19 文化の違い② シャスティエとファルカス
「魚を取り寄せさせたら食べるか?」
「は……?」
フェリツィアの様子を見に来た王が唐突に切り出したので、シャスティエは思わず首を傾げた。意味が分からなかったのでとりあえず揺籃に寝かせた娘を揺らしてやっていると、相手はやや苛立ったような口調で続ける。
「以前、魚が食べたいと言ってことがあっただろう。産後で好みが変わったのでなければ手配できると思ったのだ」
「ああ……」
言われて初めて思い出した。フェリツィアを腹に宿していた昨年の夏、悪阻に食も進まなかった時期のこと。確かにあっさりした魚ならば喉を通るかも、と王にこぼしたことがあった。
あの時、王は結局シャスティエの願いを無碍にしたのだ。魚どころか、悪阻も収まらず気分も悪い只中だというのになぜか狩りに連れ出されることになって。日差しに目眩がして獣の血の臭いに吐き気を堪えて。そんな中で、ティグリス王子の乱の報せを受け取ったのだ。
――どうして、今さら……。
そのような諸々を思い出せば、王に答える声は自然と尖った。揺れる景色に歓声を上げる娘から目を上げて王を正面から見据えると、なぜか睨むようにこちらを見ている。
「それは、私にとっては懐かしい味になるのでしょうが。ですが、夏場は痛んでしまうのではなかったのですか」
ミリアールトと違って海を持たないイシュテンでは、魚を食べる習慣はさほど広まっていないらしい。それでも川や湖のある地方ならば日常的に魚介が食卓に上ることもあるのかもしれないが、あいにく王宮を擁する王都の近郊では、民の生活ゆえに河川の水は汚れていて、人が――少なくともある程度以上の身分の者が――食するには適さないらしい。王に断られた後も使用人に命じてどうにかならないか調べさせた結果、彼らも同じ事を言ってきたのでシャスティエも諦めていたのだ。
そもそもイシュテンでは狩りが盛んだ。王を見ていても分かるが、男たちは武器や馬の扱いの修練も兼ねて狩りをよく好む。その狩りの成果であり、食事の席で腕前を誇ることもできる獣肉の方が魚より食材としても好まれるのは仕方のないことかもしれない。釣りを趣味にするイシュテン人がいるのかどうかは知らないが、多分この国の者がもてはやしそうな勇猛さとは無縁なのだろうということは分かる。
一年越しの話題に、季節もちょうどあの頃と同じ夏。更にイシュテンの気風も考えれば、大した期待をする気にはなれなかった。イシュテンで手に入るとしてもどうせ川魚で、北の荒海で獲れる魚介のような大きさや身の締まりや脂の乗り方は望めないのではないのだろうか。
だが、シャスティエの内心に、王はやはり気づかない。
「あの時はそう言ったが、後で塩漬けや燻製にすることもあるだろうと思い至った。そういうもので良ければ取り寄せることができるが」
「はあ」
――喜ばせようとしてくれているのかしら?
一瞬だけ、ありもしない考えが頭をよぎる。が、それにしては王の言葉は早口で声も荒い。シャスティエの察しが悪かったのは確かだが、このように急に言われてもすぐに反応できるものでもない。第一、魚が食べたいと呟いたのは、重い悪阻に悩まされているのに肉ばかりが供されるのにうんざりしてのことだ。無事に娘も生まれて体調も戻りつつある今なら、どうしても魚でなければならないということもない。
だから、狩りに連れ出された時と同様、ただの気まぐれなのだろう、と結論づける。
「――わざわざ、ありがとうございます」
ならば無難にやり過ごすのが良いだろう。一応気遣う心がない訳ではない――ただ、的を得ていないだけで――のだろうから、喜んで見せれば王も満足するはずだった。
「……うむ」
グルーシャから教わった笑顔――軽く首を傾げて、可愛らしく見えるように――で礼を述べると、王はとりあえずと言った風に頷いた。どういう訳か眼つきは依然険しくて、口元も固くて。
――感謝のし方が足りなかったかしら……?
