帰郷① グルーシャ
セリェム――グルーシャの幼い娘は、王の妃たる方にあやされる光栄を、まだ分かっていないようだった。抱かれているのが母でも乳母でもないと気付いた途端、全身をよじってむずがって、クリャースタ妃の腕から逃れようとしている。とはいえクリャースタ妃も今ではふたりの御子の母君だ。赤子の抵抗をいなすのも慣れたもので、危なげなく赤子を揺らして目を細めている。
「元気で可愛らしい赤ちゃんね」
「恐れ入ります。フェリツィア様には及ぶべくもございませんが」
「小さい子の可愛らしさはまた格別よ。大きくなる前に堪能しておかないと」
フェリツィア王女と引き離された日々を思い出したのか、クリャースタ妃の碧い目が一瞬曇り、けれどすぐに眩い笑顔をセリェムに、次いでグルーシャに向けてくれる。
「だから、しばらく領地でゆっくりすると良いわ。こちらのことは他の人に任せて――たまに、フェリツィアたちと遊ばせてくれると嬉しいのだけど」
「もったいないお言葉でございます。夫もさぞ喜ぶことでしょう」
妊娠に気付いたことを報告した時、クリャースタ妃は大層喜んでくれただけでなく、すぐに王宮を下がって療養するように強く勧めてくれたのだ。ミハーイ王子の懐妊中、心身を休めることができなかったことこそ、早産と難産の理由だとクリャースタ妃は考えているのだ。傍で見ていたグルーシャとしてもその考えは間違っていないと思うし、目を閉ざしたまま眠り続けるクリャースタ妃の姿は王を憔悴させ、さらにその王の窶れようを見た夫は、出産とは無事に終わらぬ可能性もあるのだと気付いて慄いたらしい。だからグルーシャは夫に労わられて、何ひとつ悩むことなく出産までを過ごすことができた。
「アンドラーシ殿は男の子の方を望まれるかと思っていたけれど。女の子も可愛く思えるようになったのなら良いことね」
「はい。目に入れても痛くないとは、こういうことなのだろうと存じます」
夫は実際、娘の誕生を大層喜んでくれた。次は後継ぎを、と望んでいるのはもちろん感じるが、女児だからと蔑ろにされることはないだろう。むしろ、ミハーイ王子の側妃には歳回りがちょうど良い、などと畏れ多いことを今から夢見ているようだ。バラージュ家の後援があっても王妃はさすがに望めない、だから堅実に側妃に、というつもりのようだけど――クリャースタ妃には言わないで置くのが良いのだろう。
――気が早すぎるというものだし……。
それに、王妃と側妃の地位を引き比べるような物言いを、この方の前でできるはずがない。
王とクリャースタ妃が深く悼んだ王妃の死からもう三年、あの日生まれたミハーイ王子が意味のある言葉を文章で喋り始めているというのに、イシュテンの王妃の位はいまだ空いたままなのだ。その座を占めることがあるとしたら、出自、王の寵愛、王子の存在、いずれの観点からしてもクリャースタ妃以外にはあり得ない。王を始め、グルーシャの夫も含んだ臣下も、しきりにこの方を王妃に、と勧めるのだけど。頑ななこの方を説得することに、まだ誰も成功してはいない。
それでも三年は服喪の期間としては長すぎる。いずれ、何かしらを口実にしてクリャースタ妃は正式に王妃になるのだろうけど。当の本人が望まない以上、まだその時ではないということなのだろう。
ひとまずお披露目は済んだということで、セリェムはクリャースタ妃の御前から下げられた。母親たちが積もる話をする間、幼い王女と王子に遊んでいただくことになる。寝返りを覚えたばかりの赤子では、王女たちに突き回されるだけになるかもしれないが――それもまた光栄なこと、大人がついていれば惨事には至らないだろう。
赤子の高い声が遠ざかって扉の外に消えると、クリャースタ妃はやや背筋を正した。
「……お母様も、きっと安心なさったことでしょうね」
「お気遣いに感謝申し上げます。はい、それはもう」
碧い宝石の目が、もの問いたげな色を浮かべているのを見て取って、グルーシャは慎重に答える。
父が非業の死を遂げた後、母はバラージュ家の先行きを大層悲観していた。更にティグリス王子の乱で、後継ぎたる弟が片腕を喪ったからなおのこと。片時も離れずに励まし慰めなくては、儚くなってしまうのではないかというほどの窶れようだったし、グルーシャ自身も幸せな結婚は望めないだろうと密かに覚悟していたものだ。
それが、彼女は思いがけず夫に恵まれたし、弟も王に目をかけていただいている。この分なら嫁いでくれる令嬢を探すことも不可能ではないだろう。ようやく心の余裕も出てきたところに生まれた初孫――セリェムのことを、確かに母は夫に劣らず溺愛している。
クリャースタ妃は、父の最期の場に居合わせたというし、弟のカーロイとも面識がある。グルーシャ自身も忠誠を捧げているという自負がある。だから、その流れで母を気遣ってくれた、ということはあるだろう。けれどそれ以上に、クリャースタ妃は何か言いたそうな、言葉を汲み取って欲しそうな気配を漂わせている。
――思うことを真っ直ぐに仰らないなんて珍しい……。
いつもなら、たとえ王に対してであっても、傍目に危ういと思えるほどに直截な物言いをする方なのに。
――やはり、陛下と何かあったのかしら……?
