03 北の国から ジュラ
2章~4章の間、ミリアールトはこんな感じでしたという話。
ジュラが目を覚ますと、日はとうに高く昇っていた。とはいえ、これは彼が怠惰だということを示すものではない。
ミリアールトは長く暗い冬で悪名高いが、その代償のように夏はいつまでも日が沈まず、夕暮れほどの薄暗さがしばらく続いたかと思うとすぐにまた朝日が昇る。最初の頃は床に就く時間でも空が明るいのに悩まされたが、今はもう慣れた。
身支度を整えて朝食を摂る。主菜は燻製にした魚の切り身である。内陸のイシュテンではまず供されないものだが、ミリアールトではごく一般的なのだという。この食べつけない献立にも慣れた――というよりも、物珍しいというだけで量も味も文句のない食事に不平を言っているようでは武人は務まらない。
宿舎として利用している屋敷を出る。元は某とかいう貴族の邸宅だったという。本来の持ち主が戦死し、遺族も屋敷を出たため空き家になったのを接収したものだ。王宮に近いので重宝している。
騎乗して王宮へ向かうジュラを見る人々の目の色は様々だ。黒や茶の他に様々な彩度の青や緑がある。そして、そこに浮かぶ感情もまた様々だった。敵意や憎悪。関わり合いになりたくないとばかりに目を逸らす者もいる。共通して言えるのは好意的ではないということ。
これには慣れるかどうかという話ではない。他国を侵略した以上、当然のこととして受け止めなければならないだろう。常ならば略奪するだけして帰っていくイシュテンの者にとって、馴染みのないことではあるが。
王宮に着くと仕事が山積していた。軍の解体、官僚の掌握……やるべきことは多い。基本的にはこのために従軍させた文官たちの仕事だが、彼が目を通さなければならないこと、彼でなければできないことも一定量は存在する。
「閣下、面会の申し込みです。グニェーフ伯から」
例えばこの国の有力者の対応などだ。
「会おう」
閣下、と呼ばれることにむず痒さを感じながらジュラは即答した。本来なら、年齢から言っても出自から言っても、彼が閣下などという称号で呼ばれることはありえない。呼び名ひとつで偉くなったと思えるほど彼はおめでたくない。
グニェーフ伯はもともと国境の守備にあたっていた人物だ。その国境とはイシュテンとの間のものではなく、ゆえに彼はイシュテンの侵攻の際に参じることが叶わなかったという。
敵の全力が整う時間を与えずに勝ったのは、本来は誇れることだ。しかし、今のジュラの立場にあっては間に合っていて欲しかったと思ってしまう。戦場で全軍を叩き潰しておいたなら、彼の悩みは幾らか減っていたはずなのだ。
無傷で温存されたグニェーフ伯の手勢は、王都郊外にこれみよがしに布陣している。そして、伯爵本人は数日おきにジュラを訪ねては、脅しとも皮肉ともつかない会話で彼の精神力を削るのを楽しんでいるようだった。
「我が女王は貴国でいかがお過ごしだろうか」
グニェーフ伯は白に近い金髪に薄青の瞳を持つ初老の男だった。長年氷雪にさらされて凍りつき、漂白されたかのような印象を受けるが、老いぼれているというわけではない。氷のような色の瞳に浮かぶ光は鋭く、体つきもまだしっかりとしている。
堂々とした雰囲気の老貴族といえばティゼンハロム侯リカードを思い出させるが、何度か話すうちに全く異なる類の人間だと知った。リカードがジュラごとき家の者に対してまともに相対することはない。それに、策略を巡らすのを得意とするリカードに対して、グニェーフ伯は実直かつ謹厳な武人に見える。
何よりも違うのは王家に対する忠誠心だろう。リカードにとって王家とは自身の権力欲を満たすための道具でしかないのではないか。
「閣下の認識は間違っている。イシュテンに女の王はありえず、ミリアールトという国はすでにない」
自国の宰相よりも敵国の人間に親しみを覚えそうになる理不尽を押し殺して、指摘する。
なお、この会話はイシュテン語で行われている。辺境を預かる武人ですら複数の言語を解する辺り、ミリアールトの文化水準を思い知らされる。
「これは失礼。歳を取ると認識を変えるのに時間がかかるものだ。まあ貴殿らの王の目が届く範囲ではなし、見逃していただこう。
で、女王陛下は真実不自由なく息災でいらっしゃるのか」
相手が呼び間違えを改めることがないのを悟って、ジュラは内心で溜息を吐いた。
――認識を変える気などないではないか。
伯爵の主張は一貫している。
シグリーン公――ファルカス王が首を刎ねたミリアールト王弟――が国のためとはいえ元王女の身柄を引き渡すなどありえない。彼女の身を守るとは言うが、蛮族の約束など信じられない。信じて欲しいなら証を見せろ。
遅参したことを逆手にとって知らぬ存ぜぬを通すのはさすがに老獪と言える。
「先日国から返信を得た。王妃陛下がかの姫君を気に入られて妹のように遇されていると」
納得しないだろうと思いながらも知らせると、やはり伯爵は疑わしげに目を細めた。
「貴殿の話は伝聞ばかりだ」
元王女がイシュテンにいる以上、伝聞なのは当然だ。直筆の手紙でも書いてもらえないか、とも思ったが、この調子だと脅して書かせたのだろうくらいは言われそうだった。
「王の言葉を信じられぬと仰るか」
「当然。何しろ私は会ったこともない」
表現や切り口は違えど何度となく繰り返した問答に苛立ちを覚える。
いっそ悪友のアンドラーシのことを話してやろうか、とさえ思う。あの男はやたらとあの姫君のことを気に入って側妃に据えるのだと張り切っていた。王の命令に加えて、あの男が全力で守るとなれば、元王女はまず安全だろう。あれで中々腕は立つのだ。
だが、大事な女王陛下が親の仇である王に差し出されようとしていると知れば、グニェーフ伯は激怒するだろう。これまで全面衝突は避けてきた均衡を崩すのが惜しくて、それは絶対に言ってはならないと決めている。
自然、答えもいつもと同じものになる。
「私の行いは王の命によるもの。私を通じて王を信じていただきたい」
これを聞いて、グニェーフ伯は微笑んだ。一方のジュラは敗北感しかない。要するに相手はこれを言わせたくて来ているのだ。
「そうだな。貴殿はよくやっている。信用しても良いと思っているのだ。――城門の首がまた増えていたな?」
――いちいち数えているのか?