笑顔の効果が思ったほどでなかったので、シャスティエは少しだけ不思議に思う。けれど、王よりも娘の機嫌を取る方が大事だったので、意識はすぐにフェリツィアの方へと戻ってしまったのだった。
シャスティエに言い出した時には、王は既に手配を整えていたらしく、魚は数日のうちに離宮の厨房に届けられたらしい。イリーナが嬉しそうに教えてくれたから、ミリアールトから連れてきたこの侍女も故郷の味が懐かしかったのかもしれない。
「鱒とか、鯉とか……やはり白身の魚ばかりだそうですけれど、大きくて脂が乗っているということですわ」
「そうなの。沢山あるなら皆の口にも入るかしら」
イリーナはもちろん、他の侍女たちも珍しい食材を食べたいかもしれない、と思って言ってみると侍女は若草色の目を瞠って首を傾げた。
「お心遣いありがとうございます……でも、王が手配してくれたものですから、お礼もかねてご一緒に召しあがるのが良いと思いますわ」
「王は魚では物足りないのではないかしら」
別に魚を惜しむ訳ではないけれど、王を食事に招くのは少々気が重い。それにこれまでの口ぶりからして、魚はあまり好きではなさそうだった。
「そこは、調理にもよるのではないでしょうか」
「クリャースタ様が美味しそうに召し上がるのをご覧になれば、陛下も喜ばれるでしょう」
だが、グルーシャも口を挟んできたことからして、魚料理を王と食するのは自然な流れになるらしかった。
――ものの食べ方でも機嫌を取らなければならないなんて。
珍しく故郷を懐かしむことができる食材なのだから、気楽に好きなように食べたかったけれど。確かに王の手配がなければないことだったのだから、これも仕方のないことなのだろうか。
「……そう。それでは王の予定を伺わなくてはね」
小さく溜息を吐きながらも、シャスティエは王へ使いを出させたのだった。
決して乗り気ではなかった王との会食だったが、始まってしまえば当初の憂鬱さなどどこかへ飛び去ってしまった。
「美味し……」
干物を戻した汁物をひと口含んだ途端に、溜息と共に呟いてしまうほど。魚の旨味と保存のための塩気が溶けだしたスープが一緒に煮込んだ根菜などにも染み込んでいる。鱒の燻製には香草を刻んだソースを添えれば薫香が引き立てられて良い。新鮮な食材ではなく、寵姫の輸送に耐えるための処理を施したものばかりだから期待していなかったけれど、王が取り寄せてくれたのは魚も保存方法も多様な種類が揃っていた。脂が乗った大物に飽きた時には、酢で締めた小魚で口直しできるのも嬉しい。
シャスティエとイリーナでミリアールトを思い出して、あるいは侍女たちからイシュテンで好まれるのを聞いて伝えた料理方法を、厨房の者たちはよくやり切ってくれたようだ。
久しぶりの魚で舞い上がったシャスティエは、食事の席であるべき礼儀作法を少し忘れてしまったらしい。気が付くと慎みの限度を超えて料理を貪ってしまっていた。
「今日は食が進んでいるのだな」
王にそのように言われてしまう程度には。
* * * * * * * * * * * * * * * *
ファルカスは、女はあまりものを食べないものだと知っている。目の前の側妃に限らず、王妃のミーナも会食などで同席することがある諸侯の妻子らも、彼の倍の時間をかけて半分程度のものしか食べない。だから女とはそういう生き物なのだと理解していた。服を脱がせれば胸が締め付けられてるのは分かるからものが喉を通りにくいのは分かるし、代わりに甘いものはよく食べるから良いのだろうと考えている。
――よく食べるな……。
彼のそのような認識を裏切るかのように、女の中でも特に身体も食も細いはずの側妃が、今は貪るような勢いで魚料理を平らげている。いや、貪るなどと言ってはさすがに悪いか。いつもよりも遥かに手が進むのが早く、そして表情も嬉しそうだから少々驚いてしまっただけだ。この女と食事を共にしたことは何度かあるが、いつも大層行儀良く――良すぎると思えるほど――小鳥が穀物の粒を啄むようにほんの少しの量しか口にしなかった。フェリツィアを懐妊していた頃はそれで心配し、苛立ちもしたのだが。このように楽しそうに食事をするところを目にするのは初めてで――だから、つい感想が口をついて出てしまう。
「今日は食が進んでいるのだな」
「あ……申し訳ございません、とんだ非礼を……」
すると相手はわずかに赤面して手を止めてしまった。もちろん綻んでいた頬も強張って、見慣れた冷たい表情に戻ってしまう。一瞬にして影を潜めてしまった可愛げを惜しんでファルカスは慌てて取り繕うように付け足す。
「いや、喜んでくれたのなら良い。……もっと早く取り寄せてやれば良かった」
