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22 妻の遺志を継いで フェリツィア王女の乳母の寡夫

「今……何と仰いましたか……」


 王の前で言葉を失い、しかも言われたことを聞き返すという非礼を、彼は犯してしまった。心の隅で不敬に戦きながら、彼の口は勝手に言葉を紡ぐ。それほどに、王に告げられたことは彼の心に強い打撃を与えたのだ。


 軽く息を吐くだけで彼を咎めなかった王も、恐らくはあまりの事態に動揺を抑え切れていないのだろう。日頃、臣下の前では果断な言動だけを見せている方が、今日に限っては躊躇うような気配を見せているのだ。


「黒松館が襲われ、側妃が賊に攫われた。そなたの妻は王女を庇って死に、そなたの娘は王女の身代わりに連れ去られた」


 それでも端的に事実を述べたのは、王も彼に伝えるべきことを吟味していたということなのだろうか。彼のような者に対して、なんと過分の心遣いだろう。


 妻と娘が喪われたという報せに彼の思考はまとまらない――だが、どこか頭の片隅にやはり、という思いもあった。妻を側妃の御子の乳母に差し出したとはいえ、イシュテンで近い将来権力を掌握するのは王だと見込んで忠誠を誓ったとはいえ、彼と王との繋がりはまだ薄い。なのに内々に呼ばれたのは、妻に関することだとなのだろうと、推測することはできていたはずだった。


 そう、だから何か一大事が起きたのは分かっていたのだ。だが、まさかこれほどのこととは。王に対して、何を言えば良いのか。王は、彼に何を求めて呼び出したのだろう。


「それは……申し訳もございません。お役に立つことができず、むざむざ……」


 まだ上手く働かない頭を必死に探った結果、彼はまずは詫びなくては、と思った。側妃の傍近くに仕えていながら守ることができなかった――妻の落ち度は、彼のものでもあるはずだから。だが、許しを乞うはずの言葉を舌が紡ぎ切ることはできず、彼の声は虚しく立ち消えた。


 妻の細い身体や腕を思い出すと、あの女に抵抗などできなかっただろうと思ったからだ。


 ――死んだ……殺された……? どのようにして……?


 妻の最期の瞬間を思うと胸が締め付けられて、息苦しいような思いさえした。賊に襲われたということは、剣で貫かれたのか、鎚などの鈍器によるものか。妻が感じた恐怖や苦痛はどれほどのものだったのだろう。


「そなたの妻に咎はない。むしろ乳母の機転でフェリツィアは無事だったのだ。忠誠に感謝こそすれ、罰するなど思いもよらぬ。――守りが十分でなかったこと、俺の方こそ詫びねばならぬ」

「そのようなことは……」


 未だ明瞭な受け答えができない彼のことを、王は哀れみの目で見たようだった。そうだ、先の言葉からすればこの方も側妃を失ったのか。そうと気づくと彼の胸にも同情の想いが芽生えたが、それもどこか遠い世界のことのよう。足元も雲を踏んでいるかのようにふわふわとして定まらず、目を開けたまま夢を見ているような気分さえした。


「――俺は、側妃を取り戻すつもりだ。背後にリカードがいることもほぼ間違いないと思っている。近く、大きな戦になるだろう」

「は……」


 ――そうか……クリャースタ様は生きておられるかもしれないのか……。


 彼の妻は死んだと断言された一方で。妻の立場を思えば、そのことだけでも喜ばしいと捉えなければならないのだろうか。王としては、妃の現在の様子が案じられて仕方のないことなのだろうが。一抹であっても希望があって、だが絶たれるかもしれないのと最初から希望がないのと、一体どちらがマシなのだろう。


「側妃を攫った賊は、そなたの娘をフェリツィアと思い込まされている。側妃も、赤子を無碍に危険に晒す女ではないから自ら明かしはしないだろう。ならば、そなたの娘も側妃と共にいる可能性がある」

