01 朝露の珠 とある娼婦
第4話~第6話の間、ミリアールトからイシュテンへの途上での出来事です。
「――――」
「――――?」
言われた言葉を鸚鵡のように繰り返すと、男は破顔して彼女を手招きした。
睦言か、それとも淫らな意味の言葉だろうか。
――関係ないわ。
彼女はイシュテン語を知らず、男はミリアールト語を知らない。それでも彼女の仕事に支障はない。やることはいつもと一緒だから。
彼女は服を脱ぎ捨てると男の腕の中に飛び込んだ。
イシュテンの侵攻にミリアールトは滅びた。王都を踏みにじった騎馬隊は戦利品を携えて帰国の途にある。お偉い方々には一大事だろうが、彼女のような仕事の者にとっては稼ぎ時だ。
――良い客だったわ……。
明け方、野営地を離れる彼女は満足していた。
イシュテン人を残酷な蛮族と恐れて近づこうとしない仲間もいたが、彼女の客は乱暴な真似はしなかった。壊し奪う欲望は既に戦場で満たされていたのかもしれない。
そういえば、最中に死んじゃう、と喘いだら客は喜んでいた。あの男は少なくとも死ぬ、という単語は覚えたらしい。戦場でも寝台の上でも使えるから便利な言葉だ。
代金としてもらった碧の宝石を曙光に透かす。きっと元は王宮か貴族の邸宅にあったものだろう。気前が良いという点でも今夜の相手は上客だった。
イシュテン軍が全て通り過ぎるまでには日数がかかる。それまでにもっと宝飾品を巻き上げてやろうと心に決める。
薄い仕事着の上に毛皮の外套を羽織り、住処へと歩く。初夏とはいえ朝方はまだ冷え込んだ。
朝もやの中、前方に人の気配と下生えを踏む音がして彼女は目を凝らした。
「あら……」
そこにいたのは、大層美しい少女だった。
朝日に輝く淡い金髪はミリアールトにおいてさえ珍しい。彼女も金髪を名乗れるだろうが、この少女に比べたら干し草色が良いところだ。それに、少女の碧い瞳は彼女が先にもらった宝石をはめ込んだかのよう。
雪のように白く輝くなめらかな肌。細い面に、整った鼻筋と紅い唇が完璧な配置で並ぶ。
着ているのが黒い喪服ではなく白いドレスだったら、ミリアールトの女神である雪の女王が現れたかと思うところだった。
少女がまとう雰囲気はあくまで清らかで女らしい色気や媚の欠片もなく――同業者には見えなくて不思議に思う。
そして、驚いたように軽く目を瞠る少女の瞳に浮かぶ表情には馴染みがあった。まともな世界の女が彼女のような仕事の者を見る目――嫌悪と哀れみが混ざった感情だ。
いつもなら分をわきまえて関わり合いにならないようにするところ。だが、今は気が大きくなっているし、場違いなこの少女には興味を惹かれる。
だから、思い切って笑顔を作って挨拶してみる。
「おはよう、早いのね?」
少女は目をさらに見開くと、軽く後ずさった。その露骨な態度に少々傷つき、気分を害する。
――娼婦に話しかけられるのは嫌ってわけ?
やはり話しかけるのではなかった。そう思いながら少女の傍を通り過ぎようとする。
そこへ、透き通った声が耳に届く。
「人目につくなと言われたから……この時間なら散歩しても良いかと思って……」
聞いたこともないくらい上品な発音と抑揚は、少女の口から出たものに違いない。貴族の出であることを窺わせる言葉遣いから、何となく少女の境遇を悟る。
――綺麗な娘だから攫われたのね。
少女の様子からしてまだ手つかずなのだろう。これだけ目立つ娘を無傷で守りながら連れ帰るとは、彼女に目をつけたのはかなり身分の高い男なのではないだろうか。まあ、深窓の令嬢にとって救いになることではないだろうが。
「言われた通りにした方が良いわよ、お姫様。男なんて皆獣なんだから」
なに不自由ない生活を奪われ、異国で弄ばれるさだめのこの少女は、単に娼婦であるだけの彼女よりも憐れむべき存在だ。そんな余裕もあって、微笑と共に忠告めいた言葉をかける。
「私はお姫様ではないわ」
少女は顔をしかめると強い言葉で否定してきた。自分の立場をわかっていない矜持高く強気な態度に思わず笑みが浮かぶ。嘲笑か憫笑かは自分でも分からないが。
「ああ、お仲間だものね?」
揶揄するように返すと、少女の頬に朱が昇った。
この程度で激昂するとはこの先大丈夫なのか、と他人事ながら心配になる。
「気を悪くしたならごめんなさいね。……それじゃお互い頑張りましょ」
