18 最後の希望 ナスターシャ
三人目の息子を生んだ時、ナスターシャはほんの少しだけがっかりした。
――また、男の子……。
もちろん無事に子を生むことができたのは喜ぶべきことだし、生まれたての赤子の可愛らしさに男女の別は関係ない。レフと名付けた末っ子を抱いた瞬間には、彼は上の息子たちと同様に彼女の無二の宝物になった。王家に近しい公爵家に嫁いだ身としては、男の子は何人いても良いともいえるかもしれない。
夫も義兄であるミリアールト王も、臣下たちも。誰もが王族の男子の誕生を喜んでいたから、心の片隅に掛かったことを打ち明けられるのは義姉に対してだけだった。
「女の子だったら、シャスティエの遊び相手になったかもしれないと思ったのですが」
「まあ、でも、男の子だと遊んでくれないということもないでしょう。従姉弟同士、仲良くしてくれれば良いわ」
王妃であり、ナスターシャの遠い親戚でもあるセラフィーナはそういって微笑んだ。お互いの生まれたばかりの子を初めて会わせた席でのことだった。母親に抱かれたままの赤子たちはお互いの顔など見分けることなどできないだろうが、これから何度も会うのだからすぐに打ち解けることができるだろう。ナスターシャの上の息子ふたりと、セラフィーナの生んだ王子がそうであるように。
セラフィーナのふたり目の子は王女だったが、すでに王太子がいることもあってやはりその誕生は国を挙げて祝われている。幸福を意味するシャスティエと名付けられたのもその表れのひとつと言える。
王も王妃も共に淡い金髪に宝石の碧の瞳を持っているから、王太子が既にその兆候を見せているように、シャスティエ王女も雪の女王を思わせる美しい姫に育つだろう。
ナスターシャと同様に、セラフィーナも母として妻として務めを果たせたと言える。だからだろうか、王妃の表情は晴れやかで誇らかで、美貌を一層引き立てていた。その輝くばかりの笑顔が、ナスターシャの心をも照らしてくれる。
「ええ、それはもう。王女様をお守りするように言い聞かせますね」
「お願いね。……もしかしたらお嫁にもらってもらうことになるかも」
「どうでしょうか、少しですが歳下ですから……」
王女を迎える栄誉を賜るとしても、上の兄のどちらかの方が良いのではないだろうか。と、そこまで考えて、ナスターシャは生まれたばかりの赤子の話であることに気付いて苦笑した。本人たちの気質も相性も分からないのに、親だからといってあまりに気が早すぎる。
セラフィーナの顔を改めて見れば、美しい義姉はくすくすと悪戯っぽく笑っていて、義妹の心を解すために言ってくれたのだと分かった。
――お義姉様には敵わないわ……。
そう思うと、ナスターシャの苦笑も本物の笑みに変わる。朗らかな声を立てて笑い合う母たちを、赤子たちはきょとんとした顔で見上げていた。
周囲の者たちが期待した通り、シャスティエは美しく聡明な王女に育った。そしてナスターシャの息子たちも強く賢く育ち、同世代の王族の中でただひとりの姫を慈しんだ。セラフィーナが若くして亡くなったのを憐れんで、どんな我が儘も叶えてしまって、気の強い娘になってしまったと思うこともあるけれど。でも、無邪気な高慢ささえ可愛らしくて。シャスティエは誰からも愛された。イシュテンの侵攻にあたって、女王となった彼女を守るために夫と息子たちが命を投げ出したほどに。
「ああ……」
もはや日課のように嘆息しながら、ナスターシャはその小箱を撫でた。その中には彼女の夫と上のふたりの息子たちの遺髪が収められている。全て金を紡いだような淡い色の髪――でも、どれが誰のものか、微妙な色や髪質の違いで彼女には見分けることができる。
首と胴とが分かたれた遺体を目にしたのも、晒されていた首を下ろすことが許された時には腐り始めていたのも。彼女には耐えがたく辛く悲しかった。でも悲しみはいつまでも尽きることなく新たに湧き出してくる。
それとも、彼らを忘れたくなくて、悲しみが胸を裂くと分かっていてもこの小箱を眺めてしまうのかもしれない。彼らは皆背が高く見た目も良い殿方だったのに、こんな小さな箱に収まってしまった。そのことも、またナスターシャの目に涙を浮かばせるのだ。
そして、小箱を開けば空いた部分が嫌でも目に突き刺さる。彼女の末の息子は、父や兄たちと違ってイシュテン王に殺された訳ではない。遺体を辱められることがなかったのは少なくとも良かったのかもしれないけれど、イシュテン軍を迎え撃つのに旅立って以来、今日まで行方が知れないのだ。せめてきちんと葬りたいという願いさえ叶えることができず、母の心は悲しみで擦り減っていくばかり。
「レフは……まだ見つからないのね……」
掠れた声で呟くと、傍に控えていた控えていた侍女が慰めるように背をさすってくれた。
「どこかでご存命なのかもしれません。お気を確かに……」
「それなら今まで会いに来ないはずがないわ」
侍女は彼女を思い遣って言ってくれているのは分かるけれど、儚い望みに過ぎないと思う。
――レフは、華奢な子だったわ……。
末っ子ということで甘やかしてしまったのか、それとも従姉と遊ぶことが多かったから、戦う技が苦手になってしまったのだろうか。いずれにしても、ナスターシャが知る息子の様子からして、まだ生きているとは思えない。もう少し厳しく鍛えていれば、という後悔も胸を刺すが――だが、一度戦場から生きて帰ったとしても、レフも従姉を救うために喜んでまた死に赴いていたことだろう。
かつて義姉と話したことは現実のものにはならず、シャスティエは遥かブレンクラーレに嫁ぐことになっていた。婚約が決まった時のレフの動揺は――他の者なら分からなかったかもしれないけれど――母親の眼には明らかだった。息子は、従姉を肉親の情を越えて愛していたのだ。遠国に旅立つシャスティエに、もとより伝えることなど叶わない思いではあったけれど。心の傷を癒すことも忘れることもできないまま息子が逝ったのかと思うと哀れでならない。
「あの、シャスティエ様はご無事に王女をご出産なされたとか――」
「ええ。可哀想に……!」
――グレゴリー。ルスラン。ヴィクトル。貴方たちは、シャスティエをこんな目に遭わせるために命を差し出したのですか……!?
