帰郷③ シャスティエ
「やはり考えが変わった。季節が良いうちにミリアールトに行ってくるが良い」
「はあ……」
突然そのようなことを言いだした夫にどう答えるべきか分からなくて、シャスティエは曖昧に首を傾げた。否、正確に言えば突然、ではないのだけど。グルーシャがまた離宮を訪れてくれて、アンドラーシが夫と話したことを報告してくれたのだ。
『どうやら陛下は……あの、クリャースタ様がミリアールトに行ったきり帰らぬおつもりではないかと思われたようなのです』
赤子を抱えた身だというのにわざわざ何度もシャスティエを訪ねていたグルーシャも、自身が紡ぐ言葉を信じていないような不思議そうな面持ちだった。アンドラーシの説得で夫は誤解を解いたということだけど、グルーシャには悪いけれどそれもまた信じがたい。別にアンドラーシが信頼できないという訳ではないけれど、あの者と夫の関係はどこか悪友のようで、妻や夫婦のことのいついて真剣に語り合う光景などどうも想像しづらかった。父として夫として、アンドラーシも大分変ったようではあるのだけど。
たから、違和感の源はまた別のところにあるのだろう。つまり――
――そのような思い違いをするものかしら?
夫はなぜあの夜のあれだけのやり取りでそのような思い込みをしたのか、ということだ。シャスティエとしても、幼い子供たちを置いていくことに心を痛めてはいたから、そこを咎められたら諦めざるを得ないと考えたというのに。夫も子も捨てて祖国に帰って、二度とイシュテンには戻らないつもりだというなら、あのような切り出し方は絶対にしない。寝台に横になりながらなどではなく、もっと改まって話すことだろうに。
夫婦の間に沈黙が落ちる一方で、足元からは子供たちの高い声が聞こえてくる。ミハーイが抗議めいた声を上げたのは、フェリツィアに玩具を取られでもしたか。男の子と女の子とはいえ、幼い間は一年の歳の差を覆すのは難しいらしい。既に父親に似て気の強いところを見せている子だから、まだ手を出さないでも大丈夫だろうけど。
シャスティエが子供たちに意識を向けた一瞬の間に、夫の目にはわずかながら険が浮かんでいた。
「……喜ばないのか」
「いえ、お許しをいただき、まことに嬉しく存じます。……ありがとう、ございます」
よく分からない理由で一度断られたことだから、またよく分からない理由で撤回されることもあるのではないか。そう思うと手放しで喜ぶことはできない。何より、簡単に夫と子を見捨てるような女だと思われたなら心外極まりない。取りあえず礼を述べた言葉とは裏腹に、シャスティエの声は弾まなかったし、彼女の不快を感じ取ったらしい夫も、順調に機嫌を損ねたようだった。
「行くと決めたなら早く出立した方が良いだろう。愚図愚図していては帰路を雪に閉ざされる。余計な時間が掛かることになるぞ」
「はい。私としても、子供たちとあまりに長く離れるのは本意ではございません」
「そうだろうな」
表向きは頷きつつも、夫の本心が言葉とは裏腹なのは明らかだった。顔をわずかに背けているのは、子供たちの様子を窺うためと見せて、シャスティエにあてつけているのだ。王にしてはあまりに子供っぽい拗ね方に、溜息を堪えるのも難しい。
「……本当ですのよ。どうして信じていただけないのか、不思議でなりませんけれど」
夫が信じている、などと言い張ったら、シャスティエもますます機嫌を傾けて、もしかしたら声を荒げてしまっていただろう。足元ではフェリツィアとミハーイが遊んでいるというのに、父母の不和を幼い目に見せてしまっていたかも。
「帰りたい、などと言ったからだ」
――そんなことで……?
