番狂わせ③ マリカ
マリカは暴走する馬に必死でしがみついていた。横に掛けるように鞍に座る女は、殿方と違って鐙を使わないから非常に不安定だ。鬣に指を絡めて縋りついていても、激しく打ち付ける風に腰が鞍から落ちそうになってしまう。
――怖い……どうして……!?
顔にぶつかる風の強さに、まともに息をすることもできないほど。全身を恐怖でこわばらせた彼女の頭にあるのは、ひたすらなぜ、という言葉だけ。
彼女を乗せて疾走しているこの鹿毛は、気立ての良い馬のはずだった。彼女自身、何度か乗って気心が知れていると思っていた。それが、今日に限って機嫌が悪くて――でも、乗りこなせると思っていた。
けれどこの馬は、機嫌を直すどころか郊外に出るにつれてますます扱いづらくなった。見かねたエルジェーベトが馬を替えることを申し出たのに。マリカはそれを断ってしまった。
――こんなことになるなんて。
馬を宥めながら、それでも王都の城壁の外に広がる景色を楽しんでいた時。急に彼女たち一行のすぐそばの草叢から、鳥の群れが飛び立ったのだ。まるで狐か鷹狩りの鷹にでも襲われた時のような勢いで。神経質に、苛立ってさえいるようだったマリカの馬は、それに怯えて駆け出してしまったのだ。
「エルジー……助けて……」
食いしばった歯の間から乳姉妹を呼んでも、彼女はすでに遥か後方。暴走する馬に追いつくなんてできるだろうか。マリカが振り落とされる前に、誰か助けてくれるだろうか。この馬はいつまで、どこまで走るのだろう。
指から馬の鬣がすり抜けていく。首筋に、もっとしっかりとしがみつかなければと思うけれど、一秒でも手を離すのは恐ろしい。
――ああ、もう……ダメだわ……。
次第に指先からは力が抜け、腰も鞍からずれていく。落ちる。そして地面に叩きつけられる。その衝撃を覚悟しかけた瞬間だった。
「――掴まれ!」
鋭い声が、耳を打った。
――え?
思わず目を開ければ、眼前に手が差し出されている。風の速さで景色が後ろへと飛んでいく中、その手だけが止まって見えるのは、その主が暴走するマリカの馬と同じ速さで馬を並走させているからだった。
「早くしろ。受け止める!」
――そんな。できる訳ない……!
それが誰か、どのような人かなど考えることもできず、ただ反射的に首を振る。確かに諦めかけてはいたけれど、自分から宙へ飛ぶのはまた別の恐怖だ。手も足も固まってしまって、思い切ることなどできそうにない。
「早く!」
舌打ちが聞こえたかと思うと、その手がますます近づいた。次いでマリカの腕が強く掴まれ、引っ張られる。
「きゃ――」
その力に負け、ついに鞍から腰が浮いた。馬は瞬く間に彼女を置いて駆け去り、マリカは宙に取り残される。そもそも不安定な横乗りだったとはいえ、身体を支えるものが何もないというのは心臓が止まりそうなほど恐ろしい。衣装の裾が空気をはらんで大きく膨らみ、彼女の視界の端で躍る。脚の間に風が通る感覚も頼りなくて怖かった。
飛んだ、ように思えたのも一瞬。マリカの身体はすぐに落下を始め、内蔵が口から出るような感覚を味わった。
そして落下も一瞬で終わった。息を詰まらせる激しい衝撃。でも、覚悟していたよりもずっと小さい。身体を受け止めたのも、固い地面ではなくて温かく息づかいが感じられところ。
――何だったの……?
