14 夜の番 朝の守り イリーナ
「ミーナは喜んでお前の相談に乗ると言っていたぞ。心配はいらぬ」
「そうでしたか……」
「お前は俺よりもミーナに思われているかもしれぬ。妬けることだ」
「お戯れを。ミーナ様は陛下を誰よりも愛していらっしゃいます」
扉の向こうから漏れ聞こえる主と王との会話に、イリーナは小さく溜息を吐いた。夜の間、主たちの用事などに備えて控える役目を務めているのだ。一応手元に刺繍の道具を置いてはいるが、室内の様子を思うとつい手は止まりがちになってしまう。
――本当かしら。確かにとてものんびりした方なのだけど。
主たちが話しているのは、そしてイリーナが思い浮かべるのは、イシュテンの王妃。美しく人柄も良いけれど、どこか幼い印象を受ける人でもある。主を気に入ってくれているのも事実なようだし、側妃への嫉妬に狂うなど想像できないとも思う。
しかし、一方で夫がほかの女に通っているというのに平静でいられる妻などいるのだろうか。王の口調はあまりに暢気で、丸呑みにはできないと思えてしまう。
「お前もミーナに教われば良い。生まれる子のために刺繍でも用意しておいてやるのはどうだ?」
「……はい。少しはまともなものを与えてやりたいと思います」
――あ、シャスティエ様がお怒りになった……。
刺繍の下手さをあげつらわれて、主の声が尖ったのをイリーナははっきりと聞き取った。それでもほんのわずかだけ、王が気付いた気配がないのは幸いだった。
きっと主は王の腕の中だ。背中から抱えられているのか、正面から抱き寄せられているのか、いずれにしても、主が不機嫌な時のあの碧く燃える鋭い目は、王からは見えていないのだろう。
懐妊を知って以来、主は王の扱い方を覚えようと努めている。主にエシュテルに習いながら、美貌を活かした可愛げのある振る舞いをして、王の歓心を買おうというのだ。ミリアールトの王家の血も引く御子と、主の身の安全のために。
イリーナから見ても主の態度はまだまだ従順とはほど遠い。特に王妃が絡むと今にも口ごたえしそうな空気を感じるし、先ほどのように言葉に刺が滲むのもよくあることだった。ただ、今までの態度が態度だったからか、最近王はこの離宮で概ね機嫌良く過ごしているようだ。主に仕える侍女としては、歓迎すべきことなのだろう、多分。
――もうお休みになれたのかしら……。
落ち着かない気分で針を動かすうちに室内の声は次第に途切れがちになり、やがて完全な沈黙が降りた。主たちが寝入ったのを知って、イリーナは今度は安堵の溜息を吐く。
以前は、王が訪れた夜は、主は眠れていないようだったから。その頃は、室内からは張り詰めた息を殺す気配がしたものだから。そして、イリーナにとっても主が耐え忍ぶのを扉の外から聞くことしかできないのは苦痛だった。もちろん、親しい侍女に秘すべきことを聞かれてしまう主の方が、苦しみはずっと大きかったのだろうけれど。
――だから……良くなっているはず……。御子が男児ならばミリアールトの王がイシュテンの王になるということだし……。
少なくとも王は身重の妻に伽を命じるような男ではなかった。発覚した経緯こそ不穏なものだったけれど、懐妊を喜び、御子ともども主を大事にしようとしているのは分かる。
ただ、主の心中を思うと単純に喜ぶことなどできない。憎い相手の妻になるだけでも言葉にならない心労だったろうに、信頼関係を築くこともできないまま懐妊に至ってしまったのだ。本来は何より喜ばしいことのはずなのに、悪阻にやつれ、命を狙われる恐怖に怯える主を見ると、イリーナの心は痛む。何もできない自分に対しても腹立たしくて仕方ない。
結局、一晩を経てもイリーナはろくに刺繍を進めることができなかった。
翌朝着替えの手伝いのために主たちの寝室に足を踏み入れると、幸いにもふたりは服を纏った姿だった。もちろん寝乱れてはいるのだけど、昨夜はやはり何もなかったということだ。王の裸体を見るのが恥ずかしいという以上に、そういう時の主の表情を見るのはいたたまれないものだったから、これもイリーナにとっては良いことだ。
ただ、王が側妃を気遣うようになったことで、新たに発生した問題がある。
「食が進んでいないな。子のためにも食べないのは良くないのだろう」
