10 兄との約束 ティグリス
イシュテンの王宮は広い。王や王妃、側妃たちが住まう奥宮に、政務が行われる表の部分を含めると小さな街ほどの規模になる。更に戦馬の神を奉じ騎馬を重んじる国柄ゆえに、敷地の中には大小の馬場も備えている。日々の訓練が行われるのはもちろん、時には武芸を競う試合に使われることもよくあった。
今日は、そのような試合の中でも比較的規模が大きいものが催されている。何しろ王の臨席の下で、参加者には王子もいるのだ。
ティグリスは次々と現れては馬術を披露し、あるいは剣や槍で競う若者たちを熱心に眺めていた。王と王妃のために特別に設置された席で、両親の間に押し込まれるような形で。
彼はまだ幼いから、兄王子たちのように試合に出ることは許されなかった。剣を習い始めたばかりで、他者と競う域には達していないとされたのだ。母である王妃が危険だと反対しなければ、とりあえず馬を走らせることはできるところを披露していたかもしれないが、それでは当たり前過ぎてこの少年の自慢にはならない。
だから、彼は自身の幼さ未熟さに焦れながら、年長の少年たちの活躍に手を叩いていた。
今、馬場で対峙しているのはふたつの騎影。いずれも片手に槍を、もう片方に盾を構えて円形の馬場をゆっくりと巡り、次第に速度を上げ距離を詰めながら激突する瞬間を狙っている。槍の穂先は試合用に刃を潰したものではあるが、当たりどころによっては命に関わる重症を負いかねないのは言うまでもない。
擬似的な戦場の再現。その緊張感にティグリスは息を止め、握った拳は汗に濡れた。
満場が見守る中、二騎は睨み合い――そして動く。
放たれた矢のように影が走る。重なり合う。槍と盾がぶつかる鋭い音。影が離れ、同時に今度は鈍く重い音が響く。
一騎が相手の槍先を躱し、鋭い一突きで盾を砕きその持ち主を落馬させたのだ。
地に伏して呻く敗者を他所に、勝者は悠然と馬を王の席の方へ進め、下馬した。冑を脱ぐと、その下から現れた顔は若々しく、自負と自信に満ちていた。
「ファルカス、見事だ!」
彼の手腕に見惚れていたのはティグリスだけではなかったらしく、父王も愉快そうに立ち上がって叫んでいた。母までも珍しく笑っていた。
両親の滅多に見られない楽しげな姿に、ティグリスの興奮もいやました。最近顔色の優れない父も、彼には計り知れない理由でしばしば激昂する母も、幼い王子に何かと気を遣わせていたのだ。
ファルカス――すぐ上の異母兄は、父であるはずの王の前に跪いた。父王の方も、その構図の歪さには気付かない様子で機嫌良く声を掛ける。
「歳上の者を相手にまったく見事だった。兄たちにも劣らぬ器のようだ。褒美には何が欲しい?何でも望むものを与えよう」
「もったいない仰せと存じます。ですがまだまだ未熟の身。今のも運に恵まれただけでございましょう。褒美など望むべくもございません」
弾んだ父王の声に対して、異母兄の答えはあくまでも淡々としていた。
だが、運などというのが謙遜に過ぎないのはティグリスにさえも明らかだった。ファルカスは実力で対戦相手を上回っていた。それも遥かに。一戦を終えて息も乱さず、奢ることもしない兄の姿は、幼い彼には眩しく誇らしく感じられた。
「謙遜も過ぎると嫌味だぞ、ファルカス」
子供にも分かることは当然王にも分かったらしい。だが、父は気を悪くした風でもなく、言葉とは裏腹に楽しげな調子を崩さなかった。
「父上」
父の機嫌が良いのを見て取って、ティグリスはそっと袖を引いた。今なら――彼が特に手柄を立てた訳ではないが――お強請りをしても許されるかもしれない。
「ファルカス兄上に遊んでいただきたいです。いつもすぐお帰りになってしまうので。王宮にお招きする訳には参りませんか?」
