24 祖母との語らい レオンハルト
レオンハルトは祖母のことが苦手だった。というか、恐れていた。ごくたまにしか会わない母や、息子には甘い父親、それに世継ぎの身に対する遠慮がある臣下たちと違って、あの方はレオンハルトに対して厳しい。別に怒鳴りつけられたリ、ましてや手を上げられるようなことがある訳ではないけど、それでも鷲のように鋭い目で見据えられて、穏やかだけど硬い声で苦言のようなものを呈されると身が竦む思いがする。この方の前で失敗してはならない、この方を失望させることがあってはならないと思わさせられるのだ。
だから、祖母の部屋に入る前に、レオンハルトは念入りに身だしなみを整えた。髪に乱れは、衣装に皺はないか。ブレンクラーレの世継ぎに相応しい装いができているかを確かめて、そしてやっと――ある意味での――試練に臨むのだ。
「レオンハルト、よくいらっしゃった。健やかなご成長をお慶び申し上げる」
「おばあ様も、ご健勝のご様子、まことに嬉しく存じます」
弱々しく震えたりしないよう声にも気を付けて、頭の中で何度も反芻していた口上を述べる。すると祖母が珍しく柔らかく微笑むので、やっと安心することができた。父が常々言っているように、この方も厳しいだけの人ではない――肉親への温かい情もちゃんとあるのだと、実感できたのだ。別に父や祖母を疑う訳ではないけれど、何しろ滅多に会うことがない人だから会う度に思い出させられることになる。
「もう十歳になられたのか」
「はい。あの、まだまだ学ばなければいけないことは多いと思うのですが」
「幸いにしてブレンクラーレには優れた師が多かろう。忠実な臣下もな。焦らず歩んでいかれると良い」
「はい」
席に着いて話し出してしまえば、沈黙を恐れる必要もなく会話は進んだ。宮廷の最近の様子やら、レオンハルトがどのような行事に出席したか、その意味は、等々。話題は試験めいていて緊張は確かにさせられるのだけど。それでも並べられた菓子は彼が好きなものばかりだったし、祖母は彼の発言のひとつひとつに目を細めて頷いてくれる。
彼が生まれたばかりの頃の、諸々の事件によって祖母は鷲の巣城を離れて隠者のような生活を送っている。だから世間の話を聞くのはまたとない楽しみになるだろう、と父には言われているし、孫として孝行ができるなら願ってもないことだった。
「母君には近頃お会いになったか?」
「……はい。先月、お見舞いしました」
「変わらずお元気なのだろうか」
「はい。……全然、お変わりなくて」
だが、母のことに話題が及ぶと、レオンハルトはやや歯切れが悪くなってしまう。祖母とは全く別の理由で、彼は生母のことが苦手だったのだ。
祖母と同じく、昔のことが原因で彼はほとんど母と関わることなく育った。政務で多忙な父に代わって、時折訪ねることがあるのも同様だ。
ただ、祖母と違って、母はレオンハルトの姿を見ると大げさとしか思えない喜びようでべったりとくっついてくる。何を言っても何をしても褒めてくれて、嬉しいというよりはちゃんと息子の成長を見てくれているのか疑問に思ってしまうほどだ。
「さぞ喜ばれたことだろうな」
「はい、多分。お菓子も沢山出していただきました」
ただし、必ずしも彼が好きではないものだったけれど。
レオンハルトが推測するに、祖母は孫の好みを鷲の巣城に問い合わせているのではないだろうか。一方で母はそれをせずに、子供が好みそうなものをひたすら並べているのではないだろうか。どうやら母の方が王宮への伝手は少ないようだから、それをもって母の愛情が薄いのだとは思いたくないけれど。でも、やはり母を訪ねるとどこか居心地の悪い気分になってしまう。実の親に対して申し訳ないとは思うのだが、レオンハルトにとって母は気持ちの上では他人だった。
「――母君は寂しく思って過ごされているのだろう。無論、誰よりもそなたに苦労を掛けてしまっているのだが。幼い方にこの上の気苦労をさせるのも申し訳ないが、これからも訪ねて差し上げるのが良いだろう」
「はい。承知しております」
外交の場にも出る王族としてはあるまじきことなのだろうが、レオンハルトはまだ内心の感情を完全に隠すことができないらしい。母のことを語りながら表情を強張らせたのを、祖母に気付かれてしまったらしい。
「えっと……父上も、母上のお見舞いには行きたいと思っておられるようなのですが。中々お時間もないようで……」
「会いづらいことの、言い訳でないと良いのだが。――ああ、どうもあの者に関することだと点が辛くなって仕方ない」
「父上は母上のことがお好きなんだと思います。他の方を王妃に、という声にも見向きもされませんし」
彼自身はそんなに好きでもない、と言っているように聞こえないと良いな、と思いながらレオンハルトは誤魔化すように父のことを口にしてみた。祖母や母を取り巻く事情は複雑なようで、表に出ることができない母に代わって、王の隣にいることができる女性が必要ではないか、と主張する者もいる。
母親を知らないレオンハルト殿下がお気の毒だ、というのが彼らのお決まりの言い分だから、彼としてもその手の主張はごく身近なものだった。別に優しくしてくれる女性には事欠かないから、母親がいないということがそんなに哀れまれるべきものなのか、今ひとつ実感がないというのが正直なところではあるのだが。
「好き、というか……負い目があるというのが正直なところではないのだろうかな。まあ、あの者に人を思い遣る気持ちができたなら喜ばしいこと」
「はあ」
レオンハルトが見る限り、父は優しくて寛容だ。祖母のような威厳には欠けるかもしれないが、親しみやすさも王としては必要なものだと思う。だから祖母の評が今ひとつしっくりと来なくて、レオンハルトは首を傾げた。
「……まあ、いずれそなたも全てを教えられるだろう。その時期は父君が決めることで、妾にはその権利はない」
「はい」
「全てを知った後でも、この年寄りを訪ねてくださると嬉しいのだが」
祖母が目を伏せて呟いた言葉に、レオンハルトは目を見開いた。この方の弱気な声を聞くのは、彼の記憶にある限り初めてだったのだ。
「もちろんです」
慌てて力強く頷いて見せると、祖母は少しだけ笑ってくれた。安心したというよりは、彼の慌てようを面白がったような雰囲気だったけど。――つまり、祖母は彼のことをあまり信じていないようだった。
「だと良いのだが」
「おばあ様、あの……」
何かもっと、祖母を納得させられるような言葉を探そうとして、でも、幼いレオンハルトにはそのようなものを見つけることはできなかった。その間に、祖母はもういつもの謹厳な雰囲気を取り戻している。微笑んだ表情も隙がなく、どこか背筋を正さなければいけないと思わせる「怖さ」を纏わせて、レオンハルトにそれ以上踏み込むことを許さない。
「まあ、それはまだ先のこと。今は、もう少し孫の話を聞かせておくれ」
――父上と母上とおばあ様……一体何があったんだろう……?
ほのかにしか知らない、彼が物心つく前の出来事。彼にはまだ早いと思われているらしいこと。それを教えられるのは、彼が十分大人になったと見做された時なのだろうか。
その時が楽しみなような怖いような――どちらとも言えない複雑な想いに囚われて、レオンハルトは曖昧に微笑むことしかできなかった。




