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結婚の申し出 シャスティエ

 カラーディ家のゾルタンという者からの訪問の申し出を、シャスティエは喜んで受けた。

 ミハーイと名付けた息子を産み落とし、深い眠りに生死の境をさ迷って、そして目覚めてからもう半年になる。月足らずで生まれた息子は、幸いにも成長は順調で、長女(フェリツィア)の同じ月齢の頃と比べても不安や見劣りを感じることは少なくなってきた。母である彼女自身も、体力の回復を日々実感しているし、髪や肌の艶も、人前に出ても恥ずかしくないとようやく思えるようになってきている。


 とはいえ、縁薄い臣下からのただの機嫌伺いだったなら、快諾することはなかっただろう。どうやら、王は王子の生母に大層甘いという噂が立っているようで、何かと便宜を期待しての貢ぎ物や媚び(へつら)いが絶えないのだ。シャスティエが軽々しくそのようなものを受け取るはずがないし、何より、夫の寵愛と見えるものは愛などではなく、ミーナという最初の妻を亡くしたことへの後悔と恐怖が、遺された方への過保護さとして表れているだけだというのに。傍からはそういう事情は見えないものらしい。


 夫との関係はさておき、つまり、ゾルタンという者はシャスティエも既知の相手で、しかも下心を窺わなければならない相手ではなかったのだ。何しろゾルタンはフェリツィアの乳母の夫で、ジョフィアの父なのだから。彼女のために妻は殉じ、娘までも危険に晒されたのだ。その者の申し出を、どうして断ることができるだろうか。


「クリャースタ様におかれてはご快復されたご様子、王子殿下のご誕生ともども、心からお慶び申し上げます」

「ありがとうございます。今日の無事があるのもあの方の――奥方のお陰です。ご恩をお返ししなければと、ずっと思っていましたの。私からご招待しなければならないところでしたのに」


 王やアンドラーシなどよりは幾らか年嵩だからか、妻と死別した経験がそうさせるのか、ゾルタンの物腰は柔らかく、シャスティエに対する態度も丁重だった。ふたりの子の父でもある男だから安心できる、と。子供たちを抱くかと聞いてみると、ゾルタンは恐縮しながらも危なげない手つきでまずはフェリツィアを、次いでミハーイをあやしてくれた。


「王子殿下は陛下に似ておられると伺っておりましたが、本当なのですね」

「ええ。イシュテンを率いる者になるのでしょうから、黒髪に恵まれて良かったですわ」


 ゾルタンが目を細めて呟いた通り、ミハーイは父親の黒い髪と青灰の目を受け継いでいる。目の色については、母親のミリアールトの血を映してか、やや明るい色味のようにも思えるけれど。ともあれ、これならイシュテン王の血を引く王子だと疑う者はいないだろう。子供が健やかでさえあれば良い、と願うのが母として正しい在り方なのだろうけど、懐妊中から不貞の噂に心を痛めていたシャスティエとしては、やっと心の重荷を下ろすことができた思いだった。


「将来お仕えする方を抱かせていただくなど、光栄の極みでございます」

「人見知りなどしていられないでしょうから、早くから多くの方に親しんでいただきたいと思っています。これからも、何かと導いてあげてくださいませ」


 王子の遊び相手や指南役として、既にアンドラーシやジュラも手を挙げているのだけど。彼らの忠誠は嬉しく思いつつ、無論、王子には依怙贔屓は許されないし、ならばより多くの臣下との触れ合いが必要になっていくだろう。


「ご命令いただくまでもございません。息子にも娘にも、陛下とクリャースタ様の御恩に背くことがないよう、言い聞かせて参りましょう」


 ミハーイを抱いて強く頷いてくれたゾルタンの笑顔は、だから、シャスティエにとってはこの上なく頼もしいものだった。




 赤子たちを揺籃(ゆりかご)に戻すと、ゾルタンは表情をやや硬いものに改めた。ここからが訪問の本題か、と思うとシャスティエも背筋が伸びる。


「実は、今日はクリャースタ様に願い事があって参りました」

「私にできることなら良いのですが」


 何なりと言って欲しい、とは言えなかった。心の上ではそうであっても、ゾルタンを信頼してはいても、臣下に対して易々と言質を与えることはできないのだ。彼女はイシュテン王の側妃に過ぎない身、夫のためにも国を乱しかねない言動をする訳にはいかなかった。