ファルカスは母方の実家で養育されている。母君が病弱だったとのことで、王宮ではなく気楽な実家に下がって出産したのだという。その側妃は結局体調が戻らず王宮に帰ることはなく、生まれた王子はそのまま祖父の手によって育てられた。
だから、兄弟とはいえティグリスはこの兄とはほとんど言葉を交わしたこともないのだ。せっかく歳も近いというのに、憧れを伝えることもできないのが、彼には大層不満だった。
「ふむ、良い考えだ」
幸いにティグリスの提案は出過ぎたこととは取られなかったらしい。父王は破顔すると末の息子の髪をくしゃりと乱した。皮膚の色がくすんで少々恐ろしく見える手であっても、父の温もりは彼には嬉しかった。
「ファルカス、お前の腕を称えて宴を開いてやろう。たまには弟にも構ってやれば良い」
「過分のお言葉、まことにありがたく存じます。ですが――」
「何だ」
ファルカスの言葉に拒絶の響きを読み取って、父王の声は尖り、ティグリスの心は沈んだ。
「祖父の容態が悪いのです。一人では心細く思っていることでしょう。早く戻ってやりたいと存じます」
「……そうか。ならば仕方ないな」
父王は不承不承といった表情で頷いた。息子の一人の冷淡な反応に束の間鼻白んだように絶句し、やがて取り繕うように明るい声をあげる。
「とはいえ褒美は必要だな? どうだ、領地のひとつもくれてやろう。祖父から継ぐ分だけでは王子には不足だろう」
「武の才と統治の才は別のものだと存じます。戦ならまだしも、試合での勝敗で領地を動かしては臣下に示しがつきますまい」
「……ならば武具一式を新調してやろう。それならいらぬということはあるまい」
「まことにありがたく存じます」
兄がやっと頷いた時には父の機嫌はやや傾いているようだった。
父や異母弟をそれ以上一顧だにせず、ファルカスは颯爽と馬場を去った。次の出場者を待つ間に父は憮然とした表情で酒杯を傾け、母は侍女たちと囁き合う。
「折角のお申し出を断るなんて。側妃腹の癖に生意気ね」
「分を弁えているのでしょう、王妃様」
「先ほどの相手はザルカンの取り巻きでしたわね。歳下の子供に負けるなんて情けない」
「ええ、相手が良かっただけです。この程度で褒美を強請るようでは図々しいにも程がありますわ」
「……それもそうね」
「あの分ならオロスラーン様に逆らうなど思いもよらないことでしょう」
「当然よ。そうでないならただでは置かない」
――母上が、兄上を? どうやって? あんなに細い腕でいらっしゃるのに。
母の言葉は気になったが、今はそれより大事なことがある。
女たちがお喋りに夢中になっている間に、ティグリスはそっと立ち上がり抜け出そうとした。だが――
「ティグリス、どこへ? もうすぐオロスラーンの出番ですよ」
目ざとい母をごまかすことはできなかった。少年は幼いなりに必死に頭を巡らせる。席を外しても許されそうな、もっともらしい言い訳を探して。
「はい。……だから、兄上の応援に、厩舎へ行ってみたいのです」
上手く考えついたと思ったのに、母は眉を寄せた。叱られるか、止められるかと身構えて心臓が跳ねる。しかし、周囲の侍女たちは笑って彼を後押ししてくれた。
「まあ。ティグリス様も男の子ですものね」
「馬や剣には憧れるお年頃になったのです。間近で兄上様のお姿を見たいのでしょう」
「イシュテンの王子としては頼もしいことですわ」
不機嫌そうに唇を結んだまま、母は侍女たちを見渡した。次いで息子を見下ろして、諦めたように溜息をこぼす。
「気をつけて行くのですよ。ハルミンツ侯爵家以外の者に近づいてはなりません」
「はい、母上」
親に対して嘘を吐くのに胸の痛みを覚えつつ、ティグリスはその場を後にした。