グルーシャは、夫に言われていたことを胸の内で反芻する。彼女が今日、王宮を訪ねたのは娘を側妃に目通りさせるためだけではない。夫から、密かに託されていた務めがあるのだ。
『近頃、陛下はご機嫌がどうも優れぬご様子なのだ』
『何かお気に沿わぬことでもあるのでしょうか……?』
『政務の方では心当たりがない。となると、可能性は限られるのではないか?』
グルーシャの問いに夫は同じく質問で答えた。王の機嫌を案じる体で、どこか面白がるような表情と口調は、この人の悪い癖のようなものなのだけど。夫がこういう物言いをする時がどのような時か、幸か不幸か彼女は既によく知っていた。
『クリャースタ様と何か……と、いうことですね?』
『そうだ。前ならともかく、今は珍しいことだが。理屈で片付くことなら陛下が長く引きずるはずもないのだ。ならば容易く割り切ることができないようなことで、とはならないか?』
『それは、そうかもしれませんが……』
王とその妃の間柄を詮索しようなどとは、下世話かつ出過ぎた真似に思えてグルーシャは言葉を濁したものだ。それぞれに気難しく矜持高い方々のこと、臣下が余計な気を回したと悟られれば、かえって不興を買うこともあるだろうに。
『あの陛下と相対せねばならぬ身としては怖いからな。どうせ相愛の仲だというのに、意地を張っておられるなら切っ掛けというものが必要だろう』
夫の表情には、やはりどこか揶揄の気配が感じられて、不遜ではないか、とも思えたけれど。それでも、王とクリャースタ妃の間に亀裂が生じているのなら、そして執り成しの一助となることができたなら、グルーシャとしても願ってもない。夫が王に剣を捧げているのと同様に、彼女も美しく誇り高いこの方に、心からの忠誠を誓っているのだから。
今日のグルーシャは側妃に仕える侍女ではなく、招かれた客の立場だった。とはいえ、給仕される香り高い茶と甘い菓子を堪能するだけではいられない。クリャースタ妃の声に眼差しに表情に、ひとつひとつ気を配らなければならなかった。
「アンドラーシ殿には姉妹がいらっしゃったわね。従兄弟も沢山いるということになるのかしら」
「はい。同じ世代の子供同士、助け合ってくれれば良いと思っております」
「もう会わせたりはしたのかしら。嫁いだご婦人だと婚家を離れるのは難しい……?」
――王女様王子様のご学友を求めていらっしゃるのかしら。
クリャースタ妃の言葉を夫に伝えたら、また期待を募らせそうだった。姉君や妹君の子供たちも、喜んで王女たちのために捧げようとする勢いが見えるかのよう。無論、子供たちの両親が望むかどうかはまた別だから、そこは妻として夫の一族に不和が芽生えるようなことがないように気を配らなければならないだろう。
でも、御子たちのことで王とこの方が諍うのは考えづらい。グルーシャが見聞きした範囲では、女にどこまで教育をほどこすかとか、男の子をどれだけ厳しく鍛えるかなどでは意見を異にする夫婦もいるようだけど、より多くの友を与えることについて争う余地があるとは思えない。
「それは、確かに頻繁に、とは参りませんが。でも、皆さま交代でいらっしゃってくださいますから、私としては賑やかな日々と感じております」
「そうなの。お祝いしていただけるというのは素敵なことね」
「はい、まことに」
クリャースタ妃も、グルーシャの娘の誕生を祝ってくださっているのは明らかだった。でも、だからこそ美しい微笑みにほのかな影が見えるのが悲しくて、グルーシャは女主人の心に沿おうと目を凝らす。この方をして言いづらそうにしている事情を、何とか読みとらなければならないのだ。
――御子様方のご誕生もご成長も、祝わぬ者はいないでしょうに……。
日々愛らしさを増すフェリツィア王女はもちろんのこと、ミハーイ王子は次のイシュテンの王になるのだから。だから、これもまたクリャースタ妃の憂いの原因ではないはずだ。それなら――
――御子様を見せたい方がいる、とか?