「私は王の命に従ったまで」
愚直に繰り返すと、伯爵は満足げに頷いた。
「その点は感謝している。不心得者を捕らえたら必ず引き渡そう」
グニェーフ伯が去ると、ジュラは大きく息を吐いた。控えていた文官が心得たように冷えた水の入った盃を渡してくる。
「お疲れ様です」
水を飲み干すと、苦笑して盃を返す。武官と文官は仲が悪いものだが、ここではお互いよそ者扱いなので妙な連帯感が生まれている。
「あの老人はとても協力的だからな。感謝するのはこちらの方だ」
「はあ……」
日課のように恫喝めいたことを言ってくるものの、実際に手勢を動かして衝突したことはない。察するに、元王女やミリアールトの民に対して非道を働いたらただではおかぬという牽制を多分に含んでいるようだった。それは、裏を返せば約束さえ守れば手出しはしない、という意思表示でもあるのだろう。
実際は、戦えば必ずジュラが勝つ程度には彼我の勢力に差があるのだが。とはいえ、正面からぶつかれば犠牲は避けられない上にミリアールトの民から反感を買う。それなら真面目に統治して機嫌をとっておいた方がお互いに損がない。その程度の計算はできるようになった。
この役目を任じられたおかげと言えるだろう。恐らく王は戦場以外での駆け引きも学ぶことを期待して彼をこの地に残した。戦いしか能のない者は王に必要とされていない。性に合わないなどとは言っていられない。
ジュラはここにいる間にできる限りのことを吸収するつもりだった。ある意味グニェーフ伯は良い教師と言える。
軽く息を吐いて覚悟を固めると、ジュラは文官に問うた。
「今日の俺の仕事は?」
「今のところは、まだ。市街の見回りでもしていただければ」
「わかった」
答えに安堵しつつ、ジュラは再び街へと降りた。
彼でなければならない仕事。その中でも最も重要なのが罪人の処刑だ。強盗強姦など、治安を乱す者に対して容赦はするなとの王の言葉を賜った。
戦場で敵を斃すのにためらいはないが、縛り上げた人間、それも同じ国の者を斬って平然としていられるかどうかはまた別の話だった。しかも命を破って狼藉を働くような連中だから潔く死に臨むはずもなく、彼の仕事は大変気の滅入るものとなる。
徹底した態度を見せることでミリアールトの信頼を得る効果はあるようだが……。この件に関してだけは彼の仕事がないに越したことはない。
王宮の門をくぐると、晒された首の光ない目に見下ろされるような気がした。ミリアールトの王弟らの首はとうに降ろして埋葬を許している。いま晒されているのは、グニェーフ伯が言うように、もっぱら彼の仕事によるものだ。真夏でも涼しい気候ゆえに腐敗は遅く、腐った首を片付けるより新しいものが増える方が早い。
――こちらの兵にも息抜きが必要か……。
敵より味方を多く殺すのか、という謗りは耳に届いている。略奪でも戦いでもない鬱憤晴らしは、と考えた時に頭によぎるのは、友からの手紙の一節。
『秋になったら王の無聊を慰めに鷹狩りに行く。羨ましかろう』
羨ましいに決まっている、と心中で毒づく。この地で味わう心労の数々に比べたら、王の御前で狩りの腕を競うのはどれほど楽で心躍ることか。
同時に狩りは良い手かもしれない、と思う。イシュテンの男なら等しく狩りを好むものだから。不満のはけ口にできるだろう。問題はこの地での獲物をよく知らないこと、近隣の農民への根回しだが――
――あの老人に持ちかけてみるか。
民に向かいかねない鬱憤を獣に向けてやるのだから、あちらにとっても悪い話ではないはず。忘れがちだがこちらこそが勝者であり侵略者なのだから、少しは無理を言っても良いだろう。
何よりグニェーフ伯にいいようにあしらわれてばかりなのが悔しい。たまには彼の方から訪ねて行って驚かせてやりたいものだ。
――どんどん性格が悪くなっていく気がするが……。
武勲を立てるだけ、などと言っていた頃が懐かしい。
否応なく自身が変わっていくのを、ジュラは自覚し始めていた。