口から出かけた言葉を呑み込んだのは、多分賢明なことだったのだろう。ぽつりと零れた夫の声には、それは深い怨念のようなものさえ感じられたから。だから、多分これこそが夫の本音、この件でもっとも不満だったこと、なのだろう。
――こういう時に、帰る、とは言わないのかしら。
イシュテン語の表現については、侍女たちに聞いてみなければならないだろう。シャスティエとしてはそのようなつもりはなかったし、ミリアールトが祖国であることは変わらないし、やはり不本意な思い違いとしか思えないけれど。ただ、夫がこれほどに理不尽な言動を取った理由は、何となく察せられる。この一年に軽く体調を崩した時や、何気なくよろめいた時、夫はどうも過剰に彼女の身を案じてくれたように思う。それは多分、シャスティエへの情愛を示すものではなくて、この方は妻を失うということをこの上なく恐れているのだ。不意に喪われたミーナの存在、あるいはその不在は、夫の心にそれほど深く刻まれているのだ。
ミーナの死を悼み、突然すぎる死を嘆くのはシャスティエも同じ。だから、夫にかける言葉も随分弱まり、そして労わるものへと調子を変えた。
「それは……申し訳ないことでございました」
「お前は何も悪くない。つまらぬ思い違いだったと言っただろう」
夫は、シャスティエが伸べた手を躱して、さらにそっぽを向いてしまったけれど。でも、夫への憐れみゆえに、シャスティエの勘気も鳴りを潜めた。まるで、ミーナが宥めてくれたかのよう。たとえ悲しみと共にであっても、あの方のことを思うと不機嫌でい続けることなどできないのだ。
夫のすぐ傍らに座り直し、逃げようとするその手を捕らえて、シャスティエは言い聞かせるように語りかけた。子供たちに対してするように、ゆっくりと、丁寧に。
「ミリアールトへ一緒に、と考えてくださったのはとても嬉しいですわ。今や陛下の領土ですし、雪と氷以外にも見るべきもの美しいものは沢山ありますもの。――でも、いけないのですわ。私が、許しを乞うべき方にちゃんと――許しては、いただけないのでしょうけど。とにかく、もう少し心の整理がついてからでないと。陛下がミリアールトにおいでくださる……いえ、いらっしゃる時は、もっと晴れがましく憂いのない場にしなくては」
「お前が、ミリアールトの者に許しを乞うことなどないだろう」
夫は多分、また全てを自身で負うつもりで言ったのだろう。悪いのは全て自分なのだ、と。確かに全ての発端は、イシュテンがミリアールトを攻めたことだった。でも、シャスティエの主観では彼女も夫と同様に罪深い。レフもグニェーフ伯も、彼女のせいでまだ命尽きるべきでない時に地上を去った。それによって悲嘆を味わった者も、彼女を憎む者もいるだろう。――でも、それを言えば夫はなおのこと気に病んでしまうのだ。だからシャスティエは夫の言葉をあえて否定せず、違う言葉で宥めることにした。
「はい。そこは私の心の持ちようかもしれません。でも、マリカ様はどうなさるおつもりでした? おひとりになさるなんて、あまりにもお気の毒です」
「それは……連れて行っても良いだろうし。場所が変われば、気が晴れるということも――」
「まあ、お父様の気まぐれで振り回す、と?」
「…………」
むっつりと黙り込んだ夫の表情からして、多分、マリカ王女のことを熟慮していた訳ではないのだろう。妻を喪うことをそれだけ恐れたのだと思えば申し訳ないが、父親としてはこれは良くない。でも、冷静になれば夫も分かってくれるはずだ。母を亡くした王女のことは、夫が他の何にも増して案じているのだから。
「私がいない間、マリカ様についていて差し上げるのはいかがでしょう? 邪魔者がいない方が気兼ねなく甘えられるでしょうし」
「邪魔者などとはマリカも思っていない」
「そうでしたら嬉しいことですが。でも、気兼ねをしないではいられないでしょうし」
「……妹たちと先に打ち解けた方が、お前とも過ごしやすいだろうか」
現に、夫の声からも拗ねた調子は消えている。代わりに浮かぶのは、まだたまに短い時間しか顔を合わせることがない子供たちを案じる色だ。マリカ王女も間違いなく王の子なのに、祖父のティゼンハロム侯爵の罪を憚ってか華やかに場に出ることはほとんどない。母君の立場を奪ったシャスティエと、母親がいる弟妹に対しては複雑な思いがあって当然だろうし。あの方のことを思えば、シャスティエの不在になど構っていられないだろう。
――ああ、それに大事なことがあったわ……。
「後は、母親がいないからとフェリツィアとミハーイを甘やかしすぎないでくださいませね。普段と変わらず、マリカ様とも会って差し上げてください」
「フェリツィアたちこそ寂しがるだろうに」
意外そうに目を瞠った夫に、シャスティエは釘を刺すことを思い出して良かった、と思う。
