13 賭けの結末 ファルカス
ミリアールトを滅ぼした遠征の、帰途でのこと。ファルカスは側近たちが顔を寄せ合って話し込んでいるのに気付いて、そしてその中にアンドラーシの姿を見つけて、彼らに近寄った。
「何事だ? ……あの娘のことか」
躊躇いがちに、嫌々ながら口にしたのは、捕らえたミリアールトの元王女のことだ。ミリアールトの恭順の証の人質として、王都に連れ帰ることにしたのだが――男ばかりの軍の中に女がただひとり、それも絶世の美貌を誇る高貴な者がいるとなれば、何かと不穏な波が起きるものだ。元王女に興味を見せたアンドラーシに人質の身の安全を任せたものの、美姫に目が眩んだ不心得者は皆無ではないと聞いていた。
――予想してはいたが……何かと面倒を掛けてくれる。
大層生意気な言動で彼を挑発してきた娘を思い出して、顔を顰めながらの問い掛けに、アンドラーシは曖昧な笑みで答えた。
「はい――いえ。陛下がお気に掛けることではないのですが……」
「煮え切らぬな。どちらなのだ」
側近のへらへらとした態度を前に、ファルカスは一層機嫌を傾けた。
アンドラーシが元王女を気に掛けるのは、王の側妃に仕立てようという心積もりからだ。ミリアールトに未婚の王女がいると聞いた時から、この男は捕らえて側妃にすれば良いと彼に進言してきたものだ。王の子が王女ただひとりしかいないのでは心もとない、王妃が子に恵まれぬなら側妃を娶るべきだ、と言って。
ファルカスとしては、元王女を人質にしたのはそれだけの価値があると認めたからに過ぎない。断じて、元王女の美貌を惜しんだ訳でも、この男の進言を聞き入れた訳でもないのだ。いかに美しくても、ことあるごとに彼を睨み口答えしてくる女を側妃になど考えられない。
何度も却下したにも関わらず、アンドラーシは同じ進言を繰り返してただでさえ多忙な彼を怒らせてきた。
つい数日前にも、その類のやり取りがあったばかりだ。元王女に狼藉を働こうとした者を捕らえた、という報告のついでにこの男はまだ余計なことを言い出したのだ。
『陛下のお言葉を真摯に受け止めていない者がいるのは遺憾なことです』
ファルカスは神の名に懸けて元王女を庇護すると誓いを立てた。全軍に通達したことにも関わらず、あの娘に手を出そうとするのは確かに王に対する反逆とも言えた。
『見せしめの例があれば意識も変わるだろう。捕らえた者は好きに罰せよ』
『御意。……ですが、より効果的な手もあるかと思いますが。姫君に万一のことがあってはいけませんから』
嫌な方向に話が進むのを予感して、彼はできるかぎり面倒そうな声を出そうとした。
『力不足を認めるというのか。あの女を守れと命じたはずだが』
『それはもう、臣の全身全霊を持ってご命令を全うする所存でございます。ですが非常に簡単なことなのです』
『不要なことだ。下がって良い』
主君の不機嫌も退出の命も、アンドラーシは都合良く気付かない振りをした。
『言わせてください。――あの方に、お手をつけられれば良いのです。陛下のご寵愛の姫となれば手を出そうとする者はいなくなるでしょう』
――こいつは俺の誓いを理解していないのか。
頭痛を覚えてファルカスは額を抑えた。彼は単に元王女の命を奪わなかっただけでなく、危害を加えない、と誓ったのだが。肉親を殺した男に抱かれるなど、普通は危害に数えられてしかるべきだ。
『俺自身の手で誓いを破れというのか? 腹立ち紛れに何をするか分からないから、姿を見ることさえ避けているのだが』
あの娘はどうも彼の神経を逆なでするのだ。後先考えずに殺せと喚いたことなど、思い出すだけで不愉快になる。そうだ、例え誓いのことがなくても彼が元王女に手を出すことなどあり得ないだろう。
『守るためのことなのですから誓いを破ることにはあたりますまい。あの方も――聡明でいらっしゃるようですから――すぐに陛下の庇護を喜ばれることでしょう』
アンドラーシの笑顔は爽やかで、自身の言葉を心から信じているようにしか見えなかった。だが、だからこそファルカスは苛立った。側妃のことも人質の処遇も、余計な世話でしかないのだから。むしろ気に入らない女のことを思い出させられたのは不快でしかなかった。
『黙れ。下がれ。俺をあまり煩わせるな』
だから彼は短い命令で口の減らない臣下を追い出したのだった。
そのようなことがあってから、まだ日も経っていない。なのにこの男は一体何を企んでいるのか。
アンドラーシがはっきりと答えないので、ファルカスは集まっていた者たちを見渡した。いずれも彼が側近と恃む者ばかりで、王に対して隠し事などするはずはないと信じられた。
「答えぬならばそなたたちから聞こう。何をしていたのだ?」
側近たちは、アンドラーシと同種の微妙な笑みを浮かべて視線を見交わし――やがてひとりが代表して口を開いた。
「確かに陛下のお耳を煩わせることではございませぬ。――賭けを、していたのです」