最後の呟きは、あながち言い訳ということもなかった。たかが食事のことくらいでこの女がこんなにも表情を変えるとは思ってみなかったのだ。
――もっと早く、この顔を知っていたら……。
昨年この女が魚を食べたがった時にもっと真摯に取り合っていたら。目を輝かせて微笑む様子を見ていたなら。この女の、容姿が整っているというだけでない美しさ可愛らしさに気付くことができていたのだろうか。フェリツィアが生まれて、娘に慈愛の眼差しを向けるようになるまで、彼はこのふたり目の妻のことを冷たく気難しい女としか思っていなかったのだが。気付いていたなら――もっと違った関係になっていたということも、あるのだろうか。
気が付けば、この女が心からの笑みを向けるのは娘に対してだけ、一応は夫である彼に対して見せるのは、形ばかりに唇に弧を描かせるだけの作り笑顔だったのだ。今さら機嫌を取ろうにもこの女の好みなど知らないし、王女の生まれとあっては贈り物で喜ばせることも難しいだろうと半ば諦めていたのだが――
「はい。とても美味しいです。本当に、ありがとうございます」
「……ああ」
今、彼は諦めかけていた心からの笑顔と言葉を捧げられている、らしい。たかだか魚を取り寄せただけで、というのが非常に不思議で理不尽なような気さえするが。
「また食べたくなったらいつでも言うが良い。種類の指定があるなら、それも」
ファルカスは魚の種類には詳しくないが、ものによって味や見た目にかなり違いがあるのを今日の席で知ることができた。側妃のたっての願いで所望されるのであれば、漁を生業にする者も喜ぶだろうと思えた。
「そうですね……」
真剣な面持ちで、けれど楽しそうに首を傾げる側妃の姿は、ファルカスの目を楽しませた。長女のマリカが菓子を選ぶ時の表情に似て、必死な中にも食べる時のことを思ってか口元が緩んでいるのが可愛らしいのだ。
「魚は今回沢山いただくことができましたから、貝や海老の類も食べたいです」
「貝か……」
――また食べた気にならなそうなものを……。
うっとりとした表情でねだってくる側妃の姿は新鮮で、夫としては嬉しいものだったが、その内容はやはり今ひとつよく分からない。貝は、イシュテンでも全く食さないということはないが、殻がある割に身は少なくて面倒そうだとしか思えない。そして更に馴染まない単語を聞きとがめて、ファルカスはその言葉を繰り返した。
「海老?」
「はい。ええと……水の中にいる、殻があって、鋏のようなのがあって……」
「ああ……」
手振りを交えての説明――こういう子供っぽい仕草もこの女には珍しい――に、ようやく見たことのある生物が脳裏で像を結ぶ。が、分かったところで疑問は深まるばかりだった。
「あれを、食べるのか」
「はい」
「どのようにして?」
狩りを嗜むのとはまた別に、野や山や川の虫やら様々な生き物を捕まえて遊んだ覚えはあるし、その中に確かに側妃が語ったようなものもいる。戦場で、あるいは仲間内での度胸試しとして、蛇だとか気色の悪いものを呑み込んだことも、まあある。だが、水に棲む件の生き物は、どう考えても口に入れる発想に至るようなものではない気がする。
「汁物にすれば良い出汁が取れますし、焼いても香ばしいです。塩茹でにするのも好きです」
何を当たり前のことを聞くのだ、とでも言いたげに答える側妃は、しかし彼の疑問の根本を解いてはくれない。
「どこを食べるのだ?」
「頭を取って殻を毟るのですわ。小さいものでしたら食卓で各々やることもあります。お行儀は悪いのですが、それがまた楽しくて――」
「…………」
恐らくは無意識に動いた側妃の手つきは、虫の脚や羽根を毟る子供の手を思わせて、楽しそうな表情とはちぐはぐで少し不気味だった。側妃ばかりでなく、ミリアールトの出の侍女までがしきりに頷いているから、確かにかの国では普通のことなのだろうが。
――あちらも十分残酷な真似をするのではないか。
何かと野蛮と囁かれ、自らもその噂を否定することはしづらいイシュテンの王としては釈然としない思いもあって黙っていると、側妃は不安そうに表情を曇らせた。
「……もしかしてイシュテンにはいないのでしょうか」
「いや……だが食べる習慣は……川や湖の傍ならば分からないが……」
「淡水にいるのは小さい種類のはずですわ」
「よく知っているな」
訳の分からない気持ち悪い、本当に食材なのかも分からない生き物に対して、側妃はひどく執心しているようだった。実際に届けさせればさぞ喜ぶだろうか、と思いつつ、それを見るには彼もソレを食べなければならないのかと思うと少々気が重い。
「……まあ、調べさせることにしよう。入手できるようなら届けさせるから」
「ありがとうございます!」
ただ、側妃が彼の言葉で喜ぶのがとても新鮮で――ファルカスは気付けば請け合っていたのだった。