ティグリスが会いに行こうとしているのは同母兄のオロスラーンではない。あちらの兄には応援など必要あるまい。何しろ勝つのは今から分かりきっている。長兄のザルカンも同様だ。
ティグリスは三人の兄たちが敗れるところを見たことがない。すぐ上のファルカスが武芸に秀でているのは先ほど見た通りだが、他の二人の兄については事情が違う。
――兄上たちは、ずるい……。
長兄と次兄が試合に出る時、対戦相手はいつもその母の実家の者が相手だ。同母のオロスラーンの場合はティグリスも見知った者たちだから分かるのは当然だし、ザルカンの時も母たちの噂話からそうと知れる。兄たちは手加減をしてくれる相手ばかりを選んでいるのだ。
オロスラーンもザルカンも、決して惰弱という訳ではないし、今のティグリスの遥かに上を行っていることに変わりはない。しかし、それでも彼らの行いを狡いと思ってしまうのを止められない。実家の後ろ盾がない中でも兄王子たちに一歩も譲らないファルカスは、だから、ティグリスの目には一際尊敬すべき存在として映っている。
今にも王宮を去ろうとしているであろうファルカスに追いつくべく、ティグリスは裏道を走った。使用人たちは末の王子が彼ら専用のはずの通路を熟知しているのを見ない振りをしてくれている。苦笑しつつ、あるいは気さくに声を掛けて、彼に道を開けてくれた。
そのお陰もあって、彼は間に合ったようだった。大股に厩舎に向かう目当ての人の姿を見つけて、ティグリスは口元をほころばせる。
「――祖父君がご不調とは存じませんでした」
「嘘だからな。まあ王宮に泊まると伝えれば実際具合も悪くなるだろう」
「殿下の御身を案じられて? それとも何か騒動を起こしはしないかと気を揉まれて、でしょうか」
「……黙れ、アンドラーシ。俺は騒動など望んではいない」
「でしょうとも」
同じ年頃の少年と話す兄の口調は、父王に対するものよりも砕けていた。年齢相応の軽口には、親しみやすささえ感じられた。だから、彼もそのように言葉を交わせることを期待して、ティグリスは兄たちの前へ走り出た。
「兄上!」
すると兄たちはぴたりと足を止めて、ティグリスを凝視した。
「ティグリス殿下……?」
「あの、先ほどの試合はお見事でした。心からお祝いを申し上げます」
「わざわざそのようなことを伝えに来てくださったと? お優しくていらっしゃる。……その心遣いには、俺の方こそ感謝申し上げなければなりますまい」
困ったように首を傾げた兄の表情に、堅苦しい言葉遣いにティグリスは少し焦った。彼はまだほんの子供なのに。どうして彼より遥かに優れた兄がこんな態度を取るのか、さっぱり理解できなかったのだ。
「はい。なかなかお会いできないですから、どうしてもお話したかったのです」
身に余る敬意を払われているのを落ち着かなく思いながら、懸命に言い募る。とにかくファルカスと直に話せるのは滅多にない機会なのだ。
「私も兄上のようになりたいのです。剣を、教えてはいただけないでしょうか」
「――殿下」
兄は軽く溜息を吐くと、地に膝をついてティグリスに目線を合わせた。困惑した表情はそのままに、言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「ハルミンツ侯爵家には名手は幾らでもおられるはず。何も俺などを頼らずとも、両陛下が良い師を見つけてくださることでしょう」
「ですが、私たちは兄弟ではありませんか。もっと仲良くしても――」
「兄弟?」
吐き捨てるように言いながら兄は口の端だけで笑った。その冷たく突き放すような響きに、ティグリスは言葉を失ってしまう。
「王妃陛下にうかがわれると良い。きっと違うようにお考えだろう」
「ですが」
「ティグリス殿下の兄君はオロスラーン殿下以外におられない」
――どうして? 母上が違うから?