戸惑うマリカの耳元を、吐息のような囁くような笑い声がくすぐった。
「よく、飛んだ」
その声と同時に、腰のあたりを支えられて――マリカはどこからか現れた人の腕の中にいた。身体に感じる振動は穏やかなもので、その人の馬は速度を緩めているのに気付く。ただ馬の激しい呼吸は耳に届いているから、マリカのために無理をして駆けてくれたのではないかと思う。
「あの……」
暴走と、宙を泳いだことの恐怖はまだ彼女を掴んでいて、舌もろくに動かなかった。その人の顔を見上げるのが精一杯。心臓はまだ早鐘のように打っていて、鼓動が全身に響いて苦しいくらい。ただ、褒めるように言われたことは違う、と思った。
――私がやったことじゃないわ……貴方が……。
マリカは固まっていただけだ。この人が腕を取ってくれなかったらあのまま暴走した馬にしがみつき続けていただろう。強引なほどの腕の力が彼女を動かしてくれた――と考えたところで、今はその腕に支えられていることに気付いて赤面する。父でも兄でもない男性を――それもよく見れば若い人だった――こんなに近くに感じるのは初めてだった。
「あ、あの……ありがとう、ございます……」
言葉を失うこと数秒の後、やっと我に返って礼を述べる。どれだけ馬術に長けていても安全なことではないのだろうに、見も知らぬマリカを助けてくれたのだ。真っ先に感謝すべきところ、何という無作法を働いてしまったのだろう。
でも、その人は羞恥に頬を染めたマリカを咎めることはしなかった。それどころか口がきけたのか、とでも言いたげに目を瞠り――次いで笑った。
「怪我はないようで良かった」
間近に見上げたその人の瞳は、灰を帯びた青い色をしていた。冷たいと思っても良いのに、微笑んでいるからか柔らかい色にさえ見える。更に顔立ちそのものも整っているのに気付いて、マリカの頬は羞恥とは別の理由で熱くなった。
「――家の者は近くにいないか? ひとりということはないだろう?」
「え? えっと……」
言われて、慌てて周囲を見渡す。初めて会った方に見蕩れてしまったのも、助けてもらったのにぼんやりしていたのも。気恥ずかしくていたたまれなかった。知らない人とふたりきりなのも、そうと気付けば心もとなくて、乳姉妹が傍にいて欲しいと思ってしまう。
――エルジー……きっと探してるわ……。
どこをどれだけ駆けたのか、ろくに見てもいなかった。供の者たちは彼女に追いついてくれるだろうか。彼らの馬も、鳥の群れに驚いて抑えるのが大変だったかもしれない。
と、首を巡らすうちに、草の合間に馬の影を見つけて、マリカは目を輝かせた。背格好といい、髪の色や長さといい、遠目でも親しい侍女だと瞬時に分かったのだ。
「エルジー! ここよ!」
「マリカ様!」
エルジェーベトの後ろを、従者や護衛の者たちも追いかけていた。女の身で、男たちを追い抜いて駆けつけてくれたことが嬉しくて。疲れ、緊張して戸惑っていたマリカもようやく笑顔を浮かべることができた。
きっとエルジェーベトも笑って迎えてくれるものと――その予想は、しかし裏切られた。表情が分かるほどに近づくと、乳姉妹は今までに見たことがないほど、恐ろしいほど険しい顔でこちらを睨みつけていたのだ。
「お前……マリカ様から離れなさい!」
あまりの気迫に怯えて、目を瞑りそうになって。それでも気付く。エルジェーベトはマリカを抱えた人に対して怒鳴りつけているのだと。先ほど彼女自身がしでかした以上の非礼、無作法に、目眩を起こしそうな気分さえした。
「エルジー! 助けていただいたのよ!? そんな失礼なこと――」
「言われずとも。迎えが来たなら心配いらぬな」
たしめようとしたのを、背後から遮られて言い切ることができなかった。その人の声が淡々としていて、全く怒っているようでないのは救い――なのだろうか。
――でも……ひどいわ……。
重ねて乳姉妹に抗議すべきか迷ううちに、マリカの腰に腕が回された。一層近づいたその人の身体に硬直するのもまた一瞬。気付けばマリカは地上に降ろされ――
「ああ、マリカ様……よくご無事で……!」
エルジェーベトに抱きしめられていた。
「ありがとう、エルジー。あのね……」
「すぐにお屋敷に戻りましょう! 見たところお怪我はないようですけれど……どこか打っていたりしたら大変ですもの!」
「エルジー。待って。大丈夫だから」
――どうしてこんなに慌ててるのかしら。
