23 まだぎこちない絆 グルーシャ
フェリツィア王女の部屋の扉をそっと開けると、王女はハイナルカの腕の中ですやすやと眠っていた。泣き声もはしゃぐ声も聞こえなかったからもしや、と思った予想が当たったらしい。それでも扉の軋みを完全に抑えることはできなかったから、微かな物音で彼女の入室に気付いたのだろう、ハイナルカの茶色い目がグルーシャを捉えて微笑んだ。
「ちょうどお休みになったところです」
ほとんど唇の動きだけで囁かれたのに対して、グルーシャも声にならない声で応える。
「では、貴女も休みましょう。お茶でも淹れさせますから」
それから、王女を揺り籠に収めると、後のことは召使いに任せてふたりは部屋を後にした。
黒松館の事件の後、バラージュ家には人が増えた。母君を攫われたフェリツィア王女の養育を任されたことで、黒松館にいた使用人が揃ってこの屋敷に移ることになったのだ。襲撃の際に命を落とした者、務めを続けることができない傷を負った者については、王の手配で代わりの者が雇われた。当然、身辺や人柄については重々調べた上で。
あの夜喪われた命の中で、フェリツィア王女に対する影響が最も大きいのは乳母のものだっただろう。我が子を身代わりにして王女を救った女を、誰もが称え悼んだけれど、悲しみに浸ってばかりもいられなかった。そろそろ離乳食を始めようかという頃だったとはいえ、赤子は乳房の柔らかさを欲しがるもの。実母のクリャースタ妃も連れ去られてしまった以上、王女を安心して任せられる乳母代わりの女を探すことは急務だったのだ。
そこで王が声を掛けたのが、このハイナルカだった。小柄で、栗鼠を思わせるつぶらな瞳に愛らしい仕草。人柄もおっとりとして控えめで、ちょうどフェリツィア王女とさほど歳の変わらない息子もいる。条件を挙げるだけでも申し分ない人材だが、王やイルレシュ伯、グルーシャの夫が揃ってこの女性なら大丈夫だと断言できる理由がある。
ハイナルカは、夫の親友で王の側近のひとりでもある、ジュラの奥方なのだ。
グルーシャとイリーナとハイナルカと。出自はそれぞれ違っても、年頃は同じ若い女同士。卓を囲んで茶菓をつまめば、自然と話に花が咲くもの。
「このお菓子、イリーナに教えてもらったのよね。ミリアールトの伝統のだとか」
「ええ、クリャースタ様もお好きで……美味しいでしょう?」
「本当に。夫にも食べてもらいたいから、教えていただけるかしら」
「もちろんよ」
凝乳をたっぷりと使った菓子はとろけるような食感で、確かに新鮮な味わいだった。滋養もありそうなことだし、グルーシャも次に夫が帰ったら出してみよう、と考えている。王宮ではきっと気を張ることも多いだろうから、甘いもので疲れを取って欲しいと思う。
「ハイナルカ、旦那様からお手紙は来た?」
「いいえ。やはり外国へ届けるのは大変みたい。もちろん武器や防具や食料を届ける方が優先なのでしょうし、仕方ないけど」
「それではアンドラーシ様が戻られた時に前線の様子を伺わなければね」
「ええ、ここに置かせてもらって、とても助かっているわ……グルーシャ」
ハイナルカはグルーシャの名を呼び捨てる時に一瞬の躊躇いを見せた。奥様、とでも言いそうになったのかもしれない。はじめの頃は実家の格が違うからとしきりに恐縮していたもので、やっと砕けた言葉遣いにも慣れてきたところなのだけど。まだ心から打ち解けてはくれていないことを、ふとした間に感じさせられてしまう。
「私も。ブレンクラーレのことを教えてもらえるのは嬉しいの。イシュテンがクリャースタ様のために戦ってくれていると、故郷に手紙を書けるから。――イシュテン語で、中身を見てもらって、だけど。もちろん」
横から口を挟んだイリーナの笑顔も、やや強張ってぎこちない。こちらは、多分後ろめたさによるものだ。クリャースタ妃を攫ったミリアールトの王族の生き残りの企みを、知っていながら黙っていたことを、まだ引きずっているのだろう。
亡くなった乳母と並んで、フェリツィア王女が無事だったのはイリーナの功だ。だからだろうか、王はこの娘に非を問うことはしなかった。グルーシャも、イリーナのクリャースタ妃に対する忠誠を知っているから、引き裂かれた母娘のことでどれほど心を痛め自らを責めているだろうかと思うと詰るつもりにはなれない。
でも――心から割り切れているかというとそうとも言えない。言ってくれていれたなら、と「もしも」を考えずにはいれらないし、あの襲撃で友人を喪った者は、はっきりとイリーナを責めることもあるのかもしれない。
「ミリアールトのことも心配でしょうね。ご家族とは――」
「父も母も元気だからとりあえずは大丈夫。クリャースタ様のご無事を、皆願っているそうよ」
でも、グルーシャもハイナルカもそのことには触れないし、イリーナも笑顔と朗らかな口調を保ち続ける。今の彼女たちに必要なのは慰め合い気遣い合うことではなく、これからの戦いに備えて心構えをしておくことだと――誰もが、承知しているからだ。
父が亡くなって以来気落ちしている母に代わって、グルーシャは家内を取り仕切らなければならないし、ハイナルカは自身の子の世話も焼かなければならない。イリーナも、祖国の身内に便りを出してはイシュテンとミリアールトの間の摩擦を少しでも和らげようと努めている。決して空いた時間を持て余している訳ではない彼女たちが、それでも機会がある度にこうして集うのは、他愛ない――ように見える――やり取りを通じてお互いの気性を知り合い、信頼を築くため。誰もはっきりと口に出してはいないが、他のふたりも同じ思いだとグルーシャは信じている。
これが殿方であれば、共に戦場に立つことで――言ってしまえば――割と簡単に心が通じるものなのかもしれないけれど。女同士の付き合いはもう少し繊細で、もっとずっと迂遠なものだ。
でも、きっと大丈夫。ハイナルカは段々はっきりと自分の考えを伝えてくれるようになっているし、イリーナも表情に暗い影が過ぎることは少なくなった。
そしてグルーシャはといえば、このふたりよりもずっと心の持ちようは楽なものだ。フェリツィア王女を実家に迎える光栄に浴して、夫も弟も張り切っている。王女の愛らしい姿を見て、夫も子供が欲しくなってきたようで、男の子なら自身のような側近に、女の子ならいずれ生まれるであろう王子の側妃に、などと言っている。王やクリャースタ妃が、その考えに何と言うかは、彼女が推し量って良いことではないけれど。
――そうなれば、どんなに良いかしら。
未だ戦いの最中とはいえ、幸せな未来を思い描けば胸が弾む。父の非業の死と弟の怪我のために、子を持つことはおろか人並みに嫁ぐこともできないと思っていた身には、なおのこと。そしてその幸せは黙って待つものではなく、彼女自身も戦って勝ち取らなければならないのだ。イリーナやハイナルカは、グルーシャにとっては戦友ということになるだろうか。今はまだぎこちなくても、共に戦ううちにきっと頼もしい仲間に思えるだろう。
だから今は、鋭気を養う時。屋敷の内での結束を固めるのも戦いにおいては重要なこと。そう、自分に言い聞かせて、グルーシャはまたひとつ菓子を口に運んだ。