その相手としてグルーシャが最初に思い浮かんだのは亡くなった王妃だった。あの方さえいらしゃれば、と思う機会は彼女程度の関わりの者でさえ多いのだ。王もクリャースタ妃も、王妃を悼み、その不在に思いを馳せる瞬間が度々あるのを、彼女はよく知っている。けれどこのことについても、王と妃は悲しみを共に分かち合っている。その他に考えられるとしたら――クリャースタ妃が、肉親同様に思う存在が、他にいるとしたら。
「ミリアールトの民も、王女様と王子様のご成長をさぞ喜んで楽しみにしていることでございましょうね」
「……ええ、そうだと良い……!」
「きっとそうですとも」
目に見えて力強く頷いたクリャースタ妃を見て、グルーシャの声にも熱がこもる。やっと分かった、と思ったのだ。クリャースタ妃が何を気に懸けて言葉に迷っていたのかが。グルーシャの母や夫の姉妹たちについて聞いてきたことも、繋がった、と思う。この方は、イシュテンの妻がどれほど婚家を離れることが許されるものなのか、探っていたということなのだろう。
「あの、ミリアールトを訪ねられてはいかがでしょうか。陛下に、おねだりをなされば――」
「まあ、無理よ」
もしかしたら他の者からの後押しが欲しいのかもしれない、と。勢い込んで勧めてみたのだけれど。クリャースタ妃はにこやかに首を振ってしまう。
「ちょうどこの前、ならぬと言われてしまったところなの。子供たちも小さいのに、と……」
「そのような……」
クリャースタ妃の笑顔の裏にあるのが紛れもない諦めであるのに気付いて、グルーシャは言葉を失う。もの問いたげにしていたのは、王を説得する材料を探すためでなく、諦める理由を求めてのことだったのだとしたら、何ともこの方らしくない。同時に、王の不機嫌の謎も深まるばかり。王妃が亡くなって以来、そしてクリャースタ妃が目覚めて以来、王はかつてから信じられないほど残された妃を労わっているようなのに。里帰りの願いが意に沿わなかったとして、いつまでも不機嫌をひきずるのもまた、王らしくないと思えた。
「私がイシュテンの倣いを弁えていなかったから、なのでしょうね。こちらでは、結婚した女はあまり婚家を離れることがないようだから」
「それは、そういう家もございますけれど」
バラージュ家や婚家の内情を伝えた上で、クリャースタ妃がそのような結論に至ったのもグルーシャには心外だった。それは、確かに頻繁ではないとは言ったけれど。母も夫の姉妹たちも、結局のところ望めば外出することができているのだ。かつては異国だったミリアールトはまた話が違うということなのかもしれないけれど、それならクリャースタ妃の地位も立場も、夫からの寵愛ぶりも、並みの女とは全く違うのだ。
「まあ、ご機嫌次第でもあるのでしょうし。また折を見てお願いしてみましょう」
口ではそのように言いつつも、クリャースタ妃の表情を見るに、当分改めて王にねだることなど考えてもいないようだった。つまりそれは、ミリアールトへの帰郷を諦めるということだ。妃である方のねだりごとであること以上に、かの地の民を慰撫する良策にもなるだろうに、王は一体何を考えているのか。
――どういうことなのかしら。
優雅な所作で茶器を口元に運ぶクリャースタ妃とは裏腹に、グルーシャの心中は不安に波立っている。これは、王かクリャースタ妃か、あるいはその両方がひどい思い違いをしているのではないだろうか。夫の言ったのが邪推などではなく、真実を突いていたとしたら。
――早く、ご相談しなくては。
赤子という格好の玩具を取り上げられることになる王女と王子は不満に思うかもしれないけれど。できるだけ早く王宮を辞して夫の待つ屋敷に戻らなくては、と。グルーシャは密かに心を決めた。