「実は、再婚を考えておりまして――その、お許しをいただきたく」

「まあ、そんなことで……!?」


 だから、ゾルタンがそのように言い出した時には心からほっとしたし、あまりに他愛ない願い事に思わず声を上げさえしてしまっていた。


「おめでたいことなのですから、許すも何もないでしょう……? あの……王妃様のことなら、お気になさらないで。陛下も私も、国を挙げて喪に服せ、などとは思いません。むしろ、慶事はきちんとお祝いしなければ」


 ミハーイの――王子の誕生の祝宴も、それに続く諸々の儀式も、本来あるべきものよりも数段規模を落として行われた。王子の誕生の日は、王妃が地上を去った日にもなってしまったがために。夫もシャスティエも、子供の誕生は嬉しく思いつつ、そのためにあの方の弔いを蔑ろにする気にはなれなかったのだ。

 とはいえ、それは彼女たちの心の持ちようの話でしかない。あの方の死を喜ぶようなことを口にして夫の不興を買った慮外者はまた別として、臣下や民にまでも鬱々として日々を送れ、などとは思わない。そのようなこと、あの優しい方が望むはずもないのだから。


「あ……亡くなった方への気兼ねということなら、それも私が口を挟むことではありませんよ? フェリツィアにとても良くしてくれたことも、ジョフィアを身代わりにしてまで尽くしてくれたことも決して忘れませんけれど。でも、それこそジョフィアのためにも、お母様が必要なのかもしれませんし……」


 思いつくままに言葉を連ねるうちに、ひどく立ち入ったことを言っているような気がしてシャスティエの声は立ち消えた。フェリツィアのために死んだ――殺された乳母への罪悪感が、必要以上に彼女を饒舌にさせてしまったのだろう。ジョフィアの将来も、遺されたゾルタンの想いも案じつつ、望むようにすれば良いと伝えたかっただけなのに。


「寛大なお言葉をいただき、誠にありがたく存じます」


 半端に言葉を途切れさせたシャスティエに、ゾルタンは相変わらず畏まった表情で軽く頭を下げた。


「ですが、本日願いに参りましたのは、単に再婚のことだけではなく……相手の、こともございまして」


 そして彼が再び顔を上げた時、その目線はシャスティエからややずれた方に向けられていた。彼女の後ろに控える侍女の方へ。今、この場にいるのは――


「イリーナ……? あの、相手というのは……!?」

「はい。私からもお願い申し上げます。この方との結婚を、どうか許してくださいますよう……!」


 イリーナは頬を染めて俯いて、早口に訴えた。幼い頃から一緒にいて何でも知っていると思っていた相手の見たことのない表情に、シャスティエは数秒に渡って言葉を失う。我に返ってからも、口から出るのはどうにも間抜けたというか、主として気が利かないことだけだった。


「……いつから? いつの間に、そう……なったの?」

「ブレンクラーレ遠征の前に、亡くなった方のことで言葉を交わす機会がありました。ティゼンハロム侯爵の乱が終わってからも、あの方とジョフィアのことで何かとお話することがあって、それで……」

「そう……そうでしょうね……」


 ひどく無粋なことを無理に聞き出したような気まずさに襲われながら、シャスティエは呆然と呟いた。


 彼女がブレンクラーレに攫われていた間も、当然のことながらイシュテンでは同様に時が流れ、各人がそれぞれの想いを抱えていたのだ。フェリツィアの乳母の生きた姿を最後に見たのであろうイリーナは、確かにゾルタンと語ることは多かっただろう。ジョフィアを案じる想いも人一倍だっただろうし、亡き人への想いが、生きたふたりを結びつけることもあるだろう。……シャスティエ自身と夫が、まさにその実例になっているのだし。


「でも、歳が離れている、でしょう……? 貴女は若いし……いきなり義理のお母様になるなんて……」


 快く許しを与えたいと思う一方で、でも、シャスティエは姑めいたことも言ってしまう。幼馴染でもある侍女の幸せを思えばこそ、異国でふたり目の妻として嫁ぐ道の険しさを味わわせたくないと、咄嗟に思ってしまったのだ。主思いのイリーナだから、シャスティエの傍にいるためにイシュテンでの縁を求めたのではないかとさえ思ってしまう。


「クリャースタ様。私もよく考えて決めたことですの」


 目尻まで赤く染めて、幸せそうに打ち明けるイリーナの表情を見れば、そのような考えは邪推に過ぎないとも分かるのだけど。


「ジョフィアのこともあるし、亡くなった方を悼む思いも、何もできなかった申し訳なさもあります。でも、それが全てではありませんわ。この方を支えて差し上げたい、共に生きたいと思っているのは本当です」

「……ええ」


 ――亡くなった方を想いながら結ばれる……? それで、本当に大丈夫なの……?