可哀想でも助けることはできないし、これ以上話しかけられてもこの少女には不愉快だろう。なので、おざなりに謝って立ち去ることにする。だが――
「待ちなさい。
なぜ……そんなことをしているの?」
思いがけず呼び止められたことと、問われた内容に驚いて、少女をまじまじと見つめる。外套からのぞく剥き出しの脚や胸元を見る目つきからして、そんなこと、が意味することは明らかだった。だが……この娘に言われることではない。
「なぜって……稼ぎ時だもの。昨夜はこれをもらったのよ。こんなの、まともに働いてたら一生かかっても手に入るもんじゃない」
碧い石を示すと、少女は軽く俯いて考え込むような素振りを見せた。そして、思い切ったように彼女の目を見据えて言った。
「宝石が欲しいの? それならこれをあげる。……だから、もうそんなことはしてはいけません」
少女が胸元から外して差し出したものを見て、彼女は絶句した。
それは、金の土台に真珠をあしらった花の形のブローチだった。中央の一粒は一際大粒で、花弁の部分に敷き詰められた真珠は小さいが輝きも粒も揃っている。土台は本物の花のように柔らかく優雅な曲線を描き、真珠が乗っていない部分には繊細な彫刻が施されている。
彼女がもらった宝石など比べ物にならない、家宝級の逸品に違いない。
哀れまれた、と思った瞬間、反射的に叫んでいた。
「もらえるわけないでしょ! 施しなんてごめんだわ!」
「施しのつもりはない。イシュテンの者に買われるくらいなら私に買わせてということよ。自国の者が敵国の者に買われているのを知って見過ごすことはできない」
彼女の怒りを、少女は正面から受け止めた。しかし、だからと言ってその言葉には頷けない。
「じゃあミリアールトの男相手に商売するなら良いってこと? そういうのを偽善ていうのよ、お姫様。 慈善事業や自己満足にあたしを巻き込まないで」
「…………」
少女の顔から血の気が引いたのを見て、言い過ぎた、と思う。結局のところ、この少女を待つ運命の方が彼女の行く末よりも過酷なのだ。少々声を和らげて言い聞かせる。
「それは大事にしまっておきなさい。あんたにはこれから必要になるでしょ」
地位のある男なら戦利品は着飾っていた方が喜ぶだろう。飽きられて捨てられた時のことを考えても金目のものは持っていたほうが良い。
しかし少女は首を振った。
「確かに私の自己満足だったようです。それでも良いから、受け取りなさい。非礼の詫びです」
「あのね……」
この強情な小娘に何と言えば答えるのか考える。そこに、少女の真摯な視線が突き刺さり、紅い唇がまた動いた。
「私がこの国に帰ることはないから。この先ミリアールトの者と話せるとも思えない。だから、私のことを覚えていて欲しいの」
少女の口調がほんのわずか砕けて、懇願の調子を帯びた。
「お願いよ」
澄んだ声が響いて、ひんやりとしたものが彼女の指先に触れた。
宝石を掴まされた、と思う間もなく、見たこともないほど美しい姫君は身体を翻し、もやのなかに消えていった。目を凝らしても少女の姿はなく、雪の女王が気まぐれに娼婦の前に姿を現してくださったのかと思うほど。でも、女の手に残ったブローチがその幻想を否定していた。
イシュテンの軍が去ってからしばらく後、女は王都から逃れた豪商を客に取った。そして寝物語に聞いた王家の最期に、彼女は言葉を失った。
戦場に散った王や王太子、首を刎ねられて晒されたという王弟たちのためにではない。ただひとり生き残った王族、美しく聡明な王女、今となってはミリアールトの女王と呼ぶべき姫、国のために異国に囚われた彼女たちの主君のために。……その人は、金の髪に碧い瞳の大層美しい少女だという。
『私はお姫様ではないわ』
あの娘の言葉は真実だった。ただの貴族の令嬢などではない。王女ですらない。あの少女は――あの方は、彼女たちの女王だった。
――女王様?
客を見送って、手の中にあのブローチを弄んだ。
あの娘は確かに大変美しく、気丈だった。恐らく女王に相応しく矜持高いのだろう。虜囚の身にあっても損なわれないあの気高さは、ミリアールトの民としては小気味よく誇らしかった。
でも、娼婦相手にさえ容易く激昂したあの気性は、彼女に利するものとは思えない。蛮族に女王の誇りが理解できるのだろうか。人質とはいえ手荒く扱われることはないのだろうか。
女王の身を案じて、彼女は真珠の鈍く柔らかい輝きを見つめ続けた。