「ジョフィアが……?」


 親としては非常に情けないことに、王に言われて初めて彼は生まれたばかりの娘のことを思い出した。妻が側妃に仕えるに際して連れて行ったから、ほんの何回かしか会ったことがないのだが。だが、妻の名と面影を受け継いだ、確かに彼の娘だ。まだ父の顔も覚えていないであろう娘に、また会うことができるのか。


 呆けたようにどこか霞がかっていた彼の視界が、急に焦点を結ぶ。やっと我に返ると、王の青灰の目が彼を鋭く見据えているのに気がついた。


「俺は側妃と、そなたは娘と。再び会うためには諸侯に協力を募らねば。近く、そのための場を設けるが――そなたも来てくれるか」


 ――陛下が俺に直々に……それも、命令ではなく頼みごとのように……。


 王の乞うような言葉を聞いて、彼の胸に感動にも似た思いが過ぎる。側妃と対立するティゼンハロム侯爵の存在を承知で妻を仕えさせたのは、王の信頼を得るためのことだった。だからこの状況は彼の野心が叶ったともいえる。だが、危険があるとは思っていても、妻の命が失われることまで覚悟していただろうか。


「臣は――」


 一も二もなく頷くべき場だ、と理屈では分かっていた。だが、目蓋に残る妻の面影が彼の舌を縛る。妻の命と引き換えにしてまで、彼は栄達を望んでいたのだろうか。ここで王の申し出を得意げに受けるのは、妻の死を踏み台にすることではないのだろうか。


「……別に無理強いはしない。そなたはリカードにつくことはないだろうしな。この件を公にするのはしばらく後のことになるからよく考えておけば良い」

「は。申し訳ございません。ありがたく存じます……」


 即答しなかった彼のことを、王はまたも責めなかった。妻のことを慮ってくれたからこその破格の扱い、なのに応えることができないのはどれほど恥ずべき怯懦だろう。だが、王が与えてくれた猶予がこの上なくありがたかった。




 王は更に妻の最期を知る者に会えるように計らってくれた。妻と共にクリャースタ妃やフェリツィア王女に仕えていた侍女だという。今はバラージュ家に匿われた王女の傍にいて、主の帰りを待っているのだとか。クリャースタ妃が――ジョフィアも共に――帰ることなどあるのかどうか、彼には今ひとつ信じ切れないことだったが。


 とにかく彼は、バラージュ家の館を訪ねて、若い片腕の当主とその姉に迎えられた。そして引き合わされた側妃の侍女は――


「本当に、申し訳のないことです。私は――あの方と違って、何ひとつ、身動きすることすらできませんでした」


 彼の顔を見るなり、腰を折り深々と頭を下げた。


「いや、そのようなことは……それよりも、あれのことを聞かせて欲しくて参ったのだが」


 突然のことに困惑しつつその娘を真っ直ぐに立たせようとして、更に恐縮されて。ぎこちないやり取りの末にようやく正面から向き合うことができた娘は、クリャースタ妃と同じ北方の血を明らかに示す容姿をしていた。金茶色の髪が優美な線を描いて肩から流れ、瞳の色は春を思わせる鮮やかな緑。その美しい目が、もう涙に潤んでいた。


「フェリツィア様が無事だったのは、あの方のお陰なのです……」


 娘の涙は、黒松館の襲撃を思い出してのことなのだろう。時に言葉を詰まらせながら、異国の不思議な訛りがある言葉が「その時」のことを語る。彼女が妻と共にいた時に聞こえた剣戟の音、炎の熱。赤子を抱えて身動き取れず、しかしクリャースタ妃を案じて気が気ではなかったあの夜のことを。


「――あの方がジョフィアを抱いて立ち上がった時、あれ、と思ったのです。助けを求めに行くと言っていたけれど、赤ちゃんを連れて行ったら絶対に目立ってしまいますもの。フェリツィア様ではなくてジョフィアを抱いて行ったのは、初めから分かっていたのだと思うのです」

