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番狂わせ④ エルジェーベト

 その夜、エルジェーベトは主を寝かしつけるのに苦労した。子供ではあるまいし、年頃の令嬢に対しておかしな言い方ではあるのだが。とにかく、昼間の出来事に興奮したマリカは、夜が更けても眠るなど考えられない様子だった。


「信じられないわ! あの方は本当に王子様だったのよ!」


 どうにか寝間着に着替えさせることには成功したものの、マリカの瞳はぱっちりとして輝いて、どう見ても眠気からはほど遠い。


「お会いするのがあの方だったら、って思ってたの。まさか本当にまた会えるなんて。それも、王子様だったなんて!」

「マリカ様、もう夜も遅いですわ。お休みにならないと――」

「運命のよう。……ファルカス様」


 彼女の言葉が届かないことに、主が教えられたばかりのあの男の名を、まるで宝物のようにそっと呟くことに。エルジェーベトはこの上なく苛立った。


 頬を染め、目を潤ませて、夢見るような蕩けるような表情をしたマリカはこの上なく美しく可愛らしい。美しさでは主に遠く及ばないが、召使や侍女の同胞がこのような顔をするのを、彼女は何度も見たことがあった。


 恋をしている時の顔だ。


 初めて見るマリカの初々しい愛らしさに見とれつつ、エルジェーベトは胸に苦いものが広がるのを感じていた。


 ――マリカ様が恋をするなんて……!


 マリカが嫁ぐ日のことは、とうに覚悟できていた。世間知らずに育てられた主ゆえに、結婚にも花嫁衣装にも憧れを持っているのも知っていた。しかし、どうせ家のための結婚だから、とタカを括っていたのを彼女は今こそ気付かされた。

 第一王子も第二王子も、マリカの愛に相応しい男ではなさそうだった。だから、たとえ王妃の位を得ることができたとしても、マリカが夫を心から愛することなどないだろうと思っていたのだ。横暴な夫やその厄介な母親はマリカを苦しめるだろうと思っていた。馴染めないで気落ちするマリカを慰めることこそ、エルジェーベトの役目だと信じていたのに。


「王子様ならお父様も納得してくださるわ。また、ちゃんとお会いできるように……お願いしても大丈夫よね?」

「どうでしょうか」

 

 眩い笑顔を見せるマリカとは裏腹に、エルジェーベトの心は暗く陰っていく。馬の暴走から助けられたことで、主があの男を気にかけているとは察していたが、どうせその辺の弱小領主の放蕩息子だろうと、二度と会うことはないだろうと思っていた。まさか、マリカに相応しくリカードの野心にも叶う身分を持った者だったとは。


「母君様は身分の低い方だったとか。私には何とも言えませんけれど……」


 ――殿様が反対してくだされば良い……!


 それだけがエルジェーベトの希望だった。リカードは王子との縁組によって娘を王妃にすること、ひいては自身の孫を王位に導いて権力を握ることを切望している。王位から最も遠い第三王子など、婿としては不適格とみなすかもしれない。いや、そうしてくれなくては。マリカをあの王子とやらに取られてしまう。


「でも、父君様は国王陛下ですもの。尊い身分の方よ」


 不安げに顔を曇らせるマリカを見て、むしろ安心する日が来るとは思わなかった。そうだ、エルジェーベトが喜べないからというだけでなく、余計な期待は持たせない方が良いだろう。マリカの思いが叶えられるとはまだ決まった訳ではないのだから。リカードが娘に許したのは上の王子のどちらを選ぶかという選択だけ。三番目のファルカスなど眼中にもなかったはず。きっと反対するだろう、と。エルジェーベトは信じたかった。


「殿様も、今日はもうお休みでしょう。また明日お話なさいませ」

「……うん……」


 マリカはまだ話し足りなそうだったが、エルジェーベトは半ば強引に寝具を被せて灯りを消した。これ以上ファルカスへの恋心を聞かされるのには、耐えられそうになかったのだ。




