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12 言わない秘密 ギーゼラ

8章と9章の間頃のエピソードです。

 会わなかった一日の後、夫婦がそれぞれの出来事を語り合うのはどの家庭でもあることだろう。


「父上のご様子はいかがだっただろう?」


 しかし、ギーゼラの夫に関して言えば、いつも話題を探すのに多少苦労しているようだった。見栄えの良くない妻に、大した関心を持つ人ではないのだ。だから、義父――形ばかりとはいえブレンクラーレの王位にある方――を見舞ったという明らかに語るべきことがある今日は、きっと安心しているのだろうと思う。


「お元気そうでしたわ」


 とはいえギーゼラも話し上手という訳ではない。見聞きしたことを面白おかしく語って聞かせるということがどうしてもできないのだ。気恥ずかしいのもあるし、自分などが得意げに前に出ても見苦しいだろうと思うのもある。話題を探さずに済んでほっとしているのは彼女も同じことだった。


「寵姫様方やお子様方が代わる代わるいらっしゃるそうで――今日はゾフィー様に紹介していただきました」


 王は病で臥せっているということになっているが、実際は倒れた後遺症で日常の動作や発声に不自由があるとのことだった。国政に携わることができないのは同じなのだろうが、寵姫たちに囲まれ、介助されていた義父は、その生活に満足しているように見えた。

 挨拶が遅れた義理の娘であるギーゼラを、その人は快く迎えてくれた。言葉はたどたどしく、麻痺が顔面に及んでいるがゆえに表情は弛緩したものではあったけれど、かつては麗しく朗らかな貴公子だったのだろうと見て取れた。彼女の夫は父王にそっくりだということも。


「ゾフィー様か。見事な金髪が蜂蜜のようで美味しそうだと、子供の頃には思ったものだ」

「……ええ、今でも本当にお綺麗で」


 そして、義母である王妃アンネミーケが夫君の見舞いに行きたがらなかった理由もよく分かった。口に出すことはできなかったけれど、正直ギーゼラは妻として冷たいのではないかと思っていたのだけれど――でも、無理のないことだった。


「異母弟や異母妹たちに任せきりなのも申し訳ないことだ。次は必ず私も行こう」

「お義父様もきっとお喜びになると思いますわ」


 ――お義母様……お気の毒に……。


 女としての盛りを過ぎてなお艶やかに妍を競い合う寵姫たちと、母親に似て容姿に優れた庶子たちと。王を囲む者たちは全て美しく、にこやかに和やかに調和していた。義母のように厳しく鋭い人の居場所は、あそこにはない。ギーゼラのように容姿にも愛嬌にも恵まれないものも、同じこと。


「私の代わりに見舞いに行ってくれて、すまなかったね」

「とんでもない。大事なお勤めがあったのでしょうから」


 夫のように美しい人にはこの気持ちは決して分からないだろう。だからギーゼラもわざわざ言葉にすることはしない。ただでさえ冴えない妻だというのに、この上面倒臭い女などとは思われたくなかった。


「弟妹たちと仲良くしてくれれば良いのだが」

「ええ、楽しくお喋りさせていただきました」


 それに、口にさえしなければ夫が言葉にしない思いに気付くことはない。良くも悪くも言われたことを額面通りに受け取る人なのだ。

 案の定、夫はいつもの笑顔でギーゼラを寝台へと導いた。夫の義務を果たしてくれようというのだ。


「あの公子は人気だっただろうね」

「……ええ。ミリアールトのお話を聞かせていただきました」


 この人のことだから、あのミリアールトの貴公子に言及したのも何の他意もないだろう。妻の服に手を掛けながら妻が密かに慕う人のことを口にしたのは、多分妻の心に無関心だからというだけ。それでもギーゼラの胸は痛んで、返事には一拍の間が空いてしまったけれど。


「彼のこともすまなかったね。母上との話を聞かせる訳にはいかなかったのだ」

「そう……なのですか」


 美しい夫の指に唇に喘ぎつつ、ギーゼラは内心で不審に思った。あの方はこの国では寄る辺のない身。祖国のために義母や夫に頼るしかない流亡の身。だからこそ彼女たちを裏切る謀には無縁のはずで、夫の秘書の役目を任されているのに。


 ――あの方が我を忘れるとしたら……。


 ギーゼラの脳裏にある人の面影が浮かんだ。会ったこともないけれど、何故か鮮明に思い浮かべることができる。彼女が慕う人が誰より愛するという姫君。美しく気高く清らかで、知性にも恵まれた完璧な人。ミリアールトの女王。


「ミリアールトで、何か……?」


 高まり始めた熱が、彼女に心の中の言葉をそのまま溢れさせた。


「そう……恐らく、ということではあるのだが」


 夫の吐息が肌をくすぐり、ややくぐもった声が妻の問いに答える。


「近くミリアールトで乱が起きるだろう。彼の思い人には可哀想なことになるね」

「ミリアールトの王女殿下が……」


 ――お気の毒に。殺されてしまうのね……。


 ギーゼラも周辺の国――ことに義母が警戒するイシュテンについてはよく教わっている。あの野蛮な隣人は、敗者が逆らった時に人質の首を刎ねるのを躊躇う国ではないのだ。


 ――あの方は悲しまれるわ……。


 ミリアールトの貴公子は雪のように美しく雪のように冷たい。ギーゼラに多少優しくしてくれても、その碧い目が見つめているのは囚われの従姉姫だけ。その女性の悲報に、彼は顔を歪めるだろうか。涙するのだろうか。