「食べられるものだけで良いと聞きました。口に入らないものは子供も欲しがっていないそうです」
「そう言いながら痩せたのではないか? 本当にそれで良いのか?」
「だって食べたくないのです」
「我儘な……!」
朝食を囲みながらの険悪な会話に、イリーナはそっと他の侍女たち――ツィーラやエシュテルと視線を交わした。
かつて、王は起床するとすぐに離宮を発っていたものだったが、主の懐妊を知ってからは閨以外のことも気にすることにしたらしい。だから主と食事を摂ることもあるのだが、これも主の心労を増やしている。
王は朝からしっかりとした量を食べる。多分戦場に立つこともあるからにはいつでも同じように食べられなければ、ということなのだろう。それは良い。ただ、自身と同じ感覚で主に食事を勧めようとするのはいかがなものか。悪阻でやつれているのは事実なだけに、案じる思いからではあるのだろうが――主の機嫌は傾く一方のように見えて、非常に危うい。
――召し上がっても御子に栄養が行く訳ではないのに……。
無理に呑み込ませたところで、後で主は吐いてしまうだろう。そしてイリーナたちの手を煩わせたことでまた憂いに沈むのだろう。どうにか王を止めたいが、侍女風情に口出しなどできず、同僚たちと共に主を見守ることしかできない。
王によって煮込んだ牛肉を口に押し込まれる主は眉を寄せて弱りきっているようだ。王も食べ残す子供を見届けるような厳しい目つきをしていて、ふたりの距離の近さの割に、甘さは一切ない。
「味付けが好みでないのか? もっと蛋白な方が良いか? 鶏とか――」
「白身の魚ならまだ食べられるかもしれません」
「この暑さだぞ。魚など届けさせる間に傷んでしまう」
「川の魚で良いのです。王都にも河が流れているではないですか」
イリーナには主の気持ちが痛いほどよく分かった。イシュテンには海がないから、食事も自然獣の肉に偏ったものになる。海を擁し、北国ゆえに保存する氷室にも不自由しない――ゆえに年間を通して魚介が食卓に上るミリアールトとは訳が違うのだ。
この一年あまり、主は異国の味に文句も言わず耐えてきたが――悪阻で痩せ細った今だからこそ、少しでも故郷を忍べる食材が欲しいのだろう。
「あれは生活用水だぞ。あそこで捕れるものを口にするのは下々だけだ」
しかし、主の懇願も仄かな期待も、王はあっさりと砕いてしまう。失望にか吐き気のためにか、俯いた主の顔はそれは悲しげな痛ましい表情だった。一蹴した王でさえも、恐らくは気が咎めるほどに。
「……そういえば閉じこもってばかりだったな。だから気が塞ぐのか?」
「そういうことでは……」
王はなだめるように主の金の髪を梳き、主はまた困ったように首を振った。主の一番の望みは多分王に早く帰って欲しいということだろうが、決して王には通じないようだった。
「口に合うものがないならば獲ってやろう」
「……は?」
「気晴らしに狩りに連れて行ってやる。外の空気を吸えば少しは気も紛れるだろうし、新鮮な肉は滋養になるだろう」
主ははっきりと王から目を逸らし、助けを求めるように控えた侍女たちの方を見た。しかしイリーナはやはり口を挟めず、エシュテルはむしろ小さく首を振って主を諌めた。――王に口答えなど、あってはならないのだ。
「……お気遣いをありがたく存じます」
やがて主は諦めたように小さな声で呟いた。
「出掛けるのは久しぶりです。楽しみですわ」
口元だけの笑みはいかにも取って付けたようなもので、主の美しさの半分も表していない。萎れた花のようにさえ見えるのに、王は気付かない様子で満足そうに頷いた。
「衣装と、伴の者を選んでおくが良い。バラージュの娘ならば馬術の腕も確かではないか?」
王が去ったのを念入りに確かめてから、イリーナは心中に溜まった憤懣をぶちまけた。
「何が狩りですか! 王は自分が行きたいだけでしょう!」
「そうでしょうね……」
やはり無理に呑み込んでいたのだろう、主は青い顔でまた寝台に倒れ込んでしまった。気遣いが足りない王のせいでいう怒りだけでなく、自身の無力さへの情けなさもあって涙が滲んできてしまう。
「王は馬で行くつもりのようでしたけど。シャスティエ様には無理ですわ!」
「陛下の馬に乗せてくださるつもりなのでしょうね……」
