02 文化の違い アンドラーシとシャスティエ
3章と4章の間の出来事です。
いつもの場所に現れた元王女は、大層不機嫌そうな顔をしていた。
――そんなに嫌なら会わなければ良いのに。
慇懃に礼を取りつつも、アンドラーシは内心首を捻った。
彼女の不機嫌の理由は分かっている。ティゼンハロム侯主催の狩りで、愚かさと無能さを兼ね備えた若君たちに追い回され、怪我を負わされたのだという。
幸いにも王に助けられて大事には至らなかったということだが、まあ楽しい記憶の筈はない。それに男に会うのが嫌だとか恐ろしいだろうというのも理解できる。
だが、今日に関して言えば面会を申し出たのは元王女からだった。なのにこの仏頂面とは、まったく訳の分からないことだった。
「今日はこれをお渡ししたかったのです」
彼の疑問など知るよしもないのだろうか。元王女は一枚の紙片を彼に押し付けると、飛び退くように距離を取った。やはり男が恐いのかもしれない。
「これは?」
「先日、文書院の長という方が本を取り寄せてくださったでしょう。その時に手紙もいただいていました。私のためにお手間を掛けてくださったのですから、お礼状を差し上げなければと思ったのです」
確かにそのようなことはあった。文書院の長は枯れきった小柄な老人だが、彼の人生で珍しい理解者、それも異国の高貴な姫君の登場に舞い上がっていた様子だった。
――またあそこに行けというのか……。
かび臭い本や書類がぎっしりとつまった息詰まる空間を思い出してややうんざりした気分になりつつ、アンドラーシは手の中の紙片を改めた。そして手紙とやらがむき出しのままで封もされていないのを不審に思う。
「このままでよろしいのですか」
すると元王女は相変わらず軽く眉を寄せたまま頷いた。
「人質の身で書面のやり取りなど疑いを持たれることでしょう。宛先のお方にご迷惑になりますし、後々問題になることのないように、お好きなだけ中を改めてくださいませ」
「はあ」
礼状とやらの中身を一瞥しただけで、アンドラーシは頭痛を催しそうになった。元王女の手跡は見事なものではあったが、字の細かさといい並ぶ単語の難解さといい、読みたくないと思わせるのに十分だった。そもそも彼は字を読むのも書くのも得意ではないのだ。
――後で陛下にお目を通していただこう。
なので面倒ごとは主君に押し付けよう、と瞬時に決める。元王女の懸念ももっともではあるのだから、王の判断を仰ぐのは妥当な選択の筈だった。
――それにしても変わったお方だ。
紙片を懐にしまいつつ、アンドラーシは元王女の立ち姿をしげしげと眺めた。
彼にとって女とはひたすらお喋りをしながら刺繍や裁縫に興じ、屋敷の中を取り仕切り子育てに専念すれば良い存在だ。この姫君のように男以上の知識を身につけた女など、他には見たことも、話に聞いたことさえなかった。
「姫君にとっては異国語でしょうに、よくイシュテン語を修められたものです。余程勉強がお好きなのですね」
だから、無駄口は不興を買うだろうか、とも思いつつも内心の驚嘆を口にせずにはいられなかった。
「特別努力したとは考えておりません」
だが、元王女は不思議そうに軽く首を傾けた。
「私はただ楽しいことをしていただけ、その結果に過ぎません」
「楽しい? 何がです?」
元王女はアンドラーシが尋ねる意味が分からないとでも言いたげに、碧い目を大きく見開いた。もっとも、彼の方でもこの姫君がそのような顔をする理由がさっぱり思い浮かばなかったが。
「新しいことを学ぶのは楽しいでしょう」
「はあ」
「とりわけイシュテン語は興味深かったです。ミリアールト語を始め、周辺国の言葉とは文法も単語も似ていない部分が大きいのです」
「はあ」
「これはイシュテンの歴史に起因しているのでしょうね。この地に国を築く前は、戦馬の神を奉じる民は各国を踏みにじりながら移動を続けていたということでしたでしょう。ご先祖の起源は誰も知らない彼方の地にあるのでしょう。そういうことを考えるのが楽しくてたまらないのです」
元王女の表情からはいつしか不機嫌が消えていた。代わって碧い目を輝かせ、頬を染めてさえいる様子は、言葉通りに喜色満面としか形容できない。