ファルカスのことを語る母の目つきを思い出して、ティグリスは俯いた。ファルカスに対してだけではない。母は、もう一人の異母兄――第一王子のザルカンにもしばしば厳しい態度を取る。
だが、それは母のことであって、ティグリスは心から兄と親しくなりたいと思っているのだが。その思いを分かって欲しくて、少年は食い下がった。
「ファルカス兄上が良いのです。オロスラーン兄上は……ずるいですから」
それに対してファルカスはまた溜息を吐いた。
「殿下は何もお分かりでない」
「兄上が凄いのは分かります!」
ティグリスは叫び――不意に気付いた。兄は彼に目線を合わせてくれたのではない。跪いただけなのだ。こんな、まだ何者でもない子供相手に。王である父相手ならまだしも、彼は兄の敬意を受け取ることができるような存在ではないのに。
「……ごめんなさい……」
兄を跪かせてしまった。そう思うと申し訳なさにいたたまれなくなる。多分すぐにも立ち去った方が良い気がするが、折角の機会を自分で終わらせることはできなくて、ただ黙り込んで立ちすくむ。その間も兄は膝をついたままなのが更に焦りを誘った。
「あの……」
言葉が見つからないままに兄を見つめていると、絶対に引き下がらないという決意は何とか伝わったようだった。兄は苦笑すると、幾らか柔らかい声をかけてくれた。
「……それでは、殿下が大きくなってもお気が変わらなければ。その時はお相手させていただこう」
「本当に!?」
「約束しよう」
兄がはっきりと頷いてくれたので、ティグリスはやっと笑顔を浮かべることができた。それを確かめたからか兄も軽く笑ってから立ち上がる。
父の前から辞した時のように、ファルカスは振り向かずに去っていった。その背を、ティグリスはいつまでも見つめていた。
十年以上前の追憶から我に返ると、ティグリスは不機嫌に呟いた。
「兄上は嘘を吐かれたな……」
彼がいるのは叔父の屋敷の一室だ。窓の外を眺めれば、叔父の子――彼の従弟たちが中庭で剣の手ほどきを受けている。
「兄上ほどの名手などいないではないか」
教える者たちは、当主の息子につけられるのだから一族の中から選りすぐられた者のはずだが、ティグリスの目には兄に比べると劣って見えた。もちろん彼が剣の稽古を受けたのも、兄の腕を実際に見たのも遠い昔のことだから、子供の憧れが目を曇らせている可能性は大いにある。しかし、兄の他に師事したい者が未だに見つからないのもまた事実だった。
自分の足で歩くことも彼にはもうままならない以上、埓のない愚痴ではあるのだが。それでも、不満に思うのを止められない。
「約束したのも覚えていらっしゃらなかったようだし。まったく、ひどい方だ」
先日兄の執務室を訪れた際、ティグリスは高圧的に跪けと命じられた。幼いあの日のことへのあてつけであれば、まだ彼は救われただろう。だが、兄には恐らくそのような意図はなかった。不具の者の進言など聞き入れることができないからには、理不尽に虐げて追い返そうという肚だったのだろう。
とはいえそれを責めることなどできない。兄は全く正しい。父王に対しても、異母弟に対しても、取るべき態度を守ったのだから。
兄が言った通り、幼いティグリスは何も分かっていなかったのだ。
側妃腹の心もとない立場であれば、父とはいっても王に対して馴れ馴れしく振舞うことはできない。王妃の勘気を被るのを警戒して、王宮に長居しないのも当然だ。まして王妃腹の弟など関わりたくなかったに違いない。幼いティグリスは尊敬する兄に大変な迷惑をかけてしまったことになる。
あの約束も、角を立てずに子供の我が儘を収めようとしただけに違いない。成長して、ものの道理が分かればもう近づくことはないだろうと、その場しのぎに言ったことに過ぎないのだろう。だから、兄が忘れてしまったとしても仕方のないこととは言える。
しかし彼は決して忘れない。
良い歳をして遊んで欲しいなどとは言わないし、この脚では剣を習うこともできない。母の暴挙さえなかったら、この脚が健常であったなら。あるいは兄に仕える道もあったかもしれないが、それももう閉ざされてしまった。
それでも約束は約束だ。
「相手をしてくださると、言ったでしょう。兄上……私の気は変わっていませんよ」
彼のように何も持たず取るに足りない身であっても、王家の血を引いてはいるのだ。母の実家を後ろ盾に、反乱を起こすことくらいはできる。国を乱す存在となれば、さすがに相手にしてもらえるだろう。
兄に、彼の存在を認めてもらえる。そう思うと、ティグリスの心臓は躍った。普通の男が剣を持って戦う時は、きっとこのような気分なのだろう。
「その時が、楽しみです」
戦場で兄と相対する日を夢想して、ティグリスはひとり低く笑った。




