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帰郷② ファルカス

「今頃は、ミリアールトも雪が溶けて過ごしやすい時期なのでしょうね」


 ――やはりか……。


 素知らぬ顔で切り出したアンドラーシを横目で睨み、ファルカスは内心でどう切り返すかを考えた。

 この男が、ただの遠乗りのつもりで彼を誘うはずなどないのだ。彼らがただの遊び仲間だった時代はとうの昔に過ぎ去った。彼は王になり、アンドラーシはその側近として双方呼び方も言葉遣いも改めたからには、気楽に遊ぶだけの席などあり得なかった。無論、王に気晴らしをさせようという気遣いの可能性もないではなかったが――生憎というか、彼には諫言される心当たりが嫌というほどあったのだ。


「ミリアールトの総督の地位を望むならば与えよう。何年かあちらで性根を鍛えてくると良い」

「仮にもクリャースタ様の祖国を、流刑地のように扱うことはなさいますまい。それに、生まれたばかりの赤子からその父親を引き離すようなことも。そのように酷い仕打ちはなさらないと、臣は陛下を信じております」


 悪足掻きのように脅してみたものの、アンドラーシはいつもの笑みでさらりと躱した。少しでも狼狽える様を見せれば可愛げがあるものを、わざわざ主の度量を試すかのような物言いをするあたりが憎たらしい。口にするのが真っ当なことばかりだから、苛立たしさもなおさらだ。


「ならば何が言いたい。周りくどい真似はせずにさっさと言え」


 王都郊外の草原に馬を駆けさせた高揚は、早くも醒めかけている。爽やかなはずの初夏の風が汗を冷やし、湿った肌着の感触が不快に感じられる。とはいえこれは彼が選んだことだ。王の機嫌を損ねるのを恐れず、わざわざ耳に痛いことを聞かせようという臣下は貴重だ。諫言を容れた、という体にすれば体裁がつくということもある。こうなることを半ば以上は期待して、彼はアンドラーシの誘いに乗ったのではないか。


 そう、ただの遠乗りではないと分かっていたからこそ、ファルカスは娘を――マリカを伴うことをしなかったのだ。妹と弟は馬に乗るにはまだ幼く、その母であるシャスティエの乗馬の腕はさしたる向上を見せていない。だから、マリカにとっては、馬に乗って共に駆けるのは、父を心置きなく独占できる貴重な機会になっているはずだった。彼としても、年を追うごとに母のミーナに似てくる娘を見るとあまりに複雑な感慨が胸に湧く。いまだ母を亡くした傷も癒えない娘とは、なるべく多くの時間を共に過ごしてやりたいのだが。

 だが、父が側妃の話題に触れる場面など、マリカには見せない方が良いだろう。


「先日、クリャースタ様に娘をお披露目させていただきました。王女様と王子様にも遊んでいただいたとのことで、光栄の至り」


 それに、臣下の当てこすりに露骨に顔を顰める父の姿も。諫言されるべき行為を犯したのは彼自身だが、アンドラーシの澄ました笑顔を見るのが腹立たしいのには変わりはないのだった。


「父親に似ることがないよう、しっかりと躾てもらわねばな」

「そこは、妻を信じておりますから」


 下心を警戒する必要がない友というのは王族にとっては貴重なものだ。裏表ない忠誠を誓ってくれる側近は、こちらから乞うてでも子供たちに与えてやりたいし、アンドラーシの娘は、特にフェリツィアにとっては良い友になれるかもしれない。だが、親の忠義が篤いからといって無条件で取り立てるかというと話はまた別だ。ファルカスの目からすると、父親としてのアンドラーシにはまだ全幅の信頼を置く訳にはいかなかった。


「……ともかく。一族揃って娘の誕生を祝ってくれたという話を妻がしたところ、クリャースタ様はミリアールトの民にも御子様方を見せたいというようなことを仰っていたそうなのですが」

「望みを言うのに人伝(ひとづて)にするなど、あの者も迂遠な技を覚えたものだ」

「叶えて差し上げない理由が見当たらないと思うのですが。あの方がミリアールトの土を踏んだのは、イルレシュ伯の乱の時が最後ではなかったですか? あれでは里帰りとは言えませんでしょうに」


 王と側妃と、どちらに仕えているつもりなのか。そう皮肉って見せたのも束の間、アンドラーシが挙げた名はファルカスの胸に深く刺さった。


 ――あの者の墓参も……したい、のだろうな……。


 ミリアールトはシャスティエの祖国だ。当然、会いたい者も行きたい場所も多いだろうし、その相手は生きている者に限らないはず。シャスティエのために身命を捧げた老臣はその筆頭だろう。妻が祖国を懐かしむ思いを、ファルカスもよく承知している。望むことは叶えてやりたいとも思っている。なのにすんなりと頷くことができなかったのは――恥ずべきことと、彼自身でも分かっているのだが。