アンドラーシには姉妹もいるし、それなりに遊んだ相手もいる。だから女がこういう顔をする時は知っている。だがそれは高価な絹や細工物を、目にした時、百歩譲っても可憐な花や子猫やらを見た時であって、断じて学問の話をしている時ではない。というかイシュテンの女は普通言語や歴史に興味を持たない。
――変わったお方だ……。
滔々と語る元王女に相槌を打つこともできず、アンドラーシはただ胸中で繰り返した。
* * * * * * * *
アンドラーシの表情を見て、シャスティエは語り過ぎたことに気付いた。
男の顔に浮かぶ感情には見覚えがある。レフが――従弟がよくしていた顔だった。彼のあの呆れに満ちた声さえ聞こえるよう。
『勉強熱心で素晴らしいね、従姉殿。とても賢い君のことだから、何がどう楽しいか、僕にも分かるように説明してくれるだろうね?』
――どうしてこんな男を見て思い出すの……。
先ほどまでの高揚も瞬時に醒めて、シャスティエは口を噤んだ。従弟を殺したのはこの男かもしれないのに、余計なことを喋ってしまった。
「……お呼び立てした用件はお礼状だけではありませんの」
気まずさと苛立ちを、胸を刺す痛みと共に飲み込んで、シャスティエはアンドラーシを見上げた。決して気は進まないが、伝えなければならないことがあるのだ。
「お礼を申し上げたかったのです」
「礼? 何の、でしょうか」
「ミリアールトからこちらへ来るまでの間のことですわ。……先日の件はお聞き及びでしょうか」
狩りの件を匂わせると、男は心から同情する、とでもいうような表情で――例によって何か神経を逆撫でするのは不思議だが――大きく頷いた。
「大変な災難であったと。大きな怪我もなく済んだのは幸いでした。陛下が助けられたのだということですが」
「そうです」
アンドラーシの言葉を額面通りに喜んでいると受けとることはできなかった。彼女を王の側妃に、と企んでいるのが本当なら、怪我の痕が残って王に捧げられなくなるのを懸念していたに違いない。
――本当に、勝手な……!
内心怒りが煮えたぎっているのを悟られぬよう、シャスティエは努めて穏やかに頷いた。
「大変不愉快な出来事でした」
「お察しします」
「とにかく……ミリアールトからの旅上ではそのようなことがなかったのは、貴方のご配慮だったのだろうと、今更ながら気付きましたの。ですから、遅くなってしまったのですが、お礼を申し上げますわ」
敵であっても不埒な企みを抱く者であっても、借りは借りだ。礼儀として感謝は述べなければならない。
「私は陛下のご命令に従っただけですからそれは陛下にお伝えされるのが良いでしょう。何ならお目通りが叶うように取り計らいますが……」
「それには及びません」
この男が何かと王に会うよう勧めてきた理由も今となっては明らかだった。頑なな態度を和らげて可愛いげのあるところを見せろとでも思っていたのだろう。確かに王にも礼は言わなければならないが、シャスティエは王妃を頼るつもりでいる。必要以上にこの男と関わって企み通りと思われるのは癪だった。
「そうですか」
アンドラーシはやはり何を考えているのか分からない笑顔で頷きかけ――ふと首を傾げた。
「それではその方面の心配はされていなかったと? 馬車を離れないようお願いしていたのはどのように考えていらっしゃったのです?」
「それは……」
シャスティエは言葉を詰まらせた。そこに考えが至らなかったのは女として恥ずべきことで、この男に対して認めるのは業腹だった。しかし咄嗟に言い訳も浮かばず、渋々ながら事実を答える。
「逃げるのを、警戒しているのかと……」
この期に及んで逃げる筈はないのに、と。あの時シャスティエは憤ったのだった。しかしそれがいかに的外れな感情だったか、今なら分かる。
歯切れ悪く呟いて俯くと、アンドラーシはああ、と嘆息して首を振った。その哀れむような眼差しも、シャスティエには馴染みのものだ。彼女の手による刺繍を見た時に、イリーナがよくする表情だから。
「恐ろしい思いをされなくて幸いだったと言えば良いのでしょうか。ですが姫君、女に遅れを取るようではイシュテンの武人は務まりません。もし仮に、万が一でもそのようなことが起きていたら、私は恥じ入って自害していたでしょう」
