26 イシュテンの在り方 前イシュテン王
「どういうことでございますか、陛下!?」
王の寝室で無遠慮に上げられた怒声に、彼は顔を顰めた。ただでさえ体調が優れないこの頃だというのに、声の主は寝台に横たわる主君を慮る心は微塵もないようだった。
「何事だ、義父上」
敬った呼び方は、嫌味のようなものだった。何しろ彼には義理の父が何人もいる。一番上の王子の祖父にあたるこの男は、その中でも序列の最上にいるのだろうが、そもそも複数の舅も、更にそれに序列をつける状況も、どこか可笑しくはないだろうか。
王妃を始めとした妃たちの中には望んで侍らせた女もいなくはないが、彼としては大方は押し付けられたものだと認識している。娘との婚姻を絆として王に擦り寄り、後ろ盾になるのと引き換えに権力を得るのがイシュテンの有力な諸侯のやり口だ。決して、古からの倣いという訳でもないのだが、いつの頃からかこれが当然になってしまった。
国の長たるべき王が臣下を父と敬う歪さをあてこすり、「義理の息子」に由来する権力だと思い出させたつもりだったのだが。その男が気付いた気配はやはりなかった。荒い足音が横たわる彼の耳に届き、許しもないのに勝手に寝台の傍の椅子に掛けた気配がした。
「ティゼンハロムの末娘がファルカス……殿下を見初めたとか。どうして結婚を許されたのです!?」
――やはりそのことか……。
怒声の源が近づいたことで頭痛が増すのを感じながら、彼はひっそりと嗤った。王妃も、その父親であるまた別の舅も、同じ用件でうるさく喚いていたのだ。頭に血が上った王妃の暴言に比べれば、仮にも王子のことを口にするのに相応しい称号をつけるのを忘れなかったのは賞賛すべきことでさえあるかもしれない。
それでも男の言葉にはイシュテンの名家ならではの傲慢さが滲んでいた。ファルカス――彼の三番目の息子――が誰を娶るかではなく、同格の家、自身の孫を脅かし得る力を持つティゼンハロム侯爵家がどの王子につくか、という問題の捉え方をしているのだ。
彼はまだ生きているというのに、臣下たちはもう次の王と王妃、側妃たちのことを考え始めているらしい。この侮りと不敬は決して愉快なものではないが――だが、それを表明しても何の利もない。医者も侍女も従者も、誰ひとりとして彼のために闖入者を宥めようという者はいない。今のイシュテンにあって、王の権威などこの程度だということだ。
だからせめてもの抵抗として、彼は惚けて見せることにした。
「娘のたっての願いらしいな。あのリカードも末娘には甘いらしい」
強欲で冷酷なティゼンハロム侯爵が娘の幸せだけを願うなどとはあり得ないこと、要は上のふたりの王子ではなく、後ろ盾のない第三王子に賭けることにしたこと――ひいては、この男と敵対する姿勢を示したこと。いずれも気付いた上で、彼は義理の父のひとりを苛立たせてみる。案の定というか、枕元で舌打ちが聞こえたのでほんの少しだけ溜飲は下がった。
「その娘はザルカンの側妃にしてやろうと思っていたのに……!」
――お前の孫を王にしてやるとはひと言も言っておらぬぞ……?
