15 金銭感覚 シャスティエ
「手当の使い方の件で、話がある」
「はあ」
離宮を訪れた王が席につくなり告げたことに、シャスティエは眉を顰めた。王が来るというだけでも気が重いというのに、このあからさまに不機嫌そうな顔は何ごとだろう。この男との会話を楽しんだことなど一度もないが、ひときわ面倒なことになりそうな予感がひしひしとしていた。
「何か問題がございましたか」
あるはずはない、と言外に匂わせて答えるものの、それでは王の表情の説明がつかない。知らず、シャスティエの胸は落ち着かずざわめいた。
側妃として彼女に与えられた手当がどれほどの額なのか、シャスティエは今ひとつ分かっていない。王の性格上、そして公爵格の扱いと聞かされたからには、それなりのものなのだろうと思うだけだ。
――でも、浪費なんてしていないし。
引きこもって王の訪れを待つだけの生活で、金を使う場などあるはずもない。君主の寵愛を笠に、贅の限りを尽くして国庫を傾けた女の逸話も歴史の上では聞くけれど。シャスティエはそのような類の女に堕する気はないし、祖国を滅ぼされた悲しみや憎しみが衣装や宝石によって癒されるはずもない。
そもそも、彼女の場合は目的のために王と組んでいるというだけ。寵愛など初めからないのだ。
――誰か、使い込みでもしているとか……?
とはいえ離宮に仕える使用人は、新たに知った者ばかり。人質時代から見知った者もいるけれど、全員の心根まで把握しているとは言い難い。無論、それだとて王が手配したから王の責だと言えなくもないが、直接の主として、シャスティエが咎められるのも仕方ないと言える。
何を言われるのか、と身構えて――王が続けたのは、あまりにも意外なことだった。
「使う額が少なすぎる。与えたものはちゃんと使え」
「は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまうと、王を一層怒らせてしまったようだった。青灰の目は剣呑な色を帯び、声も尖って苛立ちをにじませている。
「食費に使用人への給金、建物の維持……最低限しか使っていないようではないか。何を無意味に倹約しているのだ。手当として与えた以上はもうお前の金なのだぞ」
「だって、使い道がございません」
つい今しがた考えたことを訴えると、王は疑わしげに目を細めた。
「女は衣装などに金を使うものではないのか」
「グニェーフ伯――イルレシュ伯がミリアールトの王宮に置いていたものを届けてくださいました。新調する必要は、本当にないのです」
「一生それだけで済む訳でもないのだろう。今すぐ着ろとは言わぬからもっと使っておけ」
「そのような無駄なこと……!」
意味もなく着飾って浪費するような女と思われているのかと思うと、シャスティエの声は高まった。
この先、長年に渡って王に侍るのだと仄めかされたこともおぞましかった。確かに、王との間の子にイシュテンとミリアールトを継がせるならば、シャスティエもずっとこの地に留まらなければならないのだが。
――でも、王の施しによって生き続けなければならないなんて。
側妃などという屈辱的な立場からは逃れられないのだと改めて突きつけられると、目の前が暗くなる思いだった。
しかしもちろん王はシャスティエの心中など慮ってはくれない。完全に叱る口調で、頭ごなしに続けてくる。
「このままだと、使い切れぬほどの手当を国庫から奪っていると言われかねん。浮いた金で何をするつもりかと、疑いを招く恐れもある」
「…………」
誰が言うのか、は聞くまでもなく察することができた。ミーナの――王妃の父であるティゼンハロム侯爵ならば、側妃の手当の詳細を知ることができるだろうし、娘を脅かすシャスティエを退けるためならどんな言いがかりでもつけるだろう。
王の説教に一分の理があることを認めつつ、それでもシャスティエは抵抗を試みた。王の目を楽しませるために着飾るのも、そのために敵国とはいえ公費を使うのも嫌だったのだ。
「では、手当を減らしていただいて構いません」
「バカげたことを……!」
