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17 兄の結婚 アンドラーシの妹

 兄が結婚するとの報せを受けて取り急ぎ実家に帰ってみると、当の兄は目の周りに無残な痣を作っていた。


「お兄様、そのお顔は……!?」

「ああ、大したことではないから気にするな」


 はるばる訪れた妹に向けた目も投げやりで、言葉も溜息まじりのもので、兄の態度からは結婚の喜びは微塵も感じられなかった。確かに父が寄越した手紙からも、祝い事というよりは何か厄介なことが起きているかのような空気を感じたものだけれど。


 ――お兄様……ご結婚が、嬉しくないのかしら……?


 久しぶりの実家だというのに漂う空気は落ち着きがなく、かといって婚礼の支度で慌ただしいという感じでもなくて。彼女は訳が分からないままに腕に抱いた息子をあやした。




 そもそも、兄が結婚するということ自体が彼女にとっては驚きだった。母と姉と彼女と、そして嫁ぎ先の姑たちとの間では、姉か彼女の子を父の養子にすることを、前々から相談していたくらいなのだ。兄の養子ではないのは、良い歳をして独り身の男に孫や我が子を預けることを誰もが不安に思ったからだ。

 妻たちや母たちが口を揃えて同じことを訴えれば、大体の男はそれが良い考えなのだろうと思って受け入れる。彼女たちは、兄が結婚しないことを覚悟して準備を進めてきたというのに。


 ――本当に、周りのことを考えない方……!


 実の妹が言うのも何だが、兄は見た目は良いし腕も立つ。黙っていれば――あるいは見た目から期待できる通りの人柄だったら、とうに良い相手が見つかっていただろうに。思ったことをそのまま口にする軽薄さ、さらには人を怒らせることをわざわざ選んで口にして挑発する悪癖のせいで、敵ばかりが増えるのだ。もちろん、友人の中には兄の見た目に惹かれる娘もいたけれど、その父親には遠ざけられる。普通の父親が娘の相手にと望む資質から、兄は大きく外れているのだ。


 王への忠誠が篤い――篤すぎるのも、これはこれで問題だった。兄があの御方に忠誠を誓った当初、あの方は側妃腹の第三王子に過ぎなかったから、父などは政争に巻き込まれるのを懸念していた。その後、大方の予想に反してあの方が王として即位した時、兄はそれ見たことかと得意げにしていたけれど。そして調子に乗るなと父に殴られていたけれど。でも、 王の側近に取り立てられたことで兄が一層結婚から遠ざかることになるとは、その時は誰も予想だにしていなかった。


 ――何が一番いけないのかしら……。


 女に興味を示さず、狩りなど男だけでつるむのが楽しい、という者は兄に限らないし珍しくもない。でも、そういう男も大方はいずれ歳や家柄の釣り合う娘を紹介されて結婚することになる。兄に限ってそうならなかったのは、やはり性格が問題なのだろうか。

 王の権力の基盤が弱く、まだティゼンハロム侯爵の威光も大きいからだろうか。兄は迂闊にも侯爵の血を引く王妃に対して敵意を隠さないし、当然のようにティゼンハロム侯爵の一派からは白い目で見られている。王だけに頑迷な忠誠を見せる者は危うくも見えるだろう。


 ――でもやっぱりあのことかしら。


 姉と彼女と兄は等しく母親の容姿を色濃く受け継いでいる。肌は白く眼は大きく切れ長で。背が伸び始める前は兄も体格が華奢だったから、幼い頃は三人姉妹だと言われることも度々だった。もちろん兄はそう言った者はことごとく力で発言を撤回させていたけれど。


 ――陛下も、大層容姿に優れていらっしゃるし。


 それも、王は兄とは違って顔だちにも体躯にも女々しいところは一切ない。堂々とした――まさしく戦馬の王に、相応しい。

 そして兄のような男が王のような方を一心に追いかける姿が傍目にはどう見えるかというと、まあ不名誉というか下世話な好奇心を掻き立てる類の噂が絶えることはない。夫と子の世話や屋敷の切り盛りで忙しい彼女の耳さえにも、そうした噂が届くほどに。むしろ兄と王がどこでどのように親しく過ごしていたか、を友人などから逐一聞かされて困惑することもあるほどだ。わざわざ実の妹にそのような妄想を長々と語る友人たちの嬉しそうな表情は、彼女には今ひとつ理解できない。