「……王女殿下をお守りするためには当然のこと。貴女がお気に病まれることではない」


 妻よりも歳若い娘の頬が涙に濡れるのを見て動揺しながら、彼は異国の侍女を慰めようとした。彼が思っていた以上に妻は勇気があった。イシュテンの臣下として正しい行動ができていた。そう知ることができたのは彼にとってわずかではあっても救いになった。それを与えてくれた娘が泣き濡れるのを、だから、放っておくことができなかったのだ。


「いいえ。だって、私はフェリツィア様のためではなく、怖くて動けなかっただけなのですもの。じっとしていても何もならないと、分かっていたのに。あのままふたりしてあの部屋にいたら、フェリツィア様が捕まってしまっていたかも……」


 ――じっとしていても何もならない、か……。


 妻を称え自らを責める娘の言葉の中で、そのひと言が彼の胸にも刺さった。彼もまた、王の言葉に頷くことができずに立ち止まってしまっていたから。妻を偲んで、というのは、彼が添った女の最期を聞いた後では言い訳にしか過ぎないように思えてしまうのだ。あの女は、危険も恐怖も乗り越えて、為すべきことを為した。王につくから忠誠を示したい、と言って送り出した彼の意が妻の背を押していたのだとしたら。彼がここで怖気づくのは、妻への裏切りに他ならないのではないだろうか。


「……だが、少なくとも王女様が無事だったのは貴女の功績だ。それに私も。妻の最期を聞かせていただいて、嬉しく思う」

「え……」


 涙の雫をまとわせた睫毛を振るわせて、娘は何度か瞬いた。言われた言葉を呑み込めていない様子の困惑顔に、彼はやや無理をして微笑みを作る。


「ジョフィアはクリャースタ様がお守りくださっているはず――否、ジョフィアこそクリャースタ様の慰めとなっていれば良いのだが。幼い娘までもクリャースタ様にお仕えできるとは、名誉な限り」


 初めて会ったばかりの娘を泣き止ませるにはどうしたら良いのか。彼の心に沸き上がった思いを、どう言葉にすればよいのか。この娘に伝えても良いものなのか。分からないままに言葉が口をついてでる。早口に、とりとめもなく溢れる言葉を、ミリアールトの娘はちゃんと聞き取れているだろうか。自信がなくなって、意識してゆっくりと言葉を紡ぐ。


「妻のためにも、クリャースタ様を取り戻す。陛下のために、私は戦う。娘もこの手にまた抱きたい」


 ひとつひとつ、口に出す度に心が定まるようだった。妻も、この娘も、か弱い身が許す限りのことをしたのだろう。不意に訪れた危機に際して、思い悩む暇もなかっただろうに。力では遥かに勝るはずの彼が、覚悟する時間もたっぷりあるというのに戦うのを躊躇うなど、それこそ妻への裏切りだった。


「……娘が戻ったら母の話を聞かせてやっていただきたい。また、訪ねても良いだろうか……?」


 申し出たのは、そうすればこの娘の心が少しは軽くなるだろうと思ったから。それに、彼としても帰る理由は多いに越したことはないから。戦場にあって、故郷への未練は戦士の命を繋ぐものだ。


「……はい。是非……!」


 目を丸くしながら、でもこれ以上涙を流すことなく、娘は大きく頷いてくれた。それに返す笑みは、さっきよりもずっと自然なもの。


「ならばその時を楽しみに。――必ず、クリャースタ様をお返ししよう」




 王宮の広間に呼び集められた際、彼の周囲の諸侯らは未だ王に与するか決断しかねているようだった。ティゼンハロム侯爵への遠慮、側妃に溺れたという王への懸念。それらが彼らの判断を妨げているのだ。

 だが、そのようなことは彼にとっては雑音に過ぎない。彼はとうに戦う覚悟を決めた。そうでなくて、どうして逝った妻に顔向けできるものか。

 恐らくは広間に集った者の中でもっとも堂々と、胸を張って。彼は王の来臨を待っていた。

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