イシュテンからもたらされる可愛い姪の報せは、ナスターシャの心を一向に和らげてくれない。人質として連れ去られただけでも耐えがたかったのに、あの娘はミリアールトの臣下にも一度は見捨てられてしまった。
総督としてミリアールトの統治を任せられた者の横暴は、確かに目に余るものがあったけれど。シャスティエに対して絶対に許してはならないことをしたと嘯いたのも許せなかったけれど。でも、総督を殺してイシュテンに叛旗を翻したのは、女王の復讐のためではなく男たちの戦いたいという欲を満足させるためだったと思う。祖国のために戦って死んだという幻想に浸るためにシャスティエの命は失われても仕方ないものとされたのだ。
――殺されてしまうのと、今の境遇と……どちらがより悪いか分からないけれど……。
ナスターシャの制止を無視して乱は起き、そして彼女が介入することができないうちに、ミリアールトの地を踏むことができたシャスティエはまたイシュテンで囚われの身となってしまった。それも、今度は人質ではなくイシュテン王の側妃として!
「……イシュテン王は王妃との間に世継ぎが恵まれなかったのでしょう。シャスティエ様はきっと大事にされますわ」
「ええ、そうね」
――親の仇からの寵愛なんて……!
侍女も自身の言葉を心から信じている訳ではないだろうし、女主人を慰めようという善意から言ってくれているのだとは分かっている。だから胸に沸き上がった反発を、口に出すことはしない――できない。でも、だからこそ憂いと悲しみはミリアールトの溶けない雪のようにナスターシャの裡に積もっていくのだ。
「シャスティエ……どうか、無事で」
夫と息子たちの遺髪を収めた小箱を抱きしめて、呟く。この箱が埋まることはもうあるまい。イシュテンの最初の侵攻から二年以上経って、レフの亡骸が見つかることなど期待できないから。
息子の命を諦めると、最後に縋ることができるのは姪の無事だけだ。遠い異国の地でも良い、せめて健やかに過ごして欲しい。シャスティエの安全は、仇に弄ばれてその子を生まされることと引き換えだと思うと悲しみと憤りに押しつぶされそうになるけれど。でも、無残な姿で帰郷するよりは、よほどマシなはず。
無残な――例えば、ナスターシャの末の息子に代わって、母親譲りの見事な金の髪が叔父や従兄たちの傍らに収まるような。亡骸はイシュテンの草原に打ち捨てられて、ただ身体の一部だけが故郷に帰されるような。まさか、仮にも王族の死がそこまで杜撰に扱われるとは思いたくないけれど。否、そもそも若く美しい娘が不幸と屈辱に塗れて死ぬなどあってはならないことだけれど。
――幸せに、なるはずだったのに。
あの子たちが生まれたばかりの頃の幸せが、今となっては限りなく遠い。誰からも幸せを願われて、事実誰からも守られていたはずの子供たちが、どうしてこうなってしまったのか――何度考えてもナスターシャには分からない。分かるのは、残されたのはシャスティエひとりだということだけ。もしもあの姪までも悲惨な最期を遂げることになったら、彼女の夫と息子たちの死は全て無駄になってしまう。
シャスティエの無事を祈るのが心からのことではなくて、夫たちのためでもあるというのは後ろめたかったけれど。でも、亡くなった者たちへの思いはナスターシャの祈りを一層切実なものにしていた。
美しい女王は、ミリアールトだけでなく疲れ果てたひとりの女にとっても代えられない希望なのだ。