「そうですか」
確かにこの男はシャスティエやイリーナの様子に大変目敏かった。鬱陶しく煩わしく感じるほどに。狩りの獲物を見張るように、虜囚にも怠りなく目を配っていたということだろうか。
「女を逃がすのはそこまでの恥ですか……」
シャスティエの目には狩りの顛末はいかにも温く映った。自分自身が標的にされ追い回されたからだけではなく、あの若者たちは王の誓いを蔑ろにしたのだ。ほとんど反逆と言って良いだろうに、ティゼンハロム侯爵に対して王はかなり譲歩をしたと思った。
だが、アンドラーシの反応を見るに、彼女はまだイシュテンの気質を分かってはいなかったようだった。死んだ方がマシなほどの恥を与えて生かしておくのは、死を賜るよりも屈辱なのかもしれない。
彼女の考えを裏付けるかのように、アンドラーシは嘲りも露に笑った。
「正直に申し上げて、あの者たちが自ら命を絶たないのが私には不思議でなりません」
――偉そうに言うのね。
あの若者たちの肩を持つ訳では決してないが、アンドラーシの態度はあまりに傲慢に見えた。だからシャスティエは、刺のある口調で問うてみる。
「ですが、我を忘れて暴走する馬を宥めることなどできるのですか?」
「地形も確認せずに事を起こすのが救いがたいのです」
そんなことはできるはずがない、と匂わせたのに、アンドラーシは真面目な顔で断言した。
「そういう手を使うなら、馬が疲れて脚を止めるまで安全に追える場所を選ぶべきです。開けた場所なら追いついて娘を引きずり下ろし、こちらの馬に乗せることもできるでしょう。追っ手が何人もいたのなら囲むなりして幾らでも誘導できた筈でしょうし。いたずらに追い回すだけなどまったくもって芸がない」
「……そうですか」
「娘を攫って妻にするのは、確かにかつてはよくあったそうですが。ですが、略奪婚を気取るなら女に怪我をさせてはならないのです。相手の一族に喧嘩を売ることになりますからね。聞けば犬をけしかけて脅かしたとか。ティゼンハロム家のものなら良い馬だったろうに、バカどものために傷つけられるとは」
「……私がお借りした馬は死んでしまいました。崖から落ちて、脚を折ってしまったようで。それで、殺されてしまったのです」
「何ともったいない」
「……私が下手な乗り手だったからですね。可哀想なことをしました」
アンドラーシの口調は、いつしか嘲るよりも憤慨するものになっていた。シャスティエは訳もなく後ろめたさを覚えて目を伏せる。あの芦毛の馬は、特別大人しくて扱いやすいからということでミーナが勧めてくれたのだった。確かに、あんな死に方をするはずではなかったのだろうが。
「姫君のせいではありません。どうかお気になさらずに」
「……はい」
――私よりも馬を気に掛けているのかしら……。
何か釈然としないものを感じつつ、シャスティエは取り敢えず頷いた。胡乱な眼差しを向ける先で、アンドラーシは何かに思い当たったようで表情を改めている。
「――それでは帰り道はどうなさったのです? 鞍を付け替えたのですか?」
「……陛下の馬に乗せていただきました」
勢いに呑まれてつい本当のことを口走り――シャスティエはしまったと思った。この男は彼女の乗馬の腕など知らないのだから、自力で帰ったと言えば良かった。王に借りを作った上に同じ馬に乗って密着したなどと知られたくない。
――王と打ち解けただなんて思われたくないわ……!
眉を顰めたシャスティエの前で、アンドラーシは目を輝かせて破顔した。
「アルニェクですね。あれは良い馬だ」
「……そうですか」
しかし喜んだ理由はシャスティエの懸念とはまったく違っていたようだ。
「陛下の祖父君が長年かけて鍛え上げた血筋の名馬なのです」
「そうですか」
「陛下も大変自慢になさっています。私もいずれあの血筋の馬を下賜していただきたいものなのですが、中々それに足る手柄というのは難しい。何しろ脚の早さだけではなくて毛並みも体格も――」
シャスティエは今こそ従弟の心情を理解した。嬉しそうに馬について語る男を前に、何がそんなに楽しいのかさっぱり訳が分からない。
――この国は、難しいわ……。
シャスティエは心中でそっと溜息を吐いた。