16 父になる ジュラ
ジュラはその夜、王の命でとある娼館を訪れていた。
「呼び出して悪かったな」
「とんでもないことでございます……」
いついかなる時であっても、王から声が掛かるのは臣下にとって喜びだ。しかし、今夜に限っては、ジュラの言葉はやや歯切れが悪い。
――どうして俺だけなのだ……?
王が側近を集めて遊ぶのは、まあよくあることだった。だからそれ自体は良いのだが――それならば、もっと人数を集めても良いところだと思う。差し向かいで酒を楽しむには彼は面白味にかける人間だと、ジュラ自身にも自覚がある。そういう役目はアンドラーシ辺りが似合いではないのだろうか。
それに――
「早く帰りたいか?」
「そのようなことは……!」
王に心の裡を言い当てられて、ジュラは慌てて首を振った。
彼の妻は、今妊娠しているのだ。ただでさえミリアールトの総督の座を与えられたことで、長く離れることになってしまった。加えてティグリスの乱でも心配をさせたところに明らかになったことで、夫らしいことをしてやれなかった時期が長かった。その分、こういう時はなるべく傍にいてやりたいのだが、王のお召しとあっては断る訳にもいかなかった。
――酒だけで、まだ良かったが……。
王が女を呼ぶ気配がないのが幸いだった。王の厚意となれば、好むと好まざるとに関わらず侍らせない訳にはいかないから。寛いだ姿で酒杯を傾ける主の姿からすると、単に堅苦しい王宮を避けたというだけだろうか。そうすると、なぜ相手に彼を選んだのかという謎が依然残るが。
「そう長くなることではない。すぐに帰してやる」
「恐れ入ります」
彼の困惑を読み取ったかのように王が笑ったので、ジュラとしては恐縮するしかない。更には主君の手によって酒を注がれてはなおのこと。
「実はな――」
ジュラが賜った酒を干したのを見計らって、王は切り出した。
「お前の妻を借りたいのだ」
「は……」
短く答えながら、ジュラの混乱はますます深まった。一瞬、臣下に妻を差し出させた王の逸話が頭をよぎり、すぐにこの方に限ってそれはないと心中で断じる。腹の膨らんだ女に手を出す趣味はないはずだし、王には既に美しい妻がふたりもいる。第一、権力を笠に他人の妻を奪うなど、王が最も嫌う類の所業なのだ。
「あれが、どのようにお役に立てますでしょうか……」
「側妃の離宮に仕えて欲しい。今すぐにとは言わぬ、子が無事に生まれて落ち着いてからで良い」
「はあ」
恐る恐る問うと、彼の不安をも見透かしたのだろうか、王はわずかに苦笑した。が、ジュラの無礼な発想が咎められることはなかった。
「離宮には母になったことがある者がいないのだ」
「ああ……」
そこまで言われてやっと、ジュラは主の言わんとすることを察することができた。
離宮の主、クリャースタ・メーシェ妃に仕える者として真っ先に浮かぶのは、側妃がミリアールトから伴ってきた侍女だ。主同様に年若く、子供はおろか結婚すらしていないはずだ。最近バラージュ家の姉娘が加わったのも聞いているが、その娘もやはり未婚で、懐妊中の側妃に助言できることがあるとも思えない。
そこで妊娠と出産を経験した女を傍につけたいということなのだろう。
「……あの女は、母性が薄くてどうも危うい」
愚痴るように呟いた王の渋面を見れば、自然と話題の人――クリャースタ妃の姿が脳裏に浮かぶ。
金糸を紡いだかのような流れる髪に、瞳は宝石のような碧。ただしいずれもミリアールトの冬と雪を思わせる冷たい色で、整った容姿に氷の彫刻のような印象を与えている。並の女のように懐妊したということさえ、聞いた時にはどこか不思議な気がした――まさに雪の女王の如くに浮世離れした美貌の人だ。
懐妊したからと喜ぶ姿は確かに思い描き辛いのだが、王にはそれが気に入らないのだろうか。
「あのお方は、変わられませんか」
「幾らかしおらしくはなったかもしれぬ――が、子供を楽しみにしている様子はまるでないな」
不満げに不機嫌そうに愚痴のようなことを漏らす王に、ジュラの口元はつい緩む。
「陛下は、楽しみでいらっしゃるのですね」
政敵であるリカードの孫でもある王女でさえも、王は可愛がっているのだ。ミリアールトとの同盟をもたらした側妃の子となれば一層可愛くて当然、なのにクリャースタ妃は頑なな態度のままで気に入らない、ということだろうか。子が生まれる喜びを妻と分かち合いたいとは、まるで普通の男のようで――不遜ではあるが、微笑ましい感情だと思えた。
「……世継ぎかもしれぬと思えば当然だろう」
どのようなことでも臣下に笑われるのは、王にとっては不快なものらしい。青灰の目にぎろりと睨まれて、ジュラはおとなしく笑みを引っ込めた。
「で、受けてくれるか」