 夫の心に他の方の影を見るのは辛いことだ。シャスティエの心に亡くなった方を疎む気持ちなど欠片もないし、多分イリーナもそうなのだろうけど。むしろ、ミーナのことを生涯忘れず、夫と悲しみを共に負う覚悟でいるけれど。同じ道をイリーナが進もうとしているのを見ると、止めたいと思ってしまう。決して楽な道ではないのだから、と。

 でも、真摯に訴えるイリーナを前に、首を振ることもまたできなかった。自身は耐えられること、むしろ望んで負おうとしている重荷を、イリーナは耐えられないだろう、などと。そのような言い草は傲慢以外の何ものでもない。


 曖昧な頷きだけを返して無言のままのシャスティエに、イリーナはさらに言いつのった。ゾルタンとの距離を縮めようとするかのように、一歩、二歩と足を踏み出しながら。


「それに、私だからこそ、ということもありますわ。ミリアールトには、私が継ぐべき領地も財産もありますから。もしも私に子供が授かっても、ジョフィアやフェレンツ――あの、上の子のことです――、あの子たちと争うようなことにはなりにくいでしょうし……」


 そこまで聞いて、シャスティエは軽く息を吐いた。現実的な話を聞くうちに、頭が冷静さを取り戻したようだった。ゾルタンが彼女に願った理由が今こそ分かる。フェリツィアの乳母のこと、彼女の侍女を娶ることに加えて、これはミリアールトとイシュテンの関係にも関わる大事だ。彼女自身が苦杯を舐めさせられた通り、イシュテンは女に継承権を認めない。王家だけでなく貴族も同様なのだろうし、イシュテンの血を引く者がミリアールトの領地を得ることについてはかの国の民心も慮らなければならないだろう。


「母系での相続とミリアールトの領地の扱い――これは、陛下にもお話しなければならないことですね……」

「は。無論、それらは将来のこと、まだ不確定なことではございますが。お願いを、と申し上げたのは、陛下への執り成しもあろうと考えてのことでございました」


 真意が伝わったのを悟ったのか、強張っていたゾルタンの頬が安堵に緩んだ。さらに安心させてやろうと、シャスティエは微笑んで頷いてみせる。祖国から従ってくれた侍女を託すと、まずは表情で伝えられるように。


「例外は例外なのでしょうが、ミリアールトの統治に利することにもなり得るのでしょうね。陛下がいらっしゃったら、すぐにお伝えしましょう。私は賛成です、とお伝えして――条件を定めて。続く者が現れても、混乱や不満が出ないようにしないと」

「もったいない仰せでございます。感謝の言葉もございません……!」


 シャスティエが告げたのは、夫への報告の前提として、ふたりの結婚を認めるということだ。その上で、子供たちやふたつの国の将来により良い結果になるよう、夫と諮るということ。言外の肯定を汲んだのだろう、ゾルタンはぱっと顔を輝かせると、席を立ってその場に跪いた。その勢いに、イリーナへの想いを感じられるようでシャスティエもまずは安心できる。


「陛下がマリカ様のところへいらっしゃるのでなければ、今夜にでも。ふたりが一日も早く良き日を迎えられるように」

「クリャースタ様……」

「ありがとう、ございます……!」


 イリーナとゾルタンは同じように喜びの声を漏らし、心の繋がりを確かに感じさせる熱を持って視線を交わしている。そんなふたりに心がじわりと温まるのを感じながら、シャスティエは夫に語る言葉を考え始めた。


 彼女自身も夫も、ミーナを亡くした心の傷は深い。マリカ王女はなおのこと、両親揃った弟妹を見るのも辛いようで、今もシャスティエたちとは違う建物に寝起きしている。母親代わりを気取ることで王女の心からミーナを追い出すことになるのではないか、と思うと、シャスティエもどう手を差し伸べるべきか分からないままでいる。


 それでも、少しずつでも時は流れるし人の心も状況も変わっていく。イシュテンとミリアールトを繋ぐ縁談は、その中でも良い変化をもたらすはずだ。


 ――きっと、ファルカス様も喜ぶでしょうね。


 めでたい話を聞かせた時の夫の笑顔を思い浮かべて、シャスティエは口元を綻ばせた。

以前の活動報告(https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/370190/blogkey/1794286/)に載せたSSの回収となります。ジョフィアの継母とは彼女のことでした。

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