この方は本質として優しいのだ。不遇だと思う相手に対しては手を差し伸べてしまう。今は燃えてしまった黒松館へ度々通ってくれたのもそのためだ。ティゼンハロム侯爵に子らともども命を狙われ、不安に取り乱していたシャスティエが、ミーナやマリカ王女と比べて案じるべきだと天秤を傾けてくれたのだ。それに縋ってしまったこと、そのためにミーナから夫を、マリカ王女から父親を奪ってしまったこと。その時にも罪悪感に苛まれていたけれど、今となってはシャスティエの心の真ん中により深く刺さって抜けない棘になっている。――子供たちとマリカ王女については、同じことを繰り返させる訳にはいかないのだ。
だから、シャスティエは夫の目を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと告げた。
「ええ、でも、私はすぐに帰るのですもの」
ミーナとは違って、彼女はまだ生きている。夫と子供たちの傍こそが彼女の居場所。だから、恐れるには及ばない。
一度夫を怒らせた帰る、という言葉で、シャスティエはそんな思いを伝えようとした。ミリアールトは遠いとしても、彼女の生まれた地だとしても、今では違う。彼女は、イシュテンへ帰るのだ。
「そう、だな……」
幸いに、夫も彼女の心を汲んでくれたらしい。目元が和らぎ、口元にも笑みが浮かぶ。手も、シャスティエに捕まえられるというよりも、自ら指を絡めて来る。だが、シャスティエもそれに応える前に――
「お母様! 遊んでよお!」
膝下にぶつかる軽い衝撃に、手を止めてしまう。弟と遊ぶのに飽きたらしいフェリツィアが、母親に不満を訴えに来たらしい。長椅子に掛けていたシャスティエの衣装の裾を、小さい手が引っ張っている。
「フェリツィア。ごめんなさいね、難しいお話ばかりで」
「お父様とお母様、仲良し?」
慌てて夫との間に、娘のための隙間を作ろうとしたのだけど。その前に、フェリツィアは素早くシャスティエの膝によじ登ってちょこりと座り込んだ。小さな身体を支えようと、夫に触れていた手を放そうとすると、でも、当の娘がその動きを妨げる。片手で母の衣装を掴み、もう片方の手で母の手を抑えて、そのままで、と命じてくる。椅子の高さとはいえ、転がり落ちたら、と思うと気が気ではないし――身動きが取れないお陰で夫の手の甲の感触を意識させられることになって、居心地が悪いことこの上ない。
「さあ、仲が悪いということはないはずだが」
フェリツィアを支える手を差し伸べながら夫が真面目な顔で答えたことは、シャスティエの見解とほぼ一致した。
夫とは、かつてのように声を荒げて言い争うことはなくなった。特に子供たちの前では、良き父であり良き母であるように振る舞っているはず。取り立てて言葉に出して確かめ合った訳ではないけれど、夫も多分同じように心がけているのだろう。
かといって、仲が良い、と断言できるかというと首を傾げてしまう。もちろん、夫を愛しているのは紛れもない事実なのだけど。でも、相変わらず口にすることはしていないし、夫の心にもミーナがずっといるのを度々感じる。この状況を指して男女として夫婦として「仲が良い」とは、多分言わないようにも思えるのだけど。
「そうなの? お手手、つないでるのに……!」
王たる父に向かって不服げに唇を尖らせるのは、幼児の特権なのだろう。フェリツィアを膝にのせているシャスティエからは娘の顔は見えないけれど、証拠があるじゃないの、と言いたげに小さな指が両親の繋いだ手を指しているのは見て取れた。
「お父様のご機嫌が悪いから、慰めて差し上げていたのよ」
このように少しふざけた、不遜な物言いも、子供たちがいるからこそできるようになったもの。そこを取ってみれば、夫との距離は縮んだとも言えるのだろうか。
「じゃあフェリツィアも! お父様に良い子良い子、するの!」
「父上? どうしたの?」
姉の高い声を聞きつけて、ミハーイも玩具を置いて寄ってきた。フェリツィアよりも足取りはおぼつかないけれど、日々確かに成長して、月足らずで生まれた頼りなさももう感じない。言葉もはっきりとしてきて、思ったことをよく伝えてくれるようになった。今も、そうだ。
「姉上、ずるい!」
「では、お前はこちらへ来なさい」
姉が母の膝を独り占めしているのを糾弾した弟は、父の腕に抱え上げられた。力の強い夫は、片手で子供を抱き上げることができるらしい。つまりは、片手はしっかりとシャスティエの手を握ったままだ。
――仲が良いかは、分からないけれど。
抱き上げた娘の温もりと、触れ合った夫の手の温かさと。大事な家族の体温に包まれて、シャスティエの心も温かい。これは――幸せと呼んで、きっと間違いがない。
――これを手放すはずがないというのに……。
夫の不安はやはり埒もなく理不尽なものだった。そう、確信を深めながら、シャスティエは娘を支える手に力を込めた。