そして話題は最初に戻る。妻をクリャースタ妃の側仕えに差し出すことに同意するかどうか――答える代わりに、ジュラは少々迂遠なことを口にした。妻に断りもなく承諾する前に、確かめたいことがあったのだ。
「離宮で、妻はどのようなお役目をいただくのでしょうか」
王の言葉に対して、すぐに頷くのではなく反問するなど、本来は非礼であっただろう。しかし王は嫌な顔もせずに答えてくれた。
「大したことではない。側妃の話し相手程度のことだ。その上で、子供の扱いだとか母親としての心構えなど教えることができれば良い」
本当に簡単なことだと思っているのだろう、王はこともなげに言うとジュラの返事を待つ表情でまた酒杯を手に取った。一方のジュラは、内心で溜息を吐く。
――やはりか……。
臣下の妻をわざわざ召し上げるからには、雑用などを申し付けるつもりではないだろうとは思っていた。しかし、逆に料理だとか裁縫とかの召使の仕事の方がよほど良かった。ジュラの妻は、どこに出しても恥ずかしくない腕をしているのに。
「恐れながら、陛下――」
重い口を開いての前置きに、王は軽く眉を寄せた。この口上からでは、断るのだとしか思えまい。そして事実そうなのだった。
「妻には、そのような役は務まりませぬ。どうかご勘弁くださいますよう伏してお願い申し上げます」
「……いや、無理強いをするつもりはない。断るのならばそれで良いのだが――」
王の顔にも声にも怒りはなく、むしろ疑問と当惑の色が濃かった。ジュラとしても、またとないはずの指名を無碍にすることに対して、弁明の余地を大いに感じている。なので彼にしては珍しいほど、ジュラは長々と語った。
「妻はただの田舎の娘です。学や教養がある訳でもありませんし、王宮での礼儀作法も覚束ない。離宮では侍女でさえも高貴の家の出なのでしょう。妻が卒なく振る舞えるとは思えませんし、何よりクリャースタ様のお気に召すような話などできないでしょう。それどころか気の利かない振る舞いはご不興を買うかも。そうと思うと、お受けする訳には参りませぬ」
「…………」
「また、俺の不在も長く、妻も悪阻などがありましたので、家政も滞っております。この上負担を増やす訳には……」
顔を顰めた王に訴えながら、ジュラは言う順番を間違えたな、と思った。家の内情を言い訳にした方が――恥ではあるが――もっともらしく聞こえただろう。だが、側妃の性格を懸念するあまりについ言葉が過ぎてしまった。
妻は、側妃とは合わない。絶対に合わない。美貌も高貴な血筋も、あの真っ直ぐに強い眼差しも、妻を萎縮させるだけだろう。言葉を失っておどおどとする妻を、側妃は恐らく責めることはしないだろうが――しかし、あの方がどのように言葉を尽くしたところで、妻は叱責と捉えるに違いない。王に対してさえ常にはきはきと言いたいことを言って憚らないあの気性、あの舌鋒の鋭さが妻に向けられるなど、哀れとしか言い様がない。
「……分かった。それでは仕方ないな」
祈る思いで見つめていたのが功を奏したのか、主はとうとう頷いてくれた。そして、すぐに首を捻る。
「しかし、それでは他の者も同じことを言うだろうな……」
「……そうかもしれません」
王の側近の中でも妻帯している者、既に子がある者は何人かいる。が、いずれもジュラ同様にさほど高い家格を持つ訳ではなく、自然、妻も同程度の家から迎えている。どの女も、側妃に対して気後れするであろうことは容易に想像できた。
「側仕えひとり選ぶにも、何と面倒を掛けさせる女だ……!」
「さすがはクリャースタ様、と申しますか……並の姫君ではいらっしゃいませんな」
不機嫌そうに酒を呷る王に、ジュラは苦笑するしかできなかった。王が妃を想って頼れる侍女を用意してやろうとしているのと同様に、彼も妻を守ってやりたいという想いは譲れない。臣下としてはあってはならない考えなのかもしれないが――まあ、クリャースタ妃としても不調法な侍女など喜ばないだろう。
――とはいえ良い傾向ではあるのだろうな。
王にとって、人質時代に散々強気な態度を見せてきたクリャースタ妃は、長く守り慈しむ対象ではなかったように見える。実際、あの方は王に負けない矜持の持ち主で、ジュラ自身も呆れた記憶がある。過分の厚遇をされておきながら、どうして王に楯突くのか、と。厚意を撥ね付けられた王の怒りや苛立ちはなおのことだったろう。
それが、側妃の懐妊によって変わったようだ。常に強く猛々しい王が、妻子のために心を砕く様は、決して情けないというようなものではない。それどころか好ましい変化でさえあると思う。ジュラも父になるからこそそう思うのかもしれないが。
――クリャースタ様も、お分かりになれば良いが……。
あの氷のような美姫にも夫君の想いが届くことを、ジュラは願ってやまなかった。