「賭けだと? どのような?」
重ねての問いへの答えが返ってくるまでに、また数秒の間があった。臣下たちだけが事態を把握しているという状況に、彼らの笑いを含んだ視線と表情に、ファルカスは静かに苛立ちを募らせていく。
「……陛下が例の姫君を側妃にされるか否かについて、です」
「何」
王が声を高めたのをなだめるように、他の者たちも次々と言い添えた。
「この者があまりに熱心ですので。陛下を説き伏せることがあるかもしれませぬ」
「とはいえ陛下が誓いを曲げられるとも考えづらい。……ということで予想が分かれておりまして」
「良い賭けになりそうだということになったのです」
「ふん……」
僚友に示されて、変わらず微笑んでいるアンドラーシを見て、ファルカスは何となく毒気を抜かれた。ムキになるほど側近たちを面白がらせるだけだと、気付いたのもある。
――誰もがアンドラーシのように側妃を勧めてきている訳ではない。そう思えば良いのだ。
深呼吸して気を鎮めた後――ファルカスは、意識してにやりと笑った。
「ならば俺も乗るぞ。無論側妃など娶らぬ方に――」
「なりません、陛下」
だが、アンドラーシに遮られてまた顔を顰めることになる。
「なぜだ」
「陛下のお言葉ひとつで結果が決まるのですから、ご自身で参加していただく訳には参りません。同じ理由で私も見ているだけになります」
したり顔での説明に舌打ちしつつ、それでもファルカスは納得せざるを得なかった。なるほど、彼もアンドラーシも、ひと言諦めると言えば賭けの結果を左右できるのだ。もちろん彼が賭けなどのためにあの女を側妃に迎えることはあり得ないが――公平でないのは、理解できる。
「ならば好きにするが良い」
「御意。私に賭けてくれた者たちに儲けさせてやりたいものです」
ファルカスが好きにしろと言ったのは賭けであって、決してアンドラーシをけしかけた訳ではなかった。しかしもう面倒になっていたので、それ以上臣下たちを咎めることはしなかったのだ。
それから約一年後、ミリアールトへの二度目の遠征から帰り、諸々の処理が終わった頃。ファルカスは執務室に一団の臣下を迎えた。
「賭けの結果をご報告に上がりました」
「賭け……?」
昨年そのような話があったこと、現れたのが賭けに加わっていた者たちだと思い出すのに、彼は数秒を要した。そして思い出してなお、不審に首を捻った。
「あの件か。アンドラーシに賭けた者が勝ったのだな……?」
予想もしなかった紆余曲折を経たが、結局彼はミリアールトの元王女を側妃に迎えることになった。アンドラーシも思い通りとはいかなかったようだが――傍目には、あの男は意志を通したことになるだろう。
そこまで考えてから、思いついて付け加える。
「俺のせいで負けた者もいるということになるか。ならば何か埋め合わせをしてやろうか」
余興での賭けなのだから、大した金額でもないだろうが。遠征の慰労と、近くあるであろうリカードやハルミンツ侯との対決への激励の意味も込めて、酒席でも奢ってやるのは悪くないと思ったのだ。
「いえ。今回の賭けで勝った者はおりませぬ」
しかし、参上した者たちは揃って首を振った。
「どういうことだ?」
「今回の顛末、陛下がご意志を曲げられたとも、アンドラーシの思惑が成ったとも言い難いかと存じます。あえて言うならクリャースタ・メーシェ様が我らの予想を裏切ってくださったということかと」
「ふん……」
「ですので、賭け金はクリャースタ様に捧げるべきであろう、との結論に至りました」
代表の者は、言いながら包みを差し出した。検めろということだろうと察して、ファルカスはそれを受け取る。
「我らには衣装や宝石のことなど分かりませぬし、王族の生まれのお方のお目に叶う品など仕立てることはできませんでしょう。美しく気立ての良い馬では、とも考えましたが――」
「あれには無駄だ。下手な主に乗られる、馬の方が気の毒だ」
「はい。そのようでしたので諦めました」
ミリアールトの反乱を収めた際、ファルカスは今は側妃になったあの娘を馬上に抱き上げた。戦場の混乱の中でも、彼にしがみついたあの娘の不器用な姿は多くの者の目に留まったらしい。
そのような話をしながら、包みを解いていく。無骨者どもには似合わない、滑らかな絹から現れたのは瀟洒な造りの短剣、だった。
「これは――?」
繊細な透かし模様に碧い宝石を嵌め込んだ鞘の造りも美しかったが、さらにファルカスの目を引いたのはその刀身だった。ほとんど鏡のように白く輝き、腕の良い匠の手によるものだと窺わせる。
「所詮、我らに分かるのは武具のことでございます。そのような品ならばあのお方にもお似合いかと思いまして」
確かにその短剣は、意匠といい色合いといい、ミリアールトの雪の女王のごとき冷たい美貌を誇る側妃に似つかわしいものだった。ただ――
――あの女が、俺に対してこれを使うとは思わなかったのか……?