 当人の性格からも容姿からも、王とティゼンハロム侯爵の対立が続く世情からも。更に本人にとっては全く不本意な噂からも。結婚からは遠ざけられていたのが、兄だ。その人が一体何があって結婚を決意したのか、相手はどのような女性なのか。彼女の興味は尽きることはなかった。




 母に詳しく事情を聞こうとした彼女を待っていたのは、やはり喜びというよりは戸惑いが勝る愚痴のような言葉だった。


「あの子、結婚が決まってから毎日喧嘩ばかりなの。婚礼の日までには治るからと、何を言っても聞かなくて……」

「お兄様、お気が進まないということなのかしら?」


 せっかく孫を連れて来たというのに思ったほど喜んでくれなくて、少々残念に思いながらも彼女は気になってことを聞いてみた。

 兄が結婚すると聞いて、真っ先に頭に浮かんだのはどこかの娼婦か、そこまで悪くなくても農家の娘だとかを孕ませて、責任を取れと迫られたのではないか、ということだった。それはまあまあありそうなことだし、そういうことなら兄が自棄になっているようなのも、母の煮え切らない表情も分かる。


 そうだとしたら兄を軽蔑するし、実家の行く末も気にかかってしまうのだが――


「怖気づいているのよ。良い歳をしてみっともないこと」


 母はあっさりと首を振った。そして、兄が結婚に至った経緯を事細かに話してくれた。


 求婚者とは名ばかりの暴漢に襲われていた女性を助けて、しかもその場で攫わんばかりの勢いで求婚した、という――その話を聞いて、彼女は眩暈がする思いをした。


 その颯爽とした登場の仕方、非の打ちどころのない正義に満ちた振る舞い、一体誰の話をしているというのだろう。


「それは、本当にお兄様なの……?」

「私もお父様も同じことを思ったわ。でも、相手の方にはそのように見えたということのようよ」


 相手。先代の当主が非業の死を遂げたとはいえ名門の、バラージュ家の令嬢。ミリアールトの乱に際しての褒章として、兄がその家の領地を賜ったことさえ過分のことだと思えたのに。娼婦などとちらりと思ったのはとんでもない無礼、本来ならば兄などには不釣り合いな良家の女性ではないか。


「お兄様、喧嘩なんてしている場合ではないでしょうに……」


 母が怖気づいている、と言っていたことの意味は何となく分かった。兄がその女性を助けるというより、とにかく暴れたくて介入したのであろうことは想像に難くない。それが思いもよらない結果になってしまって、格上の家の女性を妻として迎えることに不安のようなものがあるのだろう。戦いにおいては怯むことなどない人なのに――これでは、情けないにもほどがある。


「殿方の間でもやっかみはあるのでしょう。乗ってしまうあの子もあの子だけれど」


 母はさも嘆かわしいと言いたげに溜息を吐くと首を振った。


「じっとしていると落ち着かないからわざわざ喧嘩を買って回っているのね……」

「ええ、きっと」


 図らずも願ってもない良縁を得た兄に対して、どのような目が向けられるのかは想像できる気がした。きっと整った容姿を揶揄する言葉も混ざっているに違いない。そして、その手のことを言われれば、兄は必ず受けて立つのだ。


 ――そんなことをして……相手の方に嫌われたらどうするの……!


 実家に呼び出された本当の理由を、彼女は正しく認識した。家のためにも本人のためにも、兄の結婚は必ず成功させなければならない。婚礼を挙げる前から愛想を尽かされるのでは、などと怯えるのはご免だ。


「お母様、相手の方とはもう会われたの……?」

「お父様はあちらにご挨拶に伺ったけれど、私はまだ。今度、女同士で会うことになっているわ」


 その女同士の席には姉も呼ばれるのだろう。そして新郎側の女で揃って、兄の美点を――見た目以外のことを考え出すのは少し難しいかもしれないが――花嫁になってくれる奇特な方に教えてあげなければならない。物語のような切っ掛けから目が覚めた時に、結婚を後悔したりなどしないように。


「お父様は――」

「息子同様落ち着かない様子でいらっしゃる。貴女、孫を会わせて機嫌を取ってあげなさい」

「分かりました」


 彼女は母と共犯者の目を交わすと、深くしっかりと頷いた。現在の当主、その女性にとっては義父になる父が泰然と構えているかどうかも、結婚の成否に大きく関わるだろうから。母に抱かれてあどけない喃語を上げている息子も、重要な役を負わされたのだ。


 女は弱く、無知なもの。でも、身内の男たちのことならば誰よりもよく知っているし時によく操れる。兄の結婚という大事にあたって自身に与えられた役割を誠心誠意果たそうと――彼女は固く決意していた。

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