「貴女からも慰めてあげれば良い」


 彼女の胸に渦巻いた感情は、国の争いに翻弄さらる姫君への哀れみだろうか。それともあの方の心を独占する人への嫉妬か。

 夫の腕の中で、彼女には自分の思いに名をつけることができなかった。


 あるいは醜い思いを認めたくなかったのかも知しれない。




 数日後、ギーゼラは義父の寵姫の招待を受けた。先日の見舞いの際はいなかった女性にも紹介してもらえるという。義父の寵姫たちは、競いつつも仲が良いのだという。さっぱり訳が分からない。


「またお付き合いいただいて申し訳ないですわ……」

「大したことではありません」


 王宮の片隅、寵姫たちに与えられた一角へ向かうのに、今日もレフが付き添ってくれている。彼も是非にと名指しで呼ばれているのだ。


 寵姫たちの目的は、地味な王太子妃よりその連れだということなのかもしれない。氷の彫刻のような、北の貴公子。義母たちもミリアールトの情勢について密談しているのだろうから、彼を遠ざけておくのはギーゼラに与えられた役目と言えないこともない。


 ――私としても嬉しい、のかしら……。


 レフの表情を窺うと、ギーゼラの心に波が起きる。どれほど美しい令嬢、どれほど聡明な婦人と話していても、彼の碧い瞳は常に冷めている。燃えているように見える時は、必ずあの囚われの姫を思っている時。彼の心を動かせるのはあの姫君だけなのだ。

 ギーゼラに対してなら彼はほんの少し優しいけれど、それは彼女があの姫君がいたかもしれない立場にいるからというだけ。姫君への思いをほんのひとかけら、分けてもらっているだけなのだ。

 義父の寵姫たちやその娘たちは、彼女たちの美貌に靡かない彼に悔しがり、もしかしたらギーゼラを妬むかもしれないけれど――でも、決して羨まれるようなことではないと思う。他の女性よりも彼の内心を知っていることで、ギーゼラは余計にあの姫君には叶わないと思い知らされているのだから。


「ご夫君はまたいらっしゃらないのですね。お寂しくはないですか」


 レフは形の良い眉を微かに顰めていた。彼女を気遣っているのか、夫に押し付けたいと思っているのか――ギーゼラは、前者だと信じることにした。


「お義母様――摂政陛下と大事なお話ということですから。私などの出る幕ではございません」


 ――嫌だわ、私……こんな言い方をして……。


 ギーゼラが密かに期待した通りに、レフの眉間の皺が深くなる。義母にも夫にも蔑ろにされる、取り柄のない哀れな女。そう演じて見せれば、この人は同情してくれる。彼女はその甘美さにすっかり味をしめてしまっていた。本当は、義母はよく気遣ってくれるし、夫も――心までは望むべくはないけれど――礼儀正しく接してくれるのに。


「そのようなことは仰らないで。貴女はこの国の王妃になるお方なのだから」

「はい……」


 美しい人の透き通る声は、甘いと同時にこの上なく苦く響く。ギーゼラを哀れみ励ます時、この人はあの姫君だったらどうだろうか、と考えているに違いないから。非常に美しいというその人ならば夫に愛されていただろうし、非常に聡明でもあるというから義母の役に立てていたのかもしれない。彼女は、あの姫君に比べればどうしようもなく不出来なのだ。


 ――でも、あの方が亡くなってしまったら……?


 ふと浮かんだ考えに身震いし、次いで内心で激しく首を振る。決してレフには気付かれることのないように。あまりにも浅ましくて身勝手な思いだったから。


 あの姫君さえいなくなれば、なんて。


 姫君がいようといまいと、彼女に勝ち目などないのだ。むしろ手の届かない存在になってしまえば、それこそ女神――ミリアールトの雪の女王のごとく、あの人は彼の心の絶対を占めるようになってしまうだろう。

 より現実的に考えても、彼はこの国を離れるだろう。彼もミリアールトの王族で、姫君が儚くなれば王位を継がなければならなくなるのだから。


「笑った方が良い。もっと、堂々となさって」

「ありがとうございます」


 ――この方は、祖国で何が起きるか知らないのね……。


 何食わぬ顔で手を取られながら、ギーゼラの胸は後ろめたさに痛む。ミリアールトでの不穏な動きも、姫君の行方も、レフが何としても知りたいことだろう。そうと知っていながら、義母と夫の手前、ギーゼラは教えることを許されない。

 だが、その罪悪感も彼女の思いの全てではない。同情してくれる人、美しさと優しさに惹かれる人に対して、ギーゼラは優越感も覚えている。


 何一つ敵うところがない人の、もっとも大事な情報を握りながらそれを秘めている、ということ。彼女の言葉ひとつで彼を絶望させることができて、けれどそうはしないということ。立場上許されないからというだけでなく、彼女は確かに自分の意志でミリアールトに関することを黙するのだ。


 本当に何事かが起きたなら義母はこの人に明かすだろうから、それまでのつかの間のことに過ぎないけれど。


 ――この方が平静でいられるのは、私のおかげ……。


 恐らくひどく歪んだ暗い感情なのだと分かってはいるけれど。


 誇れるものの少ないギーゼラにとって、その優越感は抗いがたい魅力を有していた。

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