 リカードはもう寝ているだろう、とマリカに告げたのは嘘だ。エルジェーベトは深夜、その寝室を訪れるように命じられていた。マリカを寝かせようとしていたのは、命じられた時間に遅れてはならないと思ったからでもあったのだ。


 思いのほか遅くなったのを叱責されるだろうか、と懸念しながら扉を叩くと、案の定やや不機嫌を露にした表情で迎えられた。酒を手元に置いていているのを見て、エルジェーベトの心は一層沈む。苛立ちに酔いが混ざったら、何をされるか分からない。


「遅かったな――」

「マリカ様がなかなか寝付けないようでしたので。今日のことでお気が昂ぶっていらっしゃったのです」


 自衛のためと、報告を兼ねて。エルジェーベトはやや不躾に早口で述べた。娘の名を出せば、多少なりともリカードの興を削ぐことができると期待したのだ。


「マリカが……? 今日こそ王子には会えたのだろうな。話が弾んだからということか?」

「ザルカン殿下とは、残念ながらあまり。他のことでお心が占められてしまっていたのです」

「では何があったのだ」


 案の定、リカードは酒杯を置いて彼女を手招きした。何か狼藉を働くためではなく、娘の、そして彼の野望の行く末のためだろう。その目には情欲ではなく冷徹な打算が輝いていた。

 まずは注意を惹くことができたとはいえ緊張を緩めることなどできず、エルジェーベトの背を冷汗が伝う。マリカが見知らぬ男に助けられたこと、その男に会いたいなどと言い出したことだけでも不快げにしていたのだ。その件でまた煩わされるとなれば、リカードは怒るだろう。エルジェーベトの監督不行届を責められるだろうか。


 ――でも、マリカ様を窘めていただかなくては……。


 マリカをあの王子に取られるのは、嫌だ。相手が誰であれ結婚するなら身体は――そして名前も奪われてしまう。だが、あの男が相手では、マリカの心までも全て、奪われることになるのだ。それ止められるのはリカードだけ。期待と希望を込めて、エルジェーベトはリカードの目を――いっそ不遜なほどに――見つめて、訴えた。


「先日マリカ様を助けていただいた方をお見かけしたのです。お名前も分かりました。第三王子の――ファルカス殿下だと」

「ファルカスだと……!?」


 リカードが顔を顰めて王子の名を呼び捨てたので、エルジェーベトはほんの少し安堵した。やはり彼女の予想通り、第三王子などマリカの婿としては不相応なのだろう。そう思うとエルジェーベトの口は緩んで、微笑みさえ浮かべることができるほど。


「あんなことがありましたから、マリカ様はすっかり舞い上がってしまって……。でも、難しい立場のお方ですから、諦めるようにお諌めした方がよろしいですわね? 王妃になられるお方なのですから、慎重に――」

「……見落としていたな……!」


 だが、リカードの次の声が意外に明るく弾んだものだったので、彼女の舌は凍りついた。


「第三王子ならば目障りな実家もいなかったはず……! いや、祖父は多少口うるさいか? とはいえ大した力がある訳でもなし……」

「あの」


 思ってもいなかった方向に話が進んでいるのを嗅ぎ取って、エルジェーベトは恐る恐る口を挟んだ。


「ですが、確かファルカス殿下はマリカ様より歳下でいらっしゃると……。それに、マリカ様を後ろ盾もない方になんて――」

「だからこそ恩を着せることもできよう。どうせ他の王子どもも相争うしな。我が家の力があれば誰であろうと王位を与えることができる。……ふん、奴らは選んでやると偉そうだったからな……番狂わせで慌てさせてやれ」

「でも……ですが――」


 奴ら、とはハルミンツ侯爵家や第一王子の母の実家のことだろう。リカードは喉を鳴らして機嫌良く笑っている。既に肚を決めたかのような口振りに、反論の言葉が見つからない。エルジェーベトが考えたファルカスを認めない理由が、リカードの目から見ると逆に好機になってしまうのか。