エルジェーベトの騒ぎようは、マリカには大げさに思えた。どこも打っていないし怪我も――多少の擦り傷くらいはあるかもしれないけど――ないのを、彼女自身はよく知っている。それよりも、エルジェーベトが慌ただしく帰ろうとしていることの方が良くないと思う。
「あの方に、お礼をしなくては。お父様からもちゃんと。だから、あの、お名前を……」
マリカの声が弱々しく消えた、理由はふたつ。礼などというのは建前で、助けてくれた人の名を知りたいのが本当の理由だったから。そしてもうひとつは、エルジェーベトの目が見開かれ、眉は釣り上がり、一層恐ろしい表情になったから。
「いけませんわ! これもマリカ様を狙った策なのかもしれません! 気立ての良いはずの馬が暴れだして、都合良く鳥が飛び立った――全て、仕組まれていたのかもしれないのですよ!?」
「そんな――」
恩人の目の前で、一体何を言い出すのか。叱ろうにもそんなことは慣れていないし、何を言えば良いかも分からないし。
「別に礼が欲しくてやったことではない。気にせず帰れば良い」
「そんな……」
恩人その人にも、ごくあっさりと言われてしまって、マリカはまた途方に暮れた。命を助けてもらったというのに、口先だけの礼で済ませて良いはずがない。何より――
――これでお別れなんて……。
未練がましくその人の顔を見上げても、言葉と同じく淡々とした表情だった。エルジェーベトは相変わらず怖い顔をしているし、この場にいたいのはマリカだけのようだった。普段の彼女ならば、周囲の者に逆らうなど思いもよらない。けれど、今、この場に限っては。言われた通り屋敷に帰るのは嫌だった。
「あ、あの子――私が乗ってきた子がどこかへ行ってしまったわ。探さないと――」
やっと一縷の希望を見つけて、縋ろうとする。あわよくば一緒に探して欲しい、などとは図々しい願いだろうか、と恩人の顔を窺う。すると、その人はマリカではなく草原の彼方へ視線を向けていた。
「見つけたようだな。……良い馬のようだったから、失わずに済んで良かった」
青灰の目が向く先を見れば、確かにこちらへ近づくふたつの騎影があった。目の前の人と同じ年頃の青年と、もうひとつは鹿毛の空馬。それは、マリカの馬に違いなかった。
「お前は来ないかと思った」
「殿下にお任せすれば間違いないと思いまして」
見知らぬ殿方ふたりは親しげに言葉を交わす。マリカを助けてくれた人の、砕けた言葉も笑いを含んだ軽やかな声も、知らない人に向けられているのがなぜか寂しくて仕方なかった。
「馬銜が口に食い込んでいるし、鞍の大きさも合っていない。これでは機嫌が悪いのも当然だったろうな」
馬を連れてきた若者は、そんなことを言いながら鹿毛を供の者たちに引き渡した。それを合図にするかのように、青灰の瞳の人も馬首を巡らせてマリカたちと別れる素振りを見せた。
――もう話すことはない、とでも言うみたい……。
思えばその人がマリカを見てくれたのは、馬上で抱えられていた間だけだった。エルジェーベトたちが来てからは――乳姉妹の態度を不快に思ったのかも知れないけれど――もう彼女に関心などないようで。舞い上がっているマリカがおかしいのではないかと思ってしまう。
――関わりたくないということなのかしら。
しつこく食い下がって嫌われるのも怖くて――マリカはその人たちが去っていくのを見送ることしかできなかった。
数日後、マリカは鏡の中の自身を見て深く深く溜息を吐いた。
「マリカ様。お笑いになって。せっかく綺麗にしたのですから」
「そうね、エルジー」
困ったような表情のエルジェーベトに窘められても、わずかに口角を上げるのが精一杯。今日は第一王子と会う約束の日だから、また新しい上質の衣装を着付けてもらった。化粧も施して、髪も精緻に結い上げてもらって。我ながら驚くほど美しく飾り立ててもらったというのに、全く嬉しいと思えないのは不思議なほど。でも理由は自分でよく分かっている。
――あの時、こんな格好だったら良かったのに。
柔らかい黄色の絹を撫でながら、散りばめられたビーズの感触を確かめながら思い出すのは、あの馬の暴走の事件だ。風に髪や頬を嬲られて落下の恐怖に怯えた時間も怖かったけれど、マリカの心により深く刻まれているのは助けてくれたあの人のこと、あの涼しげな青灰の瞳だった。
起きている時も、夢の中でも。気付けばいつもあの人のことを考えている。第一王子と会うために装いを凝らしている今でさえ、あの人が見たら何て言ってくれるだろう、などと思ってしまう。
