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20 王子だったら マリカ

 父がマリカと母のもとを訪れたのは、可哀想なアルニェクを庭園に埋葬した、やっと翌日のことだった。


「すぐに来てやれなくてすまなかったな」


 父の膝の上に抱き上げられるのは、今のマリカにとっては苛立ちのもとでしかない。でも幼い彼女が大人の力に抗えるはずもなく、半ば強引に落ち着かされた。更に頭上から降って来た父の声も、いかにも言い訳じみていたので、マリカの機嫌は傾く一方だ。


「赤ちゃんの方が大事だもの。しょうがないわ」

「良い子だな」


 背後から抱かれた姿で答えたので、父はマリカの不機嫌に気づかないようだった。ただ、言葉をそのままに受け止めて髪を乱すように頭を撫でられる。そのように馴れ馴れしく触れられるのも、マリカの神経を逆なでて仕方なかった。


 ――そんなこと言ったって……!


 父の顔を見なくて済むように顔を背けると、母の悲しげな顔が目に入ってマリカの胸を痛ませた。母は、父と違って彼女が言わんとしていることを理解しているのだ。かつて言い聞かされていたように「お姉様」らしく振る舞おうというのではなく、父の関心が突然現れた「妹」のものになってしまったのだという諦めと憤りからの言葉だと、分かってしまっているのだ。


 彼女のそんな態度は、母を困らせるだけだとマリカにも分かっている。ちゃんと父の顔を見て言ってあげれば、両親はきっと安心して喜ぶのだろうけど。でも、マリカが一番悲しい時、アルニェクを見送る時に傍にいてくれなかった父のことを、マリカはどうしても許す気になれなかった。


 ――お父様にも、いて欲しかったのに……。




 召使いたちの手を借りて、庭の片隅に穴を深く掘って。いざアルニェクを横たえてまた土をかぶせようという時になって、マリカはどうしてもそれをすることができなかった。冷たく硬くなってしまったアルニェクはもう二度と起きないのだとは理解していたけれど、それでも生きていた時そのままの姿の犬を、土に埋めるのは苦しそうで可哀想でひどい、と思ってしまったのだ。


『マリカ、ちゃんと見送ってあげなくては』

『……あの、アルニェクもいつまでもマリカ様が悲しまれることは……』


 そんなマリカを促したのが、付き添ってくれた母とラヨシュだった。特にラヨシュはマリカよりも青ざめて声も手も震えていて――それほどにアルニェクのことを悲しんでくれているのだと思うと、ほんの少しだけ救われるような思いもあった。


『……もっと遊んであげれば良かった……』

『いいえ! マリカ様に可愛がっていただいたこと、アルニェクも分かっていたはずです……!』

『でも』


 ラヨシュが何と言おうと、最近犬と遊んでやれていなかった自覚はあった。マリカが力なく首を振ると、涙が目から零れて流れ落ちた。

 マリカはここのところ部屋に引きこもってばかりだった。祖父についての聞きたくないこと、嘘偽りとしか思えないことをしきりに聞かせようとする両親への反発で、気持ちの良い夏の庭園で遊ぶこともあまりなくなっていた。自然、アルニェクを伴うことも減ってしまって――そんな中での、この出来事だったのだ。


『私のせいだわ……』

『そのようなことはありません! 決して……!』


 ラヨシュがどう言おうと、アルニェクに構っていなかったことが原因だと思えてならなかった。主である彼女が傍にいたなら、怪しいものを食べさせたりは絶対にしなかったのに。


『マリカ。もう……』


 背をさする母の手にも促されて、マリカはやっとアルニェクに土を被せることができた。土を掘り返した後も生々しい墓標を見るとまた、涙があふれて止まらなかったけれど。




 アルニェクの見送りに母やラヨシュがいてくれて良かったけれど、マリカは父にもいて欲しかった。なのに父はまた赤ん坊のところへ行っていたのだ。どうして簡単に許すことなどできるだろう。


「アルニェクのことは哀れに思っているのだ。代わりにはならないだろうが、何か望むことはないか? なんでも叶えてやろう」


 ――そうやってもので釣ろうとして……!