「マリカが良いと言っているのだからそれで良い」


 彼女の逡巡と戸惑いを見てとったのだろう、リカードはやや苛立ったように声を荒げた。


「それに我が家にとっても利になろう」


 そして、身を竦ませたエルジェーベトを見て、わずかに口調を和らげる。出来の悪い子供に言い聞かせるように、あるいは自身の考えを整理するためでもあるのだろうか。


「他の王子どもはそもそも気に入らなかったのだ。幸い第三王子はそう出来が悪いということもないし、それなりに頭も働くようだ。王位につけてやれば、ティゼンハロムの恩を忘れることも、側妃にうつつを抜かすこともないだろう」

「そう、でしょうか……」


 ――側妃……そうだわ、王妃になられればその心配もしなくては……。


 王妃や側妃たち、寵姫たちに関する数々の噂を思い起こして、エルジェーベトは震えた。いずれも血腥く残酷で痛ましい逸話ばかり。マリカにそのような思いをさせる訳には、確かにいかないのだけれど。

 マリカの心を奪っておいて、側妃を侍らせたりしたら絶対に許せない。ファルカスは、リカードが言う通りに操れるのだろうか。一度だけちらりと見た限りでは、そこらの生意気な若者と区別がつかなかった。


「まあ、会ってから判断してもよかろう。一応は王族なのだから(よしみ)を通じておくのも悪くない」

「……はい……」


 リカードは機嫌良くエルジェーベトの腰を引き寄せた。こうなってはもう彼女に言えることなどない。ただ、胸の裡でだけ虚しく呟く。


 ――あの男……これを幸運と思うのかしら……。


 王位、ティゼンハロム侯爵家の後見、そしてマリカ。あの日の一瞬の出来事によって、ファルカスはそれだけのものを得ることになるのだろうか。立場の弱い側妃腹の王子には過ぎたことだ。確かに多くの者にとってとんだ番狂わせとなるだろう。

 いや、男たちの争いがどうなろうとエルジェーベトには関係ないが。ただ、ああも容易くマリカが奪われてしまうなんて。


「厩舎の者を捕らえた。マリカには適当に言っておくが良い」


 エルジェーベトを寝台に押さえつけ、衣装を剥ぎながら。リカードがついでのように呟いた。


「はい……親族が病を得たとでも」


 肌が暴かれるのを感じながら、エルジェーベトも答える。


 リカードが口にしたのは、あの日マリカの馬を用意した使用人のことだ。ファルカスの連れの者の言葉と――何より都合良く鳥が飛び立って馬を驚かせたのはおかしいと思って調べさせていたのだ。

 実際にマリカの鹿毛は、恐らくわざと馬が嫌がるように馬具をつけられていた。鳥がいた辺りを調べれば、人が潜んでいた形跡があった。更に、折り良くというか厩舎の者がひとり消えた。関わりがあるに違いないと見て、リカードが探させていると聞いていたのだが、やはりそういうことだったのか。


「王妃候補が目障りで脅かすつもりだったと……端金(はしたがね)で主家を売るとは恥知らずな……!」

「あ……っ」


 乳房を強く掴まれて、エルジェーベトは悲鳴のような喘ぎを上げた。それでも大事なことを尋ねるのは忘れない。


「依頼した者がいるのですね……? その者へは――」

「思い知らせる。お前が案じることではない」

「はい……」


 どの家の者か黒幕かは知る必要はない。ただ、リカードが確実に報復を行うこと、マリカの安全が保たれることが分かれば良い。イシュテンでは諸侯の間の私闘は禁止されているが、瀕死の王に咎める力はないだろう。報復先も、後ろ暗いところがあるなら訴えることもできないはず。


 ――とりあえずは……マリカ様のためには良いのかも……。


 嬲られる身体と思い悩む心を切り離しながら、エルジェーベトはそう自身に言い聞かせた。

 第三王子が王位につくなどと考えている者はそういまい。マリカとファルカスを(めあわ)せるという動きは、傍目にはリカードが娘を王妃にする野望を諦めたものと見えるかもしれない。


 ――あの男と会えば……マリカ様はきっと喜ばれるわね……。


 マリカの輝く笑顔を思い浮かべても、全く心が晴れないのは不思議なことだった。

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