金を使いたくないならば、金額そのものを減らしてしまえば良い、という。いたって順当な提案だと思ったのに、王は不快げに唸った。お互いにイリーナが出してくれた酒肴にも手をつけていない状況で、気まずいことこの上ない。イシュテンの者にしては話が通じるとはいえ、この男が機嫌を傾ける理由は、シャスティエにはしばしば掴みきれない。
――まったく、何を怒っているのかしら……。
「使っていないのですから良いではないですか」
「いずれ使うことになると、お前も認めただろう」
「ですから、それはその時に――」
「お前が言い出せるとは思えない」
きっぱりと言い切られて、反論を探そうとして――どうしても見つからなくて。シャスティエはまた言葉を失った。そこへ王が追い討ちを掛ける。
「金が足りないから手当を増やせと、俺に強請ることができるのか?」
「……いいえ」
想像するまでもなく答えは明らかだった。何であっても王に乞うくらいなら、飢えて死んだ方がマシだ、と。自分の声が高らかに言い切るのが聞こえさえするよう。
「お前が困窮するのは勝手だが、使用人も巻き込むつもりか」
「……いいえ」
反論の余地などまったくない。特にイリーナの姿が脳裏に浮かぶ。祖国を離れさせただけでも過分の忠誠を捧げられていると思うのに、主の意地でこれ以上の苦労を味わわせることなどできないだろう。
王に性根を見透かされているのも。王がどこか勝ち誇ったように笑うのも。悔しく腹立たしくてならなかった。
「ならば適当に浪費しろ。手当の範囲内であれば衣装だろうと宝石だろうと構わないし、そのような形ならば財として持つのも咎められにくい」
「……そうは仰いますが」
あまりに腹立たしいから、シャスティエは反撃を思いついた。ついでに、実際的な問題点でもある。
「どのようにそういった品を贖えば良いか、教えてくださいませ」
「何?」
意味が分からないと言いたげに眉を寄せた王に、やはりこの男は分かっていないと確信する。勝ち誇った笑みに唇を歪めるのは、今度はシャスティエの番だった。
「どのようにも何も……いつも通りにすれば良いのではないか」
「ミリアールトでのことならばそのようにいたします。ですが、このイシュテンではどのようにすれば良いのですか? 生地や宝石や刺繍糸をどこから求めれば良いのですか? 信頼できる商人は、腕の良い職人や工房は紹介していただけますか? その際は以前に誂えた品も一緒に見せていただきたいのですけれど。陛下の御前に上がるのに恥ずかしくない衣装を仕立てるのに、いただいた手当のうち、どれほどの額が必要なのですか?」
数え上げた問のどれひとつに対しても、王が答えを持っていないのは分かりきっていた。分かった上での嫌味だった。
――気軽に言い出してくれるものね……!
伝手がない場所で女が衣装を求めるのがどれほど難しいことか、この男は想像もしていなかったに違いない。
国によって金銀や宝石の価値は異なるだろうし、細工ものの趣味が合うかも分からない。ミリアールト風の衣装が欲しいとして、祖国で作る時よりも高くついてしまうことも考えられる。異国の技を修めた職人が少ないであろうことに加えて――王に面と向かって言うことはさすがにしようとは思わないが――イシュテンの通貨の信用は他国と比べて概ね低いのだから。
王が答えあぐねて顔を顰めるのを、シャスティエは意地悪い喜びと共に眺めた。
「……ミーナに聞いて……いや、無理だな……」
「そのように存じます」
言いかけて、王は自らの案を即座に否定した。さすがに通らないであろうことはすぐに察しがついたらしい。優しいミーナならば喜んでシャスティエを助けてくれるかもしれないけれど、実際の手配を行うのは使用人――ティゼンハロム侯爵に仕える者たちだ。側妃への協力など望めないだろう。
「……臣下の妻女に聞いておく。その際はお前も素直に金を使え」
「はい。ありがたく存じます」
王が苦り切った顔で告げたのは、恐らく負けを認めたということなのだろう。だからシャスティエは笑顔で頷いてやった。
論戦で勝ったからといって、伽の務めからは逃れられないことに気付いたのは、そのすぐ後だった。