 子供の機嫌を取るのは簡単だと思っていそうな父の口ぶりに、マリカの胸がまた波立ち始める。けれどそれをぶつけたところで分かってくれるはずもないことも分かっていたので、マリカは父の膝の上で身じろぎすると、初めて父の顔を真っ直ぐに見上げた。


「本当に何でも良いの?」

「……できることならば」


 父の言葉が揺らいだのは、マリカが妹を手元に置きたい、と言い出すのを警戒してのことだったのだろう。それがあまりにもはっきりと見えてしまったから、マリカは思わず笑ってしまう。娘が何を考えているのか、父はやっぱり分かっていないのだ。


 ――もうあんな子、いらないのに。


 ふにゃふにゃとして柔らかかった妹とやらを抱かせてもらった時のことを思い出すと、何か胸が締め付けられて泣きたいような気持ちになったけれど。でも、マリカはその気持ちに蓋をする。アルニェクはあの赤ん坊がいるすぐ傍で死んでいた。愛犬の死の理由があの子だというなら、絶対に許すことはできそうにない。


 だから、父に強請るのはもっと別のこと。きっとこのようなことを言われるのではないかと思って考えていたことだ。


「お父様、剣が習いたいの」


 母を守るため。アルニェクのようなことが二度と起きないように。マリカも戦う術が欲しかったのだ。父はとても強いと誰もが口を揃えることでもあるし、父に習うことができるなら一番だろう。


 だが、マリカの言葉を聞くなり父は顔を顰めた。


「それはならぬ。女は剣を持つものではない」

「どうして?」

「どうしても。女の力で剣を振るうなどかえって怪我のもとでしかない」


 下手に出るような態度から一転して、父の声も表情も頑なだった。おじい様に会いたいと強請った時と同じ――絶対に聞いてもらえない気配を感じて、マリカの声も尖る。


「何でもって言ったのに!」

「できることなら、とも言った」

「そんなの――」


 後から言ったことなのに、と抗議しようとしたのに、声に出すことはできなかった。父が力強い腕でマリカを抱えて立ち上がったから。両脇の下に手を差し込まれて掲げられると、心配そうな母を見下ろして、天井に頭がつくのではないかと思うほどの高さにいた。わくわくする気持ちは、少しはあるけれど――でも、それは子供っぽいこと。こんなことでマリカは誤魔化されたりはしない。


「男の真似がしたいならば鷹をやろうか? 鷹狩りなら女でもできないことはない。――それか、小柄な馬を。お前だけの馬、とびきり脚の早い奴を。今から練習して、母のように見事に乗りこなせるようになれば良い」


 父の提案はいずれも魅力的で、マリカは思わず頷きかけた。が、その誘惑に必死に抗う。彼女は遊びで言っているのではないのだから。


「違うの。それじゃダメで……剣じゃなきゃ嫌なの!」

「どうしてそこまでこだわる……?」


 懸命に訴えると、父はまた眉を顰めてマリカを床に降ろした。怒ったというより、不思議でならないといった風に。床に足が着くと同時に、マリカは更に声を張り上げた。


「お母様を守りたいのよ! お父様がいない間も……」


 やっと言えた、と思った。やっと本心を伝えることができた、と。母のためということなら父も頷いてくれるのでは、と期待を込めて見上げる。でも、父の表情はやはり硬いままだった。


「お前も守られるべき者だ。自ら前に出ようなどと考えることこそ護衛の者の迷惑になる」

「そんな……」

「お前が王子ならば、さぞ頼もしいと思えたのだろうが」


 父の呟きは、マリカの胸になぜか鋭く刺さった。目の端で、母がひどく悲しそうな顔をしたのが見えたからかもしれない。


「……王女じゃダメなの?」


 王子、とはマリカにとってどこか遠い言葉だった。王女様、とはいつも呼ばれているけれど、彼女のほかに父に子供は――つい最近までは――いなかったから。それに、フェリツィアにしても彼女と同じ王女のはず。


「……いや。お前が生まれて我が子とはこれほど愛しいものかと知ったのだ。王子か王女などと関係はない」


 慌てたように言った父の言葉は、それでも思いの篭ったものだとマリカにも分かった。彼女に目線を合わせるように父が床に膝をついて、抱きしめてくれたのも嬉しかった。――父の次の言葉を聞くまでは。


「それに、お前が王子だったならばフェリツィアは生まれていなかったかもしれない。妹がいた方が良いだろう?」


 そうと聞いた瞬間、マリカは心臓が凍りついたような気がした。肺も何者かの手に掴まれて、息もまともに吸えないような。


 ――私が王子だったら……?


 そうすれば、あの妹はいなくて――アルニェクも生きていて。母はいつも笑顔で、おじい様とも会いたい時に会えたのだろうか。


「うん……そうね」


 父がそう望んでいると分かっていたので、マリカは小さく頷いてみせた。それに、どうせ口にしたところでどうにもならない類の疑問なのだということも分かっている。


 ――王子だったら……。


 ただ、その言葉だけが、彼女の胸の奥深くに刻まれた。

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