「王子たちを連れて行きたいなどと言っていたのか? あの者は、俺にはひとりで帰りたいと言っていたが」


 ひとり。帰りたい。シャスティエが使った言葉のいずれも、ファルカスには腹立たしいほど気に入らなかった。何よりも腹立たしいのは、妻は彼を怒らせるつもりなど毛頭なく、無意識に言葉を選んだのが明らかだったということだ。




『陛下、お願いしたいことがございますの』

『なんだ、珍しいな』


 シャスティエがそのように言い出したその瞬間こそ、ファルカスは妻の望みを嬉しく聞いた。シャスティエが彼に何かしらをねだるのは滅多にないこと。彼が妻を笑顔にできるのは、貴重な機会だったのだ。

 子供たちは別室に休ませて、夫婦ふたりで寝台を共にしている時のことだった。とはいえ本当に共に寝る、というだけのことだ。今のファルカスにとっては、妻に触れるのは生きてそこにいてくれるということを確かめる目的が大きかった。もちろん、その温もりと柔らかさに欲を覚えることもあるが、懐妊と出産で死の淵に沈みかけた姿を思い出すと、またあのような思いをさせるのは恐ろしいと思ってしまう。

 耳元に囁かれた吐息よりもその内容に気を向けたのは、不埒な熱を高めないように、という理由もあったかもしれない。


『ミリアールトに、帰りたいのですが』

『……そうか。良い季節ではあるのだろうな』


 機嫌よくシャスティエの髪を梳いていたファルカスは、しかし、帰る、という単語を聞いた途端に手を止めてしまったのだが。


 まるでミリアールトこそシャスティエのいるべき場所で、イシュテンには仮に一時を過ごしているだけのようにも聞こえたから。そして、それも真実だから。シャスティエがイシュテンにいるのは、そもそもは彼が無理に攫ったからで、今はミーナを亡くした彼への哀れみと、子供たちへの愛情が理由だ。ミーナと子供たちは彼らふたりを繋ぐ絆になっているのだろうが、第三の絆、夫婦としてのものがしっかりと結ばれているのかどうか、一方的な思いではないのかどうか、ファルカスには今ひとつ自信が持てないでいる。


 とはいえ、その時点では彼は妻の願いを無碍にするつもりはなかった。祖国を懐かしむ思いはよく理解できたし、ミハーイが生まれる前にはミリアールトの民にも見せてやりたいと話していたのも覚えている。王としても夫としても、約束は守らなければならないと考えたのだ。


『イシュテンの国内も取りあえずは落ち着いている。だが、国を空けるとなると何かと準備も必要だろう。いつ発てるかどうか、しばらく待ってもらわねばならぬ』

『――え?』


 ミリアールトまで往復するとなれば、ふた月はかかる。その間の国政を誰に任せるか、配慮すべき典礼の類はあったかどうか――考えながら答えたファルカスは、妻の声に思索から引き戻された。


『……そのように、大掛かりなことを申し上げたつもりでは……』


 そして顔を上げてみれば、夜の暗がりの中でも輝く碧い目が戸惑いに揺れていた。同じく夜目にも浮き上がる白い首筋が傾げられ、金の髪が流れるのを見れば、嫌でも分かった。ファルカスは当然のように妻を連れてミリアールトを訪ねるつもりだったのだが、シャスティエの方ではそのようなことを考えてはいなかったのだ。


 気まずさを隠すかのようにファルカスは半身を起こし、シャスティエもそれに倣った。そうすると身体が離れるのが心の距離をも示すかのようで、彼の機嫌は急速に傾いていった。


『……子供たちは? フェリツィアは連れて行くのか?』


 より年少で、しかも世継ぎのミハーイを王都から離すのは難しい。しかし、フェリツィアの方はまた少し話が違う。娘が母に従うのは自然なことだし、フェリツィアはシャスティエによく似ている。ミリアールトの方は女にも継承権を認めている以上、王家の正統な末裔でもある。かの地の民心を喜ばせるとしたら、少なくとも娘は伴うのだろうと思ったのだが――


『いいえ。まだ小さいですもの。長旅に連れ回すのは可哀想です』


 彼がとてつもない非道を働いたとでも言うかのように、シャスティエの声は非難の色を帯びて尖った。しかしファルカスの沈黙に不機嫌を感じ取ったのだろう、妻はすぐに小さな声で言い訳するように呟いた。


『成長を傍で見てあげられないのは、心が引き裂かれる思いですけれど……』


 だが、シャスティエは彼の不機嫌の本当の理由には気付いていないのだ。ファルカスは、妻が子供たちを置いていくことができるという事実に驚愕し、そして打ちのめされていた、のだろう。夫婦としてはともかく、子らの親としての絆はあるだろうと信じていたのに。無論、離れるといってもミリアールトを訪れる僅かな間のことではあるのだろうが。だが、日々成長を見せる幼子からも目を離すことができるなら、子らが成人したらどうなるだろう。心残りを見せることさえせず、シャスティエは祖国へ――本当にいるべき場所へと()()()しまうのではないだろうか。

