供たちのように抱きしめるという訳にもいかなくて、半端に伸ばした手は宙に留まるだけなのだけど。
「……長くお傍を離れることをお許しいただき、誠にありがたく存じます。どうかご健勝でお過ごしくださいますように」
「気にすることはない。気が済むまで故郷で羽を伸ばしてくれば良い」
「はい……」
この期に及んでは夫も皮肉を口にすることはなく、真面目な顔を保ったまま。けれど、それだけに何を言えば良いか分からなくなる。子供たちを間に挟まないと、夫婦としてどのようにあれば良いのか、シャスティエにはいまだに掴み切れていないように思えてならない。
――本当に、大丈夫だったのかしら。
ひとりきりで、この方は眠れるのだろうか。そんな、非礼極まりない心配さえ胸を過ぎってしまう。夫が、子供たちのように闇を恐れることはもちろんないけど、寝ていると不意に抱きしめられることがたまにあるのだ。シャスティエを求めてのことではないのは何となく分かる。あの縋りつくような力の強さは、多分ミーナがいないことを夢の狭間でふと思い出しているのではないだろうか。だから、手近な人の温もりを捕えようとしているのではないだろうか。
求められているのが自分ではないと分かっているから、シャスティエは黙って大人しくしているのだけど。留守中、もしも夫が他の女を召すようなことがあったら、その女は上手く振る舞ってくれるだろうか。
「どうした? やはり気が変わったのか。――行くのを、止めるか?」
「いいえ。行って参ります」
夫の問いかけは九割がたは冗談ではあるのだろうが、一かけらの本気も聞こえてしまったのでシャスティエは慌てて首を振り、馬車へと足を向けた。夫とは抱擁も口づけもしないままになるだろうか。子供たちや臣下の前だから、仕方のないことではあるけれど。
「お帰りが遅くなれば、また陛下はミリアールトに兵を出しかねませんな」
「アンドラーシ、黙れ」
馬車に乗り込む瞬間に耳に届いたアンドラーシの軽口は、まさしく余計なことだった。夫がすかさず叱りつけてくれたこと、それを聞くことができたことは、多分良いことだったのだろう。
馬車の振動に揺られながら、シャスティエはハイナルカに話しかけた。
「子供も小さいのに、引き離してしまってごめんなさい」
ジュラとハイナルカの子もフェリツィアよりほんの少し年長というだけなのに、長きに渡って父母を奪ってしまうのは申し訳ないことだった。イリーナを伴うことができれば良かったのだけど、あの娘も今では自身の赤子を抱えている。それに、継子の――フェリツィアの、亡くなった乳母の――子供たちは、フェリツィアとミハーイとも馴染みがあって遊び相手には最適だ。イリーナ自身の里帰りは、結婚の報告の際に済ませていることもあって、今回は留守番と子供たちの世話を任せていた。
最適とはいっても、それはシャスティエの目で見た時のこと。夫と一緒とはいえ、言葉も分からぬ地に連れ出される役目のことを、内気なハイナルカにとっては好ましいものではないのではないか、と思っていた。打診した時にも謝意を述べてはいたが、いざ出立してみると、改めて何度でも伝えなければ、と思ってしまう。
「いいえ。クリャースタ様の故郷ですもの。お話を伺うにつけて、行ってみたいと思って参りました」
「そうなら良いけど……」
おっとりと首を振るハイナルカが果たして本心を述べてくれているのか分からなくて、シャスティエは曖昧に答えた。すると、その弱気を読みとったかのように、ハイナルカは微笑んで大きく頷いた。
「そうですとも。……それに、前は夫に置いて行かれてしまいましたから。妻として、夫がどのようなところにいたのか知りたいという気持ちもありますの」
「ああ……」
確かに、ジュラはかつてミリアールトの総督に任じられていた。新婚の妻をイシュテンに置いて、征服したばかりの異国に留められるのは、さぞ不本意だっただろうに。……ならば、この夫婦は何年も前から夫とシャスティエのせいで振り回されてしまったということになるのだろうか。
「主に尽くすのは臣下の喜び、夫の喜びは妻のそれと申します。クリャースタ様はどうかゆったりとお構えになってくださいませ」
「ええ、でも――」
「それに、夫の土産話は苦労のことばかりではありませんでした。ミリアールトの人も景色も食べ物も、良いことは沢山あった、と。だから、私も不安は少ないのです」
シャスティエの表情が曇るのを見て取ってくれたのだろう、ハイナルカはそつなく言い添える。不安が全くない、と断言することこそなかったけれど――でも、だからこそその言葉に甘えても良いか、と思うことができる。
「そうね……。ミリアールトは今や陛下の治める地ですものね。良いところをイシュテンに伝えてもらえるよう、色々と教えてあげたいわ」
「はい。楽しみにしております」
ハイナルカの微笑みに、シャスティエの心もやっと少し解けたようだった。夫や子供たちへの後ろめたさに、故郷で会う人々の目を恐れる気持ち。それらが消えることはないけれど、少なくとも彼女はまたミリアールトの地を踏むことができるのだ。異国で首を刎ねられる定めを覚悟していた日々を思えば、どれほどの僥倖だろう。
「私も、なの。とても、久しぶりだから」
囁く声で打ち明けると、胸の中に小さく灯がともる気がした。この帰郷を、精一杯目一杯楽しまなければ、と。どこか開き直るような気持ちになれたのかもしれない。