――髪もぼさぼさだったし……ちゃんと綺麗な格好でお会いしたかった……。
改めてお礼を言いたい、もう一度お会いしたい、という願いはエルジェーベトだけでなく父にも却下されてしまった。未婚の娘が若い男と会うなどととんでもない、助けてもらったから少し良く見えているだけだ、と。
――お父様は好きな方と結婚して良いと仰ったのに。ずるいわ。
エルジェーベトは、あの人の容姿も父に報告したらしい。多少見た目が良いだけの男に惹かれるなどはしたない、と叱られてしまった。呆れたような口調で、それほど強く言われた訳ではないけれど、だからこそマリカは悔しかった。初めて会う娘を黙って助けて、礼も求めなかったあの人は、心ばえも優れているに違いないと思うのに。
とはいえ世間知らずのマリカにも分かっている。好きな男といってもティゼンハロム侯爵家に見合う身分を持った、という但し書きがつくのだ。王子たちと会わせられているのもそのためなのだ。王子様と結婚できるかもしれない――少し前のマリカなら、とても魅力的なことだと考えていただろう。でも、今となってはどうでも良くなってしまった。
「あの方が王子様だったら良かったのに……」
エルジェーベトにだけ聞こえるように小さく零すと、一層困った顔をさせてしまった。他の者に聞かせないためだろう、耳元に唇を寄せて囁かれる。
「身分が違いますもの。お忘れになるのがよろしいですわ」
「あの方も殿下と呼ばれていたわ……」
「ザルカン様ともオロスラーン様とも歳が違います。供が一人というのもありえませんし……ただの渾名か何かなのでしょう」
「……そうね」
エルジェーベトの言うことの方が正しいはずだ。あの人を好きになってしまったのは間違ったこと。もう会うこともできないのだろう。ままならない思いに耐えようと、マリカはそっとエルジェーベトにもたれかかった。
王宮の建物も庭園も、前回とは違って全くマリカを楽しませてはくれなかった。第一王子やその母である側妃にも、今度こそ会うことができたけれど、何を喋ったかも覚えていない。マリカにとって、もはやあの人でなければ誰であっても意味はないのだ。
帰路、庭園の木々の合間や回廊の影を意識して覗きながら歩く。彼女が屋敷の外へ出られる機会は限られているから、あの人に会えることなどほぼありえない。あるとしたら、今日のように数少ない外出の際によほどの僥倖に恵まれなければならない。
――もしかしたら王宮に出入りする方かも……でも、会えたところで……。
父はあの人と話すことも許してくれないだろう。そんな相手なら、会うだけ未練が募るだけだろうか。でも、せめてちゃんとお礼を言いたい。
ほのかな期待と諦めを同時に抱いて、マリカはまた角をひとつ曲がった。新たに広がる景色の中にあの人がいないかと探しながら。今まで何度もしたように首を巡らせ、使用人も含めて目に映るひとりひとりの顔を確かめて――そして、息を呑む。
「エルジー。あの方よ。間違いない!」
王宮の奥は、複数の側妃や寵姫、その子たちのために複数の建物が配置され、それぞれが小路や回廊で繋がれている。近くに見えても中庭に隔てられて近づけない場所も多く――まさにそのような場所、彼女たちがいるのとは違う回廊を通る長身の影。それは、確かにあの人のものだった。
「いけませんわマリカ様! 勝手に入り込んでは――」
衣装の裾をからげて庭に下りようとして、引き止められる。腕を掴むエルジェーベトも、彼女たちのために控えた使用人の列も、邪魔だった。その間に、あの人はどこか回廊の繋がる先へと消えてしまった。
「ねえ! あの通路はどこへ繋がっているの? あの方がどなたか分からない?」
それでも、ここで――王宮の奥で姿を見ることができたというのは、確かな希望だった。若い殿方がここまで入るのはとても難しいことだろうから。それなら、あの人も相応の身分がある人か、そうでなくてもその縁者なのかもしれない。
「あちらは――」
問い掛けた使用人は、なぜかマリカではなくエルジェーベトの方を窺った。ついで同胞を見渡して言い淀む。その態度は、知らないのではなく知っているけれど言いづらい、とでもいうような。
「知っているの? それなら教えて! お願いよ。どうしても、知りたいの」
「それは」
跪くようにして目線を合わせて懇願すると、相手はようやく口を開いてくれた。
「――あの方は、第三王子のファルカス殿下です。母君様がいらした離宮に、滞在されているのです」
これが吊り橋効果です。