 そのような埒もない――多分――疑いに駆られて、ファルカスは思わず妻に否、と告げてしまたのだ。




「……御子様方がお小さいからと反対されたと伺っておりましたが……クリャースタ様がおひとりで、ということなら、どうしてまた……?」


 アンドラーシの不思議そうな声で、ファルカスは回想から意識を現在へと戻した。この男が首を傾けるのも当然のこと、彼の心の裡を知らなければ、シャスティエに告げたことはいかにも理不尽に聞こえるだろう。


「まだ訳も分からぬ幼子だというのに、突然母がいなくなっては寂しがるだろう。どうして発つのか、聞き分けられる歳になってからにしろと言っただけだ」

「はあ……」


 苛立ちに任せて馬を駆け出させると、アンドラーシの気の抜けた相槌が風に乗って耳に届いた。説明を加えたところで、容易には呑み込めない屁理屈であることには変わりあるまい。ファルカスが言った理屈では、シャスティエはこの先数年に渡ってミリアールトへの里帰りは望めない。そして、妻の心を踏み躙る一方で、子供たちが物心ついた時には彼は妻を止める理由を喪うのだ。これなら、言って欲しくないと素直に告げた方がよほど良いのだろうが――王として夫として男として、余計な矜持が邪魔をするのだ。


 ファルカスの後を追って、アンドラーシも馬の脚を早めさせたようだ。しばらく、馬が草を掻き分け地を揺らす音だけが響いた。気晴らしにもう少し速さを上げるか、と思った時だった。アンドラーシが、ふと口を開いた。良いことを閃いた、といった調子の弾んだ声に、嫌な予感しか覚えない。


「まさかとは思いますが――もしや、陛下はクリャースタ様がミリアールトにいらっしゃった後、二度とイシュテンに戻られぬおつもりだ、などと思われたのでは……!?」

「……まさか」


 案の定、的外れも良いところの発言に呆れて、ファルカスの答えは一瞬遅れた。その間は、アンドラーシの邪推に確信を得させるのに十分だったらしい。気勢を削がれて馬の脚を緩めたのを良いことに、アンドラーシは馬を寄せてにこやかに語りかけてくる。主の余計な心配を、(ほぐ)してやろうというつもりなのだろう。


「ご心配なさらずとも、クリャースタ様が陛下と御子様方をお見捨てになるはずがございません。たまの里帰りくらい、送り出して差し上げれば良いではないですか」

「違うというに……」


 低く唸って否定してみせても、アンドラーシの口元は、恐らくは笑いを堪えて引き攣っている。主の言葉を信じていないのは明らかで、殴って黙らせたいという衝動と戦うのは難しかった。共に馬上で、手の届かない位置にいたのは双方にとって良かったのかどうか。


「別に、妻が実家を訪ねるのは夫や婚家に不満があるからとは限らないと存じますが。妻でもなく母でもなく、気負う必要のない場所で羽根を伸ばしたいと思うこともあるのでしょう。休養があるからこそ、戻れば良き妻良き母でいてくれる、ということかと」


 黙らせることができなかったから、アンドラーシはしたり顔で続けている。少し前まで結婚することすら考えてもいなかった男なのに、妻子に恵まれたからと大分考えも変わったらしい。


「お前に夫婦の何たるかを語られるとは世も末だな」


 何であっても、アンドラーシから妻との関係について忠告されるなど業腹だった。そもそも、この男は無礼極まりない誤解をしたまま、それを解く気はないようだ。だが、憎まれ口を叩きながらも、ファルカスの脳の片隅でそれでも良いか、と諦めたように囁く声もあった。


 彼はシャスティエの言葉を誤解などしていない。ほんのひと時の里帰りのつもりだとは分かっている。そしてその上で、不安と不信に駆られて妻の願いを握り潰したのは、誤解によってそうするよりも恥ずべきことなのだろう。正直に言って、もしかしたら未来のいつかどこかの時点で、シャスティエに見放されるのではないかという疑いを完全に拭うことはできないのだが。それでも、何よりも考えるべきは妻の笑顔と幸せのはずなのだから。


 恥を忍んで、つまらぬ誤解をしていたと言おう。そして、気にせず発てと告げるのだ。母の不在の寂しさは、父たる彼が埋めてやることもできるだろう。


「……もう一度側妃と話してみよう」

「はい。クリャースタ様もきっと喜ばれることでしょう」


 覚悟を決めて呟くと、アンドラーシは満面の笑みで頷いていた。その表情はやはり忌々しく腹立たしく、拳をぶつけてやりたい衝動をかき立てるものだった。

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