あまりにも都合の良い言い分に思わず苦笑が漏れる。それも、王妃ではなく側妃とは。ティゼンハロム侯爵家の力は欲しいが、権勢の中枢に食い込ませるのは怖いし惜しいという思いが透けて見えるようだった。何より可笑しいのは、男と全く同じことを王妃とその父親も言っていたのだ。お互いに嫌い合っていがみ合っている癖に、王の権に群がる者たちの思考は呆れるほどにそっくりだった。
「当然ではあるが、ファルカスの妻はひとりきりだろうからなあ。娘としても父親としても、その方が好ましいのだろうよ」
「ですが――」
「まあ、オロスラーンでなくて良かったと思っておけば良いだろう。あちらを選んでいたとしたら何かと面倒になっていたからな」
そしてさらに呆れたことに、怒鳴り込んできた男は王妃たちを黙らせたのと同じ言葉によって引き下がった。ティゼンハロム侯爵家の力を得るのが、第三王子のファルカスでまだ良かった。これがお互いに本命の競争相手と見做している第一、あるいは第二王子のいずれかだとしたら、王位継承を巡る争いもその後の勢力図も大層ややこしいことになるだろう。
それくらいなら、ティゼンハロム侯爵の酔狂というか博打くらい見過ごしても良いだろう。誰もがそのように考えたに違いなかった。
完全に機嫌を直した訳でもなかったものの、側妃の父が退出すると彼は平穏を取り戻すことができた。まだ日も高い時刻だが、不調を理由に政は臣下と官吏に預けている。もとより飾り物の傀儡の王なのだから、いない方が皆気が楽なくらいなのだろう。古の王たちのように、力で諸侯を従える主君を目指した時期がなかった訳でもなかったが――結局、彼の器ではなかったようだ。
「だが、面白くなってきたな……」
「は?」
酒杯を傾けながら独り言つと、酌をしていた女が聞き咎めて首を傾げた。
「何でもない」
手を振って考え事の邪魔をするなと示しながら、この女もそろそろ逃がしてやった方が良いか、と思う。側妃として娶ったのではなく、戯れに傍に置いている寵姫に過ぎない立場の者だ。彼に何かあれば、王妃やその一族に狙われることもあるかもしれない。
ただの病なのか放蕩が祟ったのか、何者かが毒でも盛っているのか――真実は知れないしどうでも良いが、彼の命は間もなく尽きるのだろう。医者どもがどう言おうと、我が身のことだから分かる。臣下の間柄を取り持って国の手綱を御すのにも飽きてきたところだ。だから特別惜しくもないのだが、長年に渡って侮られてきた鬱憤は、思いのほか彼の裡に溜まっていたらしい。死期が近いと悟った時、彼は一種の意趣返しをしようと決めたのだ。
次の王を定めず、息子たちとその母たちの一族の間に争いの火種を撒くことによって。
――第一王子も第二王子も俺の同類……傀儡にすぎぬ。母方の親族どもが争っても、ほどほどのところで止めてしまうかとも思っていたが。
いずれの陣営も権が欲しいからこそ争うのであって、食らうところが残らぬほどに国が荒廃するのは望まないだろうから。多少の混乱はあったとしても、結局は彼の代と似たような事態に落ち着くだろう。末の息子のティグリスは、兄たちとは違って思慮深い気質にも見えるが、幼いがゆえの内気さに過ぎないかもしれない。何より、成人した兄たちがいる限り出番はないし、溺愛している母親の手を逃れることもできないだろう。
つまり、命を賭けた嫌がらせも大したことにはならない――非常につまらない、と思っていたのだが。第三王子のファルカスに強い後ろ盾ができたとなると話はまた変わってくる。あの息子は、幸いにして彼よりも母方の血が強く出たようだ。武勇に優れ、矜持高く狷介な部分もあるが忍耐強い。祖父の手元で育てるように計らったのは正解だったようだ。後見がいないのでは、兄の治世の下では息を潜めるしかできないだろうと、それだけは少し惜しかったのだが――
――三つ巴ということになれば、これは荒れるな?
たまに会う時の様子からすれば、ファルカスはティゼンハロム侯爵家を頼るのをさぞ屈辱に感じたことだろう。そこを上手く言い包めたのだとしたら、祖父が正しく危機感を持って孫を説得してくれたのかもしれない。あるいは、リカードの娘とやらがよほど惚れ込んだちうことなのか。いずれにしても、彼は頑固な息子に節を曲げさせた者に感謝しなければなるまい。息子を守ってくれたことに対してというよりは、事態を面白くしてくれたことに対して。
三人の王子が同時に立って争えば、イシュテンはさぞ荒れるだろう。同格の相手ならまだしも、年齢が下のファルカスに対しては他の二王子も引き際を誤ることもあるだろう。そうして、王を利用するものと考える不忠者どもはことどとく殺し合えば楽しいのに。その果てに、ただひとり剣によって立つ王が現れるとしたら――その在り方こそ、イシュテンのあるべき姿であり、彼がかつて目指そうとしたもののはずだ。
酔いによる眠気が耐えがたくなったので、女を下がらせて目を閉じる。心躍るような夢は彼には無縁だ。眠りも死ももはや彼には似たようなもの。そのような夢が叶うとしたら、彼が去った後の未来に、息子たちのいずれかが国を変えてくれたなら、あるいは。
その場面を彼自身の目で見ることができないのは残念だった。