王に半ば指名された形のエシュテルも不安げだ。イシュテンの名家の出だという彼女なら、確かに腕は問題ないのだろうが――
「大事なお身体なのに。……大丈夫なのでしょうか」
イリーナはもっとも年嵩のツィーラに問い掛ける。主を案じる気持ちは誰より強くても、彼女は懐妊中の主や御子のために何が良くて何が悪いか分からない。先のイシュテン王の妃たちに仕えたこの老女なら、心強い言葉をくれるかもしれないと思ったのだ。
「陛下ならば万が一にも……その、落馬などはないでしょうけれど」
「ご気分が悪くなった時の心得は教えてくださいませね」
「ええ、何があるか分からないから」
けれどツィーラも戸惑うようなあやふやな態度で、若輩者たちを安心させてくれなかった。
「シャスティエ様。今からでもお断りできないでしょうか」
不安のあまり、イリーナは主の枕元に訴えてしまう。最近、主をどこへも出したくないと思ってしまうのだ。新年の宴の時といい、ミリアールトの乱の際に呼び出された時といい、この方を人前に出すと何が起きるか分からない。懐妊したことで狙われる危険も増している。できることならずっとこの離宮で過ごして欲しい。
しかし、必死の訴えにも主はゆるゆると首を振る。横になってばかりで結うことが少ないこの頃だから、癖のない金の髪がさらさらと音を立てて寝台へ滑る。
「断れば王は気を悪くするでしょう」
「それは、そうですけれど」
そして王の怒りを浴びるのは勧めたイリーナではなくて、実際に相対する主になってしまう。イリーナはまた見守ることしかできないのだ。
「それに、王と一緒なら毒の心配は少ないわ」
俯いた彼女の頬を、主はそっと撫でてくれた。その指先も雪のように白く色をなくしていて、心を痛めさせるのだが。
「そんなこと。必要なことですもの」
主が告げたことそのものも、イリーナの胸に刺さる。王妃を――というかティゼンハロム侯爵やその手先のエルジェーベトを警戒して、彼女たちは交代で主の毒見役を務めている。恐怖は全くないではないが、主のためと思えばやらなければならないこと。それに、結局危険な状況から救うことはできないのが歯がゆくてならない。
「貴女たちに危ないことをさせているのは、辛いのよ」
主はかすかに微笑んだ。王に向けたものよりはいくらか生気と温かみのある、心のこもった笑みだった。
「王の覚えは良い方が良いわ。狩りに付き合って機嫌が取れるなら安いものでしょう」
「シャスティエ様……」
イリーナは主の名前を呟いた。イシュテンの倣いである婚家名はどうにも彼女の口には馴染まない。まして、クリャースタ・メーシェ――復讐を意味する名などこの方には相応しくないと思うから、ついよく知っている名で呼んでしまう。結婚を認めないという非礼になるということだが、イリーナとしては主が側妃などになったのを決して喜んでいないのだ。
「で、では私共で何事もないように努めますから!」
いつものように呼び間違えを咎められる前に、イリーナは慌てて高く声を上げる。主の気が変わらないなら、無事に狩りが済むようにするのは彼女たちの役目だろう。
「楽な髪型や衣装も考えますし……狩りの獲物をその場で召し上がる訳ではありませんよね、果物なども飲み物も、用意しますわ」
それを見て、王が主の体調に気付いてくれるかも――などとは淡い望みでしかないのだろうが。夫たるあの男が頼りにならないというなら、イリーナが主のためにできる全てを尽くさなくてはならない。ツィーラもエシュテルも、それぞれしきりに頷いている。
「放っておいてはお酒を飲まされかねませんものね。果汁か冷ましたお茶か、用意しなくてはなりませんね」
「陛下が無理を仰るようなら私からお諌めしますから。クリャースタ様は微笑んでいてくださいますように」
口々に言われて、主の微笑みが苦笑ともつかない色を帯びる。
「頼もしいわね。……お願いするわ。子供のためにも」
そういって白い手が撫でた腹はまだ平らで、御子が宿っているとは窺えない。これから出産に至るまでの長い時間を思うと気が遠くなりそうなほど。……けれどそんなことをしている暇はない。
「はい。必ずお守りします!」
主とその子のため、母子の身の安全のために身命を懸けよう。そう決意しつつ、イリーナは力強く頷いた。