どこか得意げな側近たちの顔を、ファルカスは目を細めて順に眺めた。側妃と言っても、もとは敗れた国の王族なのだ。彼を睨みつけて罵った場にもいた者たちなのだが、まさか忘れたとでも言うのだろうか。
まあ、仮にあの女が短剣を振り回したとしても、取り押さえることは容易いのだが。
「……分かった。今度渡すとしよう」
数秒の逡巡の後、ファルカスは短剣を再び絹で包んだ。迂闊にも思える献上品は、王の技量への信頼だと考えることにしたのだ。
「まことに嬉しく存じます」
破顔した側近たちの表情はアンドラーシのそれに似ていて、わずかながら苛立ちを誘うものではあった。
「これを私に、ですか……」
側妃は短剣を躊躇いがちに受け取った。彼と同じ疑問を抱いたに違いない。鞘に嵌められた宝石と同じ、碧い瞳に戸惑いの色が浮かんでいる。
「側近どもから預かった。お前に似合いだろうと」
何となく、賭けの結果だということは伏せた。矜持高いこの女なら、賭けの種にされたのを屈辱と感じて怒り狂うだろうと思ったのだ。
彼の説明では恐らく納得しなかったのだろうが、側妃はとりあえず頷いて鞘の細工を指でなぞった。
「……美しい品でございますね。過分のお気遣いだと存じますけれど。……お礼を申し上げた方がよろしいのでしょうか」
「いらぬだろう。喜んでいたと伝えれば十分だ」
「はあ……」
側妃は鞘から短剣を抜くと、刃の輝きに目を瞠って息を呑んだ。
その危なっかしい手つきに、無駄な心配をしたと思う。この分では、刃を向けられることよりも自分自身を傷つけることのないように注意しなければならないだろう。
「羽軸を削るのに、良いかもしれません」
「羽軸だと?」
「はい。ものを書く時に……それくらいしか使わないと思うのですが」
「……持ち方がなっていない。使い方を教えてやろう」
彼に刃を向けるなど考えてもいないような口調に溜息を付きつつ、ファルカスは手を伸ばし、側妃のそれに重ねた。相手が身じろぎして危うく短剣を落としそうになったのを強引に支える。
「当分俺がいない時は触るなよ」
「……はい」
身体を寄せたことで自然と顔も近づき、耳元に囁くような体勢になった。頬を染めた側妃の体温さえ感じられるようだった。
指の位置を一本一本示して、柄の握り方を覚えさせようとしたのだが、側妃がくすぐったがって教えるどころではなくなった。どうもこの女は敏感すぎるように思える。
「言葉で教えてくだされば良いのです!」
「お前ひとりで持たせるのは危うすぎる」
機嫌を損ねたらしく顔を背けた側妃は、耳まで赤くなっていた。恥じらいは、触れられたことに対してなのか、不器用さを見られたことに対してなのか。いずれにしても、意外と子供っぽく可愛げのある姿だった。
側近たちがこの姿を予想できたはずもないだろうが――新しい側妃は、少しずつ、だが確実にファルカスの心